〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.229 2012/12/01 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その3) 前回の最後のところで触れたように、今回はイソクラテスとアリストテレ スを少し眺めておくことにしましょう。まずイソクラテスですが、これに ついては、やはりなんといっても手軽な、それでいて実に細やか・包括的 な記述を湛えた参考書、廣川洋一『イソクラテスの修辞学校』(講談社学 術文庫)が参考になります。イソクラテスはアテナイに弁論・修辞学の学 校を開いたことで有名ですが、その開設時期はプラトンのアカデメイアよ りも二,三年前だったと言われています。またその学校は、弁論・修辞学 を教えていたのですが、目標とするところは小手先の技術習得ではなく て、「教養人」の育成にあったとされています。では、その場合の教養と はどんなことを意味していたのでしょうか。 結論から言うと、それはまさに言語を中心とした総合知であったようで す。上の廣川本によれば、「真の教養人になるには『詩人からも、賢者た ちからも学ぶべきである』とされ」、イソクラテスの学校では様々なな補 助科目の学習を奨励していたといいます。「詩文、散文の文学研究のほか に歴史、地誌、政治、倫理道徳などが挙げられ」(同書、p.90)ていた のですね。 では、では補助科目に支えられる主要科目、つまり弁論術・修辞学はどの ような位置づけだったのでしょうか。どうやらそれは広義の「哲学」(ピ ロソピアー)であったようです。広義というのはつまり、「知的教養」を 指すということです。当時、「市民生活を営む上で最も有効で有益な教養 は弁論・修辞学だとみられていた」(p.112)といい、イソクラテスは 「言論の錬磨を中心とする教養理念をピロソピアーと呼んで」(同)いま した。ピロソピアーと弁論・修辞を同一視するというこの点において、イ ソクラテスの教養観は当時のソフィストたちよりも、むしろプラトンのア カデメイアの教養観に近いものだったとされています。すなわち、弁論や 修辞を通して学ばれるべきは小手先の技術などでは到底なく、深い思慮が 育成されなければならないという教養観です。「言論の術に長じ巧みとな ることに専心するよりも先に、まず、弁論術を修得しようとする当の彼ら に思慮が現れてこなければならない」(p.118)というのですね。 こうしてみると、なぜプラトンにおいては数を中心とする学科のみが基礎 的な教養とされていたのか、という点もなんとかく分かってきます。つま り、それら数にまつわる学科の修得後に取りかかる、その先の総合的な教 養というのは、そのまま言論の鍛錬とイコールであるとされ、それはすで にしてピロソピアーの内実にしっかりと組み込まれていると見なされてい たのでしょう。そんなわけですから、後の時代においてなされたような言 論に関する三科それぞれの抽出などは特に必要とされていなかった、とい うことなのではないでしょうか。イソクラテスは天文学や幾何学などをそ れ自体で有益なものとは見なさず、あくまでピロソピアー修得のための 「予備学の一つ」として認めるにすぎなかった(p.196)とされています が、おそらくは同じような考え方に立っていたのでしょう。 では、これに対してアリストテレスはどんな立場を取っているのでしょう か。アリストテレスにとっての弁論術・修辞学はどういうものだったので しょうか。その著書『弁論術』(邦訳:岩波文庫)を見ると、まずその冒 頭で、当時の「弁論術」が組織立って(体系的な理論にもとづいて)行わ れておらず、技術に属するのは説得方法だけなのにそれすら理論化されて いない(語られていない)と批判しています。その上でアリストテレス は、本来の弁論術というものは、どんな問題であろうとそれについての可 能な説得方法を見つけ出すことである、と定義しています。他の技術 (諸々の学知のことで、医学や幾何学、算術などが挙げられています)が それぞれに固有の問題について教えたり説得したりできるのに対して、弁 論術は対象に規定されず、あらゆる問題について説得できる技術だという わけですね。この意味で、弁論は他から独立した個別の技術、あるいは一 つの学知と見なされます。 弁論が一つの個別的技術であると看破している点ですでに、アリストテレ スの弁論観は、イソクラテスが考えていたような(あるいはプラトンが想 定しているような)総合知ピロソピアーとしての言論の錬磨とは大きな隔 たりを示しています。幾何学や算術を「技術」と断じているように、弁論 術もあくまで技術として捉えられていて、その意味で他の諸学と同列の扱 いになっている印象を受けます。 それはまた、哲学的な知(総合知)の前段階として位置づけられているよ うに思われます。アリストテレスの『弁論術』は、一巻のその後の部分で は弁論術の種類と、それぞれが扱うテーマについての分類・詳述が続きま す。第二巻になると聴き手の感情や性格の分類、説得方法の分類(とくに 説得推論の詳述)が扱われ、第三巻では表現方法と弁論の諸部分の配列に ついての技術解説が続きます。