〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.235 2013/03/09 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その9) さて今回はセビリャのイシドルスについてです。イシドルスは七世紀の始 めごろにセビリャの大司教になった人物ですね。教育にも熱心で、スペイ ン各地に学校を作ろうと腐心したとされます。有名な主著の『語源禄』 は、その名の通り言葉の起源をまとめた著作で、体系的な記述というより は幅広い百科全書的な趣きをもっています。ときに記述に矛盾があったり もするようですが、中世において広く流布し、大いに参照された書物でし た。いつも参照しているイルストロ・アドの本によると、現存する写本だ けで千点ほどもあるそうです。同書もテキストをオンラインで読むことが できます(http://www.thelatinlibrary.com/isidore.html)。 『語源録』では、冒頭の一巻から三巻までが自由七科の話に当てられてい ます。まず一巻は、全体の導入に続き(第二章に七科のそれぞれについて の簡単な紹介があります。文法、修辞学、論理学、算術、音楽、幾何学、 天文学の順番になっています)、文法について記されています。文法とは 正確に語るための学知であると定義され、自由学科全体の基礎であるとさ れています(五章)。イシドルスの場合、文法を除く六科を「哲学」が扱 う学知の領域に含め、一方で文法がそれらの基礎、あるいは起源としての 扱いになっています。これもアドのコメントですが、中世において七科全 体が哲学と同一視されることがあるのですが、それはイシドルスのこの書 のせいなのではないか、としています。 一巻の五章以降、文法が扱う様々な用語についての解説が続きます。最後 のほうには文学や歴史学にも触れています。これも、文法がそれらを包摂 するという例の伝統に合致しているわけですね。続く二巻では修辞学と論 理学が取り上げられます。修辞学は文法と密接に結びついていて、学んだ ことをいかに開示するかについての学知なのだとされます(一章)。論理 学のほうはというと、物事の理由について論じるための知識なのだとさ れ、修辞学と共通点を多くもち、それに付き従う知識であるとされていま す(二二章)。 三巻は数を扱う四科が「数学」としてまとめられています。一章では、数 学は四つの種類に分かれるとして、算術、音楽、幾何学、天文学の順に挙 げられています。算術は数の量そのものを扱う知識、音楽は音に見出され る数について述べる知識、幾何学は大きさと形状、そして天文学は天空の 星辰の動きやその全体の形状、状態などを観察する知識というわけです が、なぜこの順番になっているのかにはあまり意味はないようで、三巻の 本文の構成においては算術の次に幾何学が来て、それから音楽、天文学が 続いていたりします。アウグスティヌスにあったような、魂の上昇の諸段 階の反映といった新プラトン主義的なトーンはだいぶ薄らいでいる印象で す。あるいは単に、そもそも体系的記述に関心が薄いということなのかも しれませんが……。 アドは一つ興味深い点に注目しています。それは学術(ars)と学知 (disciplina、scientia)の区別です。イシドルスは一巻一章の冒頭でそ れらを定義しています。それによると、学知が学ぶという行為や教育の対 象全般を指すのに対して、学術(ars)には固有の教えと規則があるとさ れます。また、学知(disciplina、scientia)はすでに確定した知識のこ とをいい、一方の学術は臆見などを含み、別様でありうるかもしれない知 識について用いられる、とも規定しています。 アドのまとめによると、こうした区別はアルキオノスやアプレイウスに遡 り、アルキオノスは数を扱う四科が学知に属さず、文字を扱う三科こそが 学知(scientia)であると考えていたのでした(プラトンの『国家』がも とになっています)。後のアウグスティヌスは、四科をも学知に含め、こ こに初めて七科全部が学知として扱われることになったのでした。マル ティアヌス・カペラも基本的にはそれに準じています。ところがカッシオ ドルスになると、今度はむしろ四科のほうが学知で、三科は学術であると 述べます。まさしく事態は逆転したかに見えますね。カッシオドルスの場 合、学知と学術の対立には、必然と偶有の対立が重ね合わされています。 アリストテレスの『ニコマコス倫理学』がもとになっていて、つまりは新 プラトン主義に対し、アリストテレスの影響がまさった結果なのだろうと いいます。 イシドルスにおいては、再び七科全部が学知(scientia)として扱われま す。アウグスティヌスやカペラの伝統へと回帰した形に見えます。という か、むしろカッシオドルスこそが特殊だったのかもしれません。カッシオ ドルスが創設したヴィヴァリウムにはカペラの著書は置かれていなかった そうで、カッシオドルスはカペラに言及してはいるものの、又聞きにすぎ なかった可能性があるといいます。イシドルスが記した学術と学知の違い はカッシオドルスのテキストに依拠しているのですが、カッシオドルスが それらをもともと論理学内部での区別(推論の仕方による区別)としてい たのに対して、イシドルスはより一般的な区別に置き換えて示していま す。