silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.273 2014/11/01 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その8) トマス・ブラッドワーディン『数比論』(一四世紀)の第三章を見ていま す。前半では「運動の速度は抵抗力に対する駆動力の比に比例する」とい うブラッドワーディンの自説が掲げられていました。後半では、そこから 生じる不都合についてのコメントが記されていきます。彼は三つほど不都 合があるとしています。まず一つめは、抵抗力と駆動力の比が同じでも、 ときに運動の速度に差がでる場合があるということ、次に、ある抵抗力に 対するある駆動力の比が他の比に対して小さいのに、速度が同じになる場 合があること。さらに、他よりも比が小さいのに、速度が大きくなる場合 があること、の三点です。煎じ詰めればこれらは同じ問題を扱っていると いえます。理論と現象の不整合ということですね。 ブラッドワーディンは次のような思考実験を行います。二つの土塊AとB があるとします。AはBよりも大きい土塊です。同様に、空気の塊CとDが あるとします。AとBに比例する形で、CはDよりも大きい塊です。AはC を割って落下し、BはDを割って落下します。その場合、空気を割るのに 要する時間が等しいとしたら(AとBが駆動力、CとDが抵抗力だとする と、比は一定なので、両者の速度は同じになるはずです)、翻ってAはB よりも落下の速度が速いことになります。同じ時間でより長い距離を移動 することになるからです。これが第一の不都合です。 次に同じ状況で、AとBの落下速度が同じになるまでAとCの比を縮めたと すればどうでしょうか。これは第二の不都合に相当する状況になります。 速度は同じなのに、駆動力と抵抗力の比がもう一方に対して小さくなって しまいます。さらに今度は、逆にそのAとCの比を、BとDよりは小さいも のの、少しだけ大きくしたら、上の二つめのケースよりもAは速く落下す ることになります。これが第三の不都合に相当します。 これに対してブラッドワーディンは、次のような推論を巡らします。第一 の事例で、BがDの全体を割った時点でAが割った分のCの空気の塊をEと します。すると、等速であるなら比は同じという理論上、B : DはA : Eと 等しいことになります。ですが上記の前提上、B : D = A : Cなのでし た。ということはA : CはA : Eに等しいことになります。ここで数量的に 考えるならば、Cが全体であるのに対してEは部分なのですから、EはCよ りは小さくなっていなければなりません。ですからこれは矛盾します。 ですがブラッドワーディンは、そのように解釈するのは適切ではないと考 えます。つまり、ここでのCとEは抵抗力という意味(つまり空気の塊と しての密度)では等しいはずです。ですから、AとEの比は、AとCの比と 同じになるはずです。つまり、空気の量を考えるのではなく、空気の質を 考えることが求められるというわけです。ブラッドワーディンはこのよう に、質的なものと量的なものとの区別を設けて、不都合を斥けています。 定式として示されているのは、動因(駆動力)が動体(抵抗力)に、それ がもつ可能態の全体として(あるいは全面的に)関わる際の原理であっ て、いわば質的な側面が取り上げられているわけです。ですが実際の現象 においては、それぞれが具体的な量化を伴っており、そちらに着目すると 定式から逸れる事例が生じうるように解釈されてしまう、というわけで す。タイプとトークンのような話ですね。ブラッドワーディンは、速度に ついて質的に語る場合には「速さ」「遅さ」そのものを問題にするのに対 し、量的に語る場合は「時間的な長さ」「時間的な短さ」が扱われる、と いう言い方をしています。 上の三つの不都合はすべてそうした量的な側面によるものです。「抵抗力 が等しい」と言う場合に、それは質的に等しい、量的に等しい、両方の様 態において等しいという三つの場合がありうるとブラッドワーディンは述 べています。また、質的に等しいという場合はさらに三つに下位区分さ れ、内在的に等しい、外在的に等しい、両方の様態において等しいという 三つの場合が考えられています。内在的というのは密度などの要因を指 し、外在的的とはその他外部の要因(付帯要因など)を指しています。抵 抗力が等しいという場合は、質的に等しく、また内在的に等しくなければ ならない、とブラッドワーディンは考えているようです。 たとえば、磁石が小さい鉄の塊と大きい鉄の塊を引きつけるとき、比の観 点からは小さい鉄のほうが速く引きつけられるはずなのに(抵抗力が小さ くなり、比が大きくなるため)、実際はそうはならないという事例につい て、ブラッドワーディンは両者は同じ速度で引きつけられるとしていま す。この場合、磁石の大きさと鉄塊の大きさが問題なのではなく、磁石が 鉄に生じさせる、「磁石のほうへ向かう」という性質こそが考慮されなく てはならず、それは磁石と鉄塊の大きさではなく距離(近さ)に依存す る、ということを述べています。これも、質的な観点で考えよという一例 になっているわけですね。 章の末尾部分では、駆動力と抵抗力が等比(1 : 1)でないときに運動が 生じるというテーゼは、抵抗力がいくら大きくても(駆動力を上回って も)、あるいは駆動力がいくら小さくても(抵抗力を下回っても)、成立 するのかという問題を扱っています。抵抗力が倍になれば速度は二分の一 になり、さらに倍になれば四分の一になり……抵抗力が駆動力を上回って もそれは無限に続くことになってしまう、というわけですね。仏訳を手が けたロムヴォーの解説によると、これは伝統的な反アリストテレス的議論 なのだといいます。ブラッドワーディンは、そのような議論をもってして も自説は揺るがないと見ています。というのも同説では、同じ動因Mが、 動体mを半分の速度(V/2)で動かす場合、駆動力と抵抗力の比は、もと の比Rの平方根、つまり√Rになります。