〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.254 2014/01/11 * 2014年になりました。本メルマガは今年もぼちぼちとやっていきたいと 思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その9) 「世界の永続」説に対するトマス・ブラッドワーディンの反論を見ている ところでした。前回は数学的観点からの「無限」概念の批判についてまと めておきました。世界の永続を認めるなら、世界が無限に満ちていること が導かれるわけですが、ブラッドワーディンは、そこでの無限は有限より も完全性において劣ることを示そうとしていたのでした。今回はもう一つ の、神の全能との絡みで展開する議論を見ておきます。それは「神と同等 以上の被造物はありえない」という基本テーゼを擁護する議論です。 たとえばこんな感じです。神は全能だとされるわけですが、では神は自分 と同等の諸力をもった被造物を創れるのでしょうか。当然ながらそれはで きないと言われます。神は必然かつ非依存で無限の存在であるからで、神 の諸力をもつということは必然かつ非依存で無限の存在ということになり ますが、それは被造物ではありえないわけですね。被造物は偶然の存在で あり、神に依存するものであり、また能力の面でも有限です。 では、そうした被造物固有の特性を除いて、神と対等の力を(創造する力 など)をもつ被造物ならどうでしょうか。そうした被造物はありうるでし ょうか。そのような被造物を仮にAとすると、それは完全な存在に近い被 造物(被造物としての特性以外は神と同等なのですから)ということにな ります。ですが、それでもやはりAは有限の存在にすぎません。神との差 異は無限に開かれています。神はつねに、Aよりももっと完全な被造物を 創ることができ、したがってAは絶対的に「最も完全」な被造物ではない ということになります。 また、被造物は存在を神に依存しているほか、運動においても神の働きか けを必要とするとされます。そうした点でも、Aが神に等しくなることは ありえないことになります。Aがたとえば何かを創り出すとき、神はそれ に共同の担い手として参画することになるわけですが、神のほうは単独で 作用を及ぼすことができるのですから、Aの所作を無効にしたり、逆のも のにしたりすることもできることになります。また、仮にAが自分と同等 のもの、A'やA''をいくつ創ったとしても、神は絶対的に全能である以上、 それらAのコピーをいくつ足したところで、神に匹敵することにはなりま せん。 ブラッドワーディンはこうした議論を、ある種の人々への反論として記し ています。『ペラギウス派に対する神の原因について』というテキストの 題名が示す通り、人間の自由意志を重視するという(結果的に敬神の度合 いが低いということになる)異端の論者たちがそうした論駁対象というこ となのでしょうが、ブラッドワーディンは、「全体が部分によりも大きい ことを否定したり、全体と部分が等しいこともありうると主張する者まで いる」として、ある種の論者たちを批判しています。具体例として再び魂 の数の問題が取り上げられています。あらゆる魂の集合をA、そのうちの 一つをB、残りのすべてをCとしたとき、その論者たちは、AがCよりも大 きいことを認めず、両者は等しいと主張する、というのですね。 これはつまり、Aが無限であるとした場合の、無限同士の比較の話です。 ブラッドワーディンはエウクレイデスに依拠して、全体は部分よりも大き いことを、また、アルハーゼン(光学の議論で有名な11世紀のイスラム 学者ですね)を引いて、内包する側は内包される側よりも大きいことを示 しています。そしてそのことは、無限同士の比較であっても真でなければ ならない、というわけです。いずれにしてもブラッドワーディンは、たと え無限に被造物が創られようとも、それが神に匹敵することはありえな い、さもなくばそれは神を卑しめることにしかならないとして、ある種の 人々が主張するとされる、無限概念による被造物の擁護を斥けています。 本文に先だって掲載されている解説によると、全能の神と有限の被造物と の関係性という問題は、ドゥンス・スコトゥスのころから問われていた問 題だったといいます。また、これがルネサンス期になると、無限の原因か ら無限の結果はもたらされるのかどうかという問題が問われるようになる といいます。ブラッドワーディンはいわばその中間にいて、無限の力をも った被造物が存在しうると仮定する場合に、いかに不都合が生じるかを 様々に挙げていきます。被造物が力で創造主と同等になってしまったな ら、結果から必然的原因へと遡ろうとする哲学的な神の存在証明もまた不 可能になってしまうのですね。 同解説が重要な点として挙げているのは、ブラッドワーディンのこうした 議論が、14世紀の神学的文献において無限に関する議論が増大したこと の証しとして位置づけられるということです。無限同士の比較の問題や、 全体と部分の考え方の無限への適用などは、解きがたいパラドクスをもた らしたりもするのですが、やがてこれが転じて、無限における全体と部 分、あるいは等・不等の新たな定義をもたらすことになる、と同解説は結 んでいます。そしてその新たな定義は、リミニのグレゴリウスなどがブラ ッドワーディンに先駆けて示唆していたものなのだとか……。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その15) ブランドの霊魂論から二八章の続きを見ていきましょう。 # # # 368. Praeterea. A pluribus habemus auctoribus quod post separationem animae a corpore, quandoque contingit unam animam certificare aliam animam et de ignoto dare certificationem ei et cognitionem. Sic ergo contingit unam animam maiorem habere scientiam alia anima. 369. Contra. Anima exuta a corpore nullo est impediata quin ipsa quidlibet intelligat: est enim habens se ad similitudinem oculi existentis in centro et videntis totam sphaeram. Ergo nulla anima alia est sapientior. 368. 加えて、複数の権威から私たちは次のことを知っている。魂は肉体 から分離した後、別の魂に出会うたびにその魂を確認し、知らない場合に は認知と認識を与える。したがって、このようにある魂が他の魂よりも多 くの知をもつことはありうる。 369. 反論。肉体から離れた魂は、何ものにも制約を課せられず、あらゆ るものを知解できるようになる。それはちょうど、球体の中央にあって球 体全体を見渡せる目にも比される。したがって、いかなる魂もほかの魂よ りいっそう賢いことはない。 370. Item. Potest similiter hic quaeri, utrum anima philosophi cuiusdam sit sapientior separata a corpore quam anima alicuius idiotae post separationem ipsius a corpore. Quod non sit sapientiro videtur per proximam rationem praecedentem. 371. Quod sit sapientior videtur per hoc quod scientiae quas firmavit philosophus in anima sua per imagines rerum in ea repositas, remanent in anima post remotionem ipsius a corpore, quia nullam est assignare causam destructionis illarum scientiarum firmatarum in anima, cum tam anima quam scientia contrarietate careat, et anima aptior est ad retinendum scientias quando est extra corpus quam quando est in corpore; quia quando est in corpore convertit ipsa aciem animi et intentiones suas ad regimen corporis et eius dispositiones et ad multa quae accidunt corpori a causis extrinsecis. 370. 同様に、肉体から離れた任意の哲学者の魂は、同じく肉体から離れ た無学者の魂よりもいっそう賢いかどうかを検討してもよいだろう。 直近の上述の根拠からは、いっそう賢いわけではないと考えられる。 371. だが次のことからは、いっそう賢いとも考えられる。哲学者が、魂 のもとに置かれる事物の像を通じてその魂に刻んだ学知は、魂が肉体から 分離した後も魂のもとに残る。なぜなら、魂に刻まれたその学知を破壊す る原因となるものはまったくないからである。魂も学知も、それに反する ものを欠いており、魂は肉体の外にあるときのほうが、肉体のもとにある ときよりも、学知の保持にいっそう適した状態にあるからだ。というの も、肉体のもとにあるときには、魂はその精神の目と志向性を、肉体の支 配、その配置、外的な原因によって肉体に生じる様々な偶発事へと向ける からである。 372. Solutio. Dicimus quod anima separata a corpore intellectu uti potest, et una intelligit plus alia et est sapientior alia; quia quanto anima magis particeps est illuminationis procedentis a pura veritate, quae summe lucida et incommutabilis est, illa purificatione habet intellectum perspicaciorem, et maioris est sapientiae quam illa quae mole peccatorum est oppressa, minus existens particeps naturae illuminationis. sicut enim lux facit ad operationes sensus, ita et illuminatio purae veritatis facit ad operationem intellectus. Unde bene concedimus quod anima cuiusdam idiotae, quando est separata a corpore, est sapientior quam anima philosophi, si anima illa quae fuerit idiotae fit magis particeps purae veritatis et lucis ab ea irradiantis quam anima philosophi sit particeps; et propter hoc contingit quod anima minus sapiens scientiam recipit a sapientiori intuendo eam et quicquid est in ea. Probabile tamen est quod anima philosophi plus sciat de quibusdam quam anima idiotae, licet ipsa sit particeps purae veritatis, et de illis plus scit ipsa quae recipit per receptionem disciplinae in corpore quae non sunt de divina contemplatione. 372. 解決。私たちはこう述べよう。肉体から分離した魂は知性を活用す ることができ、ある魂は他の魂よりもいっそう多くを知解し、他の魂より も賢くある。なぜなら、魂が純粋なる真理から生ずる照明により多く関与 するほど、輝きはこの上なきもの、かつ不変なものとなり、その浄化作用 によって魂はいっそう洞察力に満ちた知性をもつことになり、罪の重みで 圧迫されて自然の照明に関与する度合いが少ない魂よりも、いっそう賢い ものとなるからである。光が感覚の作用に働きかけるように、純粋なる真 理の照明も知性の作用に働きかける。ゆえに、私たちは次のことを認めよ う。無学者の魂が肉体から離れた場合、仮にそのかつての無学者の魂が純 粋なる真理とそこから放射される光への関与の度合いを増し、それが哲学 者の魂の関与よりも大きければ、その魂は哲学者の魂よりも賢いというこ とになる。またそれゆえに、賢さに劣る魂は、その魂とその中に何がある かを眺めるより賢い魂から、学知を受け取るのである。とはいえおそらく は、たとえ無学者の魂が純粋な真理に関与するにせよ、哲学者の魂は任意 のことがらについて無学者の魂よりも多くのことを知っているであろう。 哲学者の魂は、肉体のもとでの教育により受け取る、神の観想に属さない 事柄については、より多くのことを知っているであろう。 # # # 今回の箇所では、離在する魂に賢さでの優劣があるかどうかというのが中 心的な論点ですが、ブランドはそうした優劣はありうるとの立場を示して います。この問題を検討する途上で、いろいろなテーゼが出てきています ね。まずは、肉体から分離した魂が志向性をもち、対象を据えて知解する という話です。「精神(魂の)の目」(acies animi)という言い方か ら、なんらかの器官的な連想を抱いてしまいますが、当然ながらそれは実 際の目ではなく、能力的な意味で用いられていると思われます。また、肉 体のもとで学ばれた知は離在後も維持されるとされています。さらに、魂 が別の魂に出会う際に、相手を認知し、知識を分かち合うという話にもな っています。 言うまでもなく、これらのテーゼは新プラトン主義の伝統がベースになっ ていそうです。でもここで、大元のリファレンス(あくまで残響的なもの としてですが)であるプロティノスを取り上げてみるのも一興かと思いま す。プロティノスの霊魂論はちょっと特殊で(『エンネアデス』IV巻3 章、27節)、人間の魂に上位の魂と下位の魂という区別を設けていま す。前者は知的魂、後者はそれ以外の機能を司る魂だとされ(つまりは動 物的・植物的魂に相当します)、いずれの魂にも記憶の機能があり、それ らは肉体から離れた後も、みずからが生きた記憶を保持し、両者がともに あるときにはそれらの記憶が互いに一致する、とされています。またプロ ティノスは、魂は物質的な刻印などを経ることなく、事物を直接的に把握 できる、と考えていたらしいことも、たとえばR. A. H. キング『アリスト テレスとプロティノスの記憶論』(R.A.H. King, "Aristotle and Plotinus on Memory", De Gruyter, 2009)(http:// books.google.co.jp/books? id=lceRLaHFbsIC&lpg=PA106&hl=ja&pg=PA106#v=onepage&q& f=false)に示されています(p.115を参照)。 ブランドやその同時代の霊魂論では、人間の個体に宿る霊魂は一つだとさ れていて、プロティノスのような上位・下位の区別などはありません。で すが記憶の保持というテーマ、あるいは肉体を経ることなく外的事物を把 握可能だといった議論は、そのまま取り込まれて温存されている印象で す。少し興味深いのは、上のテキストにある、魂が別の魂に出会う際の学 知の共有テーゼです。これは同時代の霊魂論からしても少し珍しいものの ような気がします(単にこちらの寡聞のせいかもしれませんが)。出典が どうなっているのか確認できていないのですが、妄想的・誤読的ながら一 つ作業仮説を立てておくのも面白いかと思います。 プロティノスは、上位・下位の二つの魂が「ともにある」ときには、上位 の魂が支配的となって、両者の像の形成力(それは記憶をもたらす力で す)は一つになり、結果的に記憶も共有される(一致する)と述べていま す(IV巻3章、31節)。これがなんらかの変形を受けて、二つの魂が出会 うときに優れた側から学知が与えられるというテーゼとして残った、と考 えることはできないでしょうか。もちろんブランドはプロティノスを読ん ではいないはずです(プロティノスのテキストは、15世紀末にマルシリ オ・フィチーノが再発見するまで、中世には伝えられていなかったとされ ています)。ただ、プロティノスはアウグスティヌスなどにも影響を及ぼ しているとされ、もしかするとその頃からの思想的受容過程で変容を被 り、はるか後代のブランドのテキストにまで流れ込んでいる可能性もあり そうに思えます。ミッシングリンクをつなぐ文献が、あったりするのでし ょうか?この問題は少し面白そうなので、機会があれば追いかけてみたい ところです。 改めて言うまでもありませんが、西欧の思想には、こうした細い線が表面 化しないまま息づいていることが多々ありますね。実証的な「思想史」研 究としてそうした線を浮かび上がらせることはなかなか難しいでしょうけ れど、もっと広い(あるいは緩い?)意味での思想研究としては、そうい う小さな箇所に注目して再前景化できないか探るのも、決して無駄なこと ではない気がしています。ときには何かもっと大きな問題なりテーマなり が引き寄せされたりすることがないとも限りませんし。こうした小さな手 がかりは意外に大事かもしれません。そういう部分への目配せも含めて、 テキストに対峙できたらいいなと思っています。 ……と、なんだか年頭の抱負のような話になってしまいましたが(笑)、 こんな感じで今年もまったりとテキストを眺めていければと思います。引 き続きお付き合いのほど、お願い申し上げます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月25日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------