〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.225 2012/10/06 ------文献探索シリーズ------------------------ タンピエとその周辺(その13) このシリーズも大詰めです。というわけで、今回はジェイソン・グーチ の、その名もズバリ『1277年の禁令の影響』(Jason Goch, The Effects of the Condemnation of 1277, The Hilltop Review, vol.2, 2011)という論文を眺めていきましょう。これはすでに出てきたグラン トその他の説を再検討しようというものです。論文著者はまず、1277年 の禁令の影響についてこれまで大別して三つの説が出回っているとしてい ます。一つはグラントなどの、禁令が近代科学の誕生をもたらしたという 見方、二つめは禁令によってある種の「知的風土」ができあがったという 説、三つめは、17世紀に言われた(コンドルセやヴォルテールなども唱 えていた)、教会のせいで中世は科学が発展しなかったという説です。著 者は、これら三つのそれぞれに問題があるとしています。それらを批判し つつ、当時の教会と科学との関係を評価するというのが同論文の主旨で す。 19世紀のピエール・デュエムが禁令を「近代科学の誕生」と位置づけて 以来、教会と科学との関係については多くの議論が費やされてきました。 一方、デュエムとは逆の立場の代表格としてラッセルの「闘争テーゼ」 (教会と科学の対立を強調する立場)もあったわけですが、論文著者はそ れとは別の二つの観点からデュエムの説を論難しています。つまり、一つ には禁令の規模がパリにのみ限られていること、もう一つには当時特に大 きな科学的進歩があったとは言えないことです。 余談的に、禁令そのものについてもちょっと面白い議論が示されていま す。もとはティッセンという研究者の説ですが、タンピエの動きを教皇庁 は掴んでいなかったのではないかというものです。タンピエは性格として 節度を守らないタイプの人物だといい、一方の当時の教皇庁はきわめて慈 悲深い姿勢を見せていたとして、タンピエの行動は教皇庁側に「拙速」と 受け止められていたのではないかというのです。前に取り上げた教皇庁の 支持説とは実に対照的ですね。このあたりを見ても、禁令をめぐる議論は 決着がついていないことが如実にわかります。いずれにしてもこの説を取 ると、禁令はある一人のせっかちな司教が、わずか一つの都市において見 せた不寛容さの事象にすぎず、その影響もきわめて限定的だった、という ことが導かれそうです。 さて話を戻すと、論文著者が言うには、仮にグラントが唱えるような「神 の絶対的な力」が認められたところで、アリストテレスの議論そのものが 反駁されることにはなっていません。ニコル・オレームは可能世界につい て、トマス・ブラッドワーディンは真空の創造について、ビュリダンは天 体の永続的運動について記したりしているわけですが、いずれもアリスト テレスへの真っ向からの反駁というふうではないといいます。そのため、 禁令がアリストテレス思想を禁じる形で近代科学の誕生を促すことになっ たという議論は、確証を得ることが叶わないとされています。また、禁令 前後のパリ大学の関係者たちは教育の自由を頑として守ろうとしていたと いい(アルベルトゥス・マグヌス、フォンテーヌのゴドフロワなど)、そ の点でも禁令の実効性には疑問符が付される、とも述べています。 禁令前の大学は、アリストテレス思想に対してかなり大らかでした。そん なこともあって、一般論としては当時アリストテレスの議論への真の反駁 はなされてはおらず、教会側が課そうとする見識がある場合、学者たちは それをアリストテレスと融和させていくのが常でした。ですから、禁令に よってある種の反アリストテレス的な知的風土が生じたということも、一 概には言いがたいのではないか。論文著者はそうした見方を示していま す。近代科学の黎明の証しとされるアリストテレスへの反駁が本格的にな されるきっかけは、ティコ・ブラーエによる1572年の超新星や1577年 の彗星の観察、そしてガリレオの登場などを待たなくてはなりません。 とはいえ論文著者は、科学史家アレクサンドル・コイレのように、近代科 学の誕生をすぐさまガリレオに結びつけるというやり方も、単にある権威 に別の権威を対置するだけの話になってしまうとして斥けています。では この論文著者はどういうスタンスを取るのでしょうか。同論考はこう指摘 します。問題は、たとえばビュリダンやオレームが自著で禁令について言 及する際、どれだけ真剣にそれを受け止めていたか、そして彼らの著作も また、後世のスコラ学者たちによって真摯に受け止められたのかどうか、 そうした著作の集成が、はたして新たな科学の誕生をもたらすものだった のかどうかにある、と……。 科学史家のリチャード・デイルズはグラントと並んで、禁令以後に大学の 知的風土は変貌し、より自由で創造的な仮説が唱えられるようになったと 述べていますが、論文著者はやはり批判的に見ています。繰り返しになり ますが、14世紀に示されるビュリダンやオレームなどの諸説は、反アリ ストテレス色を帯びていくという側面はあるものの、まだ近代科学的な 「メカニカル」な理論(ニュートン的な意味での)ではありませんし、そ の程度の反アリストテレス色ならば禁令以前にも散見されるといいます (キルウォードビーなど)。また、自由な知的風土という考え方自体が、 禁令後のどこか息苦しくなった大学内の環境とは相容れないとも指摘して います。禁令後は確かに、教師たちが失職したり生活を奪われたりする恐 れ(教会からの破門のリスクも)があったといい、そのような中で知的自 由が謳歌できたとは言えないのではないかとしています。 