イシドルスは、カッシオドルスの与えたやや独特の意味合いをむしろ アウグスティヌスやカペラの流れへと置き戻す形で、七科すべてを学知に 含めたのでした。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その13) 今回は第一の結論に対する二つめの異論への反論部分です。二つめの異論 というのは次のようなものです。アンセルムスの『処女懐胎について』第 五章から「不都合は悪だが、不都合は目が見えなかったり耳が聞こえな かったりする場合のように実体がない場合もあれば、苦痛や悲しみのよう に実体がある場合もある」を引いて、(1)悪が実体である場合もあり、 (2)それは名辞的な悪ではなく、それ自体になんらかの悪をもち、他の 者から善を奪うとし、また確言として、(3)苦痛それ自体としての苦痛 はすでにして悪なのである、と述べています。これら三点のそれぞれに、 グレゴリウスは反駁を加えます。さっそく見ていきましょう。 # # # Ad secundum dicendum quod et dolor et tristitia et quaecumque entitates aliae quae dicantur incommoditates vel incommoda ac per hoc mala, non sunt malitiae seu mala secundo modo accipiendo malum, sed primo modo tantum scilicet denominative ex alicuius boni privatione quae est secundum se malum. Et hoc patet, quia nihil dicitur commodum vel incommodum nisi ad aliud, Unde quod est uni commodum, alii est incommodum. Quicquid autem alicui est incommodum, ideo est incommodum quia nocet, et ideo nocet quia aliquo bono privat, ut supra deducebatur ex sententia Augustini De moribus Manichaeorum. 第二の異論に対してはこう言わなくてはならない。苦痛や悲しみ、さらに はほかの任意の実体、つまり不都合や不快などと言われ、それゆえに悪し きこととされるものは、第二の意味において悪意もしくは悪しきことなの ではなく、第一の意味、つまり、それ自体悪しきことであるなんらかの善 の欠如にもとづく、名指し的な意味での悪しきことなのだ。そしてこのこ とは明らかである。なぜなら、 他への関係において以外、なんら快・不 快とは言われないからだ。ゆえに、ある者にとっての快は、ほかの者に とっての不快だったりする。しかしながら、先にアウグスティヌスの『マ ニ教の風習について』の文章から導かれたように、任意の者にとって不快 であるものはみな、それが害をなすがゆえに不快なのであり、それが害を なすのはなんらかの善を奪うからなのである。 Cum arguitur contra hoc primo, 'quia ubi nulla omnino boni privatio sequeretur, adhuc dolor et tristitia essent secundum se quaedam mala habentis, et per ipsa esset illi male', nego; quinimmo dico quod, si nullo suo bono per illa privaretur, non minus bene ei esset cum illis quam sine illis. Quod patet, quia nequaquam sibi illa nocerent. Ideo vero est illi male, quia nocent, privando scilicet eum aliquo suo bono saltem delectatione illa naturaliter animam consequente aut aliquo gradu eius qua in se quiescit et delectatur, dum nihil sentit adversi. Et haec est illa delectatio ex qua provenit, ut naturaliter quis etiam inexperta devitet adversa secundum sententiam Augustini Super Genesim ad litteram capitulo 25 de parvis. この一つめに対する異論は次のようなものである。「善の欠如がまったく 導かれない場合でも、苦痛や悲しみはそれ自体になんらかの悪をもってい るものであろうし、ゆえにそれ自体で悪しきものである」。私はそれを否 定しよう。それどころかこうも述べよう。苦痛や悲しみによっていかなる 善も奪われないのならば、それがあってもなくても善さが減じることはな いであろう。そのことは明白である。なぜなら、それが害を及ぼすことは まったくないからだ。