〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.260 2014/04/05 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その15) 「無限同士の間に大小の関係はない」というのがオレームの第一の結論で した。で、一見異なる無限の物体でも変形操作によって同じになる、とい うのが第一に挙げられていた議論でした。オレームが二つめに挙げている のは、二つの無限のうち片方がもう片方を、有限な部分によって凌駕する ことはありえないという議論です。ちょうどこれは、下の文献購読シリー ズで読んでいるロバート・グロステストの議論への反論にもなっていま す。オレームは、有限のものと無限のものとが比の関係を作ることはあり えないとしています。確かに無限と有限が○○対一というふうに数値化で きるとは思えません。また、たとえば1フィートと半フィートのそれぞれ の線分に、同じ単位の長さが無限に加えられてできる無限の直線の場合、 両者の違はその有限の半フィート分だけですが、オレームはそれを、全体 から見たらほとんど無視できるほどの微小なものになってしまうと考えて います。 もう一つ、オレームは三つめの議論を加えます。これは偶数と奇数の問題 です。同じ大きさの白と黒の物体が交互に無限に並んでいたとします。次 いで黒がはじかれ、黒があった場所(偶数番目とします)に白が詰めてい くとします。ですがもとよりそれは無限なので、全体の大きさは変わりま せん。当初の状態、つまり数で言うなら偶数と奇数を合わせた全体と、後 の状態、つまり奇数だけの全体とは、したがってイコールということにな ります。 ところが、これとは別に第二の結論もあります。それは「互いに等しくな い二つの無限がありうる」というものです。この議論もまた思考実験にお いて進められます。幅と奥行きが1フィートで、長さだけが一方向に無限 に伸びているような物体Aと、まったく同じ形の物体Bがあったとしま す。両者は基本的に等しいと見なすことができますが、これに、片方には 幅4フィートの無限の物体C、もう片方には幅2フィートの無限の物体Dを 継ぎ足すとします。すると、両者とも無限の物体ではあるものの、互いに 等しいとは言えなくなくなります。また、Aを長さの方向(無限に伸びて いるのと逆の方向に)に、Bを越えるまで伸ばすこともでき、その場合、 AがBよりも大きくなるわけではないにせよ(変形しただけなのですか ら)、AとBとは等しくないと見なすこともできます(あれれ?でも第一 の結論で示された変形操作では、無限はすべて同じになるはずだったので すけどね……)。 この二つの結論から次の議論が可能になります。「思考実験における二つ の無限について、大小を言うことはできない(第一の結論)。とすれば、 それらは互いに等しいか、比較しえないかのいずれかということになる。 ここで、二つの無限は必ずしも等しいとは言えない。等しくない場合もあ るからだ(第二の結論)。ということは、結論として、無限同士を比較す ることはできないという選択肢が残る」。こうして無限同士の比較そのも のが否定されるというわけなのですが、これは問題含みの議論ではありま すね。とくにこの第二の結論の部分は不十分で、常に両者が等しくないこ とを論証する必要があるはずですし、しかも第一の結論の議論と矛盾しさ えします。 本文はこのあと、想定される異論とそれらへの反論が続きますが、そのあ たりはあまり重要ではないと思われるので割愛します。ここでは、無限の 議論を補完するとされる、『エウクレイデス幾何学の諸問題』での議論を 見ておこうと思います。そちらはより理論的な議論になっています。その 第一問は、「大きさは、一定の比の各部による分割で無限に縮小できる か」というものです。これはもともとヨハネス・カンパヌス(13世紀イ タリアの占星術師・数学者で、エウクレイデスの『幾何学原論』の翻訳を 手がけた人物)の議論にもとづいているもののようです。オレームの議論 は、否定的見解に対する反論という形を取っています。ここで挙げられて いる否定的見解とは、「連続体において、同じ大きさの部分が無限に連な っていることはない(前提)。同様に、同じ比をなす部分が無限に連なっ ていることもない(結論)」というものです。前提部の理由は、さもない とその連続体は無限の連続体ということになってしまうからだといいま す。結論部の理由は、同じ比をなす部分もなんらかの大きさをもった部分 であり、前提部と同じ理由で無限に連なっているとは考えられない、とな っています。 「一定の比の各部」にはいろいろな場合がありえます。たとえば1フィー トの線分があったとして、これをまず半分に、次いで残りをまた半分に、 その残りをまた半分にと繰り返していく場合(仮にこれをAとします) や、1フィートの千分の一を取り除き、残りの部分の千分の一を取り除 き、またその残りの千分の一を、と繰り返していく場合がありえます(こ れをBとします)。ですがいずれの場合でも、無限回の繰り返しにいたる ことをオレームは指摘しています。同じ大きさで最初の大きさを分けてい けば、有限回の分割によって分割を終えてしまえます。ですが同じ比での 分割であれば、全体の残りが小さくなるにつれて切り分ける部分もまた小 さくなっていきます。こうして無限回の分割が可能になるわけですね。 Aの一回分の部分はBの一回分よりも当初は大きいわけですが、何回も繰 り返すうちにある時点からは、Aの一回分はBの一回分よりも小さくな り、さらにその差は広がっていきます。オレームはこの話でもって、同じ 比での分割が有限ではないことを示そうとしているわけなのですが、収録 テキストの導入用の解説によれば、オレームが無限を、想像上のものなが らあくまで現実態として思い描いていることが重要なポイントになってい るようです。