〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.222 2012/08/25 *残暑お見舞い申し上げます。 皆様、いかがお過ごしでしょうか。このところの暑さでこちらはバテ気味 ではありりますが(苦笑)、本メルマガもぼちぼちと再開いたします。ま たよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その10) 前回はパリの禁令に続くオックスフォードの禁令についての論文を見てみ ました。パリの禁令後に大学の自由学芸部が具体的にどういう影響を被っ たのかという点については、なかなかすっきりした回答が得られません が、今回は学知の面でそうした動きを考えていこうとする論考の一つを見 てみることにします。歴史家としては大御所のエドワード・グラントによ る『中世後期の自然哲学の本性』(Edward Grant, "The Nature of Natural Philosophy in the Late Middle Ages", Catholic University of America Press, 2010 )がそれです。その第三章が「1277年の禁 令、神の絶対的力、そして中世後期の自然学思想」となっています。 そこでは1277年の禁令が西欧の学知にもたらした影響について再考して います。著者グラントは禁令を、それまでキリスト教が寛容に許してきた 世俗的(異教的)学問が、初めて教会当局にとっての脅威となったことの 現れとして位置づけています。その理由はなによりもまず、そうした学問 がもつ必然的・決定論的な考え方が、神の絶対的な力という教会の根底的 な要素を脅かすと考えられたからでした。神の絶対的な力とは、たとえば 神が一つ以上の世界を創造できるとか、世界を直線上に動かしその後に真 空を創ることができるとか、基体のない偶有を創り出すことができると か、要するに自然法則に従わない現象・事象を創り出す力のことでした。 アリストテレスの自然学にもとづくとそうした事象は否定されてしまうわ けですが、教会当局側、特に禁令の作成に関わった人々は、彼らの否定を 覆して、神の絶対的な力を再度強調しようとしました。 グラントは、神の全能性を強調し直したという点に着目する限り、禁令は 全般的に実際的効果を上げていたと見ています。トマス・アクィナスをや り玉に挙げようとした命題こそ1325年に無効とされたものの、14世紀を 通じて、禁令は全体的に影響を及ぼし続けたのだ、と。前回見たオックス フォードの禁令もそうですが、パリの禁令はイングランドにまで波及して いきました。独立した学問としての哲学の射程は大幅に狭められ、理性や 経験の力は大きな制限を受け、一方で神の全能への信頼は大いに強化され た、とグラントは言います。スコトゥスやオッカムが、論理学的矛盾に陥 らない限りにおいて神は望むことを何でもできるとして、神の作用の偶発 性をことさらに強調するのも、そうした背景があるがゆえだったとされて います。 もちろん、自然において不可能なことを神がなしうるという話と、神が実 際にそういう不可能なことを実行したと考えることとはまったく別の話で す。もしそんなことが実際になされてきたのなら、この世界は実に不確か で、知的に理解し難いものになってしまいます。で、そういう帰結を回避 するため、神学者の間で11世紀から援用されていた議論がありました。 すなわち、神に絶対的力と秩序的力の二つの力を認めるというものです。 当初、神にとってはあらゆる可能性が開かれていた、というのが前者の考 え方で、創造後は神の完全な計画によって可能性は制限されるようになっ た、というのが後者です。こうして神の全能性と、自然法則の適切さとが 両立できるようになるわけなのですが、逆にこの議論に依って立つなら、 1277年の禁令がいかに神の全能性を強調したところで、それを前提とし て受け入れてしまいさえすれば、あとは自然界の作用や構造について従来 通り理解しようとして構わないことになります。これが禁令のパラドキシ カルな一側面なのですね。 この点に関連して、グラントは科学史家のアレクサンドル・コイレに言及 しています。コイレは、かつて科学史家ピエール・デュエムが唱えたよう な、1277年の禁令が科学的知見の発展を促したという見解に反対し、禁 令がそうした知見の発展に影響するようなことはなかったと述べていたの でした。コイレは、中世のスコラ学者たちはひたすら、あるがままの世界 を探求しようとしていたと考えています。その点について、グラントはコ イレに共感を寄せています。ですが同時にグラントは、デュエムの言につ いても再検証しようとします。神の全能性の強調が、同時代的な学知に とって、まったくもって非生産的で不毛だったのかどうかは疑問の余地が ある、というわけです。 グラントは検証として、禁令が禁じた世界の複数性についての議論と、真 空が生じるような運動の可能性についての議論を取り上げていきます(細 かい議論になるのでここでは詳細は取り上げませんが、大まかな流れだけ 追っておくことにします)。