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<title>Scriptorium 1 - libellus</title>
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<description>文書室 - 論考の部屋</description>
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<title>「テ・デウム」と国王</title>
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<description>◇「テ・デウム」 「テ・デウム」（&quot;Te Deum&quot;）といえば、17世紀のシャルパンティエ作曲のもの（冒頭の「凱旋行進曲」を含む）などが有名かもしれないが、それ以外にも実に数多くの作曲家による作品がある。例えば 三ヶ尻正『ミサ曲・ラテン語・教会音楽ハンドブック』（ショパン、2001） には、シャルパンティエやブルックナーのほか、35人ほどの作曲家名が一覧表として掲載されている。&quot;Te deum, laudamus（神よ、私たちはあなたをたたえます）&quot;で始まるその詩句は、文字通り、神の賞賛をその内容としている。上のハンドブックによれば、これはもともと、聖アンブロシウス（4世紀）が聖アウグスティヌスに洗礼を施す際に即興で作ったとされているというが、その真偽のほどはともかく、教会音楽のレパートリー（こういう言い方をしてよいかどうかは置いておくが）において、「テ・デウム」は特異な位置を占めている。聖務日課としては日曜などの「朝課」の最後に唱われるものだというが、国家行事・宮廷行事においても演奏されるからだ。 では、それはいつから宮廷・国家行事に取り込まれるのだろうか？ ローマ以外のいわゆる蛮族において教会との関係が言及されるのは、メロヴィング朝のクローヴィスの改宗が最初とされる。フランク族の首長クローヴィスは、ブルグンド族の王女クロティルドを后に迎えるのだが、この王女がカトリックだったこともあって、アルマンニ族の制圧（その際、制圧が果たせたら信奉するとの願をかけている）を機に改宗する。トゥールのグレゴリウスが6世紀に著した『フランク族の歴史』（仏訳： Grégoire de Tours, &quot;Histoire des Francs&quot;, Les Belles Lettres, 1999 ）の第2巻31章には、司教だった聖レミによる洗礼の場面が綴られているが、そこには色彩と香りへの言及はあっても、音についての言及は見られない（「色とりどりの垂れ布がかけられ、教会は白の幕で飾られた。洗礼室も整えられ、芳香が広がり、かぐわしい蝋燭が灯された。洗礼堂全体が神々しい香りに包まれ、参列者たちを満たした神の恩寵は、楽園の芳香の中へと連れて行かれたかと思うほどのものだった」上掲書、p.120）。 しかしこのクローヴィスの改宗は、その後の教会と国家の結びつきにおいてモデルとしての機能を果たし続けるようだ。もちろん、メロヴィング朝の後にはカロリング朝が続き、シャルルマーニュこそが「キリスト教国家」の立役者となるのはその通りで、教皇レオ3世による帝冠の授与は時代を画す出来事には違いない。後世への影響という点からもシャルルマーニュの功績は大きい。しかしながら、教会権力と世俗権力の関係という点から見れば、クローヴィスの影は決してなくならない。それはさらに時代を下って、例えば聖王ルイの戴冠式にまでモデルとして受け継がれていくことになる。 ◇教会権力・世俗権力 カトリック王の典型とも言われる聖王ルイ（ルイ9世）の時代には、戴冠式の式次第が書物として作られている。1246年のこのテクストと、ジャック・ル・ゴフほか4人の研究者による論考をまとめたものが最近書籍として出版されたが（ &quot;Le sacre royale&quot;, Gallimard, 2001 ）、それによると、戴冠式は次のように進められる。まず戴冠を受ける王は、教会まで行進し、内陣の入り口にまで達したところで、大司教、司教らが席につく。すると、ランの聖レミ修道院の修道院長が聖油瓶を運んでくる（ここに、クローヴィスの洗礼が示唆されている）。大司教（ないしその代理）は、王に教会法を順守を宣誓させる。ここで二人の司教が民からの同意を求め、それが得られると最初の「テ・デウム」が歌われる。 次に王は二人の司教の手を借りて立ち上がり、民の平和を約束する。王はここでいったんひれ伏し、長い連祷がのべられ、王は神、教会、民に対して再度宣誓を述べる。次いで王は祭壇の前で衣服を変える。王の紋章である百合のモチーフが描かれた靴を履き、大司教からは剣を受け取る。この後に儀式のクライマックスともいうべき塗油へと移る。大司教が、王の頭、胸、肩、肘、手へと聖油をかける。こうして、王は旧約聖書の諸王に連なる存在になったと宣言される。 塗油の後は、様々な徴が与えられる。カペー朝において権力の色とされた青のトゥニカ、その上には袖なしの外衣を着、大司教から王の権威とカトリック信仰の証となる指輪や杖などを受け取る。そして王冠と玉座が与えられる。王は再度、神、教会、民に対する宣言をし、鐘が鳴り響き、聖職者は「テ・デウム」を、民衆は「キリエ・エレイソン」を歌う。今度は王妃への塗油、戴冠がなされ、王国と民の祝福、王妃の祝福などがあり、次いでミサが執り行われる（儀式が祝日に行われることから）。 以上がアウトラインだが、これからも窺われるように、戴冠式には民衆も参列していて（王への同意を与える）、小さいながらも式進行の上での役割が与えられている。ル・ゴフはこれを世俗の貴族や少数のブルジョワが参列を許されたのだろうと述べている（p.24）。いずれにしても、ル・ゴフによれば、ここでの王は「『立憲君主』ではないにせよ、『契約的』君主」で、それは14世紀以降の絶対王政にまで至る流れをなしている（p.31）。式の中で「テ・デウム」は二度、民の同意の後と式の最後に歌われる。一度目については記載がないが、二度目の「テ・デウム」は参列する聖職者が歌うことになっている（民衆ではなく）。これは重要なポイントだ。というのも、これは王の戴冠を教会側が喜び神への感謝を述べる意味をなしているように思われるからだ。「テ・デウム」の歌詞を見ると。まず、「私たち」が「あなた」つまり神をたたえ、さらに天使、諸天（caeli）、世の力あるもの（universae potestates）もまた「あなた」をたたえる、と続く。さらに預言者、殉教者、教会が、父と子と精霊とをたたえる、と続き、次にキリストの栄光が述べられる。次いで、「しもべたち」を助けるよう、聖人たちとともにあるよう取りはからうよう、キリストへの懇願がなされる。それから「民を救い、あなたの世継ぎを祝福し、彼らを治め、永遠にまで高めてください」（Salvum fac populum tuum, Domine, et benedic hereditati...</description>
<dc:subject>ritus et regnum</dc:subject>
<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2002-12-15T12:19:03+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000255.html">
<title>ロジャー・ベーコンの光学思想</title>
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<description>Roger Bacon&apos;s opitical theory</description>
<dc:subject>lumen et figura</dc:subject>