つまり、そのような無限が実際にありうるかどうかはそもそ も問題にされていないのですね。純粋に数学的な議論においては、実在性 を考慮せずともよい、とオレームは確信しているかのようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの『光について』(その3) 『光について』の続きの部分です。数学的な話が取り上げられています。 さっそく見ていきましょう。 # # # Est autem possibile ut aggregatio numeri infinita ad aggregationem infinitam in omni numerali se habeat proportione et etiam in omni non numerali. Et sunt infinita aliis infinita plura et alia aliis pauciora. Aggregatio enim omnium numerorum tam pariam quam impariam est infinita et ista est maior aggregatione omnium numerorum parium, que nihilominus est infinita. Excedit namque eam aggregatione omnium imparium. Aggregatio etiam omnium numerorum ab unitate continue duplorum est infinita. Et similiter aggregatio omnium subduplorum illis duplis repondentium est infinita, quorum tamen subduplorum aggretationem necesse est esse subduplam aggregationi duplorum suorum. Similiter aggregatio omnium numerorum ab unitate contiune triplorum tripla est aggregationi omnium subtriplorum illis triplis respondentium. Et similiter patet de omnibus speciebus numeralis proportionis, quoniam secundum quamlibet earum proportionali potest infinitum ad infinitum. だが、ある無限の数の総和が、別の無限の総和に対して、整数での比例の 関係にあることも可能であるし、整数ではない比例の関係にあることも可 能である。他方、無限においても他の無限より大きいものもあれば小さい ものもある。偶数と奇数の両方を併せ持つ総和は無限であり、やはり無限 であるような偶数だけの総和よりも大きい。もちろんその全数の総和は、 奇数だけの総和をも凌駕する。さらに、一を起点とした連続する倍数の総 和は無限である。また同様に、それぞれの倍数に対応する半分の数の総和 も無限だが、その半分の数の総和は必然的に、もとの倍数の総和の二分の 一の比になる。同じように、一を起点とした連続する三の倍数の総和も、 それぞれの三倍数に対応する三分の一の数の総和の、三倍の比になる。同 様にどの比例数列の種についてもこのことは明らかである。どの数列の総 和の場合でも、無限と別の無限と比の関係をなすことができる。 Si vero ponatur aggregatio infinita omnium duplorum continue ab unitate et aggregatio infinita omnium subduplorum illis duplis correspondentium tollaturque de aggregatione subduplorum unitas vel quivis numerus finitus, iam subtractione facta, non remanebit inter aggregationem primam et residuum de aggregatione secunda dupla proportio, sed nec aliqua numeralis proportio; quia si de numerali proportione per subtractionem a minori extremitate relinquatur alia numeralis proportio, opprtet ut subtratum illius a quo subtrahitur sit pars aliquota vel aliquot partes aliquote. Numerus vero finitus numeri infiniti aliquota vel aliquot aliquote esse non potest. Subtractio igitur numero finito de aggregatione subdupla infinita non remanet proportio numeralis inter aggregationem duplam infinitam et residuum de aggregatione subdupla infinita. だが、一から始まり連続する無限の倍数の総和と、それぞれの倍数に対応 する無限の半分の数の総和を考え、その半分の数の総和から一ないし特定 の数を除くとしよう。ひとたびその減法が行われると、最初の[倍数の] 総和と二つめの総和の残る部分との間には、倍の比の関係は残らなくな る。そればかりか、他の比例関係も成立しなくなる。もし最小の数の減法 を経ても別の数比の関係が残るとするなら、減数が被減数の約数である か、いずれかの約数の約数になっていなければならないが、特定の数が無 限の被減数の約数であったり、約数の約数になっているなどありえないか らである。したがって、倍数に対応する無限の半分の数の総和から特定の 数を除くならば、無限の倍数の総和と、倍数に対応する半分の数の総和の 残り部分との間に、数比の関係が残ることはない。 # # # 今回の箇所も原文がややわかりにくいですが、伊語訳の注釈にあるよう に、aggregatioを「寄せ集め」とか、あるいは近代的な意味での「集 合」などと解せずに、当時の概念にもっと近いとされる「総和」という訳 語を当てることで、いくぶん解釈の道筋が見えてきます。グロステストは まず、無限同士にも大小があるということを、全数の数列の和と、偶数ま たは奇数だけの数列の和との比較の例で論じています。上でオレームの反 論について触れましたが、オレームの場合は数列そのものを問題にして議 論を展開しています。一方、グロステストのほうは、あくまで総和で比較 しようとします。間引いたものと間引かないものとでは、間引かないもの のほうが「和が大きい」のは明らかだろうと考えているのですね。 さらに第二点として、無限であっても比の関係がありうるということを、 倍数とその半分の数の数列の和、および三倍数とその三分の一の数の数列 の和を取り上げて論じています。まず、1を筆頭とする倍数の数列{1, 2, 4, 8, 16……}と、それぞれの半分の数の数列{1/2, 1, 2, 4, 8……}を 考えます。ここでそれぞれの数までの和を考えてみましょう。たとえば最 初の3つまでの和を考えるなら、倍数の和は1+2+4=7、半分の数の和は 1/2+1+2=3.5となって、倍数の和とその半分の数の和は2:1の比になっ ていることがわかります。最初の4つまでを考えるなら、倍数の和は 1+2+4+8=15、半分の数の和は1/2+1+2+4=7.5となって、やはり2:1 の比になっています。これはいくつまでの和でも同様です。無限までの和 であろうと、両者の間には2:1の関係が温存されると考えられます。三倍 数と三分の一の数でも同様に、3:1の関係が成立します。 ところが、ここで、半分の数の数列から1を削除すると、残りの数列は {1/2, 2, 4, 8……}となります。すると、たとえば最初の3つまでの和 を考えたときに、倍数の和は1+2+4=7ですが、半分の数の和は 1/2+2+4=6.5となります。最初の4つまでの和ならば、倍数の和が 1+2+4+8=15、半分の数の和は1/2+2+4+8=14.5となって、両者の間 には一定の比が成立しなくなります。それでもなお整数比は個々のケース で成立してはいるわけですが、もし両者が無限であるなら、そもそも計算 が不可能になり、よって比較も不可能ということになります。いずれにし てもここで重要なのは、伊語訳の注にもあるように、グロステストが無限 という概念にも量的な大小がありえ、有限数が1つ取り除かれるだけで無 限の大きさは変わりうると考えていることです。 * * さて、前回予告したように、ジェームズ・マッケヴォイの参考書『ロバー ト・グロステストの哲学』から、『光について』を扱った第三部第一章を ポイントごとに少しずつ見ていきましょう。底本の訳者による注釈にもあ ったように、グロステストの着想源に大きな比重を占めているのは聖書の 創世記についての伝統的議論です。とりわけ重要なのがアウグスティヌス とバシレイオスだとされています。グロステストの言う「光」は、「第一 の」形相とされるわけですが、それは時間的な意味での「第一」と重ね合 わせられ、創造の原初の営為、世界のシステムの絶対的な端緒に置かれて います。 そうした創世記解釈のもととなっているのが、アウグスティヌスの『聖書 逐語注解』です。アウグスティヌスはそこで、神が最初に創った光は最初 の六日間の所業の間ずっとそこにあったと解釈し(ゆえに「昼」の語が繰 り返されているというのですね)、さらにその光は昼と夜を分けた「物質 的な光」だったと考えています(IV巻21.38)。実際その箇所には「最初 に創られた光とは、聖霊的な創造の形成・造形であり、夜とは残りの所業 において形成・造形されるべき事物の質料のこと」と記されています(エ ドモンド・ヒルの英訳本p.263)。 さらにバシレイオスの『ヘクサメロンについての説教』の影響も多少とも あると同著者は述べています(これは個人的には未確認です)。バシレイ オスの場合、光は最初に創られたものではなく、すでに創造済みの諸天を 照らすためのものとされているのだとか。諸天とエーテルは精妙で透明な ものから出来ている、というのですが、それは光と同一視されてはおら ず、光(lux)はそれらを瞬時に満たしたというのです。グロステストの スタンスとは少し違うようですが、それでもたとえば(グロステストの本 文の後のほうで出てくる)諸天の凝縮と希少化のプロセスについて、語の レベルでのアナロジーにすぎないとの留保付きではありますが、バシレイ オス(アウグスティヌスにも)に似たような記述を読み取ることができる ようです。バシレイオスは創造の最初の三日間を「流出と収縮」の律動の 期間だと述べているようなのです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月19日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------