〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.263 2014/05/24 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その18) これまでずっと見てきた『神学から数学へ−−一四世紀の無限論』もいよ いよ大詰めです。同書が最後に「特異な位置づけ」を与えているのが、 「超精妙博士」ことジャン・ド・リパです。この人物は、別名をマルキア のヨハネスともいうようなのですが、この名前は一四世紀において複数の 神学者が用いているという、癖玉の名前なのですね。で、このジャン・ ド・リパについては、どのような生涯を送った人物なのかあまり資料がな いといいます。確かにあまり馴染みがありません。フランシスコ会派に属 し、一三五〇年代半ばごろに神学の学士となって、もっぱらパリ大学で教 授活動を続けていた人物のようです。「超精妙博士」というのが同時代人 によって与えられた二つ名ですが、ドンゥス・スコトゥス(精妙博士)に ちなんでいるほか、その議論の洗練さゆえにそう呼ばれたという話もある ようです。 さて、そのリパですが、独特な無限の概念を提唱しているといいます。収 録されているテキストは『最高度についての問題』(Question de gradu suprema)という著書からの抜粋ですが、これはいわゆる強度の 範囲についての議論のようです。たとえば「白い」という性質には、濃淡 いろいろなバリエーションがあるわけですが、そうしたなんらかの性質が その度合いをいかに受け取るかという、一三世紀以来議論されてきた問題 を扱っています。ですがリパの収録テキストの場合、抜粋部分だけでは全 体像がよくわからないので、ちょっと反則ですが、ここではテキストに先 立つ仏訳者解説に沿ってポイントを整理する形にしたいと思います。 性質の度合いの多彩さについて、リパ以前の論者はどんな議論をしていた でしょうか。たとえばトマス・アクィナスは、形相の単一性・不変性を説 くがゆえに、現実態のバリエーションの原因は基体の側に位置づけます。 これに対して、ボナヴェントゥラやスコトゥスの伝統を受け継ぐフランシ スコ会派の多くの論者は、形相そのものの中に度合いの違いが存在すると し、性質の本質(つまりは形相)のうちに、最大と最小のあいだで度合い の揺らぎをなす不確定な部分があると考えます。 ジャン・ド・リパもそれを継承しています。リパの場合には、それが単に 性質にのみ当てはまるのみならず、魂の性向、すなわちハビトゥスにも適 用できると考えます。愛、賢明さ、正義感などなど、そうしたすべては、 それぞれ神における愛、賢明さ、正義などの対応物として被造物に与えら れたものであり、個々人のそうしたハビトゥスは「無限の」バリエーショ ンをもっていますが、神のような絶対的な完成度にいたることはありませ ん。かくして、被造物のハビトゥスの度合いの範囲は、上の性質と同様 に、一定の最大と最小のあいだでゆらぐよう決定されていて、神の完全さ (すなわち上限・下限のない広大無限さ)とは抜本的に異なっているわけ です。たとえば賢明さの度合いについて、リパは基本的に、スコトゥスの ように神の賢慮と人間の賢慮が一義的(同じ形相をもつということ)であ り、神の存在論的無限が両者の同一性を担保しているとは考えません。リ パにとって神の賢慮と人間の賢慮は同じ形相をもってはおらず、むしろ一 義性を否定することによって、両者の照応が果たされるとリパは考えてい るようなのです。 被造物における任意の性質の度合いは一定の範囲内にあり、その内部にお いては無限に異なりうるものですが、上限下限は限定されていることか ら、その範囲自体は有限のものだということになります。ですから、任意 の性質の度合いは、範囲の上限からの隔たりとして定義されることになり ます。これだけなら、とくに問題はありません。ところがその究極の完成 状態、つまり神におけるその性質を考慮するとなると話は変わってきま す。神はいくらでも上位の完成状態を創ることができるのですから、性質 の上限というものはそもそもなく、すると上限からの隔たりという形で性 質の度合いを測ることはできなくなってしまいます。ですが一方で被造物 における性質はあくまで範囲のどこか一点に対応し、したがってなんらか の度合いをもっていなくてはなりません。この両者の矛盾を解消するため に、リパは神の無限(上限・下限がないこと)と現実態の無限(一定範囲 内でバリエーションがあること)を区別して考えます。 ここに、リパ独自の神学的基礎の反映が見出されるといいます。その基礎 とはつまり、神のもつ広大無限さです。スコトゥスに倣い、リパもまた、 無限の概念は有限の概念から析出されるとしています。しかし一方で、神 における完成というのはそのような、有限から推測されるような無限では なく、まさに絶対的な無限、もとより有限を受け付けることのないものな のだというわけです。これはなにやら、下の文献購読シリーズで見てきた グロステストの、無限乗の無限という別次元の無限のことを連想させます ね。 では、両者はどのように照応するのでしょうか。収録されているテキスト の抜粋として、上で触れたリパの著書からの第二項がありますが、そこで は「絶対的な強度(神の)は、それよりも下で、それに直接隣接する任意 の強度(被造物の)を導けるか」という問題を取り上げ、異論とそれに対 する応答とを記しています。それによりはっきりするのは、神が体現する 究極の完成度と、被造物が現実的に位置づけられる完成度の上限とは、重 なることはないまでも、「隣接する状態」(間に介するものがない状態) にありうるということです。神の無限と被造物の無限は性質として異なる ものの、両者はそうした隣接関係をなすことができ、通じ合うことができ るというわけなのですね。 