<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2004-03-04T12:07:42+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000259.html">
<title>12世紀の実利主義</title>
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<description>「儀式の誕生」を扱おうというこのシリーズでは、王権や教会といった権勢の問題を中心に、中世の様々な側面を見ていくことを主眼にしようと思っているのだけれど、今回は11世紀から12世紀初頭にかけて、そうした権勢に深く関わったある人物像をモデルケースのように取り上げてみよう。その人物とは、パリのサン=ドニ教会の司教シュジェ（スゲリウス）だ。この人物はサン=ドニ教会の再建でとりわけ有名だが、当時の王権とも密接に結びつき、フランスの国家戦略にも多大な影響を及ぼしている。 ◇実利指向の足跡 まずはその足跡を、著作全集（Suger &quot;Oeuvres&quot;, Les Belles Lettres, 1996, 2001）の校訂者フランソワ・ガスパリの解説をまとめる形で見ておく。シュジェは1081年ごろに、ロワシー近くのシュヌヴィエール=レ=ルーヴルの農家もしくは騎士階級の家に生まれたのではないかとされている。決して位の高い家柄ではなかったようだ。10歳の頃にサン=ドニ修道院に預けられ、エストレの礼拝学校ではフィリップ1世の子ルイ（のちのルイ6世）とも面識ができたものの、その後父親とともに英国との戦争に参加する。修道院生活を愛したシュジェはその後1104年から06年まで修道院付属学校に学んだらしく（記録はないというが）、いずれにしても古来の文献に通じていたシュジェは、1107年にサン=ドニに戻ると聖職者の叙任権問題を担当するようになり、同年開かれた会議ではパリ司教の主張に対して、サン=ドニ修道院の地域における聖職者の叙任権などを守り抜いた。 その後、シュジェはノルマンディ地方ベルヌヴァルの行政官管轄区について権利を法廷で争ったり、ボーセ地方トゥーリの管轄区の管理を担当したりしている。この後者の在任期間には、当時フランスの王になっていたルイに訴え、領地を狙っていたピュイゼの城主との戦を起こしたりもしている。こうしてシュジェはルイ王の顧問役ともなり、教会と国家の両方の行政に関わることになる。1118年、ローマ教皇ゲラシウス2世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世に追われてフランスに亡命し、翌年その死去に伴いカリクトゥス2世が教皇に即位するが、この人物はフランスとの結びつきが強く、こうしてフランスと教皇との関係は最盛期を迎える。そんな中、ランでの公会議開催（1119年）の尽力を買って、国王ルイ（ルイ6世肥満王）はサン=ドニに王家の墓所を設ける。シュジェはその際にも仲介役となったほか、国王の使者としてカリクトゥス2世のもとへと派遣されてもいる。その任務を終えてフランスに戻ると、サン=ドニの修道院長の死去にともない、その役職を受け継ぐことになる。1122年のことだ。 就任後イタリアを訪れたシュジェは、そこでローマの建築の数々を目にし、それがサン=ドニ大聖堂の再建に大きな影響を与えたとされる。シュジェは王権をサン=ドニに結びつけようとしたようだとされるが、それはうまくはいかなかった。王の戴冠式はランで行われている（これについては後述する）。いずれにしてもシュジェは、王権を高めることと修道院の領地を拡大することを目標にしていたようだ。そのため、戦の調停などをも積極的に進め、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世との戦を防いだり、ルイ7世の弟によるクーデターを防いだりしていく。一方、クレルヴォーのベルナール（ベルナルドゥス）などから、サン=ドニ修道院が無秩序になっていることを指摘され、シュジェはその制度面での改革にも着手せざるを得なくなる。そこでもまた、聖ベネディクトの修道院規則の遵守を求める圧力とサン=ドニの信徒共同体とのいずれをも納得させるため、折衷案的な施策を講じている。 1125年からはサン=ドニの拡張工事が始まり、シュジェはそれに伴い、過去に失われた財産の回復など金策をも積極的に手がけるようになる。そうした厳しい財政管理はその後も継続されていくが、その一方で1137年ごろまでは国の統治にも密接に関わっていく。アキテーヌ公ギヨーム10世の死去にともない、その領地がフランス王に譲渡される際には、シュジェは病のルイ6世にともだってボルドーに赴いている。その際にシュジェは遺言状を残しているというが、その中で自分の不適格さを恥じ、自分の死後は毎年祈りを捧げてくれるよう指示している。 1137年にルイ6世が亡くなって以後、シュジェは宮廷から遠のく羽目になり、結局修道院の再建事業に専念することになる。と同時に、ルイ6世の伝記の執筆にも取りかかる。そんな中、ルイ7世が聖地エルサレムへの遠征（亡くなった兄弟の誓いを果たすため）を決意するが、その留守を預かる摂政の大役にシュジェが指名される。ルイ7世の出発は1147年6月で、その後の2年間、シュジェは国政に全面的に携わる。まさに両剣（世俗の剣と精神的な剣）を一手に握ったシュジェは、教会の混乱や、王の不在に乗じた反乱などを鎮め、やがて1151年にこの世を去った。聖地から戻ったルイ7世がシュジェの死後まもなくプランタジネット一族との戦を始めるのが、いかにも象徴的だ。 ◇儀式の設置 さて、上に示したシュジェの足跡で注目される三点に下線を引いておいた（修道院の改革、財政管理、そして遺言）が、それらの事項を中心に、具体的なシュジェの活動を見ていこう。上述したように、当時のサン=ドニ修道院に対しては、修道院規則を守っていないという批判的見解が示されていた。とはいえ、ベルナールの批判はあくまで伝聞に基づくものだったようで、また同じく批判的だったアベラールは具体的なことには触れていない（ガスパリの解説、&quot;Oeuvre&quot;, vol.1, p.XIX）。そういった点からすると、あるいはシュジェの活動が国王寄りだったことが、教会にとっての問題だったのかもしれない。 1122年の文書を見てみよう（&quot;Oeuvre&quot;, vol.2, pp156-167）。ここでは聖母マリアへの聖務を毎週行うことが定められている。家柄がよいわけでもないのに（これについてシュジェは再三言及する）修道院長に選出されたことを神に感謝するため、聖母マリア（教会参事会が奉っている）へのミサを毎週土曜に捧げ、精霊降臨祭からの８日間のうち最後の３日をミサに当てることにした、とシュジェは記し、加えて、人は惨めな死すべき存在であるがゆえに、そのミサは終わることなく、将来にわたってこのミサはなされなければならないとしている。さらに修道院が名を冠するサン=ドニ、聖ディオニュシオスに捧げるミサも執り行うとし、それは裁きの日に備えるためなのだと説く。こうしたミサの挙式に必要な予算として、シュジェはエストレの通行税の引き上げ（日々の徴収額を6スーから10スーへ）、ヴェクサン（北仏）での税収と、国王ルイ6世からの税を当てると述べている。このあたりの具体的な財政管理のセンスがシュジェの興味深いところで、大祝日のミサを荘厳に行うためとして、各日に120スー（ソリドゥス）を当てるとし、60スーはエストレの通行税、もう60スーはヴェクサンの税収から拠出するといった具合に、かなり細かく規定している（これは他の証書でも同様だ）。また、そうした税収分が不足するといった事態には、他の財源から流用することも指示している念の入れようだ。なお、国王からの税負担分はそれらの祝日の食事の増額分などに当てられる。 そしてこの文書の末尾では、その国王の誕生日を祝うミサを毎年執り行うことをも謳っている。