〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.257 2014/02/22 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その12) 前回、前々回とオートレクールのニコラについて見てきました。ニコラに おいてとりわけ興味深いのは、やはり前々回に見た運動の考え方です。ニ コラの場合、速度の違いは、動体が任意の点にもとにとどまるかとどまら ないかの違いで説明されるのでした。抄録分のテキストの最後のところ で、ニコラは運動についての議論を再度、今度はアリストテレス批判の文 脈で取り上げています。 ニコラはそこで「移動する」という言葉の意味を考えています。もちろん それは複数の意味から成る複合的な意味対象です。ニコラはまず、それを 場所の移動ということに限定します。その上で、動体が点aからbcdと3 点を移動していく場合(点は不可分のものです)を例として取り上げてい ます。「動体がbに移動する」という場合、動体とbの間に間隙があった 状態から、動体とbとの間に間隙がない状態へと移行したものと見なせま す。移動後に動体はbの位置にあるのですから、それはbの位置という 「状態」の獲得とも言えます。ですが、動体が「点bに向けて移動する」 と表現する場合、「bの位置」はまだ獲得されておらず、bは動体にとっ て不在ということになります。動体はまだaにあるわけですね。このあた りの言葉のあいまいさこそが、見かけ上の矛盾をもたらしているとニコラ は指摘します。 これは「動体はbを通過すると同時に、bにおいて運動を完了する」とい う、アリストテレスに倣った言い方(『自然学』第六巻五章にもとづいて います)への批判として記されているのですが、ニコラの議論では、bを 通過するとはbにおいてcに向けて移動することなので、bにおいて運動が 完了することはありえません(アリストテレスは運動を無限に分割できる と考えているので、上のような言い方でも問題は生じないのですね)。さ らにニコラはこうした議論をもとに、『自然学』第六巻の様々な結論をこ とごとく否定していきます。とくに問題とされているのは、やはりアリス トテレスによる運動の分割の議論です。アリストテレスによれば、bから cへと移動する動体は、一部がbにあり一部がcにあり、よって分割可能で あるとされますが、上のニコラの「移動」の解釈に従うなら、cにいたる ときににその動体は移動したと言えるわけなので、そうした中間状態はあ りえないことになります。 この小さな異論は大きな帰結をもたらします。詳細は割愛しますが、その 異論をもとに、アリストテレスが同書で列挙している議論の多くが否定さ れていくことになり、ある意味圧巻でもあります。権威を無批判で受け入 れないこと、それがニコラの信条なのでしょう。ですがその懐疑的姿勢 は、やがて教会側からの異端の嫌疑すら呼び寄せてしまうのでした……。 * * * ニコラの議論は妙味があって面白いのですが、ここではひとまず置いてお き、私たちは先に進むことにしましょう。今度は、前に文献購読シリーズ で取り上げたことのあるリミニのグレゴリウスについて、無限についての 考え方を中心に再度見てみたいと思います。 参照しているアンソロジー本の解説によれば、自然学の立場で議論するほ かの論者たちと違い、リミニのグレゴリウスはあくまで神学の文脈から無 限について取り上げているといいます。その精神は基本的にドゥンス・ス コトゥスを継承しているとされます。つまり、数学的論理を神学に持ち込 んでいるのだというわけですね。その上でグレゴリウスの独自性は、なん といっても無限概念の詳細な定義にあるとされます。というわけで同アン ソロジーは、主著『命題集注解』から無限の定義を扱った箇所、すなわち 第二書第二区分を採録しています。さっそく内容を見ていきましょう。 まず最初に示されているのがグレゴリウスの基本的な考え方です。それ は、どのような大きさも無限個の大きさから成る、つまりどのような大き さであろうと無限の部分に分割できるという立場です。次いでグレゴリウ スは、「無限」という語句について、共義的意味と自立的意味との区別を 提唱します。共義的意味の場合、無限であるとは、「それ以上はないとい う(極限の)大きさに、まだ至っていない」「それ以上がないほどの(極 限の)数にはなっていない」といった、「限定がない」といういわば否定 的な定義になります。ですがグレゴリウスは、むしろその場合の定義は、 ある有限の大きさが与えられたとき、それよりも大きなものが必ずあると いうこと、と言うほうが適切ではないかと述べています。 自立的意味の場合、無限とは「それ以上があり得ないほどの大きさ」とい うことになります。一見、肯定的な定義ということになりそうですが、そ こには「そうした大きさはありえない」という暗示的意味が含まれてい る、とグレゴリウスは見なします。