〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.241 2013/06/08 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その15) 前回見たように、ペトルス・ダミアニは自由学芸を無用としつつも、みず からは修辞学・弁論術に秀でていたのでした。これはつまり、表面的には 異教的なものと斥けながらも、そうした学知は基本的教養として一般化し ていたことが窺える、ということでした。今回はその弁論術についてさら に見ておきましょう。同じくワーグナー編『中世の自由七科』から、今度 はマーティン・カマルゴによる弁論術の章を取り上げます。弁論術では、 やはりキケロの存在は大きく、その『構想について(De inventione)』 は標準的なテキストとして、その後一〇〇〇年に及ぶ息の長い評価を受け ます。これは後に「旧弁論術」というふうに言われるようになります。 一方でそれを補うテキストとして、『ヘレンニウス宛て弁論術 (Rhetorica ad Herenium)』があるのですが、これは前者に比べると 中世初期にはあまり高い評価を得てはいなかったようです。九世紀くらい までは上の旧弁論術が揺るぎない権威をなしていました。その後は状況が 変わっていき、一一世紀の半ばごろからは「新弁論術」が旧来の権威に挑 むようになります。つまり、それまでは伝統的技法が中心だった弁論術に 対して、よりソフィスト的・顕示的・スタイリッシュな論法が台頭してく るというわけです。『ヘレンニウス宛て弁論術』はそうした新弁論術の下 支えの一つとなっています。 とはいえ、たとえばアリストテレスの『弁論術』のような、単に技術的な セットではなく真偽問題や倫理学との関連で弁論術・修辞学を考えるよう なものは、ほとんど影響をもたなかったといいます。アリストテレスの同 著作は、一三世紀になってようやくメルベケによるラテン語訳で紹介さ れ、それ以前は事実上知られていなかったからです。 一方で、クィンティリアヌスの『弁論教程』はもう少し知られていたよう です。同書は九世紀ごろに本文の全体は手に入らなくなったらしいのです が、抜粋が「選集(florilegia)」の形で編まれ、そちらは大量に流通し ていたといいます。一二世紀のソールズベリーのジョンなどがそれを高く 評価しているのですね。また、フランスの聖堂付属学校などでも重宝がら れていました。クィンテリアヌスはその後の一三世紀以降になるとあまり 顧みられなくなるのですが、一五世紀に同書の全文が復元されて再び脚光 を浴びます。この浮き沈みは、弁論術そのものの浮き沈みとパラレルで す。 総じて弁論術(旧弁論術)は、古代においても帝政末期ごろから実生活や 政治活動との乖離が進み、学芸としての重みを失って形骸化していったと されます。自由七科のうちで言葉を扱う三科の中にあって、かつては花形 でもあった弁論術ですが、古代末期には徐々に文法や論理学に押されてい きます。中世にいたってもその流れは引き継がれていて、とりわけ論理学 の評価が高まることにより旧弁論術は後退していき、一一世紀半ばには表 面上は下火となってしまいます。 弁論術と論理学はどこかしら似通っています。前にも見ましたが、キケロ に代表される伝統では、三科はある種渾然一体となっている印象を強く受 けます。中世になると、とりわけボエティウスの『様々なトピカについ て』などが流布し、三科の分離が明確になっていきます。ボエティウスの 同書は弁論術と論理学をきっちり分けた上で、両者の関係性を次のように 論じているのですね。すなわち、弁論術がおもに仮定を扱い、具体的な状 況に結びついているのに対して、論理学は一般的議論を扱い、したがって 具体的状況に必ずしも結びついていない、というわけです。前者がスキル 的、後者が理論的と言ってもよいかもしれません。 ですが、旧弁論術には単に後退したとも言い切れない側面があるようで す。キケロの『構想について』などでは、弁論術は単なるスキルではな く、政治に結びついた一つの学知であるとされていたのでした。この「学 知としての弁論術」という考え方自体は、カッシオドルスやマルティアヌ ス・カペラを経て、アルクインやラバヌス・マウルス(九世紀)、ホノリ ウス・アウグストドゥネンシス(一二世紀)、ブルネット・ラティーニ (一三世紀)などにも受け継がれていくのですね。これもまたキケロの伝 統の一部であり、そちらはたとえ新弁論術や論理学が台頭しても、それな りに命脈を保っていくようなのです。そうした背景について、著者は、弁 論術が重要視されていたころのローマの学校で教育を受けた初期教父の 「ものの見方」が、伝統として息づいていた点が大きいのではないかと指 摘しています。とりわけイタリアでそうした伝統が根強かったとされ、一 一世紀から一四世紀ごろのコムーネにおいて、再び実利的な有用性を認め られていったのだとか。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その2) さて、今回から本格的にジョン・ブランドの霊魂論を見ていくことにしま す。まずは重要箇所として、実体としての魂が一つなのか複数なのかとい う問題の部分からです。さっそく見てみましょう。 # # # IV. Utrum anima vegetabilis, sensibilis et rationalis sint eadem anima Sequitur videre utrum anima vegetabilis, et sensibilis, et rationalis sint in homine eadem anima an diversae. 35. Quod sint eadem anima sic ostenditur. Hoc ipsum 'animatum' praedicatur univoce de corpore animato, et de animali, et de homine. Sed dicitur esse animatum ab anima. Ergo sicut 'animatum' secundum eandem intentionem nominis de unoquoque eorum praedicatur, ita hoc ipsum 'anima' secundum unam et eandem intentionem unicuique convenit, et ita eadem est anima corporis animati, et animalis, et hominis. 四.植物的魂、感覚的魂、理性的魂は同じ魂か 次に、植物的(生長的)魂、感覚的魂、理性的魂が人間において同じ魂な のか異なる魂なのかを考察する。 35. 同じ魂だという議論は次のように論証される。この「生きているも の」という語は、一義的に生きものの、さらには動物の、そして人間の範 疇をなす(賓述する)。だが生きているものの存在は魂に由来すると言わ れる。それゆえ、名辞の意味の範囲において、「生きているもの」がそれ に含まれる任意のものの範疇をなすのと同様、「魂」という語も、その単 一の意味の範囲において、そこに含まれる任意のものに適合する。かくし て生きものの魂、動物の魂、人間の魂は同じ魂だということになる。 36. Item. Hoc ipsum 'substantia' univoce praedicatur de corpore, et corpore animato, et de unoquoque suorum inferiorum; et hoc ipsum 'substatia' per adictionem differentiae in descendendo gradatim plus et plus specificatur, ut hoc ipsum 'corporeum' additur substantiae, et postea 'animatum' et tertio superadditur sensibile, et sic deinceps. Simili modo hoc ipsum 'anima' per adictionem quod est 'vegetabile' trahitur ad speciem, et postea superadditur hoc ipsum 'sensibile' et tertio 'rationale'. Qua ratione ergo substantia est genus ad ea quae specificantur per differentias in descendendo appositas, et anima genus erit ad ea quae specificantur per differentias in descendendo gradatim appositas. Sed non dicetur in aliqua specie substantiae quod in ea sint plures substantiae, immo una sola substantia specificata per differentias. Pari ratione dicendum est quod in homine non sunt tres animae, immo una sola anima specificata per differentias tres, ut per 'vegetabile', 'sensibile', 'rationale'; et ita anima vegetabilis, sensibilis, rationalis non sunt, tres animae in homine, immo una sola anima. 36. 同様に、「実体」という語も一義的には、物体、生きもの、およびそ の下位分類に属する任意のものの範疇をなす。その「実体」は、差異の付 加によって、階層を下るにつれてより個別化する。実体に「物体的」とい う概念が加わり、次いで「生きている」という概念が加わり、さらに三番 目として感覚的という概念が追加され、さらに続いていく。同様に、 「魂」という語にも「植物的」という概念が付加することによって種へと 導かれる。さらに「感覚的」が加わり、三番目として「理性的な」が付加 される。考え方として、このように実体は類であり、それが階層を下るに つれて差異を付加されて個別化される。魂もまた類であり、階層を下るに つれて差異を付加されて個別化される。だが、実体の任意の種において、 そこに複数の実体があるとは言われないのであり、差異によって個別化す るのはただ一つの実体でしかない。