これについての注釈では、幼少の頃から親しんでいた国王との友情と、王家と修道院との結びつきを強化しようという政治的関心とがそうした式典の動機だとされているが、そうした心理的な面に立ち入らなくても、これが国王へのある種の配慮であることは間違いない。やや唐突な感じに言及されるこのミサだが、そのことからも、ある意味でこのミサの創設そのものが、国王が教会に対して払う税への見返りをなしていることが窺えないだろうか。このミサにはヴェクサンの税収を20スー当てると記されており、国王からの財源をこれに当てずわざわざ別の財源を持ってきている。このことにも、あまりに露骨な見返りの関係（当人の寄付を当人のミサに当てるわけにはいかないのだろう）を目立たなくする意図があったように読めなくもない。上の例でも見て取れるように、いわば本来の自助努力としての通行税その他の徴税増があって、その上で国王からの負担分は別枠の扱いになっているように見受けられる。 とはいえこのギブ＆テイクの関係はそれなりに明確だ。そうした関係は、世俗との関係において、ある意味でシュジェの行動原理ですらあるのかもしれない。1125年の文書（同、pp.166-175）には、サン=ドニ修道院の領地内の住民に対して、重い負担となっていた死亡税（死亡した際に領主に納める税金）を廃止することを決定しているのだが、その代わりとして200リーヴルを納めることを条件としている。その金額は修道院の入り口の改修費用に用いられることになっている。 ◇シュジェにとっての王家 財政状況の改善のために、シュジェは様々な方策を打ち出す。1140年の文書（ibid, pp228-257）では、食事の世話や看護などの務めの代価の「値上げ」が決定されている。と同時に、その同じ証書の中で、シュジェは修道院への多大な貢献をした人々を記念するミサを創設する意向を示し、特にシャルル禿頭王に捧げるミサの復活を謳っている。シャルル禿頭王（カール2世）は9世紀の西フランク王で、後に三代目のローマ皇帝の称号を得た人物だが、ではなぜここでカペー朝の時代に、それ以前のカロリング朝の王を讃える動きに出るのだろうか？一つには、カペー朝が中央集権化していく過程で、その権限の根拠としてカロリング朝の系譜、とりわけローマ皇帝の権威を持ち出してきたという動きがある。 まずもってランでの戴冠式がその表れだ。というのも、ランはクローヴィス以来のメロヴィング朝の王宮があった場所でもあり、その地の大聖堂において王が塗油を受ける（王権授受の儀式に含まれている）ということは、ハトの姿をした聖霊によってもたらされた油により、クローヴィスが塗油を受けたという故事にならうものだったのだ（ジャック・ル=ゴフ『ヨーロッパは中世に誕生したか？』（&quot;L&apos;Europe est-elle née au Moyen Age ?&quot;, Seuil, 2003, p.102））。その意味では、ランでの戴冠にシュジェの政治的野心の失敗を見ようとするような立場（校訂者ガスパリがそういう見解を述べているが）には疑問が残る。むしろ大事なのは、また別の主要人物を通じて、つまりこの場合はシャルル禿頭王だが、昔のカロリング朝とカペー朝との流れをも合致させることだったのではないだろうか（実際そうした動きは王権の側からの発意としてあり、例えばシャルルマーニュなどは少し後の1170年以降、叙事詩に取り込まれ覆いに流布することになる：ロベール・モリセー『白髭を湛えし皇帝』（&quot;L&apos;empereur à la barbe fleurie&quot;, Gallimard,...</description>
<dc:subject>ritus et regnum</dc:subject>
<dc:creator>Masaki</dc:creator>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000260.html">
<title>個体化理論の今昔</title>
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<description>On individuation theories:

Duns Scotus&apos; theorie on individuation, once criticized by William of Ockham, could be revaluated in regards of some modern indivuduation theories, such as the one proposed by Gilbert Simondon.</description>
<dc:subject>verbum et res</dc:subject>
<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2004-10-31T12:25:42+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000380.html">
<title>貨幣をめぐる中世のまなざし（その1）</title>
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<description> 先にシュジェについて概観した際にも明らかであったように、12世紀当時の西欧社会において、修道院はすでに決して小さくない財を蓄えた地主として、地域にその影響力を振るっていた。けれどもその一方で、当のキリスト教の教義には、蓄財を悪行と見なす伝統も息づいていた。この矛盾する状況をどう捉えればよいか、というのがここでの当面の問題である。今回のノートはそのためのプレリュードとして、貨幣を軸に据え、貨幣を取り巻く情勢の推移と貨幣観の変化について、14世紀フランスの神学者ニコル・オレームの貨幣論を中心にまとめておこうと思う。 ◇ 貨幣をめぐる情勢 まずは貨幣を取り巻く情勢についてだが、ここではフランスの公共高等教育中世史家学会28回大会（1997年）の紀要『中世の貨幣』（&quot;Largent au Moyen Age&quot;, Publication de la Sorbonne, 1998）を参照することにしよう。この中でとりわけ注目できる報告として、ジョジアーヌ・テソー（Josiane Teyssot）「13世紀から14世紀にかけてのバス・オーベルニュ地方における王立貨幣−−政治権力の道具」（同書、pp.93-100）がある。それによると、13世紀にカペー朝が進めた中央集権化政策では、その一環として貨幣の管理が含まれ、それにより王家の貨幣は徐々に地方のすみずみにまで浸透していくようになるのである。それ以前、地方の領主（特に教会）は、領地でのみ通用する私的な貨幣を鋳造していた。ところが、やがてそうした私的流通は中央の貨幣によって駆逐されていくのである。その一例として、テソーはバス・オーベルニュ地方（フランス中南部）の事例を取り上げてみせる。 地理的に他地域との交流がそれほど盛んではなかった同地域では、11世紀以降、地元の領主の後を継ぐ形で、司教が中心となりクレルモンなどで貨幣の鋳造を細々と行っていた。1250年ごろになると、ポワティエ伯だったアルフォンス（聖王ルイ9世の弟）がリオン（Riom）に鋳造所を作り、実際の価値が低い貨幣を大量に流通させる。悪貨を作りばらまくというこの攻勢に対して、クレルモンの司教側はいわゆる平価の切り下げで抵抗するしかなく、徐々にクレルモンの通貨は追い込まれていった。アルフォンスのこうしたやり方は、一度は兄のルイにたしなめられるのだが、その後紆余曲折があって、今度は聖王ルイが、トゥールの貨幣を王国全土に流通させることを決意する。かくして地方通貨（領主の貨幣）や外国の通貨の流通は著しく制限され、同時に、地方通貨を抑え込む形で鋳造所が各地に作られ、王家は貨幣鋳造を一手に握り集中管理するようになる。アルフォンスのやり方は、ある意味でカペー朝の統制に先鞭を付けたといえそうだ。