〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 silva speculationis       思索の森 〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜 <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.272 2014/10/18 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その7) 今回はブラッドワーディンの『数比論』から、第三章を見てみます。その 冒頭で、ブラッドワーディンはきわめてシンプルに自説を披露していま す。それは、「運動の速度は、動体の力(抵抗力)に対する動因の力(駆 動力)の比に比例する」というものです。前の二つの章では駆動力と抵抗 力の差を問題にしていました。ブラッドワーディンはそうした差の絶対 値、あるいは差の比が、運動の速度とは比例の関係にならないことを、 様々な角度から論じていました。そしてこの第三章では、駆動力の抵抗力 に対する比こそが速度の決定要因であると断言しています。 文献的な論拠として、アヴェロエス(=アリストテレス)の文言がいくつ か引用されています。詳細は省きますが、アヴェロエスの著作の随所か ら、「動体に対する動因の比が一定であるなら、速度も一定である」とい う議論や、「比が倍になると速度も倍になる」といった議論が挙げられて います。さしあたりの論拠がそうした文献的なものに限定されていること が、ここでは一つ特徴的であると言えるかもしれません。次にブラッドワ ーディンは、それらの議論から導かれる帰結を順に列挙していきます。そ ちらは、多少ともこれまでの論理的な議論、あるいは思考実験的なものを 含んで説明されています。ざっと見ておくと、まず挙げられているのは、 (1)「複数の速度間の比は、それぞれの動体に対する動因の比に対応し ている」という帰結です。そこでの比は「幾何学的比」、つまり規則的な 比だとされています。 次いで(2)「駆動力と抵抗力の比が倍の関係であるなら、駆動力が倍に なるとき速度は倍になる」という帰結が示されます。比が倍になるとは割 合をそれぞれ二乗するということでした。速度が倍というのはそのまま二 倍ということです。たとえば駆動力と抵抗力の比が2 : 1であるとき、駆 動力が3であるなら、比が倍(二乗)になると4 : 1で、そのとき速度は6 になるということです。続く(3)は「駆動力と抵抗力の比が倍の関係で あるなら、同じ駆動力で半分の動体を動かすとき速度は倍になる」です。 これも同様に、駆動力と抵抗力が2 : 1の関係であるものが、2 : 1/2(= 4 : 1)になれば、比は二乗となって速度は倍になるというわけですね。 さらに今度は(4)として、「駆動力と抵抗力の比が2 : 1よりも大きい 場合、駆動力が二倍になっても速度は二倍にはならない(倍以上にな る)」が挙げられています。たとえば両者の比が3 : 1の比であるなら ば、駆動力が倍(二乗)になって9 : 1になると、4 : 1をはるかに越えて しまい、速度は二倍よりも大きくなってしまいます。逆に(5)「駆動力 と抵抗力の比が2 : 1よりも大きい場合、同じ駆動力で半分の動体を動か しても速度は二倍にはならない」も言えます。さらにその次の二つの帰結 も、それぞれ(4)と(5)の裏返しになっています。(6)「駆動力と 抵抗力の比が2 : 1よりも小さい場合、駆動力が倍になっても速度は倍に は達しない」、(7)「駆動力と抵抗力の比が2 : 1よりも小さい場合、 同じ駆動力で半分の動体を動かしても速度は二倍に満たない」の二つで す。 これ以後の帰結として挙げられているものは、もとのラテン語テキストに は数字が付されていないらしいのですが、ここで取り上げている仏訳では あえて数字を付して挙げています。それに従ってリストアップしておきま しょう。(8)「駆動力と抵抗力が1 : 1(もしくはそれに僅差で近い比 率)であるなら、運動は生じない」。(9)「あらゆる運動は、駆動力と 抵抗力が大きな比をなす場合に生じる」。この二つも互いの裏返しです ね。(10)「任意の運動が与えられたとき、その運動の二倍の速度、あ るいは二分の一の速度は常にありうる」。これは、速度が増大と減少の両 方向に無限にいたることが可能だということを含意しています。(11) 「重さをもったあらゆる物体は、他の物体よりも早く、あるいは遅く、ま たあるいは同じ速度で落下する」。この帰結の論証には、前に出てきたよ うな環境的な抵抗力を弱めて比較するというような思考実験が用いられて いますが、割と常識的なものですので、ここでは割愛します。 そして最後を飾るのが(12)です。「同じような成分から成る複合体 は、真空においてなら同じ速度で移動する」。