リパのテキストそのものは少しわかりづらく、上のような解説がないと抜 粋部分だけではよくわからないのですが、それでもなかなか興味深いテキ ストであることは間違いありません。もう少しまとまった分量を読んでみ たいところですが、これは今後の課題として取っておきたいと思います。 次回はこれまでを振り返りつつ、クザーヌスを参照して全体を締めくくり たいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの『光について』(その6) 第一物体の放つルーメン(輻射光)は、凝集と希薄化を通して「世界」を 成立させます。今回はそのあたりの話です。 # # # Ipsum igitur lumen, a corpore primo in centrum expansum et collectum, molem existentem infra corpus primum congregavit. Et cum iam non potuit minorari corpus primum, utpote completum et invariabile, nec potuit locus fieri vacuus necesse fuit ipsa congregatione partes extimas dicte molis extendi et disgregari. Et sic proveniebat in intimis partibus dicte molis maior densitas et in extimis augentebatur raritas. Fuitque potentia tanta luminis congregantis et ipsa congregatione segregantis ut ipsas partes extimas molis contente infra corpus primum ad summum subtiliaret et rarefieret. Et ita fiebat in ipsis partibus extimis dicte molis sphera secunda completa, nullius impressionis ultra receptibilis. Et sic est complementum et perfectio sphere secunde lumen quod gignitur ex prima sphera, et lux que in prima sphera est simpla in secunda est duplicata. ゆえにその輻射光は、第一物体から中心に向けて広がるとともに凝縮し、 第一物体の内部に塊を存在させるまでに凝集させたのである。第一物体は 完成され不変となったので、それ以上小さくはならず、また場所に空虚が できてはならないがゆえに、そのいわゆる塊の外周部分は、必然的にその 凝集によって拡張され、希薄化されることとなった。こうして、そのいわ ゆる塊の内部では密度が高まり、外周部分では稀少性が増していった。ま た、凝集をもたらし、その凝集によって分離を促すという輻射光の潜在力 はあまりにも大きく、第一物体に内包された塊の外周部分は、最大限に繊 細かつ希薄になっていった。こうして、いわゆる塊の外周部分に第二の球 が完成し、もはやそれ以上の刻印を受けることがなくなったのである。ま た、第一の球から生じた輻射光が第二の球において完成するのと同様に、 第一の球において単一だった光は第二の球においては二重化する。 Sicut autem lumen genitum ex corpore primo complevit spheram secundam et intra spheram secundam molem densiorem reliquit, sic lumen genitum ex sphera secunda spheram tertiam perfecit et infra ipsam spheram tertiam molem adhuc densiorem congregatione reliquit. Atque ad hunc ordinem processit ipsa congregatio disgregans donec complerentur novem sphere celestes et congregaretur infra ipsam spheram nonam infimam moles densata, que esset quatuor elementorum materia. だが、第一物体から生じる輻射光が第二の球を完成させ、第二の球の内部 に密度の高い塊を残したように、第二の球から生じた輻射光は、第三の球 を完成させ、その第三の球の内部に、凝集による高い密度の塊を残したの である。稀少化もたらす凝集は、同じ順序で進み、最終的には九つの天球 が完成して、その九番目の最下位の天球内部に、四つの質料的元素となる 密度をもった塊ができるにいたった。 Sphera autem infima, que est sphera lune, ex se etiam lumen gignens lumine suo et molem infra se contentam congregavit et congregando partes eius extimas subtiliavit et disgregavit. Non tamen fuit luminis huius potentia tanta ut congregando partes extimas disgregaret ad summum. Propterea remansit in omni parte molis huius imperfectio et possibilitas receptionis congregationis et disgregationis. その最下位の球は月の球だが、そこからも輻射光が生じ、その輻射光によ ってその内部に塊を凝集させ、凝集によってその外周部分は繊細かつ希薄 になった。