いずれにしても、こうして14世紀初頭には封建領主の作る個別の地域通貨は廃れてしまうのだ。 この事例でとりわけ特徴的なのは、アルフォンスが権力波及の手段として貨幣を押さえようとしていたことだ。貨幣が権力と密接に関係するというのはもちろん古くからある考え方だが、アルフォンスは意図的に貨幣による攻勢をしかけたようにも思われる。その背景には、リオンという都市が当時、地域の新たな中心地として台頭しつつあったという事情もありそうだ。また、当の相手が司教だったことも示唆的だ。クレルモンでは、1030年に領主のギヨーム5世から司教へと貨幣鋳造の権利が譲り渡されて以来、教会が地域通貨の管理に携わってきた。アルフォンスの攻勢は、いわば世俗権力からの異議申し立てだったという風にもとれなくない。クレルモンの通貨がトゥールの通貨に駆逐されるのは、1273年から1283年のわずか10年ほどの間でのことだったという。 ◇ 貨幣をめぐる考え方：ニコル・オレームの場合 他の貨幣に似せたデザインで悪貨をばらまくというアルフォンスのやり方は国王によってとがめられ、1263年の段階でデザインを変更しているらしいのだが、それにしてもこの悪貨をまく戦術も巧妙だ。周知のように、当時の貨幣では、金属の重さで計る実質的価値とその貨幣が示す表示価額とに著しい差が生じないよう調整を計る必要があった。それを悪用すれば差額で儲けを出すこともできるし、アルフォンスの場合のように、市場への貨幣流通に変化を生じさせることもできる。トゥールの貨幣160リーヴルに対して、アルフォンスが作っていたリオンの貨幣は表示額200リーヴルが同じ重さで対応していたという。そうなれば当然、トゥールの貨幣は市場に出回りにくくなり、リオンの貨幣ばかりが使われるようになってしまう。まさしく「悪貨は良貨を駆逐する」だ（この諺の出自は16世紀のトマス・グレシャムによるとされているので、ここではアナクロニズムということになってしまうのだが）。 そんなわけである以上、こうした悪貨の鋳造を批判する向きも当然出てくる。時代はもう少し後になるものの、ここではニコル・オレームの貨幣論をまとめておこう。ニコル・オレームは14世紀のフランスを代表する学僧の一人で、とりわけアリストテレスの翻訳や物理学、貨幣論などで有名な人物だ。シャルル5世の家庭教師を務めたことでも知られている。スーザン・Ｍ．バービット（Susan M. Babbitt）の論考『オレームの「政治学」およびシャルル５世時代のフランス』（&quot;Oresme&apos;s Livre de Politiques and the France of Charles V&quot;, The American Philosophical Society, 1985）の冒頭の紹介文でまとめておくと、オレームはノルマン人で、生まれは1320年頃と推測され、1348年から56年までパリ大学ナヴァール校で神学を修めた。1362年にはルーアンの聖母マリア聖堂の参事会員となり、後の1377年にはリジュー（Lisieux）の司教となる。と同時に、王家にも仕え、ヴァロア朝のジャン2世、そしてその息子のシャルル5世の相談役として政務にも関わった。オレームの貨幣論は、通貨価値の頻繁な変更にともなう資金難について、ジャン2世が助言を求めたことに対する返答だったとされている。ポワチエの戦い（1356年）の敗北によってジャン2世が英国の捕虜になり、その間の摂政となったシャルル5世も、通貨の安定化についてのオレームの主張を受け入れ施策に反映させている。 ではオレームの貨幣論「貨幣の変更について」の内容を簡単に見ておこう（&quot;De mutatione monetarium: tractatus&quot;,...</description>
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<dc:creator>Masaki</dc:creator>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000441.html">
<title>新プラトン主義と「視覚」の問題圏（1）</title>
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<description><![CDATA[−−四元素説の周辺−− 前回のこのシリーズでは、ロジャー・ベーコンの光学理論を簡単にまとめてみた。作用素が媒質を介して形象を形作る、というのがその骨子で、受け手の視覚を構成するのは媒質であるというのが基本的な考え方だった。媒質は作用素によってその作用素の似姿になる。してみると、これがある種の形で質料形相論を踏襲していることは明らかだ。作用をなす大元は形相を与え、受け手との間に立つ媒質が質料としてその形相を受け取るという図式である。視覚を構成するには媒質がなくてならないとされる以上、媒質には大きな重みが付与される。13世紀の大きな流れとして、質料が単なる形相の受容体にとどまらず、なんらかの力を形相に遡及させうるものとして評価され直すという動きがあったわけだが（ドゥンス・スコトゥスなど：別稿の「個体化理論の今昔」を参照）、ベーコンもその思想潮流のただ中にいたことが、そうした議論からも窺える。 いずれにしてもそれは、当時の比較的新しい理論だったように思われる。アリストテレスの思想が本格的に取り込まれて以降の流れに位置づけられるわけだが、そうなると今度は、それ以前にはどのような立場が視覚をめぐる理論として優位にあったのか、という話を振り返られないわけにはいかないだろう。アリストテレスが本格的に受容される以前の、12世紀ごろの思想的主流としては、当然ながら新プラトン主義の系譜を挙げなくてはならないだろう。ボエティウスやアウグスティヌス以来の伝統の中で、新プラトン主義はキリスト教世界の中で揺るぎない地位を保っていたとされる。とはいえ、本格的な受容にいたる前のアリストテレス思想もまた、そこに微妙に絡んでくる。今回はそのあたり微妙な関係を、四元素説を中心にまとめておきたい。そのためにまず取り上げるのは、12世紀の新プラトン主義思想の文脈で重要な役割を果たしたとされる人物の一人、コンシュのギヨームである。 ◇コンシュのギヨーム コンシュのギヨームはいわゆるシャルトル学派の一人とされる。弟子となるソールズベリーのジョンは、ギヨームのことを「最高の文法学者」と称している。コンシュはノルマンディ地方のエヴルー近郊の小村で、ギヨームは1090年頃にそこで生まれたらしい。ギヨームもまたシャルトルで学び、そのまま1120年代からは教鞭を執るようになった。この時期から執筆活動も始めている。一般に「若書き」とされる著作『世界の哲学』はその頃のものらしい。やがて、その思想内容に異端の嫌疑をかけられるなどしてシャルトルを去ったギヨームは、ノルマンディに戻り、ジェフロワ・プランタジネットの庇護のもと、その子どもたち（後のヘンリー2世）の家庭教師を務める。この頃、先の『世界の哲学』の長大な増補版ともいうべき主著『ドラグマティコン』の執筆に取りかかる（1144年から49年の間）。ノルマンディ公（ジェフロワ・プランタジネット）と哲学者の対話という形（プラトンやキケロを踏襲している）を取り、宇宙開闢論を語っていく同書は、天体、地球、人間の身体にいたるまで、壮大なコスモロジーの諸相がそれぞれ比較的簡潔に示されていて興味深い。著作としてはこのほかいくつかの注解書があり、それぞれボエティウス、マクロビウス、プリスキアヌム、プラトンなどを扱っている。このほか、まだ著者への帰属の真偽が定まっていないものもあるという。 以上、英訳版の『ドラグマティコン』（"A dialogue on Natural Philosophy", trad. Italo Ronca & Natthew Curr, University of Notre Dame Press, 1997）の訳者らの序文（pp.XV-XXVI）からまとめてみた。