〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.255 2014/01/25 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その10) 不可分論(原子論)に反対する立場の神学者たちが続きましたが、ここで いったん原子論の擁護派を見てみたいと思います。一四世紀の原子論の代 表格とされるオートレクールのニコラ(1300頃〜1369)です。ニコラ (ニコラウス)はその原子論の擁護のほか、そこから派生する形で、存在 から別の存在は導けないといった、ヒューム的な懐疑論(アナクロニズム な言い方ですが)でも知られています。 私たちが目下見ているアンソロジー本『神学から数学へ−−一四世紀の無 限論』での解説部分によると、主著はExigit ordo(秩序は求める)とい う書き出しの著書で、原子論については「不可分なものについて(De indivisibilibus)」という章で展開されているといいます。そこでは、連 続体は不可分のものから成るかどうかという問題が検証されているわけで すが、当然ながらその議論は、すべての現象を原子の局所的な運動に還元 するとか、論証というものが蓋然性でしかないといった、ニコラの主要な テーゼが織りなす全体図の中に位置づけられてしかるべきものです。 さて、アンソロジー本に収録されているその抄訳(仏訳)は「逍遙学派の 言論は論証的かどうか検討するために有益な論」というタイトルがつけら れています。そこではまず、連続体についてアンチ不可分論の議論(アリ ストテレス)が紹介されています。まず一つめはこうです。速度がたがい に倍違う二つの動体があるとします。これが同じ時間にabcという三つの 点から成る空間を移動するとします。速い動体がabcの三点を通過した時 点に遅い動体はどこにあるでしょうか。すると、それはaを越えてbの半 分の地点でなくてはなりません。するならば、bは半分に分割できなくて はならなくなります。こうした推論を積み重ねると、点は無限に分割でき ることになる、というわけです。 これに対してニコラはこう答えます。動体は、連続する瞬間に連続する点 をめぐっていくわけなのだから、a点を離れたら次の瞬間にはすぐb点 へ、その次の瞬間にはすぐc点へと継続的に移動していかなくてはなりま せん。そこに速い遅いの差を設けるとするなら、遅い動体は任意の点に一 定時間とどまり、速い動体はとどまらないと考えるのが合理的なのではな いか、つまり、倍の速さをもつ速い動体が三点を一気に駆け抜けるのに対 して、遅い動体はある瞬間にa点に達すると、次の瞬間にはそのa点にと どまり、その次の瞬間にb点に達する、というふうに。もしこのように考 えるなら、速い動体がc点に達するとき、遅い動体はb点に達すると言え ます。つまりこれは、速度の差異を(物質的に捉えられた)空間に関連づ けるのではなく、時間に関連づけようというのです。なかなか巧妙な反論 ですね。 さらに、これまたアリストテレスの議論として引き合いに出されるのが、 点同士の接触の問題です。連続する線が点でできているとするなら、点は 相互に並ばなくてはなりません。ですがその場合、点同士はどう接触する のでしょうか。部分的に接触するのだとしたら、接する部分とそうでない 部分とに点は分割できることになってしまいます。ですが全体で接触する としたら、点同士が融合し重なり合うことになり、量的な拡張(外延の) は生じないことになってしまいます。こうして、連続体としての線が点か ら成るとするのは不合理だ、と結論づけられます。 ですがニコラはこう答えます。物体の場合、全体で接するとは間接的に接 することであり、接する部分から離れた部分(中間部分)が必ず生じるわ けですが、そのように中間部分を挟みつつ接することで量的な拡張(外延 の)が得られます。では、点の場合はどう考えればよいでしょうか。点は 少なくとも位置をもっており、他との境界ももっているとされます(それ が点というものの在り方だというのですね)。ですから、位置と境界(一 つの在り方としての)をもっている限りにおいて、点同士が全体で接する からといってそれらが重なり合うことにはならず、量的な拡張は得られる はずです。その意味において、ニコラは点にも量があると考えることがで きるとしています。 このほかにも、たとえば、どんな線でも等分に分けることができるが、仮 にそれが奇数の点から成っていた場合にはどうなるのか、という問題も取 り上げられています。ニコラの答えはこうです。どんな線分も等分にわけ られるのであって、偶数の点から成っている場合にはまったく問題ない し、奇数の点から成っている場合でも、両者の違いは点1つ分というごく わずかなものであり、ほぼ無視して差し支えないレベルである、と。 再び解説部分を参照すると、それらアンチ原子論の議論は、いずれもマイ モニデスの『迷える者への道案内』の、ムウタズィラ派の議論を紹介した 箇所で取り上げられているものだといいます。ムウタズィラ派というの は、八世紀末から九世紀にかけてアッバース朝カリフの庇護を受けたイス ラム教初期の一派で、理性の行使を重視していた一派だといいます。解説 ではニコラの応答に、このムウタズィラ派の影響が見られるというので す。これはまたなんとも興味深いソースですね。直接的には、少なくとも ニコラがマイモニデスを読んでいたことが窺えるわけですが、ムウタズィ ラ派とのそれ以上の関連などもあるのでしょうか?詳しいことは不明です が、機会があればこれも探ってみたら面白いかもしれません。 いずれにしても、オートレクールのニコラの議論はまだ終わりません。次 回も続く部分を見ていきたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その16) 二八章の続きの部分です。霊魂の他者認識と自己認識の話が展開していま す。 # # # 373. Sed quaeritur. Quomodo una anima possit recipere scientiam ab alia, cum utraque ipsarum careat et auribus et ore et instrumentis significandi aliquid quod ipsa intelligit? Nos enim id quod intelligimus significamus aliis per voces, vel per aliqua alia signa, ut claustrales per nutus et signa corporalia suos intellectus aliis exprimunt. 374. Similiter quaeritur. Quomodo anima se ipsam possit intelligere, cum nihil in se ipsum agat vel patiatur a se ipso, ut eodem oculo quo quis videt, eundem oculum videre non contingit; et eodem baculo quo quis percutit, non contingit eundem baculum percutere. 373. しかしながら次のことが問われる。一つの魂はいかにして、別の魂 から学知を受け取ることができるのか。そのどちらも、耳や口のほか、理 解したことを伝えるための手段を欠いているというのに?というのも私た ちの場合、自分たちが理解したことは、言葉やその他のなんらかのしるし を通じて他者に伝えるからだ。修道僧たちがうなずきや身体の合図でもっ て、理解内容を他者に示すように。 374. 同じように次のことも問われる。魂は、みずからのことをいかにし て理解するのか。魂はおのれに働きかけることも、おのれから作用を被る こともないというのに。ものを見るために用いる目は、その目自身を見る ことがないように、また、何かを叩くために用いる杖は、その杖自身を叩 くことはないように、 375. Ad primum. Dicendum est quod sicut compositum se habet ad compositum, ita simplex se habet ad simplex; unde sicut compositum recipit immutationem a composito, ita simplex immutatur a simplici; et sicut nos oculo composito manente anima videmus rem compositam, ita anima separata a corpore se ipsam videt et intuetur, simplex cum ipsa sit simplex; unde intuetur aliam animam, et eam intelligendo, percipit in ea immutationes in ea repositas, quae sunt similitudines rerum extra, et per illarum similitudinum perceptionem venit in cognitionem rei prius ignotae, et secundum quod plus et plus illuminatur a causa prima, secundum hoc clarius eas intuetur, et plus scientiae sibi aquurit; et quia sic venit in scientiam rei ignotae, per hoc quod convertit aciem animi sui ad aliam animam puriorem et magis illuminatam, dicitur quod una anima recipit scientiam ab alia; et per hoc quod ipsa percipit in illa alia anima imaginem sui ipsius animae intelligentis, intelligit ipsa anima se ipsam per sui imaginem in alia anima perceptam. Et est simile apud sensum: oculus in speculo percipit imaginem sui, et per illam imaginem se ipsum videt. Et sic patet solutio secundae quaestionis. 375. 最初の問いに対して。こう述べなくてはならない。複合体はみずか らを複合体に関係づけるように、単純なものは単純なものにみずからを関 係づける。ゆえに、複合体は複合体から変化を被るのであり、同様に単純 なものは単純なものによって変化する。私たちの目は複合体であり、魂を とどめることによって複合体の事物を見るが、それと同様に、肉体から離 れた魂も、単純なものとしてみずからを目にし、観察する。それは単純な ものだからだ。したがって、魂は他の魂をも観察できるし、それを理解し つつ、そこに預けられた変化をも知覚することができる。それらは外的な 事物の像であり、そうした像の知覚を通じて、知覚はそれまで知りえなか った事物の認識にいたるのである。魂は、第一原因に照らされれば照らさ れるほど、よりはっきりとそれらを観察できるようになり、より多くの学 知を獲得するようになる。それまで知りえなかった事物の学知は、魂の視 線がいっそう純粋でかつ大きく照らされた他の魂へと向けられることでも たらされるがゆえに、魂は他の魂から学知を受け取ると言われるのであ る。また魂は、他の魂のもとにある、理解する魂としてのおのれの像を知 覚するが、そのことゆえに、魂は、知覚された他の魂のもとにあったおの れの像を通じて、みずからを理解するのである。これは感覚における場合 と似ている。鏡を見る眼は、みずからの像を知覚し、その像を通じてみず からを目にする。かくして第二の問いの解決も明らかである。 # # # 前回の箇所に続いて、器官をもたない離在的な魂が、別の魂をどう認識す るのかという問題が検討されています。さらに、翻ってその魂は自分自身 をどう認識するのか、という問題も問われています。ブランドの答えはな かなか面白いですね。複合体は複合体同士関係するし、単純なものは単純 なもの同士で関係するとして、アナロジカルな形で魂は他の魂を「目にす る」のだというわけです。 ですがこれは今一つわかりにくい説明でもあります。前回も出てきた精神 の眼(acies animi)とは何かが、改めて問われます。ここではブランド も参照しているはずの、アウグスティヌスの議論を見ておくのが良いかも しれません。アウグスティヌスは『ソリロキア』の第一書六の一二で、魂 を精神の眼にたとえています。そこでは「見る」というプロセスについ て、三つのフェーズが示されています。ものを見るためには、(1)目を もつ、(2)目を向ける(注視する)、(3)見る、というフェーズがあ るというのですね。このあたりのことに触れている、佐藤真基子「アウグ スティヌスにおけるanima/animus概念について」(http:// koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/download.php/ AN00150430-00000116-0041.pdf?file_id=37915)という論考によ ると、「見ることにおける目は知ることにおける精神に相当し、視覚は理 性に、視力は知性に相当するとしている」といいます。視覚は(2)に、 視力は(3)に対応しているわけです。 さらに、同論文からの孫引きになりますが、アウグスティヌスは『秩序 論』の中で、理性とは学ばれたものを区別し結びつけることができる精神 活動である、と定義づけているといいます。それが一種の志向性をもつこ とは明らかでしょう。魂における志向性は、おそらくは知解にとっての最 初のフェーズに重なるものと思われます。もう一つ、川崎千里「アウグス ティヌスの神認識における視覚表現について」(http://jsmp.jpn.org/ jsmp_wp/wp-content/uploads/smt/vol44/67-77_kawasaki.pdf)と いう論考では、メタファーとしての目という位置づけながら、「志向性を 見出したことがアウグスティヌスの視覚論に顕著な特徴」であると記され ています。さしあたり私たちも、精神の眼とは、魂がもとより有する、知 解に向けた志向性、と捉えておくのが良さそうです。 魂の自己認識についての説明も興味深いですね。それは相手の魂の中に映 った自分を、鏡のように認識(理解)することだというのですね。この議 論もアウグスティヌスとの関連で見ることができそうです。富松保文『ア ウグスティヌス−−<私>のはじまり』(NHK出版、2003)はこれに関 連して、とても興味深い指摘を行っています。それによると、鏡の比喩は まずもって、プラトンの『アルキビアデス』に出てきます。そこでは「汝 を知れ」という箴言について、まず眼の比喩を掲げ、眼が自分自身を見る には、鏡ではなく、映し出される自分と同じようなもの、つまりは他者の 眼を見なくてはならないとされます。そして、心(プシュケー)もまた、 おのれを知るためには、自分と同じ類のもの、つまりは他者の心を見つめ なければならないとされます。 プラトンにおいては、心はどれも同類であるとされているわけですが、同 書によれば、アウグスティヌスに至ると、上記の「心」に対応する魂の概 念は若干異なっていて、時代的な要請もあり、より「個」的になものにな っている、といいます。上の眼の比喩はもはや通用しなくなっている、と さえ論じられています。とはいえ、ここで上の『ソリロキア』に戻るなら ば、アウグスティヌスはそこで、おのれが求める対象として神と魂を挙 げ、その場合の魂とは人間がもつ理性的な魂のことだと述べています(第 一書二の七)。その場合の魂なるものが、個に限定されたもののようには 思えません。少なくともこの『ソリロキア』でのアウグスティヌスは、上 の『アルキビアデス』にも通じる「魂なるもの」、人間一般に共通する理 性的魂を求めていたように思えます。 こうしてみると、『アルキビアデス』での魂の認識、自己の認識の議論 は、それを継承するアウグスティヌスのテキストを経て(多少とも意味を 変えつつも)、ブランドのテキストの中にまで流れ込んでいるように思わ れます。ブランドの唱える魂は、同類ではあってもすでにして個の様相を 強くもっており、その上で相互に理解し合い、学知を共有して相互に高ま っていくというビジョンに彩られています。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は02月08日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------