〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.262 2014/05/10 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その17) ジャン・ビュリダンによる無限についての議論を見ています。今回は『神 学から数学へ−−一四世紀の無限論』からもう一つの収録テキストを見て いきます。ビュリダン『自然学の諸問題』第三巻の問一八です。「無限は あらゆる連続体の部分をなしているか」という問題が取り上げられていま す。これまで見てきたように、アリストテレスに従う論者の多くが無限の 分割可能性を取り上げて、無限は連続体の部分をなしていると見なしてき ました。ではビュリダンはどうでしょうか。前回のところで触れたよう に、ビュリダンは現実態としての無限を否定する方向性を打ち出していた のでした。 この問一八でも、「自立的意味」での無限(究極の大きさ・究極の個数と いう意味)を考えるなら、部分というのは限定されたものである以上、そ れが無限に存在することはありえない、とビュリダンは述べています。で すが、すると次のような異論もありえます。つまり、個々の部分は限定的 で無限ではないとしても、それらをすべて合わせた全体として見れば、部 分は無限にあるという議論です。ビュリダンはこれに対して、「すべて」 という表現を問題にします。「すべて」を「個々を列挙したすべて」とい う意味に取れば、全体はやはり有限の部分から成ることになるし、「すべ て」を集合的に取れば、やはりそれは限定個数ということになって、全体 は有限の部分から成ることになる、と反論しています。個々の部分をいく ら合わせたところで、自立的意味での無限をなすことはない、というので すね。 では「共義的意味」での無限ならどうでしょうか。ビュリダンは共義的意 味(いまだ究極の大きさ・個数に達していないという意味)に、次のよう な修正を加えます。すなわち、大きさならば「Bが無限であるというの は、任意の大きさBに対して常により大きなBがあるということ」、数な らば「任意の数Bに対して常により大きな数Bがあるということ」と規定 します。ここからビュリダンは、(1)無限(共義的な意味で)という場 合に問題になるのは長さや大きさ、あるいは速さや遅さといった性質だと いうこと、(2)「物体は無限だ」とは必ずしも言えない(どの物体も無 限であるというわけではない)こと、(3)限定詞つきの場合(つまり名 辞の対象が有限の場合)、無限だという述語づけはできないこと、(4) 連続体における部分は多数性において無限だとは言えないことを指摘して います。 この四番目が目下の主要な議論にあたりますが、その根拠はこうです。連 続体を最初に二つの部分に分けるとします。するとそれは二つの部分があ ることになりますが、それ以上の部分はありません。これが百の部分だろ うと千の部分だろうと、それ以上の部分はありえません。部分分けとはそ ういうもので、有限の部分にしか分割されないことになります。したがっ て部分は多数性において無限ではありえない、というわけです。 ビュリダンはこのように分割論での無限の議論については否定的です。 で、続いて今度は無限を知解する認識能力についても考察します。具体的 には「人間の知性は有限なのだから、知解できる概念の数も有限であり、 無限数の概念を捉えることはできない」という議論について検討している のです。いつもながらの分析方法にもとづき、ビュリダンは知性における 個物の数的な区別の仕方として三通りの様態を分けています。一つめは 個々の概念を一つずつ数え上げていくやり方です。たとえば馬を一頭ずつ 捉えていくような場合ですね。その場合、当然ながら知性は無限数の概念 を抱くことはできません。 二つめは、推測によって数えるやり方です。たとえば馬一〇〇頭を一括で 捉える場合で、そこでは一頭ごとに概念化する必要はありません。ですが この場合でも、対象はやはり有限なものに限定されます。それを越え出る 無限の対象を扱うことはできません。さらに、個々の数え上げから最もか け離れたやり方として三つめがあります。数え上げたものをもとに、数え 上げていないものを比などで推論するというやり方です。一〇フィートの 棒があるなら、その二倍の棒は二〇フィートだ、というふうに類推するよ うな場合です。 この三つめの場合、個別に数え上げることをしなくても、ある線分が百の 部分に分かれるとか、千の部分に分かれるとかということを、たとえば二 つの部分に分かれることからの類推で認識することができます。こうし て、任意の数を越える数の概念を、人間はいだくことができるというわけ なのですね。ということは、人間の認識は共義的意味での無限(可能態と しての)なら思い描くことは可能だということになります。ビュリダン本 人が明確な回答を示しているわけではないのですが、同テキストの抄訳と 解説を記しているジョエル・ビヤールによれば、ビュリダンの議論の主眼 は、無限を実定的に肯定する命題、あるいは類推にもとづいて無限を肯定 する命題すべてが真となるわけではないということを示す点にあったのだ といいます。そしてビュリダンの意図するところは、無限を考えるために 一四世紀に整備された様々な概念装置を、彼特有のしかるべき緻密さ・厳 密さで示してみることにあったのだろう、とまとめています。