これも思考実験的な話では ありますが、真空について言及しているところが面白いですね。環境的な 抵抗がなくなるということを意味しているようです。ところがその一方 で、環境的な抵抗以外に、物体に固有の抵抗力があるとも考えられている ようなのです。これも興味深い点です。この論証では、物体AとBの落下 比較の話が出ています。AがBよりも重いと仮定し、両者が均衡するよう に置くと(ひもなどでAとB結び、そのひもを滑車か何かに通して両方を 同じ高さに保ち、そのあとで手を離す場面を想像するとよいでしょう)、 重いほうが落下するというわけですが、このAが重さCと軽さD、Bが重さ Eと軽さFをもつとすると(重さというのは駆動力、軽さというのは物体 それ自体がもつ抵抗力を意味するものと思われます)、CとFを合わせた ものが、BとEを合わせたものよりも大きくなります。CとFはいわばBを 引き上げる力、BとEはAを引き上げる力と見なすこともでき、結果とし てAが落下しBが引き上げられることになる、というわけなのですね。 このあと、第三章の後半では異論に対するブラッドワーディンの応答が展 開しますが、そのあたりはまた次回に。 ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その5) 「人間は知を得ることができる」とするヘンリクスの自説部分の続きで す。前回のところでは、知の在り方として、外的な証言をもとにして知る 場合と、内的な証言によって知る場合とを区別してみせたのでした。今回 はまずそれぞれの様態について文献的な論拠を示しています。さっそく見 ていきましょう。 # # # Quod primo modo contingit aliquid scire, dicit Augustinus contra Academicos XV De trinitate cap.12. "Absit" inquit, "ut scire nos negemus quae testimonio didicimus aliorum. Alioquin nescimus oceanum nec scimus esse terras atque urbes, quas celeberrima fama commendat; nescimus fuisse homines et opera eorum, quae historica lectione didicimus; postremo nescimus in quibus locis vel ex quibus hominibus fuerimus exorti, quia haec omnia testimoniis didicumus aliorum". Quod autem secundo modo contingit aliquid scire et rem percipere sicuti est, manifestum est ex eis quae experimur in nobis et circa nos, et hoc tam in cognitione sensitiva quam intellectiva. In cognitione enim sensitiva sensus ille vere rem percipit, sicut est sine omni deceptione et fallacia, cui in actione propria sentiendi suum proprium obiectum non contradicit aliquis sensus verior vel intellectus acceptus ab alio sensu veriori, sive in eodem sive in alio. Nec de eo quod sic percipimus dubitandum est quin percipiamus ipsum sicuti est. Nec opportet in hoc aliquam aliam ulteriorem causam certitudinis quaerere, quia, ut dicit Philosophus, "quaerere rationem cuius habemus sensus, infirmitas intellectus est; cuius enim dignius habemus aliquid quam rationem, non est quaerenda ratio". / 最初の様態においてなんらかの知がありうることを、アウグスティヌスは アカデメイア派に反論して、『三位一体について』第一五巻一二章で述べ ている。彼はこう語る。「他者の証言をもとに学ぶことを私たちが否定す ることはないだろう。