しかしながら、たとえば世界(コスモ ス)などは「それ以上があり得ないほど大きい」と考えられるものの、神 が創ったものである以上無限ではありません。とすると、やはりこの定義 も修正しなくてはならなくなります。グレゴリウスが提案するのは、「大 きさに関わらずあらゆる有限の量よりも大きいこと」あるいは「あらゆる 有限の多数性よりも数が多いこと」という定義です。このように、グレゴ リウスは従来型の無限概念の定義を批判をし、より厳密な定義を探ってい きます。そうした定義の変更は、ではどのような帰結をもたらすのでしょ うか。そのあたりを考えつつ、グレゴリウスの議論を追っていくことにし ます。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ジョン・ブランドの霊魂論(その18) 今回はいよいよブランドの霊魂論の最終回となります。前回に引き続き、 魂が身体のどこに宿るかという議論が展開しています。 # # # 380. Ad praedictas autem rationes sic resistimus. Dicendo quod ex constrictione cordis provenit dolor, quia cor est unum principalium membrorum; et ideo quia anima appetit esse in corpore, appetit anima ut cor existat in debita dispositione; unde si adveniat constrictio molestatur ipsa anima, quia iam recedit cor a debito organo; et ideo ex constrictione cordis provenit dolor in anima ne cor deficiat per constrictionem. Ex dilatatione vero cordis provenit gaudium in anima, quia cor est naturaliter calidum: unde suum debitum esse est esse in caliditate. Caliditatis autem est dissolvere et dilatare; et ideo ex dilatatione cordis provenit gaudium in anima. / 380. 上に記された論拠について、私たちは次のように反論する。苦痛は 心臓の収縮から生じると述べているのは、心臓が主たる構成要素の一つだ からである。それゆえ、魂は身体のもとにあることを欲する以上、魂は心 臓がしかるべき状態で存在するよう望む。したがって収縮が生じるとき、 魂は煩わされることになる。というのもその場合、心臓は器官としてのし かるべき状態から逸れることになるからだ。よって心臓が収縮によって不 全に陥らないよう、心臓の収縮から魂のもとに苦痛が生じるのである。一 方で心臓の弛緩からは、魂のもとに喜びが生じる。なぜなら心臓は本来熱 を帯びているからである。そのしかるべき状態とは熱を帯びた状態なの だ。ところで熱を帯びている状態とは解放・弛緩することでもある。ゆえ に心臓の弛緩から魂のもとに喜びが生じるのである。/ Propter hoc quod cor debet regi ab anima est in organica dispositione et debita sibi et regulari quando sic dilatatum est cor. Interdum tamen potest esse cordis dilatatio vehementi gaudio existente, quod cor ultra modum dilatabitur ita quod homines debitae memoriae et debitae scientiae viam amittant. Ex ascensu autem sanguinis circa cor provenit ira, quia cor naturaliter est calidum, et sanguis naturaliter est calidus, et ita calidum adicitur calido, et tanto magis abundat ibi caliditas ex corde dissoluto et rarefacto, et ita est ibi timor et levitas: quoniam ex dilatatione timor, et ex rarefactione levitas. Sed quando cor est inflatum et agile, tunc habet