〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.232 2013/01/26 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その6) アウグスティヌスによる数についての四科の扱いを、イルストロ・アドの 著書をもとに、『秩序について』のテキストでざっと見ておきましょう。 前回触れたように、アウグスティヌスは数こそが学問の秩序を支えている と考えていました。アドによればそうした議論はプロクロスに遡ることが できるようです。ポルフュリオスやプロクロスなどの新プラトン主義者た ちは、当然ながらアウグスティヌスの参照元になっているということで、 アドは参照元と思われるテキストと突き合わせて細かく検証しています が、ここではそうした細部は割愛します。 さて『秩序について』の39節(一四章)では、理性による音楽の発見に ついて語られています。理性は神的な事象の観想を志向するものの、感覚 によってそれが妨げられ、結果として別の目的に到達しようとすることに なるというのですね。そしてそのプロセスはまず、言葉と密接な関係にあ る聴覚から始まるのだ、と。ということで、まず理性は音を見出し、すぐ さまそれを分類します。こうして音声、管楽器による音、弦楽器(あるい は打楽器)による音が区別されます。次いで文法での音節などと同様に、 音そのものの分類がなされます(40節)。理性はテンポや音の高低、韻 律(リズム)といった要素を理解します。そしてその全体を統制している ものとして「数」を見出します。 アドによると、アウグスティヌスの『キリスト教の教義について』にも三 種類の音の区別が記されていて、そちらでは、その区別がもともとウァロ によるものだとされているといいます。ただ、アドはそれがウァロの考案 であるとは断定できないとし、ギリシアのなんらかの著者から引いてきた 可能性は高いとしています。いずれにしても、音楽は言葉の学(文法)と 数の学とを結ぶ、境界線に位置していることがわかります。音は感覚的な ものではあるけれども、精神が捉えるのは不変的なものであり、それがま さに数であるというわけです(41節)。 42節(一五章)になると幾何学と天文学の話に移ります。やがて理性 は、音を抽象して得られる数をそれ自体として考察するようになっていく わけなのですが、その段階にいたるにはまだもう一つステップが必要にな ります。それが、地上の事象、天空の事象の美を見出し、考察を深めると いうステップです。理性は段階を追って高みに登っていくというわけで、 このあたりはアドの言を待つまでもなく、とてもプラトン主義的ですね。 あるいは聴覚から視覚への移行と言ってもよいでしょう。かくして見出さ れるのが、まずは地上の美、すなわち三次元の美を扱う幾何学と、天空の 運動について考察する天文学です。それらもまた、数によって支配されて います。 それらを経てようやく、理性は感覚を排し、数そのものの認識を見出しま す(43節)。「理性はみずからを高め、盛んに推測し、不死なる魂を確 証しようと試みる。あらゆることを入念に検証し、みずからが長けている ことをうまく成し遂げるが、理性ができるすべてのことは数ゆえにできる のである」。やがて「みずからが数なのではないか、あらゆることが数え られるのではないかと考え始める」。数の認識はこうして魂、つまりは理 性による自己認識へと回帰していきます。 44節ではまとめとして、これまで言及された諸学が収斂する先に、神に ついての、あるいは魂についての観想があることが、高らかに歌い上げら れています。「端的かつ理解可能な数(の学)」を学んではじめて、それ はより容易に認識できるようになると言われます。この「端的かつ理解可 能な数」というのは、アドの解説によれば0から10の数字のことで、それ らがもとになってあらゆる数と数学的形象が構成されると考えられていま した。そうした数字はまた、魂の位格や感覚世界のおおもとをも構成して いるとされていました。この10までの数の話について、アドはそもそも の出典がニコマコス(1世紀)にあり、さらにより直接の参照元として 『算術神学』(Theologoumena arithmeticae)に言及しています。こ れはイアンブリコスの著書と言われていましたが、今では逸名著者による ものとされているようです。 こうして数を扱う四科も出そろいました。アドによると、アウグスティヌ スが示したこの序列(音楽、幾何学、天文学、算術(広義の))はプルタ ルコスの示した序列に対応しているといいます。プルタルコスは『プラト ンの諸問題』(『モラリア』の一部)において、抽象度の高い順に、算 術、幾何学、天文学、ハルモニア(音楽)を列挙しています。ニコマコス などが算術を初歩に置いているのとは対照的だといいます。プルタルコス の同書は英訳がhttp://oll.libertyfund.org/? option=com_staticxt&staticfile=show.php %3Ftitle=1215&chapter=92485&layout=html&Itemid=27にありま す(当該箇所は問題三の第1節です)。言葉を扱う三科と合わせ、これで 七科全部が整った形ですが、『秩序について』はアウグスティヌスの若い 頃の著書で、その後の著作ではキリスト教色が強くなるにつれプラトン主 義的なトーンは弱まり、この七科も教育モデルとは見なされなくなってい くといいます。