『ドラグマティコン』全体は6巻から成り、1〜2巻が元素論、3〜4巻が天体論、5巻が気象論、6巻が地理・人体論となる。各巻の議論はなかなかに網羅的で、様々なテーマが扱われ、さながら百科全書的なのだが、当然ながら、ここでは全体を網羅的に取り上げることは到底できない。あくまで部分的に、『ドラグマティコン』から視覚などを論じた部分、あるいは質料形相論に関係する部分だけをごく簡単にまとめておくことにする。なお、上の英訳本のほか、テキストとしては、フランス国立図書館のオンラインデータベースGallicaから入手可能な"Dialogus de substantiis physicis: ante annos ducentos confectus / a Vuilhelmo Aneponymo philosopho... ; industria Guilielmi Grataroli,..." があるので、これから原文を引用しておく。1567年の初期印刷本の復刻版だ。 同書の基軸をなすのはなんといっても有名な四元素説である。物質は四大元素（火、水、空気、土）から構成されるというこの説（さらに宇宙を構成する第五元素も想定される）は、中世を通じて広く流布したものだが、質料形相論との関連はやや不透明な印象が残る。『ドラグマティコン』では、それらの元素は、それ以上分割できないもの（「パーティクル（particula：粒子）」）と説明される。「部分から成るのではなく、みずからを構成するもの（"sunt...]]></description>
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<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2005-03-31T22:45:55+09:00</dc:date>
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<title>新プラトン主義と「視覚」の問題圏（2）</title>
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<description>−−アルベルトゥス・マグヌスへの滞留−− 前回、その後半部分では、主に『鉱物について』をもとに、アルベルトゥス・マグヌスにおける四元素説や質料形相論の関係をさらってみた。今回はその質料形相論を再度復習・整理した上で、アルベルトゥスの視覚論の一端を見ていくことにしよう。 そもそもアルベルトゥスの「再発見」あるいは再評価には、まずもって二人の中世史家が深く関係しているようだ。一人はイタリアのブルーノ・ナルディ、もう一人はフランスのアラン・ド・リベラだ。前者は主にダンテについての研究で知られているが、アルベルトゥスについても、実証研究のいわば嚆矢とされている。それ以前、アルベルトゥスはルネサンス期に人文主義者に批判されて以来、啓蒙主義的な拒絶の対象になったり、一方のドイツの国民的高揚のために担ぎ出され称賛されたりと、思想的・政治的な偏りを被る形で取り上げられるのが常だったという（ド・リベラ『アルベルトゥス・マグヌスと哲学』（&quot;Albert le Grand et la philosophie&quot;, Vrin, 1990, pp.8-9）。それに対して、アルベルトゥスの哲学的立場、借用・系譜の関係、方法論などを含めて、歴史的文脈に置き直すという作業を初めて行ったのがナルディだとされている。ナルディの『中世哲学研究』（&quot;Studi di filosofia medievale&quot;, Edizioni di storia e litteratura, 1960）は、ダンテ、アルベルトゥス・マグヌス、トマス・アクィナスなど13世紀の思想家を扱った論文をまとめた論集で、それらを貫くテーマとして魂の問題が取り上げられている。もう一人の後者の方は、フランスを代表する中世史家の一人で、特にマイスター・エックハルト（アルベルトゥス・マグヌスの弟子筋にあたる）についての研究で知られている。アルベルトゥス研究についても、前者の衣鉢を継いだ形で取り組んでいるようだ。今回はまず、この二人の書籍を頼りに、「形」をめぐるアルベルトゥスの論をたどり、次いで鏡像について論じたアルベルトゥスのテキストを見ていこう。 ＊　＊　＊ ◇形の「胚芽」 前回見たように、アルベルトゥスの『鉱物について』では、形相を与える力、つまり形成力は、物質そのものとは別ものと考えられているようだった。一方でそうした力は、質料に「天上世界から」与えられ、質料の中で持続するかのようにも語られていた。この形成力をめぐる部分はやや不明瞭で、その力がどの時点で、どこに、どのように与えられるのかはいまひとつはっきりしていない。これを、別の論を見ることによって類推的に補いたいというのがここでの主眼だ。そのために、目下の問題との関連で重要な議論をなすものと思われる「形相胚芽説（inchoatio formae）」の周辺を見ておくことにしよう。同説については、上のナルディが詳細な検討を加えている。詳細な議論には立ち入れないが、さしあたりそれがどういう説で、アルベルトゥスの中でどう組み立てられているのかという最低限の部分は押さえておきたい。 伝統的な新プラトン主義的な立場からすれば、そもそも形相は一つの実体をなすために、外部から、すなわち天上世界から質料にもたらされるとされていた。単なる受容体でしかない質料に、天から注ぎ込まれた純粋な形相が結びつき、かくして個物の形が出来上がる、という次第だ。天上世界において形成の原理をなすものが、形相付与者と呼ばれるものである。それはまた能動知性（第一知性）とも言われる。形をつくるものとは、もとを正せば、すなわち知性のことなのだ。このあたりの考え方はプロティノスの発出論に多くを負っている。不定形なる「一者」（絶対神）からまず発出する純粋な知性（ヌース）が、続いて魂（ピュシケー）を導き、次いでその下に世界の事物を創り出すというのがその図式である。形相が与えられるとは、その第一知性が光のごとくに質料を照射することだ、とも言われる。 ところが前回も見たように、アルベルトゥスの頃になると、質料はそれまでの単なる受容体にとどまらず、なんらかの力をもつものと見なされるようになり、かくして質料がもつ潜在的な力が重視されるようになる。こうして登場してくるのが形相胚芽説だ。簡単に言ってしまえば、形相はすでにして質料の中に胚芽として含まれているのであり、後はそれらが順次起動する（天の力によって）だけだ、という説である。「最初の形相は照射によって質料にもたらされるのではない。質料に創られるものとは形相ではなく形相の胚芽なのだ」とド・リベラは記している（上掲書、p.141）。この場合、創造とは、そのように胚芽として含まれている形相を現実態にすることにほかならない。アルベルトゥスはこの説を、質料と形相の共・永遠性（coaeternitas）を否定するために採用しているという。 井筒俊彦『イスラーム思想史』（中公文庫、1991-2005）によると、そうした胚芽説は、アリストテレス注釈者として名を馳せたアヴェロエス（新プラトン主義的な流れをも引き継いでいる）が、アヴィセンナの論（新プラトン主義的に、天からの形相付与を創造と見なす立場を取っている）を批判する形で展開した考え方であることを指摘している。「無からは何ものも生じない。生成が起るには必ずそこに基体がなければならぬ。そして基体としての質料には、いわば胚芽としての形相が内存しているのである」（p.356）と同書には記されている。このあたりもそのうち原典に当たって確認したい点だが、いずれにしても胚芽説がアリストテレスの系譜の線上にあることを印象づける一節だ。 ところがナルディは、形相胚芽説は当初、アラブ=ユダヤの新プラトン主義から派生させた形としてロバート・グロステストが唱えた「場」の力の考え方を指すものだったといいつつも、一方でアウグスティヌスが『創世記注解』において、種子にやどる形成力（種子的理性）の考え方に言及してることをも指摘している。