〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.237 2013/04/06 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その11) アルクインが宮廷学校などで「復活」させた自由七科ですが、その後はど ういう変遷を辿るのでしょうか。デイヴィド・ワグナー編の、その名もズ バリ『中世の自由七科』("The Seven Liberal Arts in the Middle Ages", ed. David L. Wagner, Indiana University Press, 1983)という 論集がありますが、その序文を兼ねたワグナーの論考「自由七科と古典期 の学術」によると、シャルルマーニュの死後、その中央集権体制が崩壊し てしまった後も知的活動の再生は長く続き、その中で自由七科は引き続き 重要な役割を担っていくようです。とはいえ、そこで重視されたのは文法 なのでした。修辞学や論理学すら初歩的なものにとどまり、アルクインが 対話形式で記した初歩的な文献が長く重宝されていきます。数を扱う四科 にいたっては完全に無視されるようになってしまいます。これが九世紀の 状況だといいます。 当時は、それ以前の百科全書類への注解がもっぱらの学問的営為だったよ うです。中でも重要なのは、マルティアヌス・カペラの『メルクルスと フィロロギアの結婚』への注解で、当時最も独創性のある哲学者とされた ヨハネス・スコトゥス・エリウゲナなども注解書を著しています。とはい えエリウゲナはなによりもまず文法学者だったとワグナーは指摘していま す。 もともとR.W.サザーン(著名な中世史家です)が述べていたことのよう ですが、続く一〇世紀になると、三学科のうちの支配的な学問が、文法か ら論理学へとシフトするといいます。そのきっかけとなる重要な出来事と して、ワグナーはゲルベルトゥス(後の教皇シルヴェストル二世)がラン ス(フランス北東部の町)にやって来たことを挙げています。後にそのラ ンスで大司教に就任することになるゲルベルトゥスですが、彼は当時の最 も傑出した学者とされ、後の一二世紀ルネサンスの礎を築き、ギリシアの 学問の再発見をも導いた人物とされます。ゲルベルトゥスはとりわけ算術 や天文学を重視していました。ボエティウスの再発見はもちろんのこと、 アラブの学問(とそのもとになるギリシアの学問)を先駆的に取り込んで もいました。 ゲルベルトゥスは実際にランスで教会学校の教師を務めていました。三科 の主軸が論理学へと移ったのも、ゲルベルトゥスがボエティウスの論理学 に力点を置くようになったからです。ゲルベルトゥスはカリキュラムの改 革も行ったようです。彼のもとで学んだ多くの子弟たちは、やがて各地に 散って聖堂付属学校の設立に貢献したりしています。そのうちの一つで、 一二世紀に最も有名な聖堂付属学校となったのはシャルトルの学校でし た。シャルトルでは自由学科が、中世の歴史を通じて最も高く評価される ことになります(このあたりの話はまた後で取り上げましょう)。 ゲルベルトゥスはギリシアの学問の再興にも一役買っています。それが本 格化するのは、高度な学知への熱望が高まる一二世紀ルネサンスを待たな くてはならないのですが、その重要な流れの先鞭をつけた一人がゲルベル トゥスでした。よく知られているように、ギリシアの学問はいったんはア ラビア語に訳されて温存されていました。一〇世紀初めごろから、そうし たアラビア語文献のいくつかがラテン語に訳されて流入するようになりま す。トレドとシチリアが翻訳の要衝をなしていたことが知られています ね。それらの影響で、徐々に西欧の学問も変わっていきます。 ゲルベルトゥスの生涯の歩みについてまとめている、ジャスティン・デリ ンジャー「ゲルベルトゥス−−一〇世紀西欧における真のプトレマイオス とアル・ハカム二世」(Justin T. Dellinger, 'Gerbert - The Veritable Ptolemy and Al-Hakam II of Tenth-Century Western Europe', 2011)(http://www.uta.edu/studentorgs/pat/Barksdale/ Dellinger_Gerbert_Barksdale.pdf)という論考によれば、ゲルベル トゥスはそれまで標準的だったローマ式の記数法に代わりアラビア式記数 法を取り込んでいたといいます。算術の授業においてはアバクス(算盤) を用いていました。これがアラビア式記数法に依るもので、ラテン世界で は事実上初のアラビア数字の使用だったようです。ゲルベルトゥスは、ア バクスを用いることで複雑な計算を素早くこなせたと言われています。一 方で幾何学に関してはイスラム系の著者よりもボエティウスを重んじ、さ らに全体としてキケロの著作を高く評価していたと言われます。いずれに してもイスラム系の学知と古典との結合は、当時の西欧世界においてはき わめて斬新だったようです。 ゲルベルトゥスは教育の現場でアストラーベや天球儀(アーミラリー天球 儀)なども用いていたといい、周りはそれを羨望や恐れなど様々な感情を 抱きつつ受け止めていただろうといいます。このように、ゲルベルトゥス は記数法のほかにもイスラム起源の様々なアイデアをいち早く取り入れよ うとしてたようで、それらが後に西欧の学問、とりわけ数学などを刷新す ることにもなっていくのですね。カリキュラムの改革そのものはゲルベル トゥスの死後、それほど長くは続かなかったようなのですが、それでもそ の後世への影響は大きく、その刷新された自由七科は弟子たちを通じて受 け継がれていったようです。もちろん時代が下っていくと、そうした学科 を取り巻く環境も変化していきます。そのあたりも少し見ていかなくては なりません。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ リミニのグレゴリウス(その15) 今回は第五の異論に対する反論部分です。第五の異論というのは次のよう なものです。「欠如が悪であるという結論は偽である。