silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.275 2014/11/29 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その10) 前回まではトマス・ブラッドワーディンの『数比論』の内容をざっと見て みました。今回からはそれに対する同時代の注解書を見ていくことにしま す。まず取り上げるのはパルマのブラシウスによる『トマス・ブラッドワ ーディン師の数比論に関する諸問題』(Questiones circa tractatum proportionum magistri Thome Braduardini)です。これは校注版がフ ランスのヴラン社から2005年に出ています。これを底本に、ブラッドワ ーディンの議論が同時代的にどう受け止められていたのかについて、その 一端を窺ってみることにします。 パルマのブラシウス(1365〜1416)はイタリアで活躍した数学者・哲 学者(自然学者)・占星術師で、当時はかなり著名な学者だったようで す。1382年から88年まではパドヴァ大学で数学の教師をしていました。 先駆的な霊魂可滅説を唱えたりする一方で、英仏の哲学的著作をイタリア に広めたりもし、フレンツェの芸術家や学者に影響を与えたとされている 人物です。 ブラシウスの『諸問題』は、ブラッドワーディンの数比論をもとに、そこ から一二の問題を再録し議論し直しているというものです。上の校注版に は、編集を担当したジョエル・ビアールとサビーヌ・ロムヴォーによる解 説序論が収録されています。それによると、どうやらブラシウスには、ブ ラッドワーディンの革新性に対するいくばくかの留保の姿勢が見てとれる のだとか。ここではその序論を見つつ、本文を眺めていくことにします が、その留保というあたりも少し吟味していきたいところですね。 『諸問題』は神学のテキストなどで使われる、肯定・否定(sic et non) の形式で書かれています。つまり、表題で疑問点が示され、まずはそれへ の否定的見解(あるいは肯定的見解)が示された後、その反論として肯定 的見解(もしくは否定的見解)が示されるという形式です。当時はこれが 神学以外の文献(自然学など)にも多用されていました。序論によれば、 数学へのその形式の適用はやや逆説的だとされます。エウクレイデス(ユ ークリッド)の『原論』以来数学に適用されてきた、直線的な演繹法を採 用した形式と対照をなしているわけなのですが、ブラシウスはそうした数 学的な演繹法こそを「確かさ」のモデルとして重用していたようなので す。その意味でこれは逆説的だというわけなのですね。『諸問題』でのこ の肯定・否定形式の採用は、自然学者の視点と数学者の視点の関連と違い とを際立たせる意図があったのではないか、との仮説を同序論は示してい ます。 さて、中味に入っていきましょう。問題一「あらゆる運動は、他の運動と 速さや遅さにおいて比例の関係にあるか」と問題二「厳密な意味での比は 二つの数量の間で相互に成立するか」は「比」「比例」の定義にまつわる 題目です。まず「比」には二つの意味があるとされます。一つは一般的な 意味、もう一つは厳密な(固有の)意味です(問題一)。前者は大小の比 較が可能なものや、互いに類似するものに広く適用される意味です。です が当然ながら目下の議論で扱われていくのは後者の意味、すなわち数量的 な比較です。ブラッドワーディンはエウクレイデスの『原論』にもとづい て比の定義を示していましたが、ブラシウスはそれにちょっとしたニュア ンスを加えるといいます。「比較する数量は同じ種類のものでなくてはな らない」というのがブラッドワーディンの定義でしたが、ブラシウスはそ の言明をどうやら避けているのですね(問題二)。 たとえば任意の接触角(円周上の一点の接線と、その点の弧とがなす角 度)と任意の二面角(二つの平面が織りなす角度)との間には、両者とも 角度だとはいえ、比の関係は成り立たないと考えられます。当時の考え方 からすると、接触角のほうは無限に分割できるのに対して、二面角は限定 された数値でしかない、というのがその理由です。ところがブラシウス は、無限の直線と有限の直線とがなんらかの比の関係をもちうるように、 それらの角度同士の比較もまた可能だと考えているのですね。また有限の 線と有限の物体(三次元の)との間にも数値間の比の関係が成立しうると しています。とはいえ、そうした場合の比を有理数による数値でもって著 すことはできないという制約はある、との但し書き付きです。 面白い議論として、人間と蟻との間にも、それぞれの完成度において比の 関係が成り立つとブラシウスは考えています。しかもそれは数比的な関係 でありうるとされ、典拠は不明ながら、四倍(四乗?)の関係だという説 が示されています。ブラシウスはそれを紹介した上で、だからといって四 匹の蟻がいれば人間と対等になるかといえばそうではなく、個体数が増え たところで完成の度合いが増えるわけではないことを指摘しています。 問題三「数字において無理比の関係はあるか」では、数比には有理比と無 理比があるとした上で、ブラシウスはあらゆる比はそれを表すなんらかの 表示(数値で表すのが一般的です)をもちうる、と述べています。ブラッ ドワーディン『数比論』第一章での両者の区別が引き合いに出されてもい るのですが、上の解説序文によれば、ブラッドワーディンは無理比につい てはあまり明確に取り上げておらず、無理比の表示理論が示されるのはニ コラ・オレームの『比の数比論』を待たなくてはならないのだとか。オレ ームは、有理比の一部をなしているような(つまり倍数とか乗数とか)無 理比の場合にのみ、数字による表示が可能だとしているのですね。それに 対してブラシウスは、すべての比は表示可能だと考えているようです。と はいえ、このあたりは必ずしも明確に規定されているわけではないようで す。いずれにしても、ブラシウスはこのように、ブラッドワーディンを下 敷きにしつつも、ところどころに独自見解を差し挟んでいくようなので す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その8) 前回に引き続き、古代の懐疑論についての概括が行われている箇所です。 