〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.244 2013/07/20 *お知らせ いつも本メルマガをご講読いただき、ありがとうございます。本メルマガ は原則隔週での発行ですが、例年通り、8月は夏休みをいただきます。そ のため次回の発行は8月24日の予定となります。どうぞよろしくお願いい たします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その18) 前回のところで、それまでと若干違う学科分類を示した人物としてグン ディサリヌスの名が挙がりました。今回はその分類についてもう少し見て いくことにします。グンディサリヌスは一二世紀のスペインの学者で、当 時のトレドの翻訳サークルで中心的な役割を演じたうちの一人です。キン ディ、ファーラービー、アヴィセンナといったアラブの著者の文献を二〇 冊あまり、スペイン語やラテン語に翻訳しているほか、自著としてもア ヴィセンナやアリストテレスにもとづく霊魂論、さらにはボエティウス、 イブン・ガビーロールについての小著などを残しています。 なかでも主著とされるのが『哲学の分類について』です。そこでは哲学は 広義に捉えられ、すべての学問を包摂するものとして捉えられています。 タイトルが示すように、その哲学を分類していくことによって諸学がその 下に位置づけらます。 この基本的なスタンスにも、伝統の裏付けがあります。ヘルダー社から出 ている同書の羅独対訳本(Dominicus Gundissalinus, Uber die Einteilung der Philosophie, Herder, 2007)のアレクサンダー・フィ ドラ&ドロテ・ヴェルナーの解説によれば、同書の冒頭に掲げられたグン ディサリヌスの「哲学」の定義には、ソースとしてイサーク・イスラエリ の思想が用いられているとされています。イサーク・イスラエリは九世紀 から一〇世紀のユダヤ哲学者で、ちょうどキンディーの同時代人です。思 想的にはユダヤ人としては初の新プラトン主義者で、賢慮の探求としての 哲学と、賢慮そのものとの区別を立てた人物といわれています。というわ けで、出発点には新プラトン主義が横たわっているのですね。 グンディサリヌスは哲学を、まずは理論的哲学と実践的哲学とに分けま す。さらに前者は自然学、数学、形而上学(神学)に分かれ、後者は人間 同士の意思伝達の学(文法、詩学、修辞学、世俗文書の読解)、家・家族 の学(経済学)、魂の誠実さの学(倫理学)に分かれるとされ、それぞれ にまた下位区分が設けられていきます。このような区分は、今度はアリス トテレスの分類に基づいています。上述の解説によるとこの分類は、もと もとあった「学知」と「学芸」の区分を独自に組み替えたものだといいま す。「学芸」と「学知」の区分にも長い歴史があります。以前見たイルス トロ・アドの研究にもありましたが、たとえばカッシオドルスなども、言 語を扱う三科を学芸(ars)に、数を扱う四科を学知(disciplina)に区 別していました。これは要するに、文献に依存するものと、それ以外の外 部世界に関わるものとの区別だったわけですが、自由七科の内部で設けら れていたその区別は、グンディサリヌスにいたり、より全体的な組み替え を施されることになるのでした。 解説によれば、グンディサリヌスの学問分類には基本的に四つの分類原理 が関係しています。まずは学問の対象物を中心とした目的別の分類、次に 方法論による手段別の分類、そして種別と部分別による区分です。このあ たりの具体的な分類方法は、基本的にアリストテレス=アヴィセンナがも とになっています。つまりグンディサリヌスの場合、大元には新プラトン 主義があり、その上でアリストテレスの伝統を取り上げ、新規受容のアリ ストテレス解釈を適用していることになりますね。いわば思想潮流が層の ように積み重ねられて、学問の分類・体系化が果たされているという感じ でしょうか。 直接的なソースとして、とりわけ重要とされているのがボエティウスで す。ここで言うボエティウスは、どうやらシャルトル学派を経由したボエ ティウスのようです。前にも一度出てきましたが、ボエティウスの『様々 なトピカについて』などは一二世紀に再び重要視されるようになります。 で、それを担ったのがいわゆるシャルトル学派でした。ボエティウスの 『三位一体論』の第二章には、理論的哲学を自然学、数学、神学に分ける という、アリストテレスにもとづく上の区分が示されていますが、そのあ たりについても、シャルトル学派のポワティエのギルベルトゥスなどがコ メントを残しています(理論的哲学の三学以外の扱いはグンディサリヌス とは異なっていて、とても曖昧に触れられているのみです)。 シャルトル学派の学僧たちはボエティウスの注釈書、さらにはキケロやプ リスキアヌスの注釈書なども著しており、基本的に三科を中心とした自由 学芸の復興を果たしたとされます。ですが、上のギルベルトゥスの場合の ように、ほかの学問の扱いはあまり明確ではなく、全体的な体系化がなさ れているわけでもないようです。そこでの学芸は、基本的に古典の注釈と いう文脈から外れることはありませんでした。グンディサリヌスはシャル トル学派の書を参照していたといいますが、学芸復興の動きに追従しつつ も、学問の体系化をさらに一歩進めることで(つまりは他の諸学をも含め て分類し整備することで)、学問教育を注釈書の文脈から解放することに 貢献したという次第です。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その5) 今度は理性的魂について扱った二二章を読んでいきましょう。ここでは 「理性的魂は物体的なものか非物体的なものか」という問題が検討されま す。例によってまずは両論並記があり、それに続いて自説が示されます。 今回はまず「理性的魂は非物体的である」という議論が提示される箇所で す。 # # # XXII. De anima rationali 296. Sequitur de anima rationali et de eius viribus. Primo autem loco quaerendum est utrum anima rationalis sit corporea vel incorporea. Quod sit incorporea sic ostenditur. Ab anima rationali habemus quod ratiocinamur et intelligimus. Si ergo anima rationalis sit corpus, a corpore habemus quod ratiocinamur et intelligimus. Sed hoc non est a natura corporis in quantum est corpus, quoniam secundum hoc omne corpus ratiocinaretur et intelligeret. Ergo quod ratiocinamur et intelligimus non debetur naturae corporis, ergo debetur alii, et illud, quicquid sit, est anima rationalis; ergo anima rationalis non est corpus, nec natura corporis. 二二章 理性的魂について 296. 次は理性的魂とその力についてである。まず最初に、理性的魂は物 体的か非物体的かが問われなくてはならない。非物体であるという議論は 次のように示される。私たちが思考し理解するのは、理性的魂によってで あるとされる。ここで、理性的魂が物体的であるとすると、私たちが思考 し理解するのは物体によってであるということになる。だが、これは(物 体が)物体である限りにおいて、物体の本性にはない。もしそうなら、す べての物体は思考し理解することになるからだ。したがって、私たちが思 考し理解するのは、物体の本性に負うのではなく、ほかのものに負ってい るのである。そしてそれは、いかなるものであれ理性的魂にほかならな い。したがって、理性的魂は物体ではなく、物体的本性を意味するのでも ない。 297. Item. Si anima rationalis est corpus. Sed omne corpus est animatum vel inanimatum. Ergo anima rationalis, si ipsa sit corpus, ipsum est animatum vel inanimatum. Si animatum, ergo habet animam, et illa anima iterum aliam animam, et sic in infinitum. Si inanimatum, hoc esse non potest, quia secundum hoc nunquam conferret vitam. 298. Praeterea. Aristoteles in libro De generatione et corruptione pro inconvenienti habet aliquod corpus esse non sensatum. Sed si anima esset corpus, aliquod corpus esset non sensatum; nulla enim anima sensu apprehenditur. Reliquitur ergo quod anima non est corpus. 299. Praeterea. Unumquodque corpus aliquibus formis sensibilibus afficitur, ut vel tangibilibus vel visibilibus, et sic de aliis. Sed anima nullis formis sensibilibus afficitur; ergo nulla anima est corpus. 297. 同じく、仮に理性的魂が物体だとしよう。ところですべての物体は 生命をもつかもたないかである。したがって理性的魂は、もしそれが物体 であるならば、それもまた生命をもつかもたないかである。生命をもつな ら、そこに魂があることになり、その魂もまた別の魂をもつことになり、 無限にまでいたってしまう。生命をもたないとするなら、それはありえな いことになる。なぜならその場合、命を担うものがなくなるからだ。 298. 加えて、アリストテレスは『生成消滅論』において、知覚されない 物体があることは不適切であると述べている。だが、もし魂が物体である なら、知覚されない物体があることになってしまう。というのも、いかな る魂も感覚では捉えられないからだ。したがって、魂は物体ではないとい うことになる。 299. 加えて、いかなる物体もなんらかの感覚的形状を与えられている。 それは触覚的だったり視覚的だったり、ほかの感覚によるものだったりす る。だが魂は、いかなる感覚的形状をも与えられてない。したがって、魂 は物体ではない。 # # # 非物体説はブランドのテキスト内のあちこちで言及されていますが、理性 的魂について一番まとまった記述はやはりこの章だと思われます。少し先 走りしておくと、ブランドが支持するのはもちろんこの「非物体説」で す。今回の箇所で取り上げられている議論は、理性的魂が物体だと仮定し た場合に生じる諸処の不具合を列挙するという形になっています。296節 は知解の問題からのアプローチ、297が生命論、298と299は知覚論の観 点からの議論ですね。 霊魂の非物体説は、中世盛期においてはいわばスタンダードな説になって いました。そうなると、逆にそれに対する物体説のほうが気になってきま す。というか、物体説が排除されて非物体説が定着したプロセス、あるい は背景といったものも、改めて検証しておきたい気がします。 とりあえずアヴィセンナの『魂について』第一部第二章から、古代の「物 体説」についておさらいしておきましょう。まずアナクサゴラスなどは、 魂は非物体の実体であると説いていたとされます。逆に魂を物体であると 説いた者もいたとされていますが、具体的に挙げられているのはデモクリ トス(とその師匠レウキッポス)ですね。デモクリトスは、魂は部分に分 割されない物体で、球形であると説いていました。さらに「呼吸は魂の糧 である」とし、魂の塵を呼吸が出し入れしているとも考えていたといいま す。塵が魂であるとというわけです。一方で、魂は火であり、火は永久に 運動するという考えもデモクリトスのものとされています。 認識論的な議論も取り上げられています。魂が対象を知覚するのは、その 対象に先行する原理であるからだという話を前提にすると、万物の原理は 元素であるとする論者の場合、魂はその原理、すなわち元素だということ になります。水(あるいは血)だとしたヒッポン、蒸気だとしたヘラクレ イトスなどが挙げられています。それとは別に、魂はみずからに類似した もののみを知覚するという議論もありますが、そちらも魂は物体だという 話に帰着します。たとえばエンペドクレスは、魂を四元素と愛と不和から 成る合成物と見なすのですね。このあたり、当然ながら出典はアリストテ レスの『魂について』です。 ほかにも、生命の問題に絡めて、魂は熱であるとか、逆に息から派生する ものなのだから冷(息は冷やすものとされる)である、といった議論、あ るいは体液の混合によるものだとする説なども取り上げられています。こ れらもアリストテレスから引かれています。アヴィセンナはその上で、こ れらに対する反論を加えていきます。ここでは煩雑になるので詳しいこと はいったん割愛しておきますが、アヴィセンナの反論は総じて諸説それぞ れの大元の考え方を攻撃している印象です。 では、われらがブランドはそのあたりをどう取り上げているでしょうか。 前回まで読んでみた章の一つ前の章で、ブランドは一問一答形式で魂につ いての古代からの諸説を検討しています。ブランドは諸説についてごくわ ずかしか取り上げていませんが、その反論はより具体的です。魂を血液だ とする説(ヒッポン)には、それでは血液が多ければそれだけ魂も強化さ れそうなものだが、実際には血液が多ければ動物の消滅・破壊が生じると 反論します。火が固有の性質によって上昇するように、動物に固有の性質 によって動物は動かされるとの説(これはデモクリトスでしょうか)に は、動物の運動は多様で、したがって自然の本性によるものではないとし ます。魂は空気(息)であるの説(デモクリトス)には、呼吸は肺が司る ものの、活気は全身に及ぶことを矛盾として突きつけたりしています。 うーん、でもなにかこれを見ていると、非物体説の側がやたら物体説のア ラを探しているような印象も受けますね(笑)。非物体説の側の議論が、 物体説を否定することによって否定神学的に成り立っているということな のでしょうか。非物体説側のきちんとした立論はありうるのでしょうか。 次回も引き続き、そのあたりのことを考えてみたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行ですが、夏休みを挟むため、次号は08月24日 の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------