世界の複数性(神は複数の世界を創造できる という説)への反論は、禁令以前からトマス・アクィナスやマイケル・ス コットなどの議論などがあったといいますが、禁令がきっかけとなって、 改めて世界の複数性はありえないと考える一派(ジャンダンのジャンな ど)と、神の全能を盾にその可能性を真剣に受け止めようとする一派とに 分かれていきます。 注目されるのはこの後者の一派です。たとえばミドルトンのリチャードな どは、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』への注解において世界の複 数性の問題を取り上げ(「神はみずからが創造したものをより良くするこ とができるか」)、アリストテレスが唱える「別の世界はありえない」と いう議論への反論を示しています。その後もオッカム、ジャン・ビュリダ ン、ニコル・オレームと、時代を経るごとに、複数性擁護の議論は精緻化 していき、こうしてアリストテレス的なコスモロジーからの離脱が用意さ れていく、とグラントは論じています。こうした流れは真空についての議 論もほぼ同様で、ロバート・ホルコット(オッカム以後の第一世代です ね)などに従来型のアリストテレスの議論を越えた議論が見られるようで す。このような流れを作ったという意味で、1277年の禁令にはそれなり の意味(一種の遠因ではありますが)があった、とグラントは結論づけて いきます。うーん、このあたりの説はちょっと悩ましい感じもあります が、一応受け止めておきたいと思います……(笑)。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ オッカムの直観論(その21 番外編) 本文の読みは一応前回で終了となりましたので、今回は番外編として、少 しばかり追いかけていたオッカムの「その後」の展開についてまとめてお こうと思います。前にも出てきましたが、オッカム思想に対する反応に は、フランスとイングランドで温度差があったとされます。パリにおいて は転機となるのは1339年で、オッカムの著作の使用がパリ大学の自由学 芸部で禁じられます。1347年にはオッカムの信奉者だったミルクールの ジャンによる『命題集』注解が発禁処分となります。この1339年から47 年までというのは混乱の年月だったようで、大学における知的雰囲気が様 変わりし、それは後の新旧論争にまで波及するとされ、とりわけ重要な一 時期です。 『オッカムとオッカム主義』において著者のコートニーは、パリでのオッ カム思想の論争はごく一部の問題にのみ限定され、しかも1320年代から 始まっていて、39年からの過熱ぶりはオッカムのほかの文書が紹介され たからではなく、実は37年から47年にかけて生じた、オッカムとは直接 関係のない危機的状況の現れだったと論じています。1320年代から問題 とされた案件というのは、主に単純代示の問題(抽象名詞の実在を否定す る、唯名論的議論ですね)のほか、アリストテレスの範疇論の再考、つま り例の「量」という範疇を認めないという議論だったようですが、その攻 撃の先鋒に立ったウォルター・バーリーなどは、オッカムの『量につい て』と『論理学大全』あたりを読んでいただけで、『オルディナティオ』 や『自由討論集』などの主著はまだパリでは知られていなかったようで す。1320年代当時、直観的認識についての議論などは、パリではまった く言及されていませんでした。 一方、マサのミカエルという人物(オッカムのスペキエス排除に賛同しな がらも、自然学の議論には批判的だったとされます)のコメントからは、 オッカムの自然学がパリで一定の賛同者を得ていたことが窺えるといいま す。アヴィニョンで教義の正当性の審理を受けていた当時(1324年以 降)、オッカムはパリにおいて一定の「存在感」を有していたらしいとい う話なのですが、とはいえそれが実際のところどの程度のものだったのか はなかなか特定できないようです。オッカムの思想は極めて革新的なもの であったにもかかわらず、その論理学や自然学は大多数の神学者たちから はほぼ無視されていたらしいとも言われます。そういう人々が取り上げる 著者といえば、トマス・アクィナス、ドゥンス・スコトゥス、サン・プル サンのデュラン、ペトルス・アウリオリなどでした。 なぜオッカムの思想はあまり注目されていなかったのでしょうか?一つに は、上で触れたように、オッカムの著作の多くが当時のパリではまだ入手 可能になっていなかったことが挙げられます。1320年代のオッカムの思 想といえば『論理学大全』が代表作で、その中身はすでに学校で教えられ ていることの組み替え程度にしか見なされていなかったのですね。つま り、オッカムの神学思想の多くは、当時すでにパリで優勢だったスコトゥ ス神学の域を出ていないと思われていたようなのです。トマス派の多かっ たアヴィニョンのほうが、むしろオッカム思想に対してより批判的だった ようです。パリの学者たちは総じてパリの著者たち同士にばかり注目し、 イングランドの著者は一部を除きあまり広く読まれてはいなかったらしい のです。 