ではそれはどこで再浮上していくのでしょうか。そのあた りはまた次回。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その10) 『命題集注解第二巻』の問三四を読んでいるわけですが、今回からは三つ めの結論についての論証部分です。さっそく見ていきましょう。 # # # (Tertia conclusio probatur) Tertia conclusio est de malo denominative dicto, et est quod quoddam malum est entitas et quoddam non. Haec quantum ad primam partem satis est clara tam de his malis quae denominantur mala denominatione activa, utpote quia privant aliquid bono seu quia propter ipsa aliud privatur bono sibi debito - nam constat quod venenum quod est malum hominis est aliqua entitas, et panis qui est malum accipitris est entitas aliqua, et sic de multis aliis - quam etiam de his quae denominantur mala denominatione passiva et per modum subiecti, videlicet illa quae privantur suo alio bono; nam constat quod et malum aurum et malum vinum et malus homo et malus angelus sunt entitas aliquae. Unde Augustinus Enchiridion 15: "Quid est 'malus homo' nisi mala natura, quia homono est natura ?" (第三の結論についての論証) 第三の結論は名辞的な意味での悪についてであり、「実体である悪もあれ ば実体でない悪もある」というものである。 結論の前半部分に関しては、この結論は十分に明らかである。まずは、な んらかの善を欠落させるがゆえに、もしくは他のもののためにみずからに 備わってしかるべきなんらかの善が欠落してしまうがゆえに、積極的な命 名でもって悪と称される悪しきことについて明らかである。毒は人間に害 悪をなすが、それが実体であることは明らかであるし、パンはタカに害悪 をなすが、それが実体であることも明らかである。ほかの多くのものにつ いても同様だ。また、さらに受動的な命名、もしくは担われ方によって悪 と称されるものについても明らかである。つまりほかの善が欠落している ものだ。悪しき黄金、悪しき葡萄酒、悪しき人間、悪しき天使などはいず れも実体である。ゆえにアウグスティヌスは『エンキリディオン』第一五 章において、「人間とは本性であるのだから、<悪しき人間>とは悪しき 本性以外の何であろうか?」と述べているのである。 Quantum etiam ad secundam partem, videlicet quod non omne quod denominatur malum est aliqua entitats patet. Nam abstinere prorsus a cibo et potu est malum animali, et tamen non est aliqua entitas. Similiter claudicare est homini malum, nec tamen est aliqua entitas, quamvis ipse homo claudicans ac etiam pes hominis et spatium per quod claudicat entitas aliqua sit. Et ideo dicit Augustinus in De perfectione iustitiae, circa principium, quod "claudicatio actus est, non res"; et idem dicit de rapina quam etiam dicimus esse malam. Et idem dicendum est de quolibet alio complexe tantum significabili quod nos dicimus esse malum. Nullum enim tale proprie dicitur esse res seu entitas aliqua, ut declaratum fuit in primo libro. 後半部分、つまり悪と称されるすべてがなんらかの実体とは限らないこと も明らかだ。たとえば飲食をいっさい断つことは動物にとって悪しきこと だが、それは実体ではない。同様に、跛行は人間にとって悪しきことだ が、それはなんらかの実体ではない。とはえ、跛行する人とその人の足、 跛行する行程などは実体である。