〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.265 2014/06/21 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の無限論(その20) ヨナス・コーン『無限の歴史』にもとづき、クザーヌスの議論の概要を見 ています。神の絶対的な無限のもとでは、あらゆる矛盾が解消されるとい うのがクザーヌスの考え方なのでした。一方でそれとは別の次元で、クザ ーヌスは世界そのものもまた無限をなしている、と考えていました。で、 もし世界が無限をなしているとするなら、もはやどこが中心ということは 言えなくなります。中心はいたるところにあるということになるわけです ね(はるか後世にはパスカルがそう述べていたのでした……)。 さらに、そうであるなら絶対的な静止点や、最大限の運動点というものも なくなることになります。するとそこから、それまで定点とされていたは ずの地球もまた、動いているかもしれないという考え方が出てきます。ま さしくここに、後世の地動説への論理的なシフトが胚胎されているという 次第です。クザーヌスが地動説の先駆として取り上げられる理由がここに あります。 また、それに関連して重要な点として挙げられるのが、クザーヌスは世界 観として、ある種の不可分論・原子論を擁していたらしいことです。絶対 的な単位(一者、すなわち神が抱くもの)は不可分で通約できないものと されますが、同時に神はそれが真理として通約(共有)されることをも望 んでもいるというのです。そのため、一者はおのれの似姿として「点」を 創ったのだと言われます。それもまた不可分なものなのですが、それでも 像なので通約は可能となり、それが分割可能な線や平面、立体などを構成 していきます。したがって線や平面、立体は、それぞれ線、平面、立体と してのみ無限に分割可能だとされますが(線はどこまで分割していっても 線であり、他も同様です)、そうした物体から分離・析出できない「点」 というものが、不可分性の原理としてそれぞれに内在しているのだという のです。 コーンによれば、ここには原理と実世界との形而上学的な対立という考え 方(微細な「点」は原理上は考えられうるものの、人間が実世界の中に見 出すことは不可能だというわけです)と、原理を支えているものとしての 数学的認識とが見て取れるといいます。クザーヌスの考え方では、形而上 学的原理と数学的認識とは相互に支え合うものだというのですね。かくし てクザーヌスの数学的文献も、その形而上学の裏側として読み解かれなく てはならない、とコーンは指摘します。クザーヌスにとっての認識とは、 無限の中に位置づけられるそうした真理(原理)の、近似的な理解にほか ならず、無限に分割可能な連続体に、現実態としてはアクセスできない絶 対的な最小単位(不可分の点)を想定することは、そうした近似的な理解 を容易にする一種の手段でしかないというわけです。 このような数学と形而上学の密接な結びつきの重要性は、コーンのこの著 書では繰り返し強調されています。それは一五世紀以降のルネサンス期に あって、新プラトン主義の隆盛とともにさらに一般化していきます。クザ ーヌスはコペルニクスの先駆的存在でもあり、後にはジョルダーノ・ブル ーノにも影響を及ぼします。ここでは取り上げませんが、とりわけブルー ノはクザーヌスの様々な議論を継承しているといい、その無限論(一言で まとめるなら、無限は完成形であり、世界は無数に存在するという議論) においても、着想源として筆頭に挙げられるのはクザーヌスだとされてい ます。 逆に言えば、これまで見てきたように、クザーヌスを準備したのは一四世 紀における無限論の隆盛だったと言うこともできるでしょう。かつては神 に限定されていたものが、次第に世界そのものへと拡張していくことにも なったわけですが、その際、とりわけ数学が重要なツールとなって無限概 念の拡張議論が進展していったのでした。全体を振り返ってみるに、一四 世紀の一連の論者たちの議論から浮かび上がったのは、無限概念も様々に 捉えられていたこと、そして数学的な見識によって、漠然としていた無限 概念はより精緻な形を取ることができるようになったことでした。それは 続く次の世紀において、さらなる文化的・学術的地殻変動を準備していく ことになるのでしょう……。 * * さて、このように一四世紀の無限論について駆け足でめぐってみました が、そこでの数学の重要性という部分はもう少し違う角度からも眺めてみ たい気がしています。というわけで、次回からは同じ一四世紀の、今度は 数学プロパーの議論から、比の問題を検討してみたいと思います。上のコ ーン本でも評価されていたトマス・ブラッドワーディンや、ニコル・オレ ームを中心に見ていくことになります。どういう話になるのか、まだちょ っと見えていませんが、少しずつ考えていきたいと思います。またしばし お付き合いのほどお願い申し上げます。 ------文献講読シリーズ------------------------ ロバート・グロステストの『光について』(その8) もともと短いテキストなので、『光について』もそろそろ佳境です。