それが後にトマスなどの碩学、あるいはアヴェロエス主義者らによって、質料に内在する力、質料にあらかじめ存在する不完全な「形」の芽として解釈し直されていく、というわけだ（ナルディの上掲書、pp.75-77）。13世紀に導入された「質料への力のシフト」という変化を考える上で、これは多少とも問題を投げかける論点かもしれない。質料への力のシフトを、単線的に13世紀のアリストテレス受容にのみよるものと見るのではなく、複線化した影響関係ないし系譜を考える必要があるかもしれないからだ。後でもう一度触れるが、そもそも新プラトン主義とアリストテレス解釈とのそれぞれの系譜は、様々な面で混濁したり分岐したりと様々な動きを見せているようで、中世のより早い時期から、複合的な思想的うねりを作り上げているようにも見えてくる。 ◇形を導くもの 形相が励起する（こう言ってよければだが）そもそもの因は何だろうか。ナルディによると、アルベルトゥスは「質料と欠損の混合」がそれにあたると考えているという。欠損（privatio：アリストテレスでは「ステレーシス」）は、アリストテレスにおいては多少用語の意味にゆらぎがあり、否定的な意味合いで使われる一方で、形相を受け取るという質料の属性を指すものとして肯定的にも使われている、という（p.85）（余談ながらこうした欠損概念は、新プラトン主義の系譜の中にも見られる。例えばプロクロスの『神学提要』には、存在が善を求めるのは、その存在に欠落（エンデエース）があるからだ、と記されている（提題9））。アリストテレス的な意味での欠損は、質料の変化全般を導く因をなしており、質料は欠損ゆえに変化の原理そのものと化しているのだが、アルベルトゥスの場合には、質料そのものは変化の原理ではないとし、欠損は質料に結びつく別の本質であるとされる（p.87）。欠損はいわば、質料の受動的な潜在性（可能性）に加えられる「現実態に向かう性向」をなすのである。質料それ自体は可能態でしかないが、それに現動化の動きをもたらすものが、この欠損なのである（p.88）。純粋な潜在態としての質料がまずあって、現実態への性向としての欠損が加えられる。アルベルトゥスはこのように、質料の力について二段階説を取っている。そしてこの「加えられる性向」こそが、上で言う形相の胚芽そのものなのだ。 では、最初は未分化だった質料にそうした形成の原理を与えるのは何だろうか。この問題になると、アルベルトゥスは新プラトン主義的な立場に多少とも揺れ戻るように見える。形成の原理は自然の場に宿る力であり、それは天上世界から第一原因を介して注がれる流出の結果なのだ。そして質料に加えられる欠損とは、天上世界が質料に残す刻印だというのである（p.89）。第一原因は第一知性でもあり、いわばこれは知性の刻印ということにもなる。また、形相の胚芽が形相へと「成長」するためには、形成力が宿っているだけでは不十分で、そうした成長を支えるには外的な作用が必要だとし、第一原因（神）の再度の介入を想定してもいる（p.29）。ここにおいて私たちは、前回『鉱物について』で見た形成力の議論に戻ってきたといえる。形をなす力は「場」に、あるいは質料に内在する。とはいえそれは天上から与えられたものだ。そして場の潜在力は、天上世界の支援を受けて初めて現働化していく。ここで展開している思想はアリストテレス的な質料形相論と新プラトン主義の伝統的立場との、一種の折衷案にほかならない。 上の図式は基本的に無機物をめぐるもののように読めるが、これは有機物にも適用されている。有機物の特徴は、まずもってそこに魂が宿るとされることにある。ド・リベラに即して簡単にそちらもまとめておくと、まず魂についてのアリストテレスの立場、「魂は肉体の形相である」という立場を、アルベルトゥスは機能の面においてのみ受け入れ、魂の本質はむしろ知的実体なのだと考えた。肉体の形成は魂の一つの機能にすぎないのだ。しかもアルベルトゥスは、魂の内部に構成的な区分を見て取る。魂は現実態（quod est）と本質（quo est）から成り、神によって後者に存在が与えられることになって前者が得られる、というのがその図式である。この区分は構成的原理でもあり、魂が知的実体であるということをここに重ねると、現実態からは可能知性（何かになる能力）が、本質からは能動知性（創り出す能力）が導かれることになる。同一の実体の中にこうした契機が宿っている点が、アルベルトゥスのオリジナリティなのだ。例えばより新プラトン主義的であるとされるアヴィセンナの場合、能動知性は天上世界にある単一の知性（神）でしかないのに対し、アルベルトゥスにおいては、能動知性は魂の中に構成的原理として宿っているとされるのだ。能動知性はこうして個別化されるのである。ただしアルベルトゥスは、そうした能動知性（の光）が発動するためには、より豊かな光を認識する必要がある、とも考えている（ド・リベラ『ライン地方の神秘主義』（&quot;La mystique rhéane&quot;, Editions du Seuil -...</description>
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<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2005-06-29T22:11:12+09:00</dc:date>
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<title>光に乗って−−否定神学と知性</title>
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<description> 中世思想の中の視覚と形象を追うというこのシリーズ、今回は「光」のフィギュールを中心にすえて、その基本的な系譜をざっと復習し、次いでエックハルトへと接近していくことにしよう。 ◇光と闇 アリストテレスの『魂について』の有名な箇所、430aの10〜25行では、知性（ヌース）が光に喩えられている。「すべてを生み出すもの、それによってすべてが作られるものであるヌースは、ある意味で光のようである。光はなんらかの形で、色の存在の潜在態を現実態にするからだ」というのがその一節だ。この考え方はその後長きにわたり幾度となく反復されていく。知性を光に喩えることは伝統となって中世にまで受け継がれる。前回触れたように、プロティノスの発出論では、神たる「一者」は「純光」にも喩えられていた。さらに時代をくだったアルベルトゥス・マグヌスにおいては、個別の能動知性（それ自体が光に喩えられる）が発動するために天上の光が必要だ、とされていた。 アルベルトゥスの時代に流布していたアリストテレス解釈の代表格は、なんといってもアヴェロエス（イブン・ルシュド）の注解をベースにしたものである。そのアヴェロエスの注釈を見ておくと（『「魂について」中注解』（&quot;Middle commentary on Aristotle&apos;s De Anima&quot;, trans. Alfred L. Ivry, Brigham Young University Press, 2002））、彼は上の箇所を次のように言い換えている（296節、pp.116-117）。「光は潜在態だった色を顕在化させ、色を受け取るもの（透明性）を瞳孔に与える。同じように知性も、知解可能なものを顕在化させ、それを前面に浮かび上がらせる。かくして質料的知性に、知解可能なものを受け取るものが与えられるのである」。同書の校注者イヴリーの訳注を見ると、ここでの透明性とは色を受け取る潜在的な受容体のことで、光は視覚の対象物である色の能動体（作用素）と同時に受容体の方も顕在化させる、という意味であるとされている。視覚を成立させる二つの項、つまり対象物と眼との両方に光は作用し、両者を顕在化させるというのだ。知性（天の、神の知性、すなわち能動知性）もまたそれにパラレルな関係をなしていて、知解可能なものを浮かび上がらせると同時に、その知解可能なものを受け取る個々の知性（可能知性）をも活性化させるという。