同様の考え方から、人間においても三 つの魂があるのではなく、「植物的」「感覚的」「理性的」という三つの 差異によって個別化するただ一つの魂があるだけだ、と言われなくてはな らない。このように、植物的魂、感覚的魂、理性的魂は、人間における三 つの魂ではなく、ただ一つの魂なのである。 37. Praeterea. Si sint diversae animae, contingit hominem habere tres animas in effectu, quod est contra Avicennam, qui dicit quod ab anima rationali est in homine vegetatio, senbibilitas, rationalis. 37. 加えて、もし複数の魂があるのなら、人間が実際に三つの魂をもつこ とにもなるだろうが、それはアヴィセンナの説に反する。彼は、人間にお ける生長、感覚、理性は、理性的魂に由来すると述べている。 # # # ブランドの記述法も伝統に則り、まずは相反する議論を紹介し、その上で 自説を展開する形になります。今回の箇所は、まず魂の三態は同じ単一の 魂であるという議論を取り上げた箇所です。この後、魂は複数に分かれる という議論がアンチテーゼとして取り上げられ、その後でジンテーゼよろ しく自説が展開します。 今回のこの箇所では、おおもとの「類」に様々な差異の概念(種差)が付 加されて「種」へと分化されていくという図式を、実体や魂にも当てはめ ています。魂が「類」、それに植物的・感覚的・理性的といった差異(種 差)が付加されて「種」としての植物的魂、感覚的魂、理性的魂が導かれ る、という議論ですね。確かにもとのアリストテレスの論理学的な議論に おいては、自然界の事物は類から種へ分化し、その種がまた下位の類とし てさらに下位の種に分かれて行く……という構造になっているのでした。 ここではそうした分類法が実体にも、魂そのものにも適用されています。 人間において魂は身体にとっての形相であるとされ、魂はすでにして「理 性的魂」として種をなしていることになりますから、魂は種的形相だとい うことになります。 ですが一方では、魂とは第一の実体であり、それが質料としての肉体と結 びついて複合的な存在として人間を形作る、という形而上学的な議論もあ ります。分類・定義の説明原理である類や種の概念と、形而上学が扱うそ うした実体論との間には、もとのアリストテレス以来、微妙なズレがある ように思えるのですが、上のブランドのテキストではそのあたりをさほど 感じさせません。少なくともここでは質料・形相の話を出さず、「実体」 をあくまで分類・定義論の枠内で扱っているからでしょう。 余談ですが、アリストテレスの場合についてそのあたりのズレの話を論じ たものとして、たとえば岩村岳彦「アリストテレスにおける<種的形相>< 魂としての形相>」(哲学会誌 23、1999、学習院大学)があります (http://glim-re.glim.gakushuin.ac.jp/bitstream/10959/885/1/ tetsugakukaishi_23_1_20.pdf)。アリストテレスは類を「説明におけ る質料」に相当するものと位置づけ、定義とは「類を規定する種差によっ て事物の形相を説明するもの」としています。で、この種概念の説明は形 而上学が対象とする実体の説明とも重ねられています。無機物の定義なら それで問題はありません。ですが生物を扱う段になると、これは問題含み になってしまいます。つまり、たとえば人間の場合、定義されるべき当の ものが、質料(肉体)と形相(魂)から成る複合的な実体なのか、それと も人間の本質とされる種的形相なのかが曖昧になってしまうのです。 同論文によれば、アリストテレスはその点を次のように捉えているのでは ないかといいます。つまり、人間を含む生命あるもののにおいて、その定 義の対象を種的形相とする場合、その生物を生きたものたらしめる「働 き」なしには定義できず、その働きの原因として魂が考察されることにな ります。一方、定義の対象を複合的な実体とする場合でも、感覚や運動を もった肉体の諸部分なしには定義できず、そうした機能を働かせるものと しての魂が、やはり考察されないわけにはいかなくなります。いずれの方 途においても魂が定義に絡んでこざるをえないという点で、この二つの次 元は相互に関連している可能性がある、というわけですね。 論文著者はさらに次のような解釈を示します。質料としての肉体がそもそ も類になる(類化する)には、すでにして生命をもった諸部分としての肉 体の在り方が記されなくてはならず、その場合、すでにして魂は種的形相 として捉えられなくてはなりません。ということは、複合的実体としての 人間の定義の中に、種的形相は矛盾なく組み込まれることができる、とい うことになります。こうして、魂は説明・概念としての形相であるという 捉え方(『デ・アニマ』にあるような)は問題なく成立するというわけで す。この解釈の当否については即断できる材料を持ち合わせていません が、とても興味深い解釈であることは間違いありません。 本文でも言及されているアヴィセンナについてはまた次回以降に見ていき たいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------