さっ そく見ていきましょう。 # # # Media autem corpora in duabus se habent habitudinibus. Ad inferiora namque se habent sicut celum primum ad omnia reliqua, et ad superiora sicut terra ad omnia cetera, et sic modis aliquibus in quolibet eorum omnia reliqua. Et species et perfectio corporum omnium est lux, sed superiorum corporum magis spiritualis et simpla; inferiorum vero corporum magis corporalis et multiplicata. Nec sunt omnia corpora eiusdem speciei, licet a luce simpla vel multiplicata sint perfecta, sicut nec omnes numeri eiusdem speciei, cum tamen sint ab unitate minori vel maiori multiplicaitone collecti. Ex in hoc sermone forte manifesta est intentio dicentium omnia esse unum ab unius lucis perfectione et intentio dicentium ea que sunt esse multa ab ipsius lucis diversa multiplicatione. 中間的な物体は二重の役割を担う。下位のものに対しては、第一天が残り のすべてに対してもつような関係をもち、上位のものに対しては、大地が 他のすべてに対してもつような、また、そのうちの任意のものが残りの他 のものに対してもつような関係をもつ。あらゆる物体の種であり完成をな すのは光(ルクス)だが、上位の物体であるほど精妙かつ単一であるし、 下位の物体であるほど物体的で多数である。あらゆる物体が同じ種をなし ているわけではないが、いずれも単一もしくは複数の光によって完成す る。ちょうど、あらゆる数が同じ種をなすわけではないが、いずれも一の 数字の大なり小なりの増殖で成り立っているのと同様だ。この言い方から はっきりと示されるのは、あらゆるものは一つの光による完成ゆえに一つ であると言う人々の意図、または、その同じ光の様々な増殖ゆえにそれら は多数をなしていると言う人々の意図である。 Cum autem corpora inferiora participant formas superiorum corporum, corpus inferius participatione eiusdem forme cum superiori corpore est receptivum motus ab eadem virtute motiva incorporali a qua virtute motiva movetur corpus superius. Quapropter virtus incorporalis intelligentie vel anime, que movet spheram primam et superam motu diurno, movet omnes spheras celestes inferiores eodem diurno motu. Sed quanto inferiores fuerint tanto debilius hunc motum recipiunt, quia quanto fuerit sphera inferior tanto est in ea lux prima corporalis minus pura et debilior. だが、下位の物体は上位の物体の形相に与ることから、下位の物体は上位 の物体と同じ形相に与ることによって、上位の物体を動かす動因となる力 と同じ非物体的な力を受け取ることができる。それゆえ、第一の最上の天 球を日々動かす知性もしくは魂の非物体的力は、下位のすべての天球をも 同じ日々の運動でもって動かすのである。だが、下位のものはその受け取 る運動が弱まっている。なぜなら、下位の天球になるにつれて、第一物体 の光は純度が低下し弱まるからだ。 Licet autem elementa participant forma celi primi, non movetur a motore celi primi motu diurno quia, quamvis participant illa luce prima, non tamen obediunt virtuti motive prime, cum habeant illam lucem impuram, debilem, elongatam multum a puritate eius in corpore primo, et cum habeant etiam densitatem materie que est principium resistentie et inobedientie. 