そうでなければ、海があるとを私たちは知らないだ ろうし、いと高き名声が称賛する土地や町についても知らないだろう。私 たちが歴史家の講義によって学ぶ、人間とその所業が存在したことを知る こともないだろう。また最後に、私たちがいかなる場所において、あるい はいかなる人々からの出自であるのかを知ることもないだろう。なぜな ら、そうしたすべてを私たちは他の人々の証言から学ぶからである。 第二の様態においてなんらかの知がありえ、事物をあるがままに知覚しう ることも、私たちが自分自身において、あるいは自分自身について体験す ることから明らかであり、しかもそれは感覚的認識でも知的認識でも同様 にそうである。感覚的認識の場合、その感覚は、あらゆる欠陥や誤りなど ないかのように、本当に事物を知覚するのであり、みずからに固有の対象 を感知する作用においては、同じ者ないし他者のもとにある、より確かな 感覚、あるいはより確かな他の感覚を受け入れた知性と矛盾することはな い。また、私たちが知覚するものについて、私たちがあるがままであるか のように知覚していることを疑う必要はない。また、そこに何か別の確実 性の原因を探る必要もない。なぜなら、哲学者が言うように、「私たちが 感覚を有する理由を探るのは、知性の弱さである。理性以上にしかるべき ものを私たちは有しているのであるから、理性を求める必要はない」。/ / Experimentum enim sermonum verorum est ut conveniant rebus sensatis. Hinc est quod dicit Augustinus ubi supra: "Absit a nobis ut ea quae per sensus corporis didicimus vera esse dubitemus. Per eos enim didicimus caelum et terram et ea quae in eis nobis nota sunt". Hinc etiam Tullius in libro suo De Academicis, volens probare contra Academicos quia contingit aliquid certitudinaliter scire, dicit sic: "Ordiamur a sensibus, quorum ita clara iudicia et certa sunt ut si optio naturae detur, non videam quid quaeratur amplius. Meo iudicio maxima est in sensibus veritas, si et sani sunt ac valentes et omnia removentur quae obstant et impediunt. Aspectus ipse fidem facit sui iudicti". De fide vero in cognitione intellectiva, quia contingit per eam aliquid vere scire sicuti est, statim subiungit ibidem dicens: "At qualia sunt haec quae de sensibus percipi dicimus, talia sequuntur ea quae non sensibus percipi dicuntur, ut haec 'ille est albus, ille est canus'. Deinde sequuntur maiora, ut 'si homo est, anima est'. Quo ex genere notitia rerum nobis imprimitur". /真理の言葉の体験とは、感覚が捉えた事物に一致するときのような場合 である。そこから、アウグスティヌスが前掲書で述べていることがもたら される。「身体的感覚によって私たちが知ることが、真であるかどうかを 私たちが疑うことはない。そうした知によって、私たちは天と地を知り、 それらにおいて私たちに示されたことを知る」。さらに、トゥリウス(キ ケロ)はそこから、自著である『アカデミカ』において、アカデメイア派 に反する形で、確実に何かを知ることがありうることを検討しようとし、 次のように言うのである。「感覚から始めることにしよう。その明晰な判 断は確実であり、自然の選択肢が与えられたならば、私はそれ以上探求す るべきことが見当たらなくなるほどだ。私の判断は、それが健全かつ価値 あるものであり、それを妨げたり塞いだりするすべてが取り除かれれば、 感覚的な真理において最高潮となるのである。視覚はおのずと、みずから の判断への信頼をもたらす」。 知的認識への真の信頼については、それによってあるがままの真の知があ りうるからだが、ただちに次のように追記している。