ゆえにアウグスティヌスは、『正義の完 成ついて』の冒頭部分で、「跛行は行為だが、事物ではない」と述べてい るのである。アウグスティヌスは、やはり私たちが悪しきことと称する略 奪行為についても同様のことを述べている。さらに、私たちが悪しきこと と言うほかの複合的意味対象についても同じ事が言われなくてはならな い。第一巻で示したように、それらのいずれも、事物もしくは実体だとは 言えないからである。 # # # 今回の箇所では明確に「悪しきこと」が複合的意味対象だということが記 されていますね。本文に出てくる『正義の完成について』は、英訳版を PDFで読むことができます(http:// www.documentacatholicaomnia.eu/03d/ 0354-0430,_Augustinus,_De_Perfectione_Justitiae_Hominis_[Schaf f],_EN.pdf)。アウグスティヌスの言う「行為だが事物ではない」は『正 義の完成について』第二章4節に出てきます。そこでは罪とは何かという 問題が問われています。「その欠陥(跛行)にどんな名を与えるべき かーーそれを事物と呼ぶべきか、あるいは行為か、あるいはむしろ形を損 なった行為が存在にいたる、事物のなかの悪しき属性と呼ぶべきだろう か」。こう問いかけるアウグスティヌスは、続いて「このように、人間内 部の魂は事物だが、窃盗は行為、貪欲は欠陥、すなわちそれにより魂が悪 しき者となる属性である(後略)」と述べています。事物のほかに行為や 属性を立てているわけですが、グレゴリウスはそれらを複合的意味対象と して一括りにしているのですね。 さて、パスカル・ベルモンの研究書の続きも読み進めておきましょう。今 回はその哲学研究編第一部第二章で、私たちが今テキストとして眺めてい る『命題集注解』の、序文についてのベルモンによるまとめです。そこで はグレゴリウスの「神学観」の一端が垣間見られます。『命題集注解』の 序文は全体として神学というものをどう捉えるべきかを考察していて、五 つの問題、つまり神学の対象、神学の原理、その統一性、主題、目的を取 り上げそれぞれ議論しています。その中で特に重要と思われるのは、神学 における対象とは何かという問題です。結論から先に言うと、その対象に 据えられるのが前回も見た「複合的意味対象」ということになるようで す。 神学はそもそも学問なのかという疑問に、リミニのグレゴリウスは否定的 な答えを示します。神学が操るディスコース(または議論)は、信仰に よって受け入れられた前提にもとづいており、その対象は神学的判断でし かなく、そこに学術的な意味での厳密な論証はない、というのがグレゴリ ウスの立場だといいます。トマス・アクィナスが神学をそれ自体で厳密な 学とした(とグレゴリウスみずからが述べています)のとは正反対です。 しかしながら一方では、その判断(神学的)の対象から学術的な概念や臆 見を得ることは不可能ではないとして、神学の存在意義は擁護しているよ うなのです。 ベルモンによれば、グレゴリウスは神学を擁護してはいるものの、それは 哲学など学術に神学と競合する方途を与える立場でもあったといいます。 つまり、いくつかのきわめて教義的な主題(三位一体など)を除き、哲学 (または自然神学とも言われます)は神学があつかうのと同じ対象に、別 の方法、つまり学術的な論証でアプローチができることを保証されている というわけです。当時はすでに信仰自体が、対象の明証性の議論に場を明 け渡すことが認められていた、とベルモンは指摘しています。 『命題集注解』の序文も、その後の本文と同様に問題を立ててはそれを論 証していくスタイルを取っています。そして上に挙げた五つの問題がより 具体的に取り上げられていきます。問題一でグレゴリウスは、「学知の対 象」を明らかにすることによって神学の対象を規定しようとします。その 場合の学知の対象とはすなわち、論証が導く結論のことです。そこからの 類推により、グレゴリウスは神学の対象というのは判断の対象のことであ ると見なします。そして、そうしたあらゆる知の対象を「複合的意味対 象」として記しています。グレゴリウスは論証や判断の対象は一様に概念 であると考え、オッカムのように学知の対象とは命題のことであり、命題 は概念ではない、とする考え方とは一線を画しています。 グレゴリウスは、たとえばペトルス・アウレオリなどとは違って、哲学の ディスコースは神学のディスコースに依存しておらず、むしろ逆に後者が 前者を前提としているのだと考えます。また、そもそも学術と信仰は相容 れないというトマス的な立場を、グレゴリウスは認めていません(問題 二)。また、ゲントのヘンリクスやヴォデハム、オッカムなどに反対する 形で、演繹的推理による論証の結論こそが学問の統一性を保証すると考え ています(問題三、問題四)。本来は哲学などの学術で用いられる方法を 神学にまで拡張して適用すべきだ、というのがグレゴリオスの基本的な立 場になっているようです(問題五)。 こうしてみると、グレゴリウスが同時代的な論者たちに案外批判的である ことが改めて浮かび上がってきますね。この後、ベルモンの議論はさらに その先、つまり神学の対象とされる複合的意味対象の真偽はどのようにし て決められるのかという問題へと進んでいきます。それはまた次回に取り 上げることにします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------