〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.264 2014/06/07 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その19) これまで一四世紀の各論者の無限論を見てきましたが、ここで一度ステッ プバックして、全体的な流れを振り返っておきたいと思います。参考にす るのは、少し古い本ですが、ヨナス・コーン『無限の歴史』です。もとは ドイツで1896年に刊行されたもの(『カントまでの西欧思想における無 限問題の歴史』ですが、仏訳が1994年に出ています。例によって中世部 分だけを見るとそれほど多くのページが割かれているわけではありません が、通史なので全体的な展望が開かれる本ではあります。 無限についての思想史において、中世後期において特徴的だった変化とい えば、なによりもまず論証の様態が変わったことだったと言えそうです。 コーンによれば、世界の有限性の議論に数学を援用する例は、ロジャー・ ベーコンを嚆矢とするのだとか。当時はアリストテレスの世界観、つまり 世界には始まりも終わりもなく無限であるという世界観に対して、世界は 有限であるとするキリスト教の立場から反駁が試みられていました。ロジ ャー・ベーコンは、数学的な議論を持ち出してそこに参戦します。たとえ ばこんな話です。B、A、Cという3点を通る直線があり、Cにおいてこの 直線は無限に開かれているとします。すると、Aを起点としたACは無限 大になりますが、Bを起点とするBCも無限大になり、ACとBCの長さは 等しいということになってしまいます。これはBとAが別の点であるとい うことと矛盾します。矛盾解消のためには、直線がCにおいて無限である という前提が否定されなければならない……。この論法を世界そのものに 適用することで、その有限性が論証されるというわけです。 ロジャー・ベーコンの議論はまずもってアリストテレスへの反論なのです が、返す刀でもう一つの考え方への反論をもなしている、とコーンは述べ ています。それはいわゆる原子論(不可分論)です。コーンはそれを標榜 する代表的な一派として、イスラム世界に登場したセクト、ムタカラミン と称される学派を挙げています。これはカラームという思弁的イスラム神 学を奉じた一派で、アリストテレス哲学を批判する立場を取り、その文脈 でデモクリトス的な原子論を評価するようになったものと見られていま す。彼らが原子論を標榜したのは、ロジャー・ベーコンなどと同じく、世 界に始まりがなくてはならないという宗教的議論のためだったといいます が、その原子論をもとに、同派はもとのデモクリトス思想からは逸脱する 形で、空間や時間、運動なども離散的なものだと考えるようになっていま した。そのため、たとえば四角形の辺と対角線の長さが等しいとするよう な誤謬を放置し、正当化さえしていたというのです。 コーンによれば、ロジャー・ベーコンはそうした問題についても先駆的に 論難した人物とされています。アリストテレス流の、連続体は無限に分割 できるという考え方を、現実的な分割にも当てはめようとしたというので すね。この無限分割の義論は、一つの伝統にまで押し上げられていきま す。コーンはその一例として、前に本稿でも出てきたトマス・ブラッドワ ーディンに言及しています。ブラッドワーディンは数学的議論を駆使しな がら、不可分論(原子論)の論者たちに反論を加えていったのでした。そ れはまるでベーコンの衣鉢を継ぐかのようです。 かくして数学的議論の援用は、当時一定の隆盛を見るようになります。コ ーンはこれを次のようにまとめています。一四世紀にスコラ学がオッカム 流の懐疑的唯名論に収斂する中、神秘主義的な傾向が不意に頭をもたげ、 新プラトン主義的伝統への回帰が生じます。そうした中で自然をめぐる感 覚もまた高揚し、数学的な嗜好が広まっていったのだ、と。古代がそうだ ったように、神秘主義と数学の隆盛は相互に強化されていくことになった というわけです。プラトンが数学を哲学の前提および補助と見なしたのと パラレルだ、とコーンは記しています。 さて、ここからは一四世紀を超えた話になりますが、全体の流れを見ると いう意味で取り上げておきたいと思います。神秘主義と数学の結びつきを 最もよく体現しているのはほかならぬクザーヌス(一五世紀)だ、とコー ンは言います。クザーヌスの無限に対する基本的な姿勢は、有限である人 間には無限なるものは捉えきれないという一言に尽きます。ですがこれだ けだと、たとえば古代のゼノンなど、同じような見識をもっていた賢人は いました。けれどもクザーヌスの場合には「人間は無限なるものを捉えら れないけれども、そこに漸進的に接近しようとする」というように、そこ に肯定的な意味づけを施します。コーンはここに、近代的な知の萌芽を見 ています。 神はいかなる意味で無限なのかを、クザーヌスは、有限なもののあらゆる 属性、あらゆる対立が神においては撤廃されている、と説明します。で、 それをわかりやすくする意図のもと、数学に訴えているといいます。たと えば次のような話です。ある直線があるとします。これがもし無限に伸び ているのだとしたら、それは三角形でもありうるし、円でも球でもありう る、とクザーヌスは主張します。これはどういうことなのでしょうか。三 角形の場合、二つの辺の(長さの)合計は残る一辺よりも必ず大きくなり ます。ところがその一辺が無限であるならば、残りの二辺の合計はそれよ りも大きくなるのですから、やはり無限でなくてはなりません(その二辺 それぞれも無限でなくてはなりません)。しかるに、無限というものは複 数あるわけではないので、この無限の三角形は複数の線から成るのではな いはずです。したがってそれは一本の線から成っていると考えなくてはな りません。そしてそれは無限の線でなくてはならないというわけです。円 についても同様の議論が示されます。球は円の運動によってできることか ら、それも同じく一本の無限の線で構成されるのだということになりま す。