当然ながら、元素は第一天の形相に与るものの、第一天の動因による日々 の運動によって動かされるわけではない。というのも、それは第一の光に 与るものの、純度が低く弱まった光をもち、第一物体の純度からはるか遠 く離れ、しかも抵抗と不従順の原理である質料的密度が高いために、第一 動因の力に付き従わないからだ。 # # # 今回の箇所では、全体が光の共有によって連続していることが改めて示さ れています。同時にそこには各天球の差異もあり、それが光の純度の漸進 的な弱まりと、物質の密度の高まりという形で表されています。地上世界 などは純度があまりにも低く、かつ密度が高いために、もはや第一動因の 力は微小で、その分偶有性といいますか、ある種の不確定に実を委ねてい るというわけなのですね。 このあたり、新プラトン主義の流出論的な色合いが濃い箇所です。底本の 訳注では運動の漸減の記述は『原因の書』の知性の力(作用をもたらす動 因)の漸減に近いことが指摘されています。もっと直接的なリファレンス は、アルペトラギウス(アヴェロエスの弟子)の『天空の運動について』 だろうということです。また、最初の段落に出ている数についての言及に 関連して、シャルトルのティエリー『六日間の御業について』が参考とし て挙がっています。様々な数が一の数に帰結するという話は、ティエリー において「数の生成としての創造」という形で世界創造に結びつけられて いるようなのですが、グロステストのユニークなところは、これにさらに 光のテーマを結びつけているところだとされています。 この話にも関連しますが、再びマッケヴォイ本の議論を見ておきましょ う。前回のところで、グロステストが数学的な宇宙開闢論、あるいは数学 的な自然学を展開していたという話が出ました。上の「文献探索シリー ズ」で出てきたクザーヌスの話ともシンクロしますが(笑)、マッケヴォ イによれば、グロステストもまた、人間には認識不可能な、それ自体は不 可分な「点」というものの存在を想定しているといいます。 たとえば1キュービットの長さの線があったとします、その線は無限の数 の点から成っているとされますが、それは神が測り、数えてしつらえた1 キュービットの長さの線である以上、その直線に含まれる現実の点の数は まさに神のみぞ知るところとなります。グロステストはその際の「点」 を、世界のあらゆる延長(広がり)の基本単位となる不可分なものと見な しているのですね。まさにそれは絶対的な最小単位で、『光について』の 最初の光源となる一点とはまさにそうしたものだと考えられます。 人間はというと、有限な知性である以上、神が線を測るときのような無限 数の点の数を知ることはできません。すでに測られ、定まっている線を測 定基準として受け継いで、他の線を測ることしかできないとされます。同 じことは、たとえば時間の計測についても当てはまります。創造主は時間 が始まる前に、永劫的時間をすべて測り、限定された不可分の瞬間の無限 増殖によってありとあらゆる時間的差異を生み出したとされるのに対し、 人間の場合は、天球の一定の動きからタイムスパンを割り出し、それを時 間の計測単位にするほかなかったのだというのです。 一四世紀の神学者たちは、グロステストの相対的無限論、さらには現実態 の無限についての議論に大きな衝撃を受けていた、とマッケヴォイは述べ ています。もちろん、彼らにしても、グロステストの企てを評価するとこ ろまではいかず、世界の計測のもとになる「ある無限の数」といった概念 を、的外れで役に立たない概念だと一蹴してしまうらしいのですが、マッ ケヴォイによれば、重要なのは次の点だといいます。つまり、グロステス トは神こそが数学的なデザイナーだという、未知の、まったく斬新な概念 にたどり着いていたのかもしれない、ということです。 もちろんそれにもソースとなるものはあり、『知恵の書』11の21の一節 が挙げられています。神が「すべてのものを数、重さ、大きさで秩序づけ た」というくだりで、グロステストはこれを様々なテキストで何度となく 引用しているのだとか。アウグスティヌスはこの一節を、神の精神に永劫 的に存在する様態、スペキエス、秩序と読み替え、それらが創造の超越的 性質、その秩序、等級を表すと解釈しているのに対し、グロステストは質 的な解釈ではなく、それを量的(数的)に読み替え、数の価値、あるいは 数による世界創造の作用へと力点を移しかえているのだといいます。創造 概念の中に現実的な無限の概念を置いたことと、神をいわば数学者として 讃えたことに、グロステストの二重のブレークスルーがあったのだとマッ ケヴォイは主張します。それはまさに、非アリストテレス、さらには反ア リストテレス的な観念でもあった、というのです(マッケヴォイ本、pp. 177-180)。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月05日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------