今回の分もさっそく見ていきましょう。 # # # Ratio eorum, secundum quod recitat Augistinus, fuit quia dicebant "solum his signis verum posse cognosci quae non possent habere rationem falsi", ita quod verum a falso dissimilibus notis discerneretur nec haberet cum falso signa communia, et sic id quod verum est falsum apparere non posset; talia autem signa inveniri posse, impossibile esse credebant; et ideo concludebant quod veritas propter quasdam naturae tenebras vel non esset vel obruta et confusa nobis lateret. Unde et dixit Democritus, ut habetur IV Metaphysicae: "aut nihil omnino est verum, aut quod non monstratur nobis". アウグスティヌスの引用によれば、彼らの考え方は次のようなものだっ た。彼らは「真であることは、偽の考えなど持ち得ないようなしるしによ ってのみ認識できる」と述べ、真は弁別的なしるしによって偽から区別さ れ、偽のしるしを共通にもつことはなく、真であるものが偽であるかのよ うに思われることはない、としていた。だが、そのようなしるしが見出さ れることはありえない、と彼らは信じていた。したがって彼らは、なんら かの自然本性上の闇ゆえに、真理は存在しないか、あるいは隠され曖昧に なっていて、私たちには見えないのだと結論づけていた。ゆえにデモクリ トスは、『形而上学』第四巻に見られるように、「すべてはなんら真では ないか、あるいはわれわれには示されないかだ」と述べているのである。 Alii autem, ut Amfrathagoras et eius sequaces, dicebant omnia esse vera et falsa simul, dicendo quod "non esset veritas extra animam" et quod illud quod apparet extra non est aliquid quod est in ipsa re in tempore quo apparet, sed est in ipso apprehendente. Unde omnino negabant res habere esse extra animam, et ideo oportebat illos dicere quod duo contraria esset simul vera, non tantum secundum duversos apprehendentes secundum eundum sensum, sed etiam secundum eundem secundum diversos sensus et secundum eundem sensum diversimode dispositum, quia quod apparet uni mel secundum gustum, alteri apparet secundum gustum non mel, et quod "uni apparet mel secundum visum, apparet eidem non mel secundum gustum, et quod alicui apparet per oculos unum, mutato situ oculorum apparet ei duo". Ex quo concludebant quod nihil determinatum appareret nec esset aliquid verum determinatum, et quod ideo omnino non esset scientia. また別に、プロタゴラスとその弟子たちのように、すべては真であると同 時に偽でもあるという人々もいた。彼らは「魂の外には真理はない」と述 べ、その外にあると思われるものは、そう思われた瞬間に事物の中にある ものなのではなく、理解する人の中にあるものだと述べている。それゆ え、すべての事物には魂の外の存在があることを彼らは否定し、また、対 立する二つのものがともに真であるのは、同一の感覚にもとづいて複数の 者が理解する場合のみならず、同一の者が複数の感覚で理解する場合、ま た同一の感覚を複数の異なる様態で用い理解する場合もある、と彼らは言 わなくてはならなかったのである。というのも、ある者には味覚において ハチミツであると思われ、また別の者には味覚においてハチミツではない と思われる場合もあれば、「ある者に視覚においてハチミツと思われたそ の同じものが、味覚においてはハチミツではないと思われる場合もある し、別のある者の目に一つと見えるものが、見方を変えると二つに見えた りする場合もある」からだ。以上をもとに彼らは、いかなるものも限定さ れているようには思えず、真に限定されているものも存在せず、したがっ てそれらいっさいは学知ではないと結論づけたのだ。 Alli vero, ut Heraclitus et sui sequaces, dixerunt quod omnia sunt simul vera et falsa, "quia aestimabant quod tantum sensibilia essent entia et quod ipsa non essent determinata in esse suo, sed continue transmutata, et quod sic nihil in eis maneret idem in rei veritate", sed essent in eis simul ens et non ens, et de eodem, quia motus componitur ex esse et non esse, et omnis transmutatio media est inter ens et non ens. Propter quod ulterius dixerunt quod "non oporteret respondere ad quaestionem 'sic' aut 'non'". Unde et "Heraclitus in fine vitae suae opinabatur quod non oporteret aliquid dicere, sed tantum movebat digitum". Ex quo movebantur ad dicendum quod de nullo scientia acquiri posset ab homine. Opinio Menonis et quorundam Platonicorum erat quod nemo posset aliquid addiscere et quod ideo nemo posset aliquid scire, ut supra dictum est in quinto et sexto argumento. さらに、ヘラクレイトスとその弟子たちのように、次の理由からすべては 真であると同時に偽でもあると述べた人々もいた。「彼らは、感覚対象の みが実体としてあり、それらは存在として限定されてはおらず、連続した 変化の途上にあると考え、また、そんなわけで、そのいずれもが事物の真 理として同一であり続けるのではく」、同一のものに関して有であると同 時に非有でもある、と考えた。なぜなら運動とは有と非有とから成り、あ らゆる変化は有と非有とのあいだの中間状態だからだ。そのために彼らは その後、「是か非かという質問に答える必要はない」と述べたのである。 かくして「ヘラクレイトスはその人生の最後に、何かを言う必要はなく、 指を動かしさえすればよいと考えるようになった」のだ。それゆえ彼ら は、何についてだろうと人間が学知を獲得することはありえない、との説 に傾いていった。 メノンと一部のプラトン主義者の見解は、上の五番目と六番目の議論で述 べたように、誰も何かを学ぶことはなく、したがって誰も何かを知ること もないというものだった。 # # # 最初の段落は前回の直接的な続きです。アカデメイア派も連なるという、 デモクリトスなどの主張でした。彼らは真理の条件として、認識者が明確 な「しるし」によって偽から区別することを挙げていたのですね。その上 で、そういうしるしはない、と断定しているわけです。今回はこれが大き なポイントになります。 続いて今度は、「すべては真でも偽でもある」という主張をした一派とし て、プロタゴラスの一派とヘラクレイトスの一派が挙げられています。 Amfrathagorasという人物名が出てきますが、仏訳ではこれがプロタゴ ラスになっています。確かに、仏訳注にあるように、この一節のもとにな っているというアリストテレスの『形而上学』(1007b 21-22)では、 その主張はプロタゴラスのものとされています。そのため上の訳もいちお う仏訳に従っていますが、これ以上の確認は取れていません。 さて、前回まではマローネ論文を通して、ヘンリクスの学知論の歩みを概 観しました。ヘンリクスがアウグスティヌス寄りであるという従来の見方 を修正し、後期になるとヘンリクスもアリストテレスをいっそう重視する ようになるという説がとても新鮮な感じです。で、今度は再び加藤本 (『ガンのヘンリクスの哲学』)に戻って、ヘンリクスの学知論をスコト ゥスによる批判から見た同書第二章を見ていくことにしましょう。まず、 スコトゥスの批判がヘンリクスのどのあたりの議論に向けられているのか を確認しなくてはなりません。 同書によれば、それはこういうことになるようです。ちょうど今回のテキ スト部分にも関連しますが、大元はアカデメイア派の主張が問題になりま す。ある命題が真かどうかを、認識する側が確実な「しるし」でもって峻 別できるかどうかという問いに、命題が真であるという前提はそのまま受 け入れ、なおかつそのような峻別は可能であるとするのがヘンリクスの立 場です。一方そうした確実性の基準を否定して別の基準を設けようとする のがスコトゥスの立場だというのですね(同書、p.67)。 上のテキストにもあるように、アカデメイア派のものだというそうした基 準にそって議論を進めると、可変的なこの世では、経験的な知はどうして も懐疑的にならざるをえません。ですがヘンリクスは、人間にはアプリオ リな知識が備わっていることから、人間には可変性を脱却する方途、つま り人間の知の確実性を保証する「根拠付け」があるはずだと考えるのです ね。それが「神の照明」、あるいは第二の範型と呼ばれるものにつながっ ていくわけです(p.71)。これがヘンリクスが考える「確実性の識別の しるし」ということになります。 ではスコトゥスはどうでしょうか。ヘンリクス同様、やはり知の確実性を 主張するスコトゥスは、照明なしでも純粋真理の認識は可能だとの立場を 取ります。同書によれば、スコトゥスはアカデメイア派のような「確実な しるし」を求めることは元来無意味であるとし、彼らの確実性の基準その ものを否定します。その上で、確実な知はそもそも三種類あると規定しま す。「自明原理」(分析命題や矛盾率などの論理法則)、多くの場合の経 験的認識、多くの場合の人間みずからの行為についての三種類です(pp. 74 - 77)。重要なのは、スコトゥスによるアカデメイア派の基準の否定 は、あくまで「しるしによる識別」の部分だけであって、真の認識そのも のが現にあることを否定しているのではない、という点です。ではその観 点から、スコトゥスはヘンリクスに対してどのような反論を示しているの でしょうか。その中身についてはまた次回にまとめたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月13日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------