〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.245 2013/08/24 ------文献探索シリーズ------------------------ 学問分類へのアプローチ(その19) 夏休み明けでぼちぼちと始めたいところですが、このシリーズはもうまと めに入る頃合いです。というわけで、全体の流れからしても重要な一論考 を取り上げてその締めくくりにしたいと思います。これまで何度も参照し てきたワグナー編『中世における自由七科』から、最後を飾るラルフ・ マッキナニー「自由学科を越えて」です。 ボエティウスはアリストテレスに準じて広義の「哲学」を実践的学問と理 論的学問に分け、後者をさらに自然学、数学、神学に分けていたわけです が、同論考によれば、そうした三区分は実際には名目的な分類にすぎず、 ストア派の分類(哲学を自然学、倫理学、論理学に分ける)同様、アリス トテレスの分類も知られてはいたものの、内実のない名称にすぎない状態 だったといいます。ではこれは、自由学科の分類がそれほど幅を利かせて いたということなのでしょうか?確かに一般通念としては、そうだとされ てきたように思います。そしてアリストテレスの全貌が西欧に紹介されて はじめて、それまでの自由七科が世俗的学知の分類として適切だったかど うかが問い直されるようになる、というわけですね。ですが、同論考は果 たしてそうだったのかと問い直します。 自由七科の受け止め方の変化を、同論考では一三世紀のトマス・アクィナ スと、一二世紀のシャルトル学派(ポワティエのギルベルトゥス、シャル トルのティエリー)との反応の違いから検証しようとしています。トマス は、自由七科の分類では哲学を適切に分けたことにはならない、そこには 自然学も神学も含まれていないと批判します。さらに、それはあくまで (サン=ヴィクトルのフーゴーが言うように)初学者が最初に学ぶべきも のであり、三科と四科に分かれているのも、それらが哲学の奥義へと向か う上で必要な行程だからだと論じます。トマスにあっては、自由七科は批 判的に捉えられると同時に、基礎固めの課程として位置づけ直されていま す。 トマスはさらに、なぜそれらの学問は「学芸(ars)」と呼ばれるのかに ついても取り上げています。それらは単なる知識の修得のみならず、なん らかの物質的成果(文章や演説の作成、算定、測量、作曲などなど)を伴 うからだ、というのですね。それに対して自然学や神学は、あくまで知識 の修得だけが問題になり、よってそれらは学芸ではなく学問・学知と称さ れる、と。物質的成果をもたらすものには、ほかに医学や錬金術などもあ るとされますが、そちらはあくまで自然の制約にもとづいた術が問題に なっているため、人が恣意的に生み出すものではないため「自由」である とは言えず、自由学芸には含まれないのだとされています。トマスにとっ て自由学芸は、いずれも一義的には手工芸的なものと見なされていること がわかります。それらが生み出す成果は、厳密な手工芸に比べれば精神的 なものではありますが、アナロジーとして手工業的だというわけですね。 トマスはこのように、自由学科を初歩的かつ補佐的な学問として位置づけ たのでした。ではそれ以前の一二世紀の人々はどう見ていたのでしょう か。例としてシャルトル学派の学僧たちが取り上げられます。彼らはボエ ティウスの分類をとりあえずそのまま受け入れています。ポワティエのジ ルベルトゥスは、ボエティウスの分類をストア派の分類と合わせようと し、ボエティウスの分類はストア派の分類のうちの自然学をさらに下位区 分したものだと論じています。ギルベルトゥスはまた、実践的学問の例と して医学や魔術を挙げているのですが、自由七科そのものには言及してい ないといいます。論文著者によると、ギルベルトゥスに限らずティエリー なども含めて、一二世紀の注釈者たちは奇妙なことに、注釈に際して学問 分類の話題が出ても「自由学芸」を挙げることをしていないというので す。一般に一二世紀は自由学科が最も盛んだった時期とされていますが、 その最中に別種のストア派やアリストテレスの分類を前にして、彼らは自 由学科を引き合いに出すことをしないのです。 これはどういうことなのでしょうか。論文著者は、そもそも一二世紀が自 由七科の隆盛期で、一三世紀にはそれが衰退していくという、一般通念化 した見立てが誤っているのではないか、事実はもっと違う形で表されるよ うなものだったのではないかと考えているのです。一二世紀が自由学芸の 隆盛期だったという推定の背景には、サン=ヴィクトルのフーゴーの 『ディダスカリコン』などがあります。そこでは事実、自由七科が大きく 取り上げられています。ですがフーゴーは、自由七科はあくまで初学者の ためのものであることを強調しています。また、彼は広義の哲学の分類に ついても熟知しており、そこには自由七科のほかに手工芸のようなもの、 さらには聖書の知恵といったものまで含まれると捉えています。トマスと それほど違った見解を抱いているわけではありません。自由七科は、キリ スト教の信徒が成熟するための踏み板のようなものだとされていて、論文 著者によれば、フーゴー自身は当時顕著になってきていた学校の世俗化の 傾向や、自由七科がそれ自体独立してしまうような事態を憂慮してさえい たといいます。 カッシオドルス以来、アルクインを経てサン=ヴィクトルのフーゴーにい たるまで(さらにはトマスにおいても)、自由七科はあくまでその後の何 かを準備するための課程であり続け、その何かというのは初期(一二世紀 以前)においては聖書の知恵だった、と論文著者は述べています(トマス においては、その何かは「哲学」ということになり、神学はまた別次元と されます)。