そんな背景ですから、ビュリダンやオレームは、やはりあくまで哲学と神 学の融和のために尽力したのではないか、というわけですね。その意味で の彼らの目論みは成功し、16世紀にはアリストテレスがまるでキリスト 教の聖人のような扱いすら受けるようになる、と科学史家のデイヴィド・ リンドバーグなどは指摘しているそうです。論文著者は、グラントやデイ ルズのような積極的な意味づけは難点があるとしつつ、その一方で教会が 科学の発展を阻害したというテーゼも斥けています。教会はときに科学的 探求の庇護者としての役回りをも演じていた……これも元はリンドバーグ の議論のようですが、このあたりと全体のまとめは次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウスを読む(その3) 『命題集注解第二巻』の問三四から、第一項「悪の意味について」の続き の部分です。「悪」と「悪しきもの」の区別の話が続き、その後に三つの 結論が示されます。その三つの結論のそれぞれが以後詳細に議論されると いう流れです。ではさっそく今回の箇所を見ていきましょう。 # # # Item aliqua denominantur mala diversimode secundum quod diversam analogiam habent ad malum secundo modo acceptum, quemadmodum etiam sedundum diversam analogiam ad sanitatem aliqua diversis significationibus denominantur sana, ut declaratur 4 Metaphysicae, et similiter est de his quae infirma vel aegra dicuntur. Quaedam enim sic denominantur, quia subiecta sunt aegritudinis, ad bonum intellectum, quo privationibus deputamus subiecta; quaedam, quia causae sunt aegritudinis, quaedam aliter, et quaedam aliter. Sic est etiam de malis, ut patebit in sequentibus, ex quibus etiam praedicta distinctio declarabitur. また、あるものが様々な意味で「悪しき」と名づけられるのは、第二の意 味における悪に対して様々な類比を有しているからである。それはちょう ど、『形而上学』第四巻に述べられているように、健康に対する様々な類 比にもとづいて、あるものが「健康である」と 名づけられるのと同様で ある。「病弱である」や「病気である」と言われるものについても同様で ある。任意のものがそのように名づけられるのは、病気の主体があるから である。正しく理解するなら、私たちは病気の欠如から主体を判断する。 病気の原因が存在するからこそ、なんらかのものは名づけられ、別の何か は別様に名づけられ、さらに別の何かはさらに別様に名づけられる。以下 に明らかになるように悪についても同様で、そこから、上に述べた区分も 明らかになるだろう。 (Conclusiones tres) Hoc praemisso pono conclusiones ad articulum istum: Quarum prima est quod malitia seu malum, unde primo aliquid denominatur malum, quod vocari potest per se malum seu iuxta Anselmum De casu diaboli capitulo 20 potest dici "malum simpliciter" vel "malum simplex", non est aliqua entitas, sed pura privatio se defectus boni debiti. Secunda conclusio est eodem modo sumendo malum quod, quamvis malum non sit aliqua entitas, quodlibet tamen est in aliqua entitate. Tertia conclusio est de malo accepto primo modo, scilicet pro eo quod denominatur malum quod iuxta Anselmum "non simpliciter" dicitur "malum" sed malum aliqud est", quod aliquod malum est entitas et non tamen omne. Ex quibus consequenter patebit quod alicuis mali est aliqua causa per se efficiens, et alicuius non. (三つの結論) 以上を前置きとして、私はこの項に対する結論を三点掲げよう。一つめ は、何かがまずもって「悪い」と名づけられる、そのもととなる「悪」も しくは「悪しきもの」は、「おのずと悪しきもの」と呼ばれうるし、ある いはまた、アンセルムスの『悪魔の墜落』第二〇章にしたがい、「端的に 悪しきもの」または「単純な悪しきもの」と呼ばれうるが、それはなんら かの実体ではなく、しかるべき善の純粋な欠如、あるいは不在であると言 うことができる、ということだ。第二の結論は、悪しきものを同じ意味に 解する際、悪しきものは何らかの実体でないものの、なんらかの実体に存 するものであるということだ。