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの『光について』(その5) 今回はこれまでの第一形相としての光のほかに、もう一つの光が登場しま す。さっそく見ていきましょう。 # # # Lux igitur predicto modo materiam primam in formam sphericam extendens et extimas partes ad sumum rarefaciens in extimo sphere complevit possibilitatem materie, nec reliquit eam susceptibilem ulterioris impressionis. Et sic perfectum est corpus primum in extremitate sphere quod dicitur firmamnetum, nihil habens in sui compositione nisi materiam primam et formam primam. Et ideo est corpus simplissimum quod ad partes constituentes essentiam et maximum quantitate, non differens a corpore genere nisi per hoc quod in ipso est materia completa per formam primam solum. Corpus vero genus quod est in hoc et in aliis corporibus, habens in sui essentia materiam primam et formam primam, abstrahit a complemento materie per formam primam et a diminutione a complemento materie per formam primam. したがって光は、先述の方法にしたがって第一質料を球形に延長し、端部 を極限的に希釈化させ、球の末端部において質料の可能性を完成にいたら しめ、それ以上の刻印を受ける余地がないようにする。第一質料は「蒼 穹」と称される球の周縁部において完成するが、それを構成するのは第一 質料と第一形相以外にない。したがってその物体は、本質を構成する部分 についてはこの上なく単純で、かつ量においては最大限となるが、第一形 相のみによって質料が完成されるという点を除けば、類としての物体と違 うところはない。「この個物」あるいは「その他の個物」に内在する物体 の類は、その本質には第一質料と第一形相を有するが、第一形相による質 料の完成を遠ざけ、また第一形相による質料の完成の縮減をも遠ざける。 Hoc itaque modo completo corpore primo quod est firmamentum, ipsum expandit lumen suum ab omni parte sua in centrum totius. Cum enim sit lux perfectio primi corporis que naturaliter semper se ipsam multiplicat, a corpore primo de necessitate diffunditur lux in centrum totius que, cum sit forma substantialis non separabilis a materia, in sui diffusione a corpore primo secum extendit spiritualitatem materie corporis primi. Et sic procedit a corpore primo lumen, quod est corpus spirituale, sive mavis dicere spiritus corporalis, quod lumen in suo transitu non dividit corpus per quod transit, ideoque subito pertransit a corpore celi usque ad centrum. Nec eius transitus est sicut si intelligeretur aliquid unum numero transiens subito a celo usque ad centrum, hoc enim forte est impossibile. Sed suus transitus est per sui multiplicationem et infinitam generationem. このようにして第一物体、すなわち蒼穹が完成にいたると、それはあらゆ る部分から全体の中心に向けて輻射光(lumen)を拡散する。光(lux) は第一物体の完成を意味し、ごく自然に絶えることなくみずから増殖して いくが、その第一物体からは必然的に中心に向けて光が拡散される。実体 的形相は質料から分離できないがゆえに、第一物体はその光の拡散におい て、みずからとともに第一物体の質料の霊性をも延長する。このように、 第一物体から輻射光、すなわち霊的な物体−−私はこれを物体的霊と称し たいのだが−−が生じ、移動していく輻射光は、それが通っていく物体を 分割することはなく、したがって即座に天体を通り抜け中心へといたるの である。