四分の一の速度(V/4)なら、比 はRの平方根のさらに平方根、^4√Rになります(このあたりはロムヴォ ーの解説を参考にしています)。というわけで無限にいたるまで速度を落 としても、抵抗力が駆動力を上回ることはなく、理論上は等比でない限り 運動が成立することになります。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その6) ヘンリクスの『スンマ』から問一の続きです。今回の箇所では、主にアカ デメイア派による懐疑論への批判が、アウグスティヌスの引用でもって示 されています。さっそく見ていきましょう。 # # # Cognitione igitur intellectiva, sicut iam dictum est de cognitione sensitiva, intellectus ille vere rem percipit, sicuti est sine omni deceptione et fallacia, cui in actione propria intelligendi non contradicit intellectus verior vel acceptus a sensu veriori. Nec de tali intellectu plus dubitandum est quam de sensu. Unde Augustinus ubi supra: "Cum duo sunt genera rerum quae sciuntur, unum eorum quae per sensus corporis percipit animus, alterum eorum quae per se ipsum, multa illi philosophi (loquitur de Academicis) garriunt contra corporis sensus, cum tamen quasdam firmissimas per se ipsas perceptiones rerum verarum nequaquam in dubium vocare potuerunt, quale est illud 'scio me vivere'". したがって知的認識においては、感覚的認識について述べたように、その 知性が事物を、欺瞞も誤りもないものとして認識する。それはみずからの 知解の作用において、いっそう真なる知性、あるいはいっそう真なる感覚 から受け取ったものと矛盾することはない。そのような知性もまた、感覚 と同様、疑わしいものではない。ゆえにアウグスティヌスは上掲書でこう 述べているのである。「知られる事物の類は二つあり、一つは肉体的感覚 によって魂が知覚するもの、もう一つは魂それ自体において知覚するもの であるが、多くの哲学者たち(アカデメイア派の人々のことを言ってい る)は、肉体的感覚については盛んに揶揄していたが、魂それ自体が事物 について得る、このうえなく確かな知覚は、決して疑念のもとに呼び出す ことができなかった。たとえば「私は自分が生きていることを知る」とい うような場合である」。 "In quo non metuimus ne aliqua veri similitudine fallamur, quaoniam certum est eum qui fallitur vivere". "Ubi nec Academicus dicere potest: 'fortassis dormis et nescis et in somniis vides', quia nec in ea scientia per somnia falli potest, quia et dormire et in somniis videre viventis est. Nec illud Academicus dicere potest: 'furis fortassis et nescis', quia sanorum visis similia sunt etiam visa furentium. Sed qui furit vivit, nec contradicit Academicus. Non ergo fallitur nec mentiri potest qui dixerit scire se vivere". Nec de hoc alia probatio requirenda est quam illa quae habetur ex exercitio intellectus et per signa evidentia a posteriori, qualia inferius ponentur. 「その場合でも、私たちは何か真実に見えるものに惑わされるのではと恐 れはしない。なぜなら、惑わされる者が生きていることは確かだから だ」。「ここでアカデメイア派は、「おそらく君は知らぬ間に眠ってしま い、夢の中で見ているのだ」とは言えない。その場合の知は夢によって惑 わせることはできないものだからだ。なぜかというと、眠ることも夢で見 ることも生きている者に属することがらだからだ。また、そのアカデメイ ア派は「おそらく君は狂っていて、そのことを知らないのだ」とも言えな い。健全な人の視覚も狂人の視覚も同じようなものだからだ。だが狂って いる人も生きているのであり、アカデメイア派もそのことには反論できな い。このように、自分が生きていることを知ると言う者は、惑わされるこ とも虚言を弄することもできないのだ」。これについて、ほかの証拠が必 要とされるなら、知性の働きによって、また明らかな徴によって後から得 られるもの以外にはない。それがどういうものかは後ほど論述しよう。 