1330年代くらいになると、パリ大学の状況に変化が見られ、オッカムの 自然学は拒絶されるようになります。これはたとえばビュリダンが、オッ カムの量論、時間論、運動論などに反対したことなどに顕著に表れていま す。とはいえこれはあくまで学術レベルの話であり、教会当局そのものが 目くじらを立てるようなものでもなかったようです。30年代のパリはイ ングランドの思想圏との接触が希になっていて、英仏の百年戦争の勃発に も時期が重なり、両思想圏はやがてまったくの没交渉状態になっていきま す。 そして1338年から39年にかけて、とりわけ自由学芸部を揺さぶる危機的 状況が生じます。大学の制度改革です。当時は学生たちの規律の乱れ、今 風にいうなら一種の「学級崩壊」(?)が問題視されるようになっていま した。1339年9月25日の学則にそうした騒動の話が記されているのだそ うで、これが後世に誤ってオッカム主義のせいだと解釈されてしまったと いいます。当時の大学は教皇庁との繋がりがあり、この大学の改革も教皇 ベネディクト12世が働きかけたという経緯がありました。ベネディクト 12世といえばオッカムの敵対者でもあり、そんなことからも、オッカム の著書や教説の使用が禁じられる一因になったのではないかとされていま す。 さらに1340年から47年にかけて、パリ大学にさらなる危機が訪れます。 いったん没交渉になったイングランドでは論理学の刷新が起きていて、そ れを取り込んだ神学もまた大きな変化を遂げていたのですが、それらが 1340年前後あたりからパリになだれ込んでくるようになります。ひとた びそうした流入が起きると、今度はそれに感化されて、代示の狭い解釈 (メタファーなどの装飾的言語を排除する)を強制しようとする学僧たち が出現します。これは聖書や初期教父たちの文面の否定にもつながりかね ない立場で、自由学芸部はこれを検閲する規則を打ち出します。そうした 新しい議論の流入は神学部にも影響を及ぼし、新しい代示理論の厳密な適 用と、詭弁や束縛などの論理学的テーマを用いた神学的アプローチを採用 する人々が現れます。オートルクールのニコルやミールクールのジャンな どですが、そういう人々は教会当局による査問を受けることになります。 こうした動きはオッカムやオッカム派には直接関係してはいないのです が、一種のとばっちりで批判を喰らう結果にはなったようです。 こうして1339年、オッカムの著作は使用を禁止され、1341年の始めに は自由学芸部が「オッカム派の知見に反対する(contra scientiam Okamicam)」というタイトルの学則を公布します。この41年の学則 (文書そのものは現存せず、各種の言及から再構成されているとか)で は、オッカム派の知見の代わりに、信仰に反しない限りにおいてとの条件 つきで、「アリストテレスの知見」および注解者アヴェロエスの知見 (!)が要請されたといいます。アヴェロエスとオッカムとが対立させら れているというのはなにやら時代の変化を感じさせますが、やはりここで 問題にされているのは、自然学の知見と範疇論の解釈だった模様です。 この規則はさらにイングランドやドイツの学生団による「オッカム派狩 り」をも招き、こうして糾弾の動きは1341年をもって最高潮に達しまし た。その数年後には、リミニのグレゴリウスなどがオッカム思想と多くの 点でパラレルな自然学をひっさげて登場してきます。さらに1347年から 1365年にかけて、「オッカム派」に対する言及や禁止は学生団の誓いか ら削除されていきます。オッカムの自然学はこうして再び、社会現象から 学術の世界に限定された議論へと戻っていくようです。1350年代ごろに かけて今度はドイツのほうに、メーゲンベルクのコンラッドを中心とした 反オッカムの動きが生じるなど、オッカム思想は依然として渦中の議論と いう感じであり続けるようですが、いずれにせよ、そうした論争がオッカ ム自身の議論というよりも、周辺的事象に大きく左右されている煽られて いる、というのが興味深い点ですね。以上が『オッカムとオッカム主義』 第8章の大まかな流れです。 同書は18章まである大著なのですが、全体的に14世紀前半までのオッカ ム思想を取り巻く状況が論じられています。オッカムに関しては14世紀 の後半以降とか、その後の再浮上についても気になるところなのですが、 そのあたりはオッカムそのものの話を離れてしまうことにもなりそうです し、今後また別の形で調べていきたいと思っています。というわけで、 いったんオッカムの話はここで終了にしたいと思います。次回からは、 オッカムとも関連しますが、リミニのグレゴリウスを取り上げてみたいと 思います。アウグスティヌス派を継ぐとされるグレゴリウスですが、その 哲学的立場などは、そうした枠に収まらない興味深いものになっている印 象があります。そのあたりの検証を中心に、再びテキストと各種参考文献 を眺めていきたいと思います。どうぞお楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月08日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------