homo spem habendi victoriam de aliqua molestia sibi illata. Sed ira est cum spe habendi victoriam, et ita ex ascensu sanguinis circa cor provenit ira. In huiusmodi autem casu contingit quod sanguis ascendit circa cor, quia cum cor molestetur ab aliquo accidente fugit sanguis ad ipsum consolandum; et sic, ut praeassignatum est, cum spe habendi victoriam nascitur ira. 心臓は魂によって統治されなくてはならないことから、その器官にはしか るべき状態というものがあり、かくも心臓が弛緩したときには調整がなさ れるのである。だがときおり、激しい喜びが生じて心臓が弛緩する場合が あり、その場合、心臓は過度に弛緩し、人はしかるべき記憶やしかるべき 学知の方途を踏み外す。一方、心臓の周りに血液が上昇することで怒りが 生じるのは、心臓が本来熱を帯びており、血液も同様で、熱を帯びたもの に熱を帯びたものが加わり、かくして緩んで希薄化した心臓からそこに熱 が過剰にあふれるからであり、かくして恐れや敏捷さがもたらされる。弛 緩からは恐れが、希薄化からは敏捷さが生じるからである。だが心臓が膨 張し活発に動くとき、人は自分にもたらされたなんらかの問題に打ち勝つ 望みを抱く。だが、打ち勝つ望みには怒りがつきものだ。血液が心臓の周 りに上昇することから怒りが生じるのである。その場合に血液が心臓の周 りに上昇するのは、心臓がなんらかの出来事で煩わされると、心臓の強化 のために血液が集まるからである。かくして、上で示したように、打ち勝 つ望みとともに怒りも生じるのだ。 381. Non oportet autem quod anima sit in sanguine propter hoc quod, cum anima sit vis nutritiva corporis et eiusdem conservativa, quantum in se est, transmittit ipsa per sui illuminationem et vivificationem ipsum sanguinem per totum corpus ubi opportunum est eum esse, nisi aliquid eam impediat, cum eius intentio convertatur in corporis conservationem, ut per existentiam eius in corpore acquirat ipsa anima sibi purae veritatis participationem. 381. しかしながら、次のことをもって、必ずしも魂が血液のもとにある ことにはならない。魂は身体の滋養の力、保存の力をなしており、身体の もとにある限りにおいて、何か障害がない限り、血液の照射と活性化によ ってその力を、それが存在してしかるべき身体全体へと伝える。魂の意図 は身体の温存において保持されるからであり、魂が身体のもとに存在する ことによって、その魂はみずからにとっての純粋な真の参与を得るのであ る。 # # # 前回の箇所では、魂が心臓もしくは血液のもとに宿っているという説が紹 介されていました。で、今回はその義論に対しての反論が示されていま す。心臓の収縮・弛緩から苦痛・喜びが生じるのだから魂は心臓にある、 とする説に対して、必ずしもそうとはいえないとブランドは反論します。 心臓を司っている魂が、その臓器が本来のしかるべき状態にないときに、 魂が煩わしさを感じるだけのことだというのですね。一方の喜びは、心臓 の本来の状態(熱を帯びた状態、弛緩した状態)に対する魂の反応だとさ れていますが、そうした弛緩状態・熱を帯びた状態もまた過度になりえ、 するとこれまた本来の状態から逸脱することになり、恐れが生じて脈拍が 速くなったりするというわけです。すると今度はそれを克服するために、 血液が集まり心臓を強化しようとし、望みと怒りが生じるのだと説明され ます。逸脱と制御の関係からのこうした説明は、基本的に中庸の思想の上 に立っていますね。一方で精気の考え方がすっぽり抜け落ちている点が、 アヴィセンナの説明体系などとは異なっています。 ブランド自身は、魂は全体として身体の全体に居合わせるとの説を支持し ているようです。「身体の全体に全体として居合わせる魂」という考え方 は、かなり古くからあるものです。たとえば四世紀ごろの新プラトン主義 者イアンブリコスなどは、魂と身体は相反する異質なものながら、両者が 居合わせる(シュネパゴー:何かに対して異質なものを呼び込み合わせ る)ことで一つの生命をなしている、と述べています(『神秘について』 (ポルフュリオスへの返答)I-17)。またそれは、はるか後代にまで引き 継がれる考え方でもありました。たとえばデカルトなども『情念論』の第 三〇節において、魂は身体のあらゆる部分に同時に結びついている、ある いは身体全体と結びついている、と記しています。それは身体が一体で不 可分であるからでもあり、また魂の本性が広がりや大きさ、その他の質料 的な属性とは一切関係しないからでもある、と述べています。 一つ興味深いのは、デカルトにおいては精気の考え方が復活していること ですね。デカルトの議論では、そもそも魂は受動と能動の二つの側面をも っているとされています(第一七節)。受動の側面というのは、外部の対 象や身体内部から喚起される諸感情のことで、能動の側面というのは意志 に相当します。前者の諸感情を司っているのは、脳内にある精気の働きで あるとデカルトは断言しています。これら受動と能動の機能は、ブランド のテキストでは(今回の本文としては触れませんでしたが)二つの問題、 すなわち共通感覚と意志論の問題にオーバーラップしています。このあた り、最後に簡単に触れておくことにしましょう。 ブランドのテキストでは第一七章で共通感覚(sensus communi)を取 り上げています。ここで共通感覚と言われるのは、アウグスティヌスが内 的感覚と呼んだものとされ、ブランドはアヴィセンナを引いて、五感から もたらされる印象を受け取る、秩序付けの能力だとしています。カント哲 学なら悟性と呼ばれるような機能ですね。ブランドはたとえとして、様々 な水源から様々な河川を通じて流れてくる水を、一箇所に溜めるため池の ようなものだと述べています。また、雨水の滴が直線的に連なるのを、直 線として知覚するのもその共通感覚の作用だとしています。前に「精神の 眼を向ける」といった表現が出てきましたが、そうした意志の作用に応じ て、実際に視覚や触覚を対象に向けるといった操作を担うのもその共通感 覚だとされます。 共通感覚の話で興味深いのは、どちらかと言えば渾然一体となっている一 種の「メタ機能」が、別個のものとして記述されていることでしょう。視 覚が成立するときには、外的な感覚器官は像を知覚しますが、見ている自 分そのものは知覚していません。ですが私たちはそれを見ていることを意 識できたりもします。そうした知覚は視覚そのものとは別ものだと考えら れ、これに内部感覚もしくは共通感覚の語を当てているわけです。二重の 知覚構造として描かれているわけなのですが、再びデカルトを引き合いに 出しておくと、このあたりの機能は、そちらでは魂の能動的な側面と一体 であるかのように扱われていくことになります。「名づけはつねに最もノ ーブルなものでなされる」とデカルトは述べ、ゆえにそうした知覚は、そ れを望む魂の作用として括られる、というのですね(『情念論』第九 節)。 意志はどう位置づけられるのでしょうか。もちろんそれは魂に内在するも のではあるわけですが、ブランドの場合、自由意志を司る理性と善性とは 本質的に一つだとされ(第二六章)、そのため自由意志は本来なら善に向 かうものとされます。それが罪へと傾くのは心的な虚弱さのせいだと言わ れます。自由意志とはいえ、完全に「自由」であるかといえばそうでもな く、そこには一種の傾向が宿っていることになります。原則としてあらゆ る制約から自由な意志を掲げるデカルトなどとは、だいぶ異なっているよ うに思われます。 それにしても、ブランドはアヴィセンナ的な精気論をなぜ採用していない のでしょうか。これは疑問点として 残ってしまいました。この問題を詳 しく取り上げるには、ブランドが当時の医学についてどのような知識をも っていたか、あるいはアヴィセンナのどういった著書をどのような形で読 んでいたのか、という問題が明らかにされなくてはならないように思われ ます。とするなら、ブランドについての全体像というか、詳細なモノグラ フが書かれなくてはならない気がしますが、それはすぐにどうこうできる ようなものではありません。というわけで、さしあたりこの問いはオープ ンなままにしておくしかありません。ほかにもいろいろな問題を取りこぼ してはいますが、とりあえずいったんブランドの霊魂論は了ということに したいと思います。 というわけで、次回からはまた別のテキストを見ていきたいと思います。 ロバート・グロステストの『光学論』です。これは短いながらグロステス トの代表作で、重要な著作に位置づけられています。ブランドの議論など とも、もしかするとクロスするかもしれませんね。どうぞお楽しみに。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月08日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------