Contra hoc tamen antiquitus vigebant septem errores, tam ex parte sensus, tam ex parte intellectus, quorum quinque reprobat Philosophus IV Metaphysicae, illorum scilicet errorum qui negabant scientiam negando illud principium scientiale "de quolibet affirmatio vel negatio, et non simul de eodem". Sextum vero, qui erat Menonis negantis hominem posse addiscere, reprobat in principio Posteriorum. Septimum autem, qui erat Academicorum negantium veri perceptionem, reprobant Augustinus et Tullius in libris suis De Academicis. これに対して、古来には感覚および知性についても七つの誤りが息づいて いた。そのうちの五つは哲学者が『形而上学』第四巻で反論している。す なわち、次のような知の原理を否定することで知を否定しようという誤り である。「あらゆるものについて肯定ないし否定のいずれかが正しく、両 者がいずれも正しいことはない」。さらに六つめは、人間は学ぶことがで きるということを否定したメノンの誤りである。哲学者はこれに、『分析 論後書』の冒頭で反論している。また七つめは、真理の認識を否定したア カデメイア派の誤りである。アウグスティヌスとトゥリウス(キケロ)は これに『アカデメイア派について』(『アカデメイア派論駁』?)で反論 している。 # # # 仏訳の注によれば、アウグスティヌスからの引用はいずれも『三位一体 論』からのものです。また、前にも一度出てきましたが、ヘンリクスはア ウグスティヌスの『アカデメイア派論駁』を「アカデメイア派について」 と称しています。キケロの『アカデミカ』と交錯している感じもします。 確かにアウグスティヌスのアカデメイア派批判は、キケロの『アカデミ カ』がもとになっているようですが、それにしてもヘンリクスのこの言及 の仕方は、両者を合わせた合本か何かの存在を思わせるものがあります。 うーん、そんなものが?このあたり、ヘンリクスがどのようなものを参照 していたかは不明です。検証が必要かもしれません。 さて、とりあえず前回に引き続き今回も先走り的に、認識と知に関するヘ ンリクスの議論をマローネの論考「ゲントのヘンリクスの認識論」に沿っ て見ておきましょう。下位の知、上位の知を分けたヘンリクスは、その上 位の知もいまだ不十分なものであると考えていたのでした。続いてマロー ネはこれを別の観点から整理しています。知を考えるモデルとして、ヘン リクスはアウグスティヌス的プラトン主義のイデア論と、よりアリストテ レス化した知覚像とを持ち出し、それらに応じて二様の真理、二様の知解 がありえるとしています。そしてまずはとりわけこの後者の可能性にこだ わっていたとされます。 そのプロセスはこうです。最初に対象を「真なるもの」として把握しよう とする際(これが下位の知に相当します)、範型もしくは可知的スペキエ スが精神内に生じます。次いでそれを反省・省察することによって、みず からの内に精神的な概念を形成します。それが対象の「真理」を知解する ことに相当します。スペキエスから概念へと、一段上のより抽象的なレベ ルに上がるというわけで、これが下位の知から上位の知へのシフトに相当 します。 著者のマローネは、対象の「真理」を掌握するには、少なくとも精神が対 象そのものとその範型(イデアかスペキエスかはともかく)とを比較する プロセスが必要とされるのではないかと指摘します。対象の真理の判断に その範型が必要とされるだろう、というわけですね。ところがどうやら、 初期のヘンリクス(『スンマ』冒頭を著していたころのヘンリクス)はそ うしたプロセスの細かい説明には入っていかないようなのです。その理由 の一つには、スペキエスという道具立ての曖昧さもあっただろうといいま す。マローネによると、後に(中期の)ヘンリクスは精神に関する理論か らスペキエス自体を抹消してしまいます。 こうしてヘンリクスは、もう一つのモデル、すなわち神のイデアによる議 論へと全面的に向かっていきます。いよいよアウグスティヌスの照明説に インスパイアされた説が開示されていくわけなのですが、そちらへといた る道もまた、説明付けるという意味では容易ではありません。なにしろ、 範型が神のもとにあるイデアだとすると、端的なる存在という意味での神 は精神と同一であるとされるわけですから、人間がそのイデアを観想する というのは、いわば至福直観にいたることになってしまいかねません。で すが、ヘンリクスが求めているのはあくまで世界における処々の知識なの です。この難題をクリアするため、ヘンリクスは、人間の知性が第二の、 より洗練された真理(対象の)の概念を形成するというプロセスを主張す るようになります。上位の知の上に、さらに上位の知があるという形でし ょうか。範型が神と同等のものであるなら、それは人間の心理に内在する のではなく(さもないと神の超越性が損なわれてしまうからです)、なん らかの精妙な手段によって外部から注ぎ入れられるものでなくてはならな いわけです。 ヘンリクスはそれを、光、色の形象、対象の形状という三つのメタファー で語っているといいます。光は神の精神から注がれるなんらかの心的な作 用、色の形象(species coloris)とはより明確な概念を形成するための 精神的な準備を喩えています。形象・スペキエスという言葉が使われてい ますが、当然ながらこれは前のアリストテレス的議論から導かれたスペキ エスとは別物で、あくまで比喩としての形象ということですね。そして最 終目標となるのが対象の形状把握に喩えられる段階で、これこそまさに 「神の技術」と称される知解の在り方を指しているようです。このあたり の詳しい中身はまた次回。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月15日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------