これぞまさに、神の介入、神の支援というわけだ。前回見たように、アルベルトゥスでは能動知性の議論はそれとは若干異なるように思われるが、とはいえ基本的な図式としては、アヴェロエスのものとそう大きく隔たっているわけでもない。まずはこの点を確認しておく。 一方、光の形象とくれば、当然思い起こされるのが偽ディオニュシオス・アレオパギタの文書だ（長い間ディオニュシオス・アレオパギタのものとされていた、逸名著者による5世紀ごろの文書。新プラトン主義を反映したキリスト教神学が展開する）。それらにおいては逆に、たとえ神的な光であろうとも、神へと遡及する際に打ち捨てるべきものなのだ、とされていたりする。例えば『神秘神学論』の1章の末尾あたりに次のような箇所がある。「なぜならそれは、あらゆる実体を越えて存在するものであり、限られた人々にのみ、ありのままに、真の姿で現れるからだ。それらの人々とは、汚れたものや純粋なものをすべて超越し、神聖なるものすべての頂点の高みへとのぼり、あらゆる神的な光や音、天上からの言葉を後に残して『暗黒』へと入る人々である。神託が述べるように、そこはすべてを越えたものが真に存在する場所である」。神の啓示を受ける者は、光や音、言葉から去って「暗黒」に入っていく、というくだりだ。この後、その一例として神の示現に臨むモーセの姿勢が挙げられている。 アルベルトゥスは『神秘神学論』についても注解を残している。この箇所をめぐる注解を見ておこう（『神秘神学注解』：ここでは仏訳&quot;Commentaire de la &gt;&quot;, cerf, 1993を参照する）。アルベルトゥスは、同じく偽ディオニュシオス・アレオパギタの『天上位階論』や『神名論』にも目配せしながら、『神秘神学』が呈する諸問題に検討を加えていくわけだが、注解書の38節では、「神的は光は人間の知性による神の認識を強化するものである以上、そうした支援を捨ててはならないのではないか」との問いが発せられている（p.98）。それに対する答えは42節に記された一節、すなわち「われわれの欲望は至上の善におけるように、その恵み（光、すなわち認識の支援）に止まったりはしない」という部分に端的に表れている。神的な光は、それ自体を観想の対象としてではなく、あくまで認識を強化するための手段として拘るべきだ、というのだ。それに続く43節では、人間の知性が神に向かって高まる仕方は二つあるとされている(pp.100-101）。一つは自分自身の発見を重ねるという方法、もう一つは神の発するサイン（表徴）を神の体験として受け止める方法だ。この前者の方法において、神的な光は神への導きであると論じられている。その際の光は「ヴィジョンの完成」それ自体をなす。 アルベルトゥスの解釈では、人間の認識を導く光はあくまで手段なのであり、その完成にいたる際には、もはや要をなさないものなのだ。偽ディオニュシオスの書簡への注解（問19）においてアルベルトゥスは、その完成状態の「闇（暗黒）」についてこう述べている。「ディオニュシオスも言うように、闇は二つの仕方でもたらされる。光がないか（中略）光が過剰であるかによって」（p.167）。後者の場合、「光が強ければ強いほど、闇もまた深まっていく」。そしてこれが神の認識に重ね合わされる。「われわれの神の認識が増すほど、われわれは人知を越えたその傑出さを知り、われわれの知性が神の認識には足らないことを知るだろう」（p.168）。 もう一つ、アルベルトゥスのやや前の時代の、ロバート・グロステストによる『神秘神学論』注解も見ておこう。グロステスト（1168-1253）は英国のフランシスコ会士で、広範な著作を残している。当時の学僧にはめずらしく翻訳も手がけており、そのうちの一つに『神秘神学論』もあった。ここで参照するテキストには、翻訳と同時に注解が記されている（&quot;Mystical theology&quot;, ed. James McEvoy, Peeters, 2003）。 上の同じ一節についての注解を見よう。そこでは、「神的な光」は「理解する力を照らし出すものであり、照らされるに応じて自分自身の行動を取ることができるようになる」（p.76）と解説されている。また「暗闇」は「事実上すべてを知らない状態」であり、そこにこそ「真理があり保持されている」とされる。それに続くモーセのくだりへの注解では、今度は神的な光は二つが区別されている。まず一つは、「多彩な光（lumina vero multa）」で、これは「物質から取り出された表象によって精神に示される」もの、「純粋かつ多彩な光線を発して、人間の知性を照らし出す」（p.80）ものだ。神へと向かう登攀で捨て去るべきものはおそらくこちらだ。もう一つは、「真の、覆うもののない神的な光線（radius vere et incircumvelate）」で、それは「暗く、狭まり、閉ざされているがゆえに、別の意味で真の神秘」をなすもののの中で現れる（p.82）。暗闇とは「認識として受け取るものを排除」する場所だ。グロステストもまた、見ることを知的操作に重ね合わせていて、最初は導きを必要とするものの、究極の光に達する時には、認識はあらゆるものを閉め出すというのである。それが究極の知としての暗闇であり、神を待つための場所だとされる。...</description>
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<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2005-11-09T13:56:48+09:00</dc:date>
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<title>「像」としての人間（１）</title>
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<description>形象や光をテーマとしてつづっているこのノートだが、ここでいったん「光」を離れ、しばらくは「像」について注目したいと思う。「像」と聴いて思い起こされるのは、なによりもまず創世記の、「われわれに似せて人を造ろう」という一節だ。そこでの似姿（imago）を手がかりとすれば、はるか下流に位置するイコンの問題にまで下っていくことができそうだ。中世におけるキリスト教の伝統では、人間は神の思慮（intellectus）によって造られた「像」なのだとされる。けれどもそれは、さらに拡大解釈されて「世界」そのものが像として造られている、といった言説をも導くことになる。すると今度はその創造の行為が逆投影される形で、人間による像の製作という問題が大きくクローズアップされてくることになる。このあたりの話を追いかけていこうというのが当面の目標である。今回はまず、歴史的に点在する、像としての人間というテーマの諸相を、いつもと同様に概観していくことにしよう。 ◇再びエックハルトから 前回言及したエックハルトは、神による人間の創造についても興味深い解釈を示している。前回も取り上げた『創世記注解』は、思想史的に見ても細かな問題をいろいろと提示しているように思えるが、ここではとりあえず、唯一神による人間の創造を扱った箇所を簡単に見ておく。それはある流れの一つの結節点をなしているかのように見える。 「われわれに似せて人を造ろう」という部分の注解を、エックハルトはまず次のような指摘から始める。人間がその他の下位の被造物と異なるのは、次の点においてだとされる。後者が神に「属するもの」に似せて産み出されているのに対し、理性的・知的存在、すなわち人間は、「神に属するものというよりも、神そのものに類似している」（&quot;natura vero intellectualis ut sic potius habet ipsum deum similitudinem quam aliquid quod in deo sit ideale&quot;）（&apos;Expositio Lib. Genesis&apos;, 115節, &quot;L&apos;oeuvre latine de Maitre Eckhardt&quot;, cerf, 1984, p.384）のである 。神のうちにあるもの、それはイデアだということになる。では人間のモデルたる神そのものとは何かといえば、それは「知性」にほかならない。エックハルトはアリストテレスを引き、さらに「理性的魂の完成形として知解される世界がある」というアヴィセンナの一節を引いて、「つまり人間は神の『実体』に『似せて』神から造られたのだ」（&quot;Hinc est quod homo procedit a deo &gt; divinae...</description>