だがその光の潜在性は、凝集による外的部分の希薄化を最大限 にいたらしめるほと大きくはなかった。そのために、その塊のあらゆる部 分は未完成のままとなり、凝集と希薄化を受ける可能性も残ったのであ る。 # # # 前にブログのほうでも取り上げましたが、今回のこの宇宙開闢論的なプロ セスを数式化してコンピュータシミュレーションにかけたという研究成果 が、先頃『ネイチャー』誌に提出されたということで話題になりました (Richard G. Brower et al. A Medieval Multiverse: Mathematical Modelling of the 13th Century Universe of Robert Grosseteste, 2014)。グロステストの宇宙開闢モデルを、いわば一種の「中世版ビッ グバン理論」として検証しようというものです。まずもって、グロステス トの描くプロセスが数式化でき、シミュレーションできるという事実は驚 きです。もっとも、当然ながらそうするためのいくつかの手直しも施され ています。たとえば、まずは初期設定としての密度、第一物体となる最初 の球の直径などが必要になります。ルーメンの強度も設定しなければなり ません。また、グロステストはとくに述べていませんが、プロセス全体は 時間の経緯にそって展開しなければならないので、時間も変数として設定 されなくてはなりません。 考慮されるのは三つの点だとされます。球形内部での光の集中、「不完全 な」質料(物質)を通過する際の光の吸収率、そして「完成した」質料 (物質)による反射光の生成です。ルーメンの強さがプロセスを通じて弱 まっていくことはテキストからうかがえます。そこから一種の不透明度 (opacity)が生じていると考えられますが、グロステストはあえて語っ てはいません。それは当時の語彙にそうしたものがなかったからだ、と同 論文は推測しています。これまたテキストにはありませんが、同論文の著 者たちはルーメンの強度が「完成した」質料の密度に比例して高まると仮 定し、ルーメンの内部への伝播による集中には相当量の不透明性が必要に なると考えているようです。 この論文について解説したトム・マクリーシュの記事(http:// www.nature.com/polopoly_fs/1.14837!/menu/main/topColumns/ topLeftColumn/pdf/507161a.pdf)は、グロステストのテキストの理 解ないしは読み替えを詳しく取り上げています、論文著者たちは、グロス テストの言う「完成した(完全な)」質料というのは、いわば一種の結晶 体のような形態になることだとし、今風に言うなら「相移転(phase transition)」に相当すると考えているようです。周縁の最薄部に最初に できる結晶体からルーメンが放出され、その輻射力によって、結晶化して いない質料が中心部方向に押しやられ、密度に偏りができます。これも超 新星の爆発の衝撃波に見られる現象のようだといいます。かくして第二の 球がつくられ、密度は二倍になります。こうしたプロセスが繰り返され、 九つの球ができると、その密度は著しく高くなり、一方でルーメンの内部 放射は弱まるため、もはや新たな相移転はできなくなる、というわけで す。 『光について』は、一組の物理法則だけで宇宙と地球の大いに異なる構造 に説明をつけようとしたものとして、知られている限りで歴史上初の著作 だ、とマクリーシュは述べています。そのコンピュータシミュレーション によれば、変数を変えていろいろ試したところ、月下にさらに四元素のそ れぞれに相当する四つの球ができるケースまで再現できたといいます。そ れ以外の組み合わせではカオス状態になったり無限数の球ができたりした ともいい、まさにこれは多元宇宙の様相を呈したというわけですね。シミ ュレーションを含むこうした研究はまだ始まったばかりだともいいます。 今後は、まだ一〇本以上あるグロステストの自然学系の文献(音の起源に ついてのものなど)や、グロステストに先立つサレシェルのアルフレー ト、あるいはアレクサンダー・ネッカムなどの自然学系の文献などにも取 り組むようなので、まだまだ大いに期待できそうです。 * * さて、サレシェルやネッカムなどは、グロステストになんらかの影響を及 ぼしているのでしょうか。ソースの問題とくれば、やはり引き続きマッケ ヴォイの参考書を参照したいところですが、残念ながらそのあたりの言及 は見られません。さしあたりマッケヴォイは、グロステストが用いる凝集 と希薄化の概念について、それらがアリストテレスの記す、ソクラテス以 前の哲学者らによる宇宙開闢論を参考にしている可能性を指摘していま す。ただ、それを天球の生成に当てはめたのはグロステストの独自性だと も述べています。 マッケヴォイはさらに、『光について』よりも前のグロステストの著書を 参照して、その思想的な進展を跡づけています。そのあたりについてはこ こでは詳しく取り上げませんが、手短に言うと、グロステストはアリスト テレス的な知見にどっぷりと浸かることはせず、ほかの天文学・占星術的 知見(アルブマサルとか)、あるいは錬金術的知見を駆使して自説を練り 上げていったようなのです。このあたりの話の続きは次回に改めて。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------