ゆえに、実際に悪しきものであるのは、害をなすか らでなのである。つまり、いずれにしても魂が自然に従う喜び、あるいは 敵対するものをなんら感じない限りおのずと安らぎ喜ぶ、なんらかの水準 を欠いているからなのだ。そしてその喜びがあればこそ、同じくアウグス ティヌスの『創世記逐語註解』の小見出し二五章の文章にあるように、そ れは未知の不運を自然に避けるようになるのである。 Et si dicatur contra hoc, quia multa patiuntur dolorem et tristitiam quae non delectantur sic in se ipsis, utpote animalia irrationabilia - talium enim animae non sunt cognitivae sui ac per hoc nec in se ipsis seu de se ipsis possunt delectari - dicendum quod assumptum, videlicet quod non cognoscant se, falsum est et expresse contra determinationem Augustini ibidem Super Genesim, ubi evidenter ostendit oppositum, et similiter 2 De libero arbitrio capitulo 8, sicut patere potest volenti intueri loca praedicta. Ad confirmationem, cum dicitur quod 'poena inquantum poena est malum', si accipiatur malum contracte ad secundum modum tantum, propositio est falsa. Si vero accipiatur communiter ad primum et secundum modum, esto quod esset vera, et similiter minor sumpta sub ea, non concluditur contra propositum, quia non sequitur: Quaelibet poena est malum, igitur quaelibet est malum secundo modo accipiendo malum. これに対してこう反論されるとしよう。「不合理な生き物であるからに は、それ自体として喜びを感じない多くのことが、苦しみや悲しみとして 受け止められる−−それらはみずからを識りえない魂であり、ゆえにおの れの内にあるもの、あるいはおのれ自身について喜びを感じることができ ない」。この想定、つまりみずからを認識しないという想定は誤りであ り、アウグスティヌスが同じ『創世記逐語註解』で断定していることに明 確に反していると言わなくてはならない。アウグスティヌスはそこで、明 らかに反対の見解を示し、また『自由意志論』第二巻八章でも同様に、上 に挙げた箇所を参照しようとすれば明らかになろうと述べている。 確言にはこう述べよう。「苦痛としての苦痛は悪しきものである」と言わ れるとき、そこでの「悪しきもの」を第二の意味に限定して解するなら ば、この命題は偽となる。それを第一の意味と第二の意味とに共通するも のとして解するならば、これは真となるだろうし、同様に、異論のもとに ある小前提も、命題に反する結論を導かない。なぜなら、そこからは「い かなる苦痛も悪しきものである、したがっていかなる苦痛も第二の意味で の悪しきものになる」は導かれないからだ。 # # # 復習になりますが、グレゴリウスは「悪」には二つの意味があるとし、一 つは形容詞的に使われる「悪」(「悪しき人」など)で、これは形容する 名辞が表す実体について、なんらかの欠如を意味しているのでした。もう 一つは、「悪」がそのまま名詞として使われる場合で、悪徳を意味すると されますが、その悪徳(原理としての悪)もまた、徳の欠如(それ自体は 端的な悪と言われます)が根底にあるというのがグレゴリウスの議論なの でした。上の異論では、その端的な悪を実体であると論じているのです が、グレゴリウスはそうではないと反論しているのですね。 異論が依拠しているアンセルムスの書は、これまたPDFをダウンロードで きます(http://www.documentacatholicaomnia.eu/04z/ z_1033-1109__Anselmus_Cantuariensis__Liber_De_Conceptu_Virgi nali_Et_Originali_Peccato__MLT.pdf.html)。その第五章というのは、 「罪もしくは不正であるところの悪は、無であるということ」という表題 がついています。そこでは、あらゆる存在は神に由来する以上、いかなる ものも不正ではないとして、目が見えないことが例として挙げられていま す。視力の欠如はそれ自体では木に視力がないのと大して違いませんが、 たとえば嵐に遭った船を操舵手が放棄したりすれば船が危険に晒されるよ うに、欠如が不正につながる場合があります。なんらかの欠如が様々な欲 を喚起するなどして魂を危険に晒すこと、それが悪しきこと、すなわち不 正なのだと説いています。 