またその通過は、任意の物体が天空から中心まで即座に移動する 様のように理解されるようなものではない−−というのも、そのような移 動はおそらく不可能だろうからだ。そうではなく、その移動はみずからの 増幅と無限の生成によってなされるのである。 # # # 今回の箇所でポイントとなりそうな一つめは、光(ルクス)が増殖・拡散 してできる第一物体(天球)が、類としての物体とどう違うのかという点 です。底本から、チェッチリーア・パンティの注釈を見ておきましょう。 それによると、類としての物体と第一物体との違いは、形相の多数性、お よび物体としての密度の違いに尽きるといいます。つまり、第一物体が第 一形相と第一質料だけから成り、しかも極限的に希釈化(物体が存在しう るギリギリのところまで)されているのに対し、類としての物体は、複合 体としては第一形相と第一質料をもつものの、それだけで完成・自己完結 しておらず、他の形相を受け取る可能性、あるいは他の形相によって刻印 される可能性が残っているのだといいます。また完成・自己完結できない のは、それが一定の密度を持っているからだとされています。 今回の箇所には、光(ルクス)に対して、完成した第一物体が放出すると される、ルーメンなる別の光が出てきます。一応輻射光という訳語を当て てみましたが、問題含みかもしれませんね。普通に輝きと訳出するほうが よいのでしょうか。うーん、悩ましいところです。これも注釈で確認して みると、パンティはこれを光と質料に続く第三のエレメントとして重要視 しています。第一形相としての光と質料が結びつくことによって生じる微 細な部分を言うのだとされ、その微細さ・精妙さゆえに「spiritualis」と 称される、というわけなのですね。spiritualisは空気によって動くほどに 微細であるということで、転義的に霊的(霊もまたそうした精妙なものと されるので)という意味にもなるのでしょう。テキストでは、そのルーメ ンは瞬時に中心にいたるとされていますが、それは通常の移動といったも のではなく、ルーメンそのものの増幅や生成によってなされると記されて いますね。ちょうどルクスがそうだったようにです。 マッケヴォイの参考書『ロバート・グロステストの哲学』にも、その部分 をまとめて紹介している記述がありますが(pp.154-155)、そちらでは よりはっきりと、第一物体は最もシンプルな球形の物体で、量は最大とな り、その後に続くあらゆる物体のいわば「容器」をなすのだと記されてい ます。第一物体における質料はあまりに広がっているため、ごく薄い希薄 な状態にあり、それ自体で物体性というよりは霊性と同質のものになって いる、というわけです。そしてその第一物体は光と質料の複合体なのです から、その内側のあらゆる点は輝いている、つまり中心に向けて照り返し の光(ルーメン)を放っているというのですね。ルーメンはいわば霊的物 体であり、その後に続いて産出される別の物体にぶつかっても、それを通 り抜けるほど微細だとされているわけです。 マッケヴォイ本の真骨頂はソースの特定の議論ですが、このルクス/ルー メンをめぐる箇所については、グロステストに何か参照元があるというふ うには語っていません。底本での注釈を記しているパンティも同様です。 ということは、このあたりもグロステストのオリジナル……なのでしょう か。うーん、悩ましいところですね。ただマッケヴォイは、少なくとも 「質料の密度が抵抗の原因になっている」という議論については、プラト ンの『ティマイオス』の影響があるかもしれないと指摘しています(p. 162)。混沌としていて前存在的な質料が、世界霊魂の秩序づけの操作に 抵抗する、というくだりです。ただしそれはあくまで概論的な影響に限定 されるとの留保付きでもあります。 ちょっと先走ってしまいますが、次回に読む箇所に出てくる話に、ルーメ ンが中心に向かうことでそこに塊が集積し、それによって結果的に地上世 界ができるというくだりがあります。マッケヴォイによれば、これはアリ ストテレスの『天空論』第二巻に出てくる、「端部のいたるところから同 じように中心の一点に向かうがゆえに、必然的にその塊があらゆるところ から等しくなることは明らかである。というのも、あらゆるところから等 しい距離で結集するのであれば、必然的に中心から端部までの距離はどこ も等しくなるからだ。するとその形状は球であるということになる」 (297a、21から25)という箇所が着想源になっているとされていま す。その箇所を読んだグロステストが、端部から中心へのルーメンの移動 からも同じように球形が生じると考えたのだろう、とマッケヴォイは推測 しています。 世界の産出をグロステストはルクスおよびルーメンの拡散と凝縮によって 描き出そうとするわけなのですが、それはとりもなおさずアリストテレス が『天空論』などで示す、自然学的体系の世界観にほかならないとマッケ ヴォイは述べています。コスモスが有限であるとしていることや(アリス トテレスは現実態としての無限が存在する可能性を斥けます)、光の横溢 に満たされた世界観は真空の入る余地を残さないなどの点でも、両者の重 なりが如実に示されている、と同著者は考えているようです。この話、次 回も続きます。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------