では、従来の見方に変わる見立てとしてはどのようなものが ありうるでしょうか。一二世紀と一三世紀の間になんらかの変化が起きた ことは確かだとしつつも、同著者は、それは自由七科の衰退などではな く、アリストテレス思想の流入によって、自由七科の分類の妥当性が改め て問われた、あるいはその潜在的な問題点が改めて可視化されたにすぎな い、と考えています。ある意味、自由七科は一三世紀以降、古典期におけ る本来の位置づけへと立ち戻ったと言うこともできる、とも述べていま す。 「私たちは、大学の時代、つまり古典やアラブの文献が流入し人々の知識 の幅と領域の全体図が塗り替えられた時代を、それまでの自由学芸の伝統 を放り投げた時代だと見なすことはできない」(p.260)。論文著者はそ う喝破します。これは一三世紀以降もそうだとされます。自由学芸の伝統 は、分類の問題点が可視化される以前も、そしてそれ以降も、表に現れな い形で綿々とその命脈を保っていった、という見方です。このあたり、衰 退というキーワードに彩られた従来の自由学芸観を打ち破る、斬新な視点 だとも言えそうです。個人的には、これを即座に検証できるだけの材料が 手元にないので、さしあたりその評価は保留とするしかないのですが、歴 史的な流れを連続した相として見る立場として一定の評価ができそうに思 えます。 # # # これまで自由学芸の諸相をざっとながら見てみました。取り上げなかった 部分もかなりありますし、取り上げた部分についてもいろいろな問題が開 かれ、取り散らかしたままですが、それはまた今後別の形で取り上げてい くということにして、一応この連載の締めくくりとしたいと思います。こ れにも関係しますが、次回からはまた新たな連載として、一四世紀の数学 思想のアンソロジーを読んでみたいと思っています。主要なテーマは「無 限」概念です。どうぞお楽しみに。 ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その6) 夏休みを挟んだのですこし間が開いてしまいましたが、ブランドの『霊魂 論』から、二二章「理性的魂について」(296節から)を読んでいます。 取り上げられている問題は理性的魂は物質か否かというものでした。最初 に両論併記が行われ、それから自説が展開するといういつもの流れです。 前回は理性的魂は非物体であるという議論を見ました。今回は逆に、理性 的魂は物体であるという議論を取り上げた箇所になります。ではさっそく 見ていきましょう。 # # # 300. Quod ipsa sit corpus sic ostenditur. Contingit hominem apprehendendere spatia terrarum quae ipse prius videbat et de illis congitare. Sed non posset aliquis ita intueri nisi per imagines in memoria repositas, cum illa quae ipse intuetur memorando sint ab eo remota et absentia; ut aliquis iacens in lecto et cogitans metitur terrae quantitatem per spatium et radium firmamenti et spatium signorum; sed non contingit metiri nisi per dimensionem. Ergo oportet quod ipsae imagines rerum extra per mutationem quarum anima metitur imaginata habeant aliquam dimensionem, ut si mensuraret in longum, est ibi porrectio; si in latum, est ibi in duas partes distentio. Sed illae imagines sunt in anima ut in subiecto; ergo cum illae imagines dimensiones habeant in longum et in latum et in spissum, et ipsa anima easdem habebit dimensiones; et anima est substantia et habens secundum hoc triplicem dimensionem; ergo anima est corpus. 300. 理性的魂が物体であるという説は次のように示される。人はあらか じめ見たことのある土地の拡がりを把捉し、それらについて考えることが ある。だが、人が(あとから)考察できるのは、あくまで記憶に留めた像 によってである。というのも、その者が記憶に呼び出して考察する対象 は、遠くにあって不在だからだ。たとえばある者は寝台に横たわり、考察 をめぐらしながら、土地の大きさを、その天球の距離や拡がり、星座の位 置によって計り知る。だが、大きさがなければ計測はできない。したがっ て、外的事象の像−−魂が(記憶に)写し取ることでその像を計り知る− −は、なんらかの大きさを有していなくてはならない。たとえば長さを測 るのであれば、そこには直線があるのだし、幅を測るのであれば、二つの 部分が離れている。だがそうした像は、基体に宿るのと同様に魂の中にも 宿る。それらの像は長さや幅、厚みなどの大きさをもつであろうから、魂 もまた同様の大きさをもつだろう。かくして魂は実体なのであり、そのこ とゆえに三次元の大きさをもつのである。ゆえに魂は物体なのだ。 301. Item. Anima est in corpore; aut igitur est intrinsecus aut extrinsecus, aut partim intra, et partim extra. Si totaliter forinsecus, non esset vivibilis vel vegetabilis intra. Si totaliter intrinsecus, non sentiret stimulum pungentem vel calorem in extremitatibus corporis. Ergo ipsa anima secundum quid est intra et secundum quid extremitatibus. Sed simul et semel non potest esse in eodem instati et hic et ibi totaliter secundum sui essentiam; ergo secundum aliquam sui partem est hic, et secundum aliquam sui partem est ibi. Ergo tanta est anima quantum est ipsum corpus in quo est vita et tactus. Ergo habet triplicem dimensionem; ergo ipsa est corpus, quod esse non potest, quoniam secundum hoc duo corpora essent simul in eodem loco, vel unum corpus divideretur omnino in infinitum, ut illud corpus in quo est anima divideretur in infinitum per subintrationem animae, cum non esset sumere aliquam ita parvam partem corporis animati in qua non esset pars animae. 301. 次のような議論もある。魂は肉体(物体)に宿る。したがってそれ は内部にあるか外部にあるか、あるいは内的な部分にあるか外的な部分に あるかのいずれかだ。もし完全に外部にあるのなら、内的な生命活動ある いは生長はできないだろう。完全に内部にあるのなら、外から来る刺激や 四肢における熱さは感じられないだろう。したがってその魂は、部分的に は内部にあり、また部分的には外部にもある。だが、同時かつ一度に同じ 事象の中にあることはできないし、その本質に従ってこことそことに完全 にあることはできない。ゆえに、そのいずれかの部分はここに、いずれか の別の部分はそこにあることになる。ゆえに魂は、生命が宿り触知できる 物体(肉体)と同等の大きさであり、よって三次元の大きさをもつ。する とそれは肉体そのものだということにもなるが、それはありえない。なぜ なら、もしそうだとすると、二つの物体が同時に同じ場所を占めることに なるか、もしくは一つの物体が完全に無限にまで分割されてしまうことに なるからだ。つまり魂が宿るその肉体が、魂の侵入によって無限に分割さ れることになる。なぜなら生命をもつ肉体において、魂の部分をなしてい ないようなほんのわずかな部分を想定することもできないからだ。 302. Praeterea. Si anima sit corpus et est in corpore, aut illa duo corpora sunt continua, aut contigua; sed sive sic sive sic, erit secundum hoc sumere aliquam partem ubi erit aliqua pars animae contiguata vel continuata parti corporis quod non est anima. Ergo cum ibi non sit anima ubi ulla pars corporis est, in illa parte corporis non est anima, et ita illud corpus non est vegetatum. 302. 加えて、もし魂が物体で、しかも肉体の中に宿るのなら、それら二 つの物体は連続しているか、あるいは隣接しているかのいずれかである。 だがいずれにせよ、その場合、魂ではない部分に隣接もしくは連続する、 魂のなんらかの部分を想定することになる。したがって、魂が含まれない 物体のいずれかの部分があるのなら、その部分には魂はなく、その部分は 生長できないことになる。 # # # 300節において示されているのは、いわゆるスペキエス(可感的形象・可 知的形象)説の一種と言えそうです。スペキエス説そのものは一三世紀以 降広く共有されていくわけですが、スペキエスが具体的に何を意味する か、形相とはどう違うのかといった点については、論者によって見解が分 かれていたりもします。リーン・スプルイトという研究者(『知的形象: 知覚から知識へ』)が指摘していますが、可知的形象という概念そのもの ではないにせよ、アヴィセンナにもとづいて「刻印される像」を魂の理論 に再導入したのは、グンディサリヌス(ブランドよりも時代的に少し早い 人物ですね)だったといいます。とはいえグンディサリヌスの議論では、 像と形相とはまだ意味論的に微妙に未分化だというのですね。その意味で は、ブランドがここで示している説にもこの時代のスペキエス論の先駆の 一端が見られる思いがします。「像」は大きさをそのまま纏ったものとし て魂に印象づけられるとされているようですが、これがやや後世であれ ば、質料形相論から、大きさなどの属性の顕現は質料あっての話だという ふうにもっていきそうなところです。 301節になると、より数学的といいますか、一種のメレオロジー的な話に なっています。しかもここにおいてブランドは、魂=物体説への疑問点を 投げかけています。魂が肉体(物体)の内部と外部とにまたがって宿って いるのだとすれば、普通に考えて、その魂は肉体同様に三次元的な世界に 存在していなくてはなりません。しかし、とブランドは異を唱えます。三 次元的な大きさをもつというのであれば、それは物体でなくてはならない わけですが、するとそれは、同じ場所を二つの物体が同時に占めることは ありえないというアリストテレスの基本原理に反してしまいます。では、 二つの物体が無限に分割されて入り組んだ形で存在すると考えるのはどう でしょうか。これは以前にリミニのグレゴリウスを見たときに出てきた解 決法と同じようなものですね。円と直線はどう接するのかという問題につ いて、接点(つまり最小単位としての点)を想定して両者がその点で同時 に存在するという議論を認めない立場の場合、両者が無限に分割されて入 り組んでいるという形にでもしない限り解決できないのでした。ですが、 魂の事例にそれを適用するとなると、肉体全体が無限に分割されることに なってしまい難があるというわけです。 302節ではまた別の角度から難点を提示しています。両者が物体であると する場合、それらは連続しているか(つまり入り交じっていて区別できな いか)、隣接しているかのいずれかとなりますが、論理的にはどちらの場 合でも、両者が交じっていない部分、つまりこの場合なら魂が入っていな い部分が残っていなければなりません。さもないと両者はすべて一体化し てしまって、肉体と魂の区別・分離自体に問題が生じてしまいます。こう したことから、魂が物体であるという議論には疑問が付されるということ になります。 ブランドは、当然ながら続く節においてそうした諸問題の解決策を自説と して述べていくわけですが、それは次回に見ることにして、ここではそう した議論の出典として再びアヴィセンナを参照しておきたいと思います。 『魂について』の第五部第二章でアヴィセンナは、最初に知解対象が人間 の中のどこに宿るのかと問います。それが「物体もしくは何らかの分量で あるなら」、知解対象の形相(アヴィセンナでは明らかに像と形相が区別 されていません)は「不可分な単一のもの」もしくは「分割可能なもの」 に宿るかのいずれかだとしています(301節の話に連なる議論です)。 前者の不可分な単一のものとはすなわち点状の端部のことだ、とアヴィセ ンナは言います。けれどもそこに知解対象が宿ることはありえないとして います。点は線から区別されない終端、あるいは点で終わる分量から区別 されない終端を言うのであって、もし点が線ないし線のとある分量から区 別されるとすれば、点はそこに何かが宿ってもおかしくない箇所(もはや 線ではないのですから)になり、とはいえそこには量が含まれない(分量 ではないのですから)ことになり、本質的に矛盾してしまうわけですね。 ほかにも、細かな議論がいくつか続き(ここでは割愛しますが)、結果と して不可分な単一のもの(点状の端部)に知解対象の形相が宿ることはあ りえないとされます。このあたり、上でも触れましたが、後の一四世紀の 接点をめぐる数学的議論を彷彿とさせる、なかなか興味深い話になってい ます。 となると、知解対象の形相は「分割可能なもの」に宿ることになるので しょうか。そちらもまた問題含みです。分割可能なものの中になんらかの 区分があるとすると(分割可能なのですから)、形相も分割されることに なります。するとそこには、互いに等しい二つの部分ができるか、あるい は等しくない二つの部分ができることになります。ですが、互いに等しい なら、その両者の集成から両者と同じものができてしまうのは不合理だと いうことになります(全体と部分は異なっていなければならないからで す)。また、等しくない部分に分割されるなら、それらは類と種差の関係 に帰着するのですが(形相がたがいに等しくない部分に分割されるという のは、類と種差の定義以外にないからです)、分割が無限にできるのであ れば、類と種差も無限になってしまい不合理に陥ります。こちらもほかに 様々な議論が続きますが、同じくここでは割愛します。 こうしてアヴィセンナは、いずれの場合も不合理となることから、知解対 象の形相が宿る場所というのは「物体にあらざる実体」以外にないと主張 するのです。ブランドの議論はアヴィセンナのこうした議論ほど精緻では ありませんが、少なくとも同様の方向性を示唆していることは間違いなさ そうです。このあたりの話、次回も続けていきたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------