ただし慣例的に、意志を伴い現実化した不正を、なんらかの存在として不 正と称することもある、と同書は述べています。異論で引かれている一文 は、そうした文脈で言われているものですが、全体の主眼は、不正とはし かるべき正義の欠如であり、不正には実体としての存在はなく、かくして それは無であるという議論にあります。そんなわけで異論はやや強引に都 合よく解釈しているきらいがあり、グレゴリウスはそれを正しているよう に見えます。苦痛や悲しみもまた、端的な悪(徳の欠如)ではないとし、 あくまでなんらかの欠如にもとづく悪しきものなのだというわけです。 「苦痛としての苦痛は悪しきもの」という確言も、二つの意味に共通する もの、すなわち「欠如」に着目すれば(欠如としての苦痛、あるいは苦痛 としての欠如というふうに置き換えてみれば)、命題として真になりま す。 * * * さて、参考文献の読み進めのほうは、今回からまた別のテーマで迫ってみ たいと思います。リミニのグレゴリウスという人物は、一つにはこれまで 取り上げてきた複合的意味対象の議論で知られていますが、もう一つ、連 続性・無限性についての議論でも有名です。というか、従来はこの後者の ほうが前面に出ていたようなのです。グレゴリウスが示したのは一種の数 学的テーゼで、「連続体は現実に無限の部分から成る」というものでし た。これだけを聞くとなんだかよくわかりませんが(笑)、これがどうい う問題で、なぜグレゴリウスはそういう立場を取ったのかを、リチャー ド・クロスの論考で見ていきたいと思います。「無限、連続、複合:リミ ニのグレゴリウスの寄与」(Richard Cross, Infinity, Continuity, and Composition: The Contribution of Gregory of Rimini in 'Medieval Philosophy and Theology', vol.7, 1998)という論文です。 アリストテレスは連続体を、潜在的に無限であるような、分割可能な部分 から成ると考えていました。一四世紀頃になると、数学的な点や線などの 用語を含んだ命題の真偽問題をめぐる議論が巻き起こり、それらを不可分 な実体と考える人々や、唯名論的立場からそれらを否定し、真偽の議論に は不要であるとする人々などが登場してきます。たとえば当時のハーク レーのヘンリー(一四世紀初頭のイングランドの哲学者)などは、連続体 は無限に多くの不可分な点から成ると考えていました。彼は、それぞれの 点は少なくとも別の1点、多い場合には2点と隣接していなくてはならな いとしました。アリストテレスに準拠するなら、点は互いに隣接できない とされていることから、ヘンリーの立場は受け入れられないことになりま す。グレゴリウスはどうやら、ヘンリー説には反対しつつ、アリストテレ ス説との調停を図ろうとしたようなのです。 ここにも神学が絡んできます。不可分論に対する当時の一般的な反論は次 のようなものでした。線が少なくとも二つの点から成るとすると、全能の 神はその二つの点の中間点をも目にすることができなくてはなりません。 でもそうすると、始点と中間点でも線が成立します。さらにその線の任意 の点も中間点とすることができ、さらに始点とその中間点でも線が成立 し……こうして無限後退に陥ります。そうでないとするならば、神には見 えない点(中間点)が存在することになってしまいます。よってそもそも 線が点から成っているのはおかしい、というわけなのですが、これに対し ヘンリーは、神は二つの点を「中間点を伴わないもの」として認識するの だと論じ、また、そもそも線は点を含んでいるではないか、と反論しま す。 これに対して、グレゴリウスは異なったスタンスからの議論を展開しま す。不可分であるものの外延はゼロである(外延をもたない)との理解に 立ち、そもそも大きさが不可分な点から成るという議論を否定します。仮 に大きさが不可分な点から成るのであれば、それは有限ないし無限の多数 の点から成ることになるわけですが、有限であるとするなら、アリストテ レスの伝統の見地からして数学的にも自然学的にも不具合が生じてしまい ます(細かい議論は省略)。無限であるとするならば、確かに大きさは成 立することになるでしょうが、その大きさの外延は無限になってしまいま す。そんなわけでどちらも問題が生じ、結局はもとの仮定が正しくないの だとして斥けられます。 グレゴリウスは多くの唯名論者と同様に、点のように不可分であるものの 存在を認めていません。そこから、線が点から成るということも否定しま す。まずは自然学的に(不可分なものの想定はアリストテレスの運動理論 にことごとく反します)、次いで数学的に(大きさの境界を点が構成する と考えることは、大きさの定義にも反するし、そもそも不要でもある、と されます)。数学的議論と自然学的議論を区別して考えることは、グレゴ リウスにおいてことのほか重視されているようです。 ……と、ここまでまとめても、まだ連続体についての議論は序の口です。 というわけで、次回も引き続きこのリチャード・クロスの論考を眺めてい くことにします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月23日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------