silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.276 2014/12/13 ============================== *お知らせ 今年も本メルマガをお読みいただきありがとうございます。本メルマガは 原則隔週での発行ですが、年末年始はお休みとさせていただいておりま す。そのため本年度も年内は本号が最後となり、次号は年明けの1月10日 を予定しております。ご理解・ご協力のほど、お願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その11) 前回からパルマのブラシウスによるブラッドワーディン『数比論』への注 解書(『諸問題』)について見ています。今回もその続きです。前回の最 後のところで、ブラシウスが有理比・無理比にかかわらず比の表記 (denominatio)はすべて可能だとしている話に触れましたが、その上 でブラシウスは、有理比(proportio rationalis)では端的に数で示せる のに対して、無理比(proportio irrationalis)は必ずしもそうではない ということを述べています(問題三)。有理比は比較する両者の数値が割 り切れる場合、無理比は割り切れない場合を言います。無理比についてブ ラシウスは、二乗すれば通約できる場合(incommensurabilis)を現実 的無理比、それでも通約できない場合を潜在的無理比と称しています。底 本の解説序文(テキストの編者ビアール&ロムヴォーによるもの)による と、この区別の典拠は見当たらないのだそうです。 続く問題四ではその無理比の具体例が取り上げられています。表題は 「(正方形の)対角線は辺に対して有理比をなすか」です。正方形におい ては、辺に対して対角線は辺の二倍の平方根となるわけですから、上の無 理比の区別で言えば、これは現実的無理比ということになります。ブラシ ウスはこれを、対角線を一辺とする四角形と、もとの四角形との面積比が 2 : 1になることから、対角線と辺との比はその1/2乗(つまりは平方 根)になる、という形で論証してみせます。はからずもここでブラシウス は、ニコル・オレームが示すように、有理比の一部をなすような無理比に 限って表記することができるという考え方を証しているようにも思えま す。 問題五「表記が同一であればその比は同一となるか」では、ブラシウスは 事物同士を比較する視点を斥けることを再度訴え、より数学的な観点から 考えなくてはならないことを強調します。比というものが、延長・完全 性・持続などの量的単位における形式論理的な操作であることを明示して います。表記が同一という場合のこの表記とは、あくまで単発の(連続的 でない)一定量の数値のことを言い、それはなんらかの数字によって直接 的ないし間接的な形で表されるのだ、としています。 ゆえに比同士の比も考えることができるわけですね。たとえば8 : 1と4 : 1の比を取るものがあった場合、両者を比較するなら、8は2の三乗、4は 二の二乗ですから、それらの比同士の比は乗数にして1.5倍になってい る、と言うことができます。こうした操作的な観点は比を理解する上で重 要だとされ、問題六ではその事例として次のような案件が検討されます。 「両端を結ぶ中間部に、それぞれの端部に対して比をなすような任意の点 を置いたとき、両端同士の比はそれらの中間点からの比によって構成され るか」。 上の例で言うなら、8 : 4(つまり2 : 1ですね)と4 : 1の二つの比によっ て、つまり二倍の比(2 : 1)が3つ重なって(三乗して)、8 : 1の比が 構成される、というふうに見ることもできます。解説序文によれば、ネモ レのヨルダヌスの著書とされる『数比論』という書物の中に、比の構成は つまるところ表記の乗法(乗数)に帰されるということが記されていると いい、ブラシウスはこれを参照している可能性があるようです。 いすれにしても、比の構成の話には比の大小の関係が関わってきます。全 体は部分から成るという前提があるからです。で、その比の大小の考え方 を取り上げるのが問題七「等比よりも大きい比はありうるか」です。一般 に数量の大小は、エウクレイデスに従って、小さい方を何倍かして大きい 方と同等かそれ以上になる場合に成立する、と言われます。ところが比の 場合、もしその考え方に従うなら、等比を何倍しようとそれは等比で変わ らず、従って等比よりも大きい比というのはありえないことになります。 同じような理由で、数値的に大きい比と小さい比の大小の比較も成立しな いことになってしまいます。 一方で、表記同士に着目するなら、大小の関係はなくてはなりません。そ のためブラシウスは、比については数量的な考え方の大小(等比以外につ いて、上の数量の大小を当てはめる)と、表記にもとづく大小という二つ の関係性があると考えます。4 : 1は2 : 1の二倍(二乗)の関係にあるこ とから、これは数量的な大小をも満たし、そしてまた4と2という表記に おいても大小の関係が示されることになります。解説序文によれば、ブラ シウスは全般に、ブラッドワーディンの説明を曖昧なまま残している点を 明確にしようとしているのだといいます。ここでは詳細は省きますが、そ れはこの比の比較という問題でも見出されるのだとか。それはまた、運動 についてのブラッドワーディンの説に対する、ブラシウスの批判にも繋が っていくとされます。 このように問題七までは、比の性質について数学的な見地からの説明が扱 われています。続く問題八以降で、ようやく運動についての議論へと進ん でいくことになります。