この二巻の後半と三巻が、論理学と修辞学 (文法も含めた)をカバーしている部分と言えるでしょう。とはいえ、そ れらはアリストテレスが個別に体系化した論理学・修辞学ではなく、ごく 初歩の技術論にすぎません。『弁論術』が扱うのはあくまで説得の方法と しての基礎技術にすぎず、その意味でもこれが初等教育的であることが窺 えます。まさに分化する前の三科といった様相を呈しています。数を扱う 四科と並ぶ、言葉を扱う三科の萌芽は、まさしくここに見られると言えそ うです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その7) 切り方の都合により、今回の箇所は少し短めです。早速見ていきましょ う。 # # # Consequentia evidens est; et antecedens declarari posset in singulis discurrendo. Si enim venenum serpentis non plus privaret hominem aliquo suo bono quam privet serpentem, non plus esset homini malum quam sit serpenti. Similiter si panis non plus laederet ancipitrem quam hominem, non plus esset sibi malus quam homini; et contra, si ita necaret hominem sicut necat ancipitrem, ita esset homini malus sicut est ancipitri. Et ita in omnibus claret, quod dictum est. 結論は明らかだ。また前提も単一の推論で明らかにすることができる。仮 に蛇の毒が人間からなんらかの善を奪うのは、蛇から奪うのと同程度であ るとするなら、人間にとっての害悪は蛇にとってと同程度ということにな るだろう。同様に、パンが人間と同程度にタカを害するなら、それにとっ ての害悪は人間にとってと同程度ということになるだろう。また逆に、そ れがタカを死に至らしめるように人間をも死に至らしめるならば、それは タカにとってと同程度、人間にとっても悪しきものとなる。ここで述べた 点はあらゆるものについて明らかである。 Confirmatur istud per Augustinum in De moribus Manichaeorum, ubi ostendit quod quaelibet talia non inquantum tales naturae seu entitates sunt, sunt alicui mala, sed solum inquantum sunt alicui inconvenientia, id est disconvenientia. Unde et in omnibus talibus dicit et ostendit solam inconvenientiam esse malum, hoc est illa esse mala alii inquantum inconveniunt, inquantum autem inconveniunt, nocent. Unde ait: Quis "posset efficere ut sibi inconvenientia non nocerent" ? Sed ulterius, ut ait magis prope principium libri, "quicquid nocet, bono aliquo privat eam rem cui nocet; nam, si nullum bonum adimit, nihil prorsus nocet". Et paulo post dicit quod "nocere bono privare est". Ex quibus omnibus totum antecedens declaratum est. このことはアウグスティヌスの『マニ教の風習ついて』において確証され る。アウグスティヌスは同書において、いかなるものであれ、それが何か にとっての悪であるのは、それ本来の本性もしくは実体である限りにおい てではなく、それが何かにとって不適切である限りにおいて、つまり不調 和をなす限りにおいてであることを示している。したがってそうしたすべ てにおいて、不都合なもののみが悪であると述べ、かつ示しているのだ が、これはつまり、それが他にとって悪であるのは不適切である限りにお いてであり、不適切である限りにおいて害するからである。ゆえにアウグ スティヌスはこう述べている。「いかなるものならば、不適切でありなが ら害しないことがありうるだろうか」。だがその後の部分では、同書の冒 頭近くでより長く述べているようにこう記されている。「いかなるもので あれ害するものは、それが害をなす当の事物からなんらかの善を剥奪す る。いま仮にいかなる善も奪わないとするなら、端的にいかなる害もなさ ないことになる」。その少し後ではこう述べている。「害するとは善を奪 うことである」。以上のいっさいから、前提はすべて明らかとなる。 # # # 完全性を欠いているのが悪だという文言と、悪は必ず他のものに関係する という文言がこれまで出てきていましたが、そうなるとそれら文言同士の 関係が問われなくてはなりません。なぜ完全性を欠いていると、他のもの に関係において悪をなすことになるのでしょうか。今回の箇所で示されて いるのはその答えです。つまり、事物の完全性とはすでにして他にとって の善の関係をもっており、その完全性が損なわれていれば、すなわち他と の調和を欠き、つまりは他との善の関係を損ねてしまう、というわけで す。「他に対して善をなさない」「他からなんらかの善を奪う」とは、そ うした他者との間に完全性として出来上がるはずの善の関係性が損なわれ ている、成立しないということを言うのでしょう。 さて、今回も参考文献としてパスカル・ベルモンの著書から、リミニのグ レゴリウスの生涯にそったトピックを拾っていきましょう。学生時代を終 え、講師(lector)としてイタリアに戻ったグレゴリウスは、1329年か ら1342年まで、ボローニャやパドヴァ、ペルージャで教職に就きます。 おもに『命題集』の講義を担当していたようで、この1330年代の活動が 後の『命題集注解』の基礎をなしていくようです。 1342年から46年にかけて、グレゴリウスは『命題集』の講義のため再び パリに戻ります。当時のパリ大学は、ビュリダンやニコル・オレームなど がいて活気づいていた頃合いでしたが、一方でニコル・オートレクールな どが糾弾されてりもして、さらにオッカム主義の一派が教壇を追われた時 期でもあり、そのあたりがグレゴリウスにどのような影を落としているの か(あるいはいないのか)気になるところです。 1345年にパリでアウグスティヌス会の参事会が開催され、そこでリミニ に学問所を開くことが決定されます。と同時にその参事会では教皇の特令 が取り上げられ、修道会として特令を適用することが決定されています。 その特令というのは、「外国の教義(doctrina peregrina)に従った り、それを教えたりすることを禁じる」というものなのですが、この「外 国の」という言葉がどうやら、英国人だったオッカムの教えを指している らしいのです。1346年の教皇の書簡に、パリ大学の自由学芸部・神学部 で講じられている「外国の教義」を糾弾する文言があり、そちらがオッカ ムの教えを意味していることは明らかだとされており、翻って前年の教皇 の特令や、それを検討したアウグスティヌス会の参事会でも、その同じ教 えが問題になっていたはずだというわけです。 その後アウグスティヌス会の参事会は1348年にパヴィア、1351年に バーゼルでそれぞれ開催され、やはりオッカム主義の問題が取り上げられ ています。パヴィアでの参事会では、オッカムの論理学やその他の著書全 般の研究や教えが明示的に禁止されるのですが、ここで注意が必要なの は、糾弾されているのはあくまでオッカムの教説(オッカム主義)であっ て、唯名論そのものではないという点です。両者が区別されているという のが一つのポイントになりそうです。 ではリミニのグレゴリウスは、こうした動きの中でどのような影響を被っ ているのでしょうか。グレゴリウスは頻繁にオッカムを引用しているとい いますが、だからといってその教説に従っていたわけではないようです。 著者ベルモンによれば、パリの参事会でもパヴィアの参事会でもオッカム の引用は禁じられておらず、問題にされたのはオッカムの教説の結論部分 だけで、それを支持・吹聴することが公然と禁じられたということのよう です。そしてその意味においてなら、グレゴリウスは指弾を免れていただ ろうといいます。グレゴリウスの用いた方法そのものは参事会の決定から それほど離れてはいない、と著者は論じています。 実際、リミニの学問所開設に際して一役買い、後にはその主席講師を務め るなど、グレゴリウスはアウグスティヌス会の中でとりたてて教授職を禁 じられることもなく過ごしています。やがて1357年にはアウグスティヌ ス会の総長に選ばれ、その後も、英仏の戦争の影響で事実上顧みられなく なっていた「清貧の誓い」を復権させようと精力的に活動してもいます。 少なくとも表面的な事実関係からは、オッカム主義の禁止がグレゴリウス に影響を与えることはなかったように見えます。内実はどうだったので しょうね。そのあたりは、やはり具体的な思想の面に探りを入れていかな くてはなりません。というわけで、引き続きベルモンの著書を参考に、次 回からはグレゴリウスの思想内容について見ていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月15日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------