「感覚によって知覚 したと私たちが述べるものがある分だけ「これは白い」「それは灰色だ」 など[の文言]のように、感覚では捉えられないと言われるものもある。 さらにより重要なものもある。たとえば「人であるならば、それは動物で ある」などだ。それは事物の概念から私たちに刻印されるのである」。 # # # 知において重要なのは、その知に対して信頼を寄せられるかどうかです。 外的な証言、内的な証言のいずれについても、ヘンリクスはまずアウグス ティヌスを引いて、それらが信頼に値するものであることを示そうとして います。内的な証言、つまり感覚的な知覚などがもたらすものについて は、論証するのはいっそう難しいと思われますが、そのためでしょうか、 ヘンリクスはキケロをも引用しています。感覚がもたらす知も、さらには 知的概念がもたらす知も、それ自体で自明なものとして「確実」であると キケロは述べているのですね。 前回も触れたように、ヘンリクスはアリストテレスをもとに、一般的な知 の獲得は可能だと考えています。ただ、それ以上の絶対的に確実な知の獲 得には、アウグスティヌスが言うような神的な「照明」が必要であると捉 えているのでした。このアリストテレスへの志向とアウグスティヌスへの 志向との混在は、研究者の間でもいろいろに解釈されてきたと、『ゲント のヘンリクス必携』所収のスティーヴン・マローネの論考「ゲントのヘン リクスの認識論」(同書第九章:pp.213-239)は述べています。今回も 先走りになりますが、この論考の前半部分をもとに、ヘンリクスの認識論 の要点を再度見ておくことにしましょう。 同著者は、経年的な思想の変遷こそが問われなくてはならないと強調し、 『スンマ』冒頭に示される認識論も、教導職を通じて練り上げられてきた 経時的な性格をもつものとして扱うことを提唱しています(p.214)。 『スンマ』は長い期間を通して書き続けられてきた著作で、書き進む間に ヘンリクスの思想自体にも様々な修正が加えられていったと考えられま す。そうした変化を考慮に入れる必要があり、一概にヘンリクス思想のア ウグスティヌス化、あるいはアリストテレス化を論じてはならない、とい うわけです。 ヘンリクスは、教導職に就いた初期のころから、人間に自然に備わってい る知的能力自体に信頼を寄せる一方で、それは高度な知よりも劣ったもの であるとして、上位のレベルにはまた別様の知の在り方が求められる、と 考えていたといいます。信頼という点についても、そうした二段階が想定 されていたのでしょう。マローネは、ヘンリクスが考える「知」の区分を 詳細にまとめてみせています(p.217)。まずもってヘンリクスは、上 位・下位での知が、扱う対象でも異なっていると考えています。下位の知 では、真なるものとしての対象を知るのに対し、上位の知では対象にまつ わる真理を知るとされるのだといいます(同)。 この両者の差は実に大きなものだとされます。下位の知では、すでに心的 に刻印されたものを、感覚与件と重ね合わせて対象を理解します。そのよ うにして、眼前の対象物が何であるのかは心に示されるものの、その対象 の「何性」(それが真にどういうものであるのか)を十全に理解すること はできないとされます。一方の高次の知においては、より複雑な心的作 用、つまり単にすでに刻印されたものを感覚与件と重ね合わせるだけでな く、反省的な操作を経て対象物が真にどういうものなのか判断を下すプロ セスが関わってくるのだ、と(pp.217-218)。 このあたりは言わんとすることを把握するのがなかなか難しいところです が、上の信頼という観点から見るならば、一般的な知については人間本来 に備わっている能力はそれ自体で信頼できるものの、より高次の知、学識 的な知にいたるには、つまり知の信頼が担保されるには、それ以上の能 力・対応が要求されることになるわけですね。当然ながらヘンリクスがと くに関心を寄せてきたのはこの後者の知、上位の知にほかなりません。で はそれは、神的な介入によって担保される知なのでしょうか。実はそこで いう高次の知というのは疑似学知というようなもので(p.220)、まだ絶 対的な知ではないとされています。絶対的な知との関連で出てくるはずの 「照明」の話は、まだ登場してこないのですね。このあたりはヘンリクス の思想的な深まりが感じられる点でもあるのですが(おそらく初期には、 その二分割でよしとしていたのではないかと思われます)、最終的に照明 説にいたるまでの議論の流れはもう少し続きます。というわけで、次回も 同論文をもとに、その流れを見ていくことにします。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月01日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------