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<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2006-04-20T10:15:17+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000875.html">
<title>「像」としての人間（２）</title>
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<description>前回からこの連作ノートは、古代から中世にいたる思想圏の中の、人間の創造に関する記述を追っているわけだが、前回はユダヤ教思想圏から綿々と続くテーマとしての「二重創造説」の広がりの一端を見てみた。今回はそれに関連するかもしれない魂の創造のテーマに触れて、それから重要な結束点をなすと思われるアウグスティヌスの創造論を概観しよう。まずは前回の話の要点を振り返っておくと、二重創造説は、旧約聖書の人間の創造の箇所をめぐって、人間が二段階で創造されたとする説だった。一度めが魂としての人間、二度めが肉体をもつものとしての人間という区分になる。アレクサンドリアのフィロンに見られるように、この説はプラトン主義的な系譜の中に位置づけられるものと考えられる。 ◇二重創造説と二重霊魂説 新プラトン主義の碩学の一人、イアンブリコスは、壮大なコスモロジーを展開する主著『エジプトの謎』（参照&quot;Les Mystéres d&apos;Egypte&quot;, Les Belles Lettres, 2003）において、「二重霊魂説」を紹介している（8巻6章）。古代のエジプト人が抱いていたとされる、人間の自由意思が星辰に依存するという考えについて詳述した箇所である。その説によれば、人間には二重の魂があるのだという。一つは第一の知解可能なもの（第一質料？）に由来するもので、それは創造神の力にも与る。もう一つは天体の回転により人間に注入されるものである。前者は不動であり上位に置かれ、後者は可変であり天体の動きにともなう影響を被る。これは興味深い論である。魂と肉体の二元論ではなく、魂そのものに二元性を見るという立場だからだ。これは二重創造説のアップストリームということになるのだろうか？ この二重霊魂説については、ハンス・ヨナスがその著書『グノーシスの宗教』（H. Jonas, &quot;The Gnostic Religion&quot;, Beacon Press, Boston, 1958-2001）で詳しく取り上げている。ヨナスは「ヘレニズム世界には、キリスト教との関連から完全に自由な形でのグノーシス的思想や思弁が広く存在した」（p.147）と言い、一例として、ヘルメス文書の代表格『ポイマンドレス』を挙げてみせる。ただし多少の保留つきではある。というのも、『ポイマンドレス』の逸名著者は、70人訳聖書を知っていたと考えられるからである。とはいえ総じて言えるのは、「感覚的なものと精神的なもの、肉体と心といった際立った二元論は、グノーシスの姿勢にも見事に合致するが、同様にキリスト教、もしくはプラトン主義の枠組みにも合致する」（同）ということだ、とヨナスは指摘する。そこに見いだされるのは、キリスト教的グノーシス思想からは独立した、それでいてグノーシス的なコスモロジーもしくは人間学なのだという。 その二重霊魂説は、『ポイマンドレス』の次のくだり（15節）に出てくる。「かくして、地上のすべての生き物のうち、人間だけは二重なのである。肉体ゆえに死する存在であり、本質ゆえに不死なのだ。不死であり、あらゆるものを支配してはいるが、運命の影響を受けて死を被るのである。調和を越えた存在でありながら、調和の中にあって隷属し、男女両性の父から生まれた両性的存在、眠ることのないものから生まれた眠ることのない存在でありながら……（性別と眠りに）支配されているのだ」（&quot;καὶ διὰ τοῦτο παρὰ πάντα τὰ ἐπι γῆς ζῷα διπλοῦς ἐστιν ὁ ἄνθρωπος. θνητὸς μὲν διὰ τὸ σῶμα, ἀθάνατος δὲ διὰ τὸν...</description>
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<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2006-12-11T22:57:28+09:00</dc:date>
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<item rdf:about="http://www.medieviste.org/scr1/archives/000983.html">
<title>「像」としての人間（３）</title>
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<description>二重創造説の流れを簡単に眺めた後の今回は、その後代における射程ということを考えてみる。二重創造説とは、創世記の冒頭にある人間創造の描写が二つに分かれていることを二段階の創造と読む、一種の「誤読」の系譜である。それを支え、かつまたそこに貫かれているのは、当然ながら身体と魂との二元論にほかならない。けれども、二重創造説でとりわけ問題になっているのは、魂の先行性というテーマだ。先に創造されたのは魂だという論点である。先行性はまた完全性とも関係している。先行するもののほうが、後に続くものよりいっそう完全であるという考え方だ。これはプラトン主義の基本的な立場だが、二重創造説もこの図式を蹈襲している。なにしろそこでは、魂は神の似姿として創造され、身体は土塊から創られたとされるのだから。こうして身体と魂は、一方は卑俗、一方は高貴と見なされ、以後、卑俗的な身体的なものは考察対象からも排除され、あらゆる表現を禁じられるようになる。 その意味で、魂の先行性は偶像禁止論ともつながっている。偶像禁止論はもちろん神的な事象の図像化・形象化を禁じる立場だが、そこには感覚に訴えるものの排斥があり、つまりは身体的なものの排除が関連しているように思われる。すなわちその上流にはこのような魂の先行性の議論、二重創造説の議論が控えているのではないか、ということだ。もっとも、ここでは魂の先行性から偶像禁止論が導かれる、といった過程そのものを検証しようというのではなく、言うまでもなく、あくまで研究ノートとして大まかな方向性、糸口をまとめるにすぎない。今回は魂の先行性（上位性）と像の禁忌という問題について、イスラム教、ユダヤ教世界、そして東方キリスト教を、それぞれの中世を代表する思想的な動きを一つづつ取り上げ眺めていくことにする。 ◇アヴィセンナ：分離する魂と身体 まずはイスラム世界を見、心身を分離する考え方の深化について確認しておこう。イスラム世界においては9世紀以降、いわゆるアリストテレス思想などを継承する形でイスラム哲学が勃興していくが、そこに見られたