〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.258 2014/03/08 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その13) 前回見たように、リミニのグレゴリウスは無限という概念に共義的意味と 自立的意味を区別します。たとえば(グレゴリウスが挙げている例です) 「人というものは無限に存在するであろう」という命題があったとする と、無限が「極限の大きさにまだ至っていない」という共義的意味である ならば、その命題は真となります。どんな有限の数が与えられても、それ よりも多くの人間が存在するであろうからです。これが「極限の大きさで ある」という自立的意味であれば、その命題は偽となります。どのような 有限の数が与えられても、それより多く存在する、ということにならなく なってしまうからです。 この意味の区別をもとに、グレゴリウスは「あらゆる大きさは無限の部分 から構成されている」ということを論証しようとします。その議論の展開 は、まず(1)どのような大きさにも現実態として複数の部分がある、 (2)どのような大きさにも共義的意味での無限個数の部分がある、 (3)どのような大きさにも自立的意味での無限個数の部分がある、とい う形で進みます。 (1)についてグレゴリウスは、所与の大きさに、互いに区別される部分 が存在することは明らかだと述べ、また各部分にもそれぞれより小さな部 分が区別できることも明らかだと述べています。(2)については、いか なる大きさのいかなる部分にも部分があるとするなら、その所与の大きさ には無限個の(つまり、つねに極限の個数の手前の)部分があるのではく てはならないことになる、としています。さもないと、どこかでそれ以上 分割できない「不可分のもの」を認めなくてはならなくなりますが、グレ ゴリウスはそれを認めることはできないのですね(その論証は別の箇所で 行われているため割愛されています)。(3)については、もし無限個の 部分があるのだとすれば(共義的な意味で)、それは任意の有限個の要素 よりも多くの個数あることになり、ゆえに自立的意味においても(つまり 極限の個数だという意味でも)無限であることになる、としています。 重要なのは、まず共義的意味の無限が論証されてこそ、自立的意味の無限 も論証されるという点です。これを逆にした場合、無限がまずは極限の大 きさ、すなわちある種の有限ということになってしまい、本来の無限の概 念にそぐわない事態に陥ってしまうからです。グレゴリウスはこれを「任 意の大きさには無限個の部分がある。ゆえに任意の大きさをなすすべての 部分は数の上で無限となる」という命題で示しています。前段の無限は共 義的、後段(結論部)の無限は自立的に解釈するのが妥当だというわけで す。 同じアンソロジー本には、テキストとしてもう一つ、同じ『命題集注解』 から第一書区分四二ー四四、問四の一部も収録されています。そこでは部 分と全体についての話が取り上げられていますが、グレゴリウスはそうし た概念にも二つの意味を区別します。「一般的(共通の)意味」と「固有 の意味」です。「部分Aを含む全体」という場合、共通の意味ならば全体 とは「そのAと、それに加えてA以外で(その集合に)含まれうるすべ て」を指し、「部分」とはその集合に含まれる任意のものを指します。一 方、固有の意味での「全体」では、上の「一般的意味」で含まれる部分A の要素の数とA以外の要素の数とが、全体の数に一致することを含意する とされています。つまり、前者の意味での全体と部分は関係性のみが問わ れ、後者の場合には数的な一致も問われます。これもまた(そう明示され てはいませんが)共義的意味、自立的意味に対応する考え方です。 この区分を、グレゴリウスは群の議論に当てはめて示しています。まず一 般的意味の場合を考えます。A群が別のB群に包摂される関係にあったと します。つまりAの要素はすべてBにも含まれ、なおかつBにはA以外の要 素も含まれているとします。するとその場合、BはAに対して全体、AはB に対して部分ということになります。ここで言う群が仮に無限の群だった としても、その関係性は変わらないので、AはBの部分をなすと言うこと ができます。では固有の意味の場合はどうでしょうか。そちらでもBはA にとっての全体、AはBにとっての部分という関係性は上と同様ですが、 AとBの群がともに無限だった場合、事情は異なってきます。固有の意味 の場合には数の一致が問題になるので、AとA以外の要素の数を合わせた ものは、Bの要素の数と一致しなければなりません。ですがAとBはとも に無限なのでもとから一致してしまい、A以外の要素が入り込む余地がな くなってしまいます。かくして、そこでは全体・部分という関係性が成立 しなくなります。 これに関連してグレゴリウスは、無限の大小について考察をめぐらしま す。何かの大小を言う場合にも二つの意味がある、とグレゴリウスは考え ます。一つは、いずれかがより多くを含み、他方がより少なく含む場合で す(固有の意味=自立的意味)。もう一つは、いずれかが他方の要素をす べて含み、さらに他方には含まれない要素も含むような場合です。その場 合、含む側は含まれる側に対してより大きいと見なされます(非固有の意 味=共義的意味)。無限に関しては、前者の意味だと比較はできません。 無限なのですから、どちらの要素が多いとか少ないとか言うことはできな いからです。ですが後者の意味でなら比較が可能になります。ここでもま た後者、つまり共義的意味が重視されています。グレゴリウスは、前者の 意味で全体もしくは部分をなすものは後者の意味でも全体もしくは部分を なすのに対して、逆は必ずしも真ではないことを強調しています。 共義的意味の考え方は無限を扱う際にはとても重要となることがわかりま す。このような意味の区別は、精緻な議論を行うための重要な手段をなし ているのですね。まさにこれがグレゴリウスの議論の要の部分で、不可分 論側の反論を斥けたり、外見的な矛盾を回避したりするための有益なツー ルになっています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの光学論(その1) さて今回から、ロバート・グロステストの『光について(の論)』 (Tractatus de luce)を読んでいきたいと思います。これは重要なテキ ストですが、全体は短いものなのですべて訳出することにします。底本と するのは、チェチリア・パンティ訳・注釈による羅伊対訳版の『ロバー ト・グロステスト:光について』("Roberto Grossatesta - La luce", trad. Cecilia Panti, Edizioni Plus - Pisa University Press, 2011)で す。同書はテキストそのもののほかに、訳者による長大なコメンタリーが 付されています。かなり細かなコメンタリーなので、全体を取り上げるこ とはできませんが、多少とも必要に応じて参照していくことにします。 最初にグロステスト(グロステートという発音もあります)についてごく 簡単にまとめておきましょう。グロステスト(1168頃〜1253)は、 1235年にリンカン(イングランド東部)の司教となった人物ですが、そ れ以前の生涯についてはよく知られていない部分も多々あるようです。グ ロステストはサフォーク州の貧しい家庭に生まれたといいます。1195年 にヘレフォードの司教のもとに雇われ、その後1220年代後半にはオック スフォードで教鞭を執とったとも言われますが、おそらくは同会がオック スフォードに設立した修道院において、読師として神学を講じていたのだ ろうともいわれています。学問的研鑽のため、1220年代半ばごろに一時 フランスに渡ったという説もあります。グロステストは自由学芸はむろ ん、ほかに医学や自然学など広範な学問に秀で、実務にも長じていたとさ れます。またフランシスコ会に共感を寄せつつも、同会に所属していたわ けではないようです。思想的にはアウグスティヌスからの多大な影響を受 けているといわれますが、一方でアリストテレスなどの翻訳・注解でも知 られ、アヴィセンナやアヴェロエスを早くから取り入れていたりもしま す。著作も実に多面的で、そのあたりも興味の尽きないところです。 この『光について』は、1225年ごろに書かれたのではないかとされてい ます。では具体的にテキストを見ていきましょう。今回は初回ですので、 まずは肩慣らしという感じで冒頭部分の二つの段落を訳出してみます(粗 訳にて御免)。 # # # Formam primam corporalem quam corporeitatem nominant lucem esse arbitror. Lux enim per se in omnem partem seipsam diffundit ita ut ex puncto lucis sphera lucis quamvis magna subito generetur, nisi obsistat umbrosum. Corporeitas vero est quam de necessitate consequitur extensio materie secundum tres dimensiones, cum tamen utraque, corporeitas scilicet et materia, sit substantia in se ipsa simplex carens omini dimensione. Formam vero, in se ipsum simplicem et dimensione carentem, in materiam similiter simplicem et dimensione carentem dimensionem in omnem partem inducere fuit impossibile, nisi seipsam multiplicando et in omnem partem subito se diffundendo et in sui diffusione materiam extendendo, cum non possit ipsa forma materiam relinquere quia non est separabilis, nec potest ipsa materia a forma evacuari. 光とは、物体性と称される、物体の第一形相であると私は考える。という のも、影をなすものに阻まれない限り、光源を起点に、いかように大きな 光の球であろうと速やかに出来上がるように、光はおのずとあらゆる場所 に広がるからである。物体性とは、三次元方向への質料の広がりから必然 的に生じるものだが、しかしながら物体性と質料のいずれもそれ自体とし ては、いかなる次元をも欠いた単純な実体であろう。それ自体としては単 一で次元を欠いている形相が、同様にすべての部分において単一かつ次元 のない質料に次元を導き入れることは、次のようでなければありえなかっ たであろう。つまり、形相は分離できないことから、質料から離れること はできないし、質料の側も形相から引き上げることはできない以上、形相 みずからが複数化し、速やかにすべての部分に広がり、その広がりにおい て質料を延長する以外になかったのである。 Atqui lucem esse proposui, cuius per se hec operatio, scilicet seipsam multiplicare et in omnem partem subito diffundere. Quicquid igitur hoc opus facit aut est ipsa lux aut est hoc opus faciens in quantum participans ipsa luce, que hoc facit per se. Corporeitas igitur aut est ipsa lux, aut est dictum opus faciens et in materiam dimiensiones inducens in quantum participans ipsa luce et per virtutem ipsuius lucis. At vero formam primam in materiam dimensiones inducere per virtutem forme consequentis ipsam est impossibile. Non est ingitur lux forma consequens corporeitatem, sed est ipsa corporeitas. しかしながら私は、光というものが、本質においてその作用、つまりみず から複数化しあらゆる部分に速やかに広がることにほかならないと提唱し た。したがってそのような作用をもたらすものは何であれ、光であるか、 あるいは光がなす作用を、その光に与る限りにおいてなすもののいずれか である。したがって物体性とは、その光であるか、あるいはその作用をな すとされるもの、つまり光に与る限りにおいて、その光の力を通じて質料 に次元を導き入れるとされるものであるということになる。だがここで、 第一形相がそこから生じる形相の力で質料に次元を導き入れるのはありえ ない。したがって光は物体性をもたらす形相ではなく、物体性そのものと いうことになる。 # # # いきなり冒頭から興味深い議論が始まっています。物体性(物体の第一形 相)は光にあり、というのですね。モノが大きさ(空間的な広がり)をも つのは、そもそも光があまねく広がることによるのだというわけですの で、ここでの光はすでにして、普通に私たちが考える光とは別物であるこ とが示唆されています。底本のコメンタリー部分を見てみると、どうやら この第一形相が光であるとする考え方はグロステスト独自のもののようで す。第一形相はほかの形相に先んじる根源的な形相で、現勢化の原理をも なしています。で、それは次元的な広がりへと拡散していくという固有の 機能を通じて、質料に空間的な広がりをもたらすとされているわけです (底本p.87)。 そのあたりの話にはリファレンスとなる文献が見いだせないわけではあり ません。やはり同じコメンタリーからですが、まず「第一形相が物体性と 同一である」という点についてはアヴィセンナが挙げられています。その 『形而上学』には、物体性とは自然の連続性の形相であるという一節があ るようですし、また『自然学』には、物体性はほかの形相に先立ち、事物 に分かちがたく結びついてその存在をなす、といった記述があるといいま す(底本p.90)。物体性は第一形相と同一視されていることがわかりま す。 さらにアヴィチェブロンの『生命の泉』も重要なソースとして指摘されて います。そちらはグロステストのより近接的な着想源ではないかとも言わ れます。そこには、照らされる物体へと光が拡散していくように、普遍的 形相は普遍的質料へと拡散するのだという記述があります(『生命の 泉』、II、1.24)。第一形相と光との同一視について、それが着想源にな っている可能性があるというわけですね。で、アヴィチェブロンでは光と 物体性はアナロギアの関係でしかないのに対して、グロステストは両者を 実体的に同一と見ています(同、p.91)。まさにこれが独創的とされる 部分なのですが、グロステストがいかにしてそのような考えに至ったのか がとても気になるところです。 グロステストが光について取り上げた著作はほかにもいくつかあり、とり わけ重要だとされているのが創世記の注解となる『ヘクサメロン』です。 そこでは、昼と夜を分けるという機能を光に認めるという、アウグスティ ヌス(やバシレイオス)の解釈にもとづく議論が継承されているといいま す。コメンタリーではサン=ヴィクトルのフーゴーなども挙げられていま す。そうした聖書解釈の流れと、アラブ系ソースとが出会う場所に、グロ ステストの光についての論は位置しているようです。ここではそうしたソ ースのすべてを見渡すことはできませんが、さしあたり主要なものについ て、グロステストの本文と合わせて見ていけたらと思っています。という わけで、ぼちぼちと読んでいくことにします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は03月22日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------