一つには、神が創 造したとき、そこには多くの欠如(「地は空虚であった」)があったにも かかわらず、それは悪ではなかったではないか。もう一つには、アダムが 罪を犯す前、アダムは徳や完全性を軽んじ、しかるべき善を欠いていたと しても、それが悪であるわけではなかったではないか」。これに対するリ ミニのグレゴリウスの反論を、さっそく見ていきましょう。 # # # Ad quintum dicendum quod, cum dicitur malum esse privationem boni debiti, intelligendum est: quando debet inesse et sicut debet. Et sic accipiendo consequens concedo ipsum. Ad id quo primo probatur esse falsum - supposito quod terra prius tempore fuerit inanis et incomposita, et non tantum prius natura vel causa, quia tunc argumentum non haberet locum - dico quod tales privationes non erant privationes alicuius boni pro tunc debiti inesse, et per consequens non erant aliqua mala. Unde sicut secundum Hugonem De sacramentis libro 1 parte 6 capitulo 25 ac etiam Magistrum libro 2 distinctione 20, si Adam ante peccatum filios genuisset, illi nati fuissent parvuli corpore necdum valentes loqui vel ambulare, sine etiam scientia et cognitione veritatis, et per consequens cum carentia multorum bonorum quae postmodum per aetatis accessum fuissent adepti, et tamen tales carentiae bonorum non fuissent in eis vitia aut mala ulla, ideo quia illa bona non erant debita eis pro tunc, sic dico quod illae privatioines circa terram non erant mala aliqua, quia bona opposita non erant debita inesse pro tunc. 第五の異論についてはこう述べなくてはならない。悪とはしかるべき善の 欠如であると言われるとき、理解すべきは、それは(善が)本来備わって る場合の話であり、また備わっているがごとくの話だということだ。その ように解されるのであれば、私は結論そのものは認めよう。 第一に偽であると立証されることーー時間以前の大地は空虚で、秩序立っ てもいなかったが、自然や原因よりも以前なのではなかった、なぜなら、 そうであるとすると議論が成り立つ場がないからだ、という仮定ーーに対 しては、そのような欠如は、その時点より前にしかるべく備わっていたな んらかの善の欠如ではなく、したがってなんらかの悪ではなかったと述べ よう。ゆえにフーゴーの『秘跡について』第一巻六部二五章、および師 (ロンバルドゥス)の第二巻二〇部による、次のような解釈が成り立つ。 堕罪以前のアダムが息子たちをもうけていたなら、彼らはごくわずかな肉 体をもって生まれていたろうし、学知や真理の認識をもたぬまま言葉を重 ねたり彷徨ったりすることもなかったろう。またその結果、後に齢を重ね ることで手に入るようになったであろう多くの善を欠いただろう。しかし ながら、そうした善の欠如が彼らにおいてなんらかの欠陥ないしは悪をな していたわけではなかろう。その時点より以前に、それらの善が彼らに とってのしかるべきものとなっていたわけではなかったのだから。ゆえに 私は地上における彼らの欠如はなんら悪ではないと述べよう。なぜなら対 となるしかるべき善がその時点以前には備わっていなかったのだから。 Ad secundum probationem falsitatis illius consequentis dico quod illo casu dato in Adam fuisset aliquod malum, non tamen culpae nec poenae proprie loquendo de poena secundum quod poena dicitur a 'pendo pendis' et inde dicitur 'punio'. Unde qui poenam infert, punir dicitur. Et quamvis de facto et secundum ordinationem divinam 'omne malum sit peccatum vel poena peccati' actualis scilicet vel orginalis, ut dicit Augustinus, non est tamen impossibile esse aliquod malum quod nec peccatum sit nec poena peccati; nec oppositum dicit Augustinus. Ita esset in casu dato. 結論における二つめの偽りの立証に対しては次のように言おう。アダムの 堕罪は悪しきことであったろうが、それは罪や罰の悪ではない。罰につい て厳密に言うなら、罰とは本来「私は評価する、あなたは評価する」とい う意味であり、そこから「私は処罰する」という意味がもたらされる。こ うして罰を被る者は、罰せられると言われるのである。たとえアウグス ティヌスが言うように、事実として、または神の秩序にもとづき、「すべ ての悪は罪または罪の罰である」(実際の罪の、あるいは原罪の)とされ るにせよ、罪でも罰でもないようななんらかの悪がありえないとはいえな い。アウグスティヌスもそれに反することを述べてはいない。それは堕罪 においても同様である。 # # # 今回の箇所は創造と堕罪について触れています。異論を挙げている箇所で も、実はアウグスティヌスなどが引き合いに出されています。ですから、 この反論部分においても教会的権威の引用・言及は必須なのでしょう。 フーゴーというのはサン=ヴィクトルのフーゴーのことです。『秘蹟につ いて(De Sacramentis Christianae Fidei)』の第一巻六部二五章は、 原罪が死と出生を通じて子孫にまで継承されていくことを説いている箇所 です(http://www.documentacatholicaomnia.eu/04z/ z_1096-1141__Hugo_De_S_Victore__De_Sacramentis_Christianae_ Fidei__MLT.pdf.html)。またその次の「師」は、底本の独訳注による と、ペトルス・ロンバルドゥスのことです。言及されている書のは『命題 集』です(この議論については諸事情により未確認です)。 * * * さて、参考文献の読み進めでは、引き続き連続体についての議論を見てい きたいと思います。前回まで見たクロスの論文は、その筋では高く評価さ れてきたようですが、今回はこれを補佐するという形で書かれたマーク・ タッカー『無限・連続・量化:一四世紀の頂点に立つリミニのグレゴリウ ス』(Mark Thakkar, 'Infinity, Continuity and Quantification: Gregory of Rimini on the Crest of the Fourteenth Century', 2004)を見ておきましょう。PDFがオンライン公開されています (http://users.ox.ac.uk/~ball2227/files/continuity.pdf)。そこでは まず、連続体が不可分のものから成っているという説をグレゴリウスが斥 けたその議論の中身について再考しています。 グレゴリウスの時代の不可分論はやや錯綜ぎみながら、基本的に二つに大 別されるようです。つまりその不可分なものを、点のような外延(拡が り)をもたないものと考えるか、それとも外延をもちながらそれ以上には 分割できないものと考えるかです。さらに一定の大きさにどれだけの不可 分なものがあるかによって、それぞれの議論が有限・無限の二つに分かれ るので、結果的に四つの組み合わせができます。大きさは(1)点のよう な有限個の不可分なものから成る、(2)外延をもった有限個の不可分な ものから成る、(3)点のような無限個の不可分なものから成る、(4) 外延をもった無限個の不可分なものから成る、の四つです。(1)はウォ ルター・チャットンの立場、(2)はニコラ・ボネやオートレクールのニ コラなどの立場、(3)はヘンリー・ハークレイの立場、(4)は該当者 なしとされています。 で、グレゴリウスが反論を掲げている当の相手は、本来なら当時の不可分 論の主流だった(3)であるはずなのですが、論文著者によると、むしろ (混乱的に?)(4)に対しての反論が前面に出ているといいます。例と して隣接問題が取り上げられています。隣接する二つの不可分なものが完 全に一致しないなら、それぞれはさらに分割できることになり、不可分で あるという前提と矛盾します。二つが一致するのであれば、今度は一つの 場所を二つが同時に占めることになり、その場合、(アリストテレス流 に)不可分なものは外延をもたないことになります。さもないと二つが同 一の場所を占めることは適わなくなるからです。ここで、不可分なものが 外延をもつという前提があれば、そこから翻って、そもそもの「不可分な もの」の仮定が間違っていることになります。無限に分割できるなら、隣 接する部分は外延をもちつつオーバーラップすることができるというわけ です。 グレゴリウスの議論は不可分のものを否定する立場になるわけですが、こ の場合、不可分のものが有限が無限かは問題になっていません。重要なの は外延の捉え方です。アリストテレスの場合には、無限個の不可分なもの がもつ外延は、単一の不可分なものと同じとされます(外延はゼロだとさ れるので)。仮にこれを無視してしまうなら、「外延をもった無限の不可 分なもの」に論駁するには、単に「不可分なものの外延はゼロではないの だから、それらが無限個あれば外延も無限になる」(よって不可分なもの が仮定される必要はない)という言い方をするだけで事足ります。ですが 論文著者によれば、グレゴリウスはアリストテレスの考え方との和解を果 たすべく腐心するため、やや複雑な議論を展開しているというのです。 グレゴリウスは、無限個の不可分なものを、任意の数の不可分なものから 成るグループに分割することを考えます。するとそうしたグループも無限 にできることになります。ここで、隣接するグループ同士について再び上 の議論が適用されます。アリストテレスに従って隣接する同士が一致する と考えるなら、グループ同士の外延、そこに含まれる不可分なもの同士の 外延は一致しなければなりませんが、これは問題ありません。グレゴリウ スの前提では外延は累積されうるからです。アリストテレスの外延ゼロの 議論と、グレゴリウスが言う外延の累積の議論が、ここにおいてある種の 調和(ちょっと無理矢理な感じもしますが)を見せることになりま す……。ですが、このグループ分けの考え方を導入する結果、不可分なも のも、無限に分割可能なものも、なにやら結局導く先は同じになるように も見えてしまいます。論文著者が言うように、むしろ不可分なものをリ ジェクトする理由がなくなってしまうのでは、と……。うーん、なかなか に複雑ですね。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月20日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------