というわけで、そのあたりはまた年明けに見てい くことにします。お楽しみに。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その9) 今回はこれまで続いてきた自説部分の最後のパッセージになります。ドク ソグラフィ的な記述の末尾の化箇所で、この後は異論への論駁になりま す。ではさっそく見ていきましょう。 # # # Defectus rationum istarum opinionum patet statim in dissolvendo argumenta. Sed contra positionem omnium eorum principalem, quia negans scientiam destruit omnem fidem et totam philosophiam, ut dicit Philosophus IV Metaphysicae, impossibile est disputare demonstrando scientiam esse et aliquid posse sciri, quia negant omnia sciendi principia, sed tantum utendum est in defensione scientiae contra ipsos semonibus veris et valde probabilibus quos non possunt negare. Ex talibus igitur sermonibus per tria aperta inconvenientia sequentia ex dicto ipsorum convincit eos Tullius in libro suo De Academicis, quorum primum sumitur ex scientiis artificialibus, secundum ex actibus virtutum, tertium ex operibus humanae conversationis. それらの見解に考え方の不備があることは、議論を解決すれば直ちに明ら かになる。 だが、『形而上学』第四巻で哲学者が述べるように、学知を否定してはあ らゆる信仰とすべての哲学が破壊されるのであるから、学知が存在し何か を知ることができることを論証し、彼らすべての主要な立場に反論するこ とは不可能である。というのも、彼らは学知の原理をすべて否定するのだ が、彼らに対して学知を弁護するに際しては、真理の言説、および蓋然性 が高く否定できない事柄を活用しなくてはならないからだ。ゆえにトゥリ ウス(キケロ)は、自著の『アカデメイア派について(アカデミカ)』に おいて、そうした言説を用い、彼らの主張から生じる明らかな三つの不都 合をもって彼らに論駁しているのである。第一の不都合は技芸の知からも たらされるもの、第二の不都合は徳の行為から、第三の不都合は人間が行 う務めからもたらされるものだ。 Primum inducit sic. "Ars omnia ex multis perceptionibus sit. Quas si substraxeris, quomodo distingues artificem ab inscio ? Quid enim est quod arte effici potest, nisi is qui artem tractabit multa perceperit ?" Unde dicit Augustinus De vera religione; "nihil aliud esse artem vulgarem nisi regum expertarum memoriam". Secundum inducit sic. "Quero: vir ille bonus qui statuit omnem cruciatum perferri potius quam officium perdat aut fidem, quomodo fieri potest ut nullum supplicium recuset, nisi his rebus assensus sit quae falsae esse non pussunt ?" Tertium inducit sic. "Quomodo suscipere aliqam rem aut agere fideliter audebit cui certum nihil erit quid sequatur, ultimum bonorum ignorans quo omnia referantur ?" De hoc ponit bonum exemplum Philosophus IV Metaphysicae. Ambulans enim, ut dicit, "ambulat et non stat quia opinatur quod ambulandum est, et non vadit per viam ad puteum stantem in via, sed evitat ipsum. Scit enim quia casus in puteum est malus". 第一のものについてはこう記されている。「すべての技芸は多くの理解 から成り立っている。もしそれらを抹消するとしたら、君はどのように熟 練者を無知の者から区別するのだろうか。技芸をなす者が多くの理解を得 るのでないなら、一体その技芸によって何をなしうるというのか」。ゆえ にアウグスティヌスは、『真の宗教』において、「世に広まった技芸と は、体験した事象の記憶以外のなにものでもない」と述べているのだ。 第二のものについてはこう記されている。「こう問おう。義務や信念を 曲げるよりも、苦渋を甘受することを決めたこのよき人は、偽ではありえ ないそれらの事象に同意する以外に、一体どうしたら、どんな嘆願をも断 らないなどということができたのだろうか」。 第三のものについてはこう記されている。「何が起きるか確信が持てな い者が、あらゆるものを関連づける究極の善を知らずに、あえて何らかの 事象を引き受けたり、誠実に行動することができるだろうか」。これにつ いて哲学者は、『形而上学』第四巻においてすぐれた事例を示している。 そこで言われているように、歩き回る人が「歩き回り立ち止まらないの は、歩き回るべきだと考えるからである。その人が井戸のある道を行かず にその道を避けるのは、井戸に落ちるのは悪しきことだと知っているから だ」。 # # # キケロの議論は『アカデミカ』第二巻の七章22節〜24節からのものです が、ヘンリクスの引用は中略がなされ、部分的に圧縮された文章になって います。この引用の仕方も興味深いですね。これにアウグスティヌスやア リストテレスを重ね合わせてくるあたりも、どこか憎い演出という感じが します(笑)。 さて、前回から学知をめぐるヘンリクスとスコトゥスの立場の違いについ て、加藤雅人『ガンのヘンリクスの哲学』の第二章を眺めています。今回 も引き続き、同書からスコトゥスのヘンリクス批判を見ておきたいと思い ます。ヘンリクスは懐疑論を取らざるをえない理由(感覚が捉える像が確 実ではなく、そのために照明説が必要となる理由です)を三つ示していま すが、スコトゥスはその一つ一つに反論を加えていくようです。 まず一つめは、人間がもつ範型は認識対象に由来する可変性を備えている ため、十分に確実ではないという議論です。スコトゥスはこれに対し、 「可感的なものはたえず変化しているのではなく、(……)ある種の不変 性を持っている」としてその可変性を否定します。ですが加藤氏はこれに ついて、ヘンリクスの真意は「可変的なものから不変的なものは生じな い」という点にあるのに、スコトゥスは「可変的なものについて不変的な 知がある」という議論を立てており、的を外していると指摘しています (上掲書、pp.78-79)。しかもそれはある種の危うさを伴うような議論 です。可変的なものについての不変的な知があるとすれば、対象の本性を 知らなくてはならず、そのためには自明な概念知がなければならないこと になりますが、ではそれはどこから来ることになるのでしょうか。結局そ れはアリストテレス的な自明原理(想像力などがいつ正しく働いている か、いつ正しく働いていないかは、知性にとって自明だとする考え方)に 由来するものでしかないということになってしまいます……(p.80)。 二つめは、人間の魂、つまり認識主体の側が可変であるため、認識は確実 なものとはならないという議論です。これに対してスコトゥスは、認識主 体の可変性を二つに下位区分して反論します。一つは「肯定から否定へ、 否定から肯定へ」という可変性(無知から知へ、無理解から理解へなどな ど)、もう一つは「反対から反対へ」の可変性(真から偽へ、偽から真へ など)です。スコトゥスは、魂にあっては一つめの可変性は払拭できない ものの、二つめは払拭でき、自明原理を認識する際など、その原理のター ム(語)の意味が確定されれば、その真の結合が不変的に認識されると考 えているのだといいます(pp.80-81)。つまりここでもまた、知性のう ちに真の知を生み出す力が備わっているということを繰り返しているので すね、 三つめは、形象(スペキエス)のあいまいさゆえに認識が不確実になると いう議論です。加藤氏はこれを認識媒体による真偽の識別不可能性と言い 換えています。スコトゥスは、ヘンリクスの言う形象が可感的形象(感覚 的スペキエス)のみであるならそれは正しいが、可知的形象(知的スペキ エス)を想定するならその限りではない、とコメントしているといいま す。スコトゥスはここでもまた自明原理を持ち出して、目覚めているとき の知性には誤りはないという議論に持ち込んでいくようなのですが(p. 83)、加藤氏はこれもまたヘンリクス批判として妥当ではないと述べて います。ヘンリクスは第一原理の知の確実性を否定しているのではなく、 それだけでは懐疑主義者(アカデメイア派の)らを納得させられない点が 問題だとしているのに、スコトゥスはそれをスルーしてしまっている、と いうわけです(p.84)。 氏はまた、ヘンリクスとスコトゥスのこうした対立について、懐疑論に対 して知の確実性を追求しつつもその仕方において対立するプラトンとアリ ストテレスの対立を原型と見なすこともできる、と述べています。一方 で、ヘンリクスがもつプラトン的要素は「ある種の懐疑主義へと発展する 傾向」を示してもいるといい(p.85)、そうした部分へのスコトゥスの 批判は当たっていなくもないとされます。ですがヘンリクスは照明説を取 ることで、感覚を疑いつつも懐疑主義に陥ることを回避できたという次第 なのですね。とすると、前に取り上げたように、照明説を手放したかに見 える後期のヘンリクスの立ち位置が、改めて問題としてクローズアップさ れてきそうです。 *本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始を挟むため、次号は01月10 日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------