こうして、線が無限であるとするならば、数学的図形が相互にもって いる差異や対立関係は撤廃されてしまうことになります。有限なものに対 する絶対的無限としての神も同様である、とクザーヌスは言うわけです ね。 一方でクザーヌスは世界もまた無限だと見なしています。とはいえその無 限は、絶対的無限としての神とは区別されてもいます。世界は「際限がな い」という意味で欠如的な意味での無限ですが、それ自体で「常により大 きく」なることはできません。神はというと(これまた否定的な無限と称 されますが)、いかなる部分も無限をなし、そこには増減といった概念も ないとされます。このあたりの話は、なにやら前回のジャン・ド・リパの 議論などを彷彿とさせます。ですがクザーヌスの場合には、そこからとて も大きな思想的跳躍を果たしていきます。そのあたりの話は次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの『光について』(その7) 今回は天球の生成が一揃い完了する箇所です。ではさっそく見ていきまし ょう。 # # # Et pars suprema molis huius disgregata non ad summum sua tamen disgregatione ignis effecta remansit adhuc materia elementaris. Et hoc elementum etiam ex se lumen gignens et molem infra se contentam congregans eius partes extimas disgregavit, minori tamen ipsius ignis disgregatione, et sic aerem produxit. Aer quoque ex se corpus spirituale vel spiritum corporalem generans et intra se contentum congregans et congregando exteriora eius disgregans aquam produxit et terram. Sed quia in aqua plus remansit de virtute congregante quam disgregante remansit etiam ipsa aqua cum terra ponderosa. その塊の最上位の部分は、最大限の希薄化にはいたらかったものの、その 希薄化によってそのときに生じた火が元素的物質として残った。その元素 からは輻射光が生じ、その内部に塊を凝集させ、その外側の端部を希薄化 した。しかしながら、その火による希薄化の度合いは小さく、こうして空 気が生み出された。その空気からも精気的物質もしくは物質的精気が生 じ、内部に凝集させ、凝集により外部を希薄化して水と土を生み出したの である。しかしながら水は希薄化の力よりも凝集する力のほうをいっそう 留めていたため、かくして水と重い土とともに残った。 Hoc igitur modo producte sunt in esse sphere tredecim mundi huius sensibilis, novem scilicet celestes, inalterabiles, inaugmentabiles, ingenerabiles et incorruptibiles, utpote complete; et quatuor existens modo contrario alterabiles, augmentabiles, generabiles et corruptibiles, utpote incomplete. このようにして、感覚的な一三の世界の球が生み出された。九つは天球で あり、不変であり、増加することもなく、生成や消滅もなく、つまりは完 全な物体なのである。四つは逆に可変であり、増加することもあり、生成 や消滅もありえ、つまりは不完全なのだ。 Et patens est quoniam omne corpus superius secundum lumen ex se progenitum est species et perfectio corporis sequentis. Et sicut unitas est potentia omnis numerus sequens, sic corpus primum est multiplicatione sui luminis omne corpus sequens. Terra autem est omnia corpora superiora agregatione in se luminum superiorum. Propterea ipsa est que a poetis Pan dicitur, id est totum. Et eadem Cibele quasi cubele a cubo, id est soliditate, nominatur; quia ipsa est omnium corporum maxime compressa et densissima, hec est Cibele et mater deorum omnium quia, cum in ipsa superiora lumina omnia sint collecta, non sunt in ea tamen per operations suas exorta, sed possibile est educi ex ea in actum et operationem lumen cuius celestis sphere volueris; et ita ex ea quasi ex matre quadam quivis deus procreabitur. 明らかなことは、上位の物体はすべて輻射光によってみずから生じたもの であり、それに続く物体の種および完成体をなしていることである。一の 数が潜在性において、続くすべての数とイコールであるように、第一物体 も輻射光の増殖において、続くすべての物体とイコールである。しかるに 土は、あらゆる上位のものの輻射光をみずからのうちに凝集しているがゆ えに、上位のすべての物体とイコールである。ゆえに、それは詩人たちか ら創造神パン、すなわち「全体」と言われているのである。それはまた、 ほぼ立方体の三次元だということで、固体物を意味するキュベレとも称さ れる。あらゆる物体のうちで最も凝集され高密度になっているがゆえに、 それはキュベレ、すなわちあらゆる神の母をもなしている。そこには上位 のあらゆる輻射光が集められているからだが、とはいえそれらはみずから の操作によって引き出されるのではなく、いずれか任意の天球の輻射光が その作用と操作へと導くことができるのである。また、母から生じるかの ように、そこからは任意の神が生じるのである。 # # # この箇所で興味深いのはやはり三つめの段落でしょうか。第一物体が無限 に放射するルーメンは、その後のすべての球を構成するわけですが、最終 的にそれは最下層の土(大地)にまでいたることになり、逆にいえば土も またその第一物体のルーメンの痕跡を留めていることになります。その意 味で、光(ルーメン)は世界の全体をつなぎとめており、したがって土 (地上世界)もまた天球の影響下にあるということにもなるわけですね。 このあたりはまさに占星術的な発想と言えるでしょう。 詩人の言とのことですが、その大地はギリシア語で「全体(すべて)」を 意味するパン神になぞらえられています。さらにはキュベレにも。高津春 繁『ギリシア・ローマ神話辞典』(岩波書店)を見てみると、ギリシア語 の古形は違っていることから、パンを「全体」と関連づけるのは誤りとさ れています。つまりそれは民間語源的な考え方なのですね。一方、チェチ リア・パンティによる底本の注釈によれば、この民間語源はすでにイシド ルスの『語源録』に見られるといいます。さらにパンと大地との結びつき については、マクロビウスの『サトゥルナリア』がもとになっているのだ とか。そこではホメロスの一節(『イリアス』11.2)が引かれ、光と、 照らされるものとしての物質世界の関係が描かれています。 キュベレについては『ギリシア・ローマ神話辞典』にはとくに語源の記述 はありませんが、テキストにあるように、cubus(立方体・固体物)に関 係しているというのは同じような民間語源ではないかと思われます。た だ、ギリシア・ローマ世界でキュベレが神々の母とされていたことは確か なようです。再び底本の注釈を見てみると、キュベレと大地を同一と見る 着想源はマルティアヌス・カペラ『フィロロギアとメルクリウスの結婚に ついて』(VII、740)にあるようで、そこに、ギリシア人が固形物をキ ュベレと称したことが記されています。また同注釈では、グロステストに おけるパンやキュベレへの言及を単なる文章上の装飾とは見なさず、むし ろ天球と大地とのより深いレベルでの結びつきを示していると解釈してい ます。 この箇所は錬金術への言及としても読むことができる、と同注釈は記して います。作用と操作というあたりにそのことが示されているわけですね。 グロステストのほかの文献にも、錬金術への言及は多々見られるといい、 たとえば『自由学芸について』という書では、金属の変成と最終的な黄金 への遡及について記されているといいます。『彗星について』では物質的 精気が天体の作用で解放されうるといった話が取り上げられているのだと か。最後の一節にあるような、大地から様々な神が「生じる」というくだ りは、一二世紀に翻訳されてラテン世界でも知られていた(モリエヌス・ ロマヌスの)『遺言書』を彷彿とさせる、とパンティはコメントしていま す。 * * マッケヴォイ本の続きも見ておきましょう。マッケヴォイは、グロステス トのテキストから浮かび上がるのは、自然現象を単純化し、一定の物理法 則を適用するという基本姿勢だと指摘します。そしてその際の物理法則 も、幾何学的な抽象的理解にもとづくものだと述べています。そのことは グロステストの科学的な著作全般に見られるといいます。たとえば虹の説 明について、グロステストはそれを単純な光学的現象と見なし、太陽光線 が雲を通過する際に屈折し別の雲に反射したことによる現象だと説明しま す。目下読んでいる『光について』でも、出発的になっているのは物理世 界と幾何学的中心との一致という基本原理です。マッケヴォイによれば、 現実は数学的だという信念ゆえに、グロステストはプトレマイオス的な周 転円モデルではなく、アルペトラギウスの同心円モデルを採用したのでは ないかといいます(マッケヴォイ本:pp.168-174)。 さらに、アリストテレス的な世界の質的な諸属性を量的な概念から導いて いる点も、数学的なスタンスを物語っている、とマッケヴォイは述べてい ます。凝集と希薄化による世界の形成プロセスはまさにその典型なのです ね。マッケヴォイはここに、「強力な数学的想像力」(p.175)を見てと ります。また、「点」(次元をもたない)の絶対的無限の増殖によって空 間的次元が生じると考えていることからも、エウクレイデス的な「点」が 単なる理論的な単位ではなく、現実の単位として扱われていることがわか ります。つまりあらゆる現実的な直線や平面、すなわち空間的な構成物 は、実際に存在する無限なのだ、とグロステストは考えているというので す。なるほど面白いですね。では、今度は時間の概念はどうなのでしょう か。天球の成立はどこか時間的なプロセスのように描かれているわけです が、そのあたりをグロステストはどう考えるのでしょうか。その話はまた 次回に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は06月21日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------