第三の結論は、第一の意味での悪しきも の、つまりそれをもとに何かが悪しきものと名づけられる場合−−それは アンセルムスにもとづき、「端的に悪しきもの」ではないが、なんらかの 悪しきものであると言われるが−−、それは実体であるが、すべてがそう であるとは限らないということだ。以上から、なんらかの悪にはなんらか の原因の作用が見られるが、そうでないものもある、ということが明らか になるだろう。 # # # 三つの結論の一つめと三つめでアンセルムスが言及されています。アンセ ルムスといえば、これまたアウグスティヌス思想を取り込んで一新した人 物として知られています。ここでは『ケンブリッジ・アウグスティヌス必 携』(The Cambridge Companion to Augustine, ed. Eleonore Stump & Norman Krezmann, Cambridge University Press, 2006) に収録されたM.W.F.ストーンの「アウグスティヌスと中世哲学」という 一章を見ておきたいと思います。それによると、アンセルムスは哲学・神 学思想において確かにアウグスティヌスに負うところが多いものの、受容 の仕方は独特で、手直しや拡張を施しているため、アウグスティヌスの影 響がどのような性質のもので、どの程度被っているのかを推し量るのはと きに難しいのだとか。 「それ以上大きなものを認識できない」という定義から始まる有名な「神 のアプリオリな存在証明」はその代表例として扱われています。そうした 神の定義自体はアウグスティヌスとボエティウスに見られるものの、それ を神の存在証明に用いたのはアンセルムス独自の発想だったとされていま す。今回の本文での言及からは、アンセルムスがアウグスティヌスの悪の 定義を踏襲していることが窺えますが、これも一種独特な扱いといった印 象を受けます。 『悪魔の墜落』は師と弟子との対話編で、神学問答の書です。ジャス パー・ホプキンスによる英訳(de casu diaboliで検索してみてくださ い)が出ていますのでこれで見ておくと、第二〇章というのは「神はいか にして悪しき意志と悪しき行いを生じせしめるのか、それらを神はいかに 受け入れるのか」という表題になっています。その章で、師匠は次のよう に言います。悪魔が良からぬことへと意志を振り向ける際、その意志と振 り向きとは何らかのものごとであり、あらゆるものごとは神から、あるい は神の許しを得てもたらされる。その場合、意志と振り向きはいずれもそ れ自体では善である。ところが意志があるべき正義を欠いているとき、そ れは「悪しきものごと」となる。ただしそれは絶対的な悪ではない……。 そして悪しきものごとは神のせいではなく、その意志を抱く者、あるいは 意志を振り向ける者のせいなのだ……と。ここでは立ち入りませんが、 「意志」も「振り向き」もものごととされている点が、実在論的でとても 興味深いですね。 上の本文との関係からすれば、アンセルムスの同書でも、悪である何か と、絶対的悪なるものが対照されている点が注目されます。何かであるも の(つまり存在が与えられているもの)は神が創ったもので、それが悪に なるのはしかるべき正義が欠如する場合だとされ、その責任は神には帰さ れません。一方で絶対的悪とは「不正」そのもののことですが、それは 「何かであるもの」ではなく「何でもないもの」、実体としては存在しな いものだとされています。アンセルムスのこの区別は神の免責ということ で提示されている議論のようですが、リミニのグレゴリウスは(おそらく 彼が最初ではなさそうですが)これを唯名論に絡めて精緻化・理論化して いるように見えます。このあたりの話はまた改めて取り上げたいところで す。 さて、上記のストーンの論考ですが、ついでにリミニのグレゴリウスに触 れた箇所も見ておきましょう。ストーンは一四世紀を、アウグスティヌス の著作の利用法・議論が大きく変わった時代だと指摘しています。著作か らの引用が拡大し、いっそうの正確さが求められるようになったというわ けです。初回に触れたように、グレゴリウスはそうした正確さを体現する 著者と見なされていました。また思想面で言えば、ストーンは「新アウグ スティヌス主義」と括れるような論者たちが登場したと述べ、その代表格 としてトマス・ブラッドワーディンとリミニのグレゴリウスを挙げていま す。 グレゴリウスがアウグスティヌスに影響を受けていることを如実に示すも のとして、知性が有する知識は内在するイデアに依存し、そのイデアに よって魂は理性的・道徳的な目標に導かれるとするテーゼがある、とス トーンは指摘しています。また、「新アウグスティヌス主義」は同時代の ペラギウス主義に対して哲学的・神学的な攻勢をしかけたことでも知られ るといいます。ペラギウス主義は、神の恩寵を不要と見なし、人間はその 意志の力で救済を得るとするもので、恩寵を重視するアウグスティヌス主 義とはもとより対立します。とはいえ、14世紀には恩寵の意味するとこ ろを限定的に捉える流れもあったようで、ブラッドワーディンにしても、 恩寵は神が植え付けるハビトゥス(性向)であるといった考え方を示して います。ストーンによれば、グレゴリウスの場合も、恩寵とは神がもたら す影響(作用)であるとし、それが人間の意志を機能させると考えていた ようです。 ブラッドワーディンやグレゴリウスの「新アウグスティヌス主義」が、ア ウグスティヌス会派の中でどれだけの影響力をもっていたかについては今 一つ不明瞭なのだそうで、とくにブラッドワーディンのペラギウス主義批 判は、逆にアウグスティヌス会の内部から批判されていたともいい、陣営 が一枚岩などではとうていなかったことを窺わせます。このあたりもなか なか面白そうなところです。追々見ていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------