〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.271 2014/10/04 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の運動論(その6) 引き続きブラッドワーディン『数比論』の第二章を見ていきましょう。前 にも述べた通り、この章では四つの説が取り上げられて反論が加えられて いきます。第一節では、速度が動因の駆動力と動体の抵抗力の差に比例す るという説が否定されたのでした。第二節では「運動の速度の比は、動体 の力(抵抗力)に対する動因の力(駆動力)の差の比に従う」という説が 取り上げられます。第一節が差の絶対値を取り上げていたのに対し、ここ では相対的な差を持ち出しているということでしょう。この説の大元はア ヴェロエスの『自然学』第七巻の注解だとされます。 ブラッドワーディンは、駆動力と抵抗力の差が抵抗力と同じ場合(つまり 差と抵抗力が1 ; 1の場合)を挙げ、上の説ではその場合に動体が動かな いことになってしまうとしています(実際にはそんなことはなく、動体は 動くというわけですね)。また、この説では、動因は駆動力の全体でもっ て動体に働きかけるのであるから、そもそも抵抗力に対する駆動力の比に 応じて働きかけるというのは認められない、とも断言しています。 その駆動力・抵抗力の大きさそのものを問題にするのが第三節です。「速 度は、動因の力が一定であれば動体の力に、また動体の力が一定であれば 動因の力に比例する」という説が取り上げられます。ブラッドワーディン がまず指摘するのは、この説のベースもやはりアリストテレスではあるも のの、前半部分と後半部分は出典箇所が異なっているという点です。アリ ストテレスが随所で示している議論の詳細はここでは省略しますが、ブラ ッドワーディンの反論は見ておきたいと思います。 まずブラッドワーディンは、この議論は速度同士の比そのものの問題には 対応できず、議論として不十分であると喝破します。確かにこれは動因と 動体のどちらかが一定という限定的な場合のみを扱っているので、二つ以 上の運動で動因と動体のいずれもが別様であるときの比の関係を一般論と して扱うことはできません。次にブラッドワーディンは、その議論はそも そも偽でもあるとして、次のような議論を示します。この説に従うなら、 動体を二分の一の速度で動かす場合、その同じ駆動力は同じ速度で同じ動 体を二つ動かすことができ、四分の一の速度でなら四つ動かせることにな り、八分の一なら……となって無限にまで至ることになってしまう、と。 逆に抵抗力が一定の場合、二分の一の速度でよいなら二分の一の駆動力で よくなり、四分の一の速度なら四分の一の駆動力、八分の一なら……とな ってこれもまた無限にいたる、というわけです。ですが現実には、どちら の場合も無限には至れません。 ブラッドワーディンはさらに、一人では遅い速度でしか動かせない物体 が、二人でなら二倍以上の速度で動かせる場合があることや、球体ないし 円柱の回転軸におもりをつけて回す場合に、おもりが二倍になると回転速 度が二倍以上になることなどを引き合いに、この説を叩いていきます。上 の無限の議論とはうってかわって、こちらはいわば経験則での反論です ね。さらにこの説の論拠として挙げられているアリストテレスなどの言及 箇所についても、実際にそれが示そうしていることはそうした一般論では ないと斥けています。詳細は省きますが、こうして文献的な反論も用意し ているわけです。 第四節では「運動の速度は、駆動力と抵抗力の差や比に、いっさい依存し ない」という説が検討されます。これも出典は主にアヴェロエスとされ、 つまり力とは非物体的なものであるのだから、物体的な量について言われ る比の関係などは適用できない、力同士の比較はできない、というのがそ の主要な議論になっています。これに対してブラッドワーディンは、非物 体的なものは比較できないというなら、音なども比較できないことになっ てしまう、メロディなどもいっさい消え去ってしまうではないか、と反論 しています。それに続いて音の区分としてのディアパソン(オクター ブ)、ディアテサロン(全四度)、ディアペンテ(五度)などを引き合い に、それらの比の議論が昔からあることを示しています。前提として音が 非物体的だとされている点が興味深いですね。いずれにせよ、音も力もあ る程度量化することは可能であるというのがブラッドワーディンの立場 で、ここでもまた経験則と理論でもって反論するという姿勢が鮮明です。 さらにアヴェロエスの見解についても、上の説への反論を当のアヴェロエ スみずからが行っている箇所があるとして、文献的な論拠を引き合いに出 しています。その当該箇所では「有限の最大級の駆動力が全体を動かす同 じ時間で、有限の最小の駆動力がその最小部分を動かす」とされていて、 つまり比の関係・比較の操作がありうると論じられている、というのです ね。ブラッドワーディンは速度と力の関係にはなんらかの比が成り立つこ とを肯定的に捉えています。ただし厳密な意味での比(つまり同種のもの の数量的な比)というよりも、一般的・常識的な意味での比較(大小関係 などを概算的に量化しての比較)がありうるということのようです。運動 が生じるためには、駆動力と抵抗力を比較できる関係があって、前者が後 者に「勝っている」必要があるわけですが、それらもやはり概算的比較が 前提となるわけです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その4) 『スンマ』の第一章第一問の続きです。「人は知ることができるのか」と いう問いに対して、今回は異論(肯定論)の残りと、いよいよヘンリクス の見解に入るところです。さっそく見ていきましょう。 # # # Quarto sic. Philosophus dicit III et IV Metaphysicae et II Caeli et mundi : Quod non potest compleri impossibile est ut incipiat fieri ab agente per naturam vel per rationem, quia omnis motus habet finem et complementum propter quem est. Sed secundum eundum I Metaphysicae "homines philosophanti sunt et prudentiam primo inceperunt investigare propter id quod est scire et intelligere et fugere ignorantiam". Possibile est ergo hominem scire et intelligere. Quinto sic. Secundum Augustinum De vera religione, "qui dubitat an contingat aliquid scire se dubitare non dubitat, sed certus est". Non est autem certus nisi de vero quod scit. Ergo illum qui dubitat se scire necesse est concedere se aliquid scire. Hoc autem non esset, nisi contingeret eum aliquid scire cum contingit eum dubitare. Ergo etc. 四つめとして次のような議論がある。哲学者は『形而上学』三巻と四巻、 および『天空と世界』二巻でこう述べている。作用者がその本性もしくは 理性によって始めたもので、完遂できないものなどありえない。なぜな ら、あらゆる運動には目的と完成とがあり、そのためにその運動は存在す るのだからだ。一方で哲学者は同じ『形而上学』一巻において、「人間と は哲学をなそうとし、知るため、理解するため、無知を逃れるために、ま ずは慎重さを探求し始めた」と述べている。したがって、人間には知り、 理解することが可能なのである。 五つめとして次のような議論がある。アウグスティヌスの『真の宗教につ いて』によれば、「何かを知りうることを疑う者は、みずからが疑うこと は疑わず、確信をもっている」。だが、実のところ、本当に知っているこ とにしか確信はもてないものである。したがって、自分が知っていること を疑う者は、自分が何かを知っていることを認めなければならない。そし てそれは、その者が疑うことができた際に、何かを知っているということ でなければありえなかっただろう。したがって……以下略。 Sexto quasi eadem via arguunt Philosophus et eius Commentator IV Metaphysicae sic. Qui negat scientiam esse dicit in hoc quia certus est quod non est scientia; et non est certus nisi de aliquo quod scit; ergo qui negat scientiam esse et quod hominem non contingit scire necesse habet concedere scientiam esse et quia contingit hominem aliquid scire. Et est haec ratio consimilis rationi illi qua Philosophus concludit in IV Metaphysicae quod illum "qui negat loquelam esse necesse est concedere loquelam esse". 六つめとして、ほぼ同じ論旨でもって哲学者とその注解者は、『形而上 学』四巻で次のように議論している。学知の存在を否定する者は、学知の 非在を確信するがゆえにそうしていると述べる。そして確信をもつのは、 その者が知っていること以外にない。したがって学知の存在を否定し、人 間が知ることはありえないと言う者は、学知の存在と、人間は何かを知る ことができることを認めなくてはならないのである。また、これと類似の 論旨により、哲学者は『形而上学』四巻において、「言葉の存在を否定す る者は、言葉の存在を認めなくてはならない」と結論づけている。 Solutio Dicendum quod scire large accepto ad omnem notitiam certam qua cognoscitur res sicut est absque omni fallacia et deceptione, et sic intellecta et proposita quaestione contra negantes scientiam et omnem veritatis perceptionem, manifestum est et clarum quia contingit hominem scire aliquid, et hoc secundum omnem modum sciendi et cognoscendi. Scire enim potest aliquis rem aliquam dupliciter : vel testimonio alieno et exteriori vel testimonio proprio et interiori. 解決 こう言わなくてはならない。知るということを、事物をあらゆる虚偽と欺 瞞を排してあるがままに認識するときの拠り所となる、すべての確かな理 解を指す広い意味と取り、またそのような理解と前提で、学知と真理のあ らゆる認識を否定する人々に対して問題を掲げるならば、人間には何かを 知ることができ、あらゆる知と認識の仕方においてそうだということは、 明白かつ明快である。というのも、どのような事物であっても二様に知る ことが可能だからだ。すなわち外部の他者の証言によって知るか、あるい は固有の内的な証言によって知るかである。 # # # 異論の五つめ、六つめとして挙げられている「知っているということを否 定する者は、自分が知っていることを認めることになる」という逆説は面 白いですね。しかもこれ、アウグスティヌスとアリストテレスを突き合わ せるかのような形で示されています。「解決」部分の冒頭では、人間は知 ることができる、という肯定論を採用することが宣言されています。です が、ここで気になるのは、ヘンリクスが「知ること」をどのように捉えて いるかということです。少し先走りになりますが、そのあたりのことを参 考書をもとに見ておきましょう。 前に挙げた加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』は、「解決」のこの冒頭 部分で言われている「知」とは、学知とそうでないものをどちらも含む一 般的な知を指しているのだろうと指摘しています。さらにその二つの様態 についても、外部の他者の証言による知とは「他人からの伝聞による 知」、内的な証言による知とは人の感覚や知性によって獲得された知識を 指す、としています(p.47)。こうした知にはまだ、有名な「照明説」 (人が真の知を得るには神による照明が欠かせないという議論)は介在し ていません。照明を必要とする以前に、人間はその本性的なものとして 「広い意味での知」の能力を備えているということなのでしょう。 底本としている羅仏対訳書の解説(ドミニク・ドマンジュ)にあるよう に、一般にヘンリクスの「知」についての考え方は、「範型論」 (exemplarism)の伝統に則っているとされます。前にも触れたよう に、範型論というのは、あらゆる知識は神のうちにある現実の「範型」 (祖型、原型)を知覚することに根ざしている、という考え方なのでし た。一三世紀にこれはある種の隆盛を見せたといい、とりわけボナヴェン トゥラにそれが顕著だったわけなのですが、ヘンリクスの場合には、人間 の自然な知性はそれだけである程度自立しているとされているふしがある ようです(同解説、p.33)。 加藤本によれば、「ヘンリクスの念頭にあった範型とは、プラトン的なそ れ自体で独立で存在する範型ではなく、知性のなかに存在する範型」(p. 49)だといい、そこにはさらに「魂の中に存在している」範型と、「神 の技術知」としての範型の二種類があるとされています(同)。魂の中に 存在している範型は、加藤氏によれば人間知性の中の「普遍的形象」のこ とだといいます。これ自体は外部の事物を原因として、「感覚や想像力の 自然的プロセスを経て人間知性に届いたもの」(同)なのですね。対照的 に神の技術知としての範型とは、事物そのものの原因となる「イデア的理 念」を含むものだといいます(p.50)。 さらにヘンリクスは、前者つまり第一の「魂の中に存在している」範型に 二つの機能を区別しているといいます。その範型が「認識の対象」として 機能する場合と、「認識の観点」として機能する場合があるというのです (同、p.50)。範型が認識の対象をなすとき(絵を見て、描かれた人間 を把握するような場合)には、外的な事物の「想像的把握」をもつのだと して、事物の真理を認識することはできないとされるのですが、範型が認 識の観点となるとき(主体の中にある形象を通して、実物の人間を見る場 合)は、範型と一致する心的概念が形成されることで、事物(範型をもた らす原因)の真理が認識される(すなわち事物の根拠と人間知性が一致す る)といいます(p.51)。あるいはこのあたりが、上の本文に示されて いる内的な証言・外部の他者の証言に重なってくるのかもしれません。 ですが、いずれにしてもこれではまるで人間知性の中ですべてが完結して いるかのような印象です。人間知性における真理(認識対象が人間知性の 範型と一致)と、事物の真理(対象物が神の範型との一致)とが混同され ているようにも見えてしまいます。加藤氏の解釈では、ヘンリクスは人間 の知性による認識の内容が、その事物についての神の認識内容とある程度 一致しているはずだと考えているのだろうといいます(p.52)。人間は 神の範型そのものを知ることはできなくとも、人間知性の真理からそれを ある程度は伺い知ることができる、というわけですね。そしてそのような 真理を、ヘンリクスは事物のついての不十分な真理であるとしているとい うのです。まさにそのことが、人間知性の独自性と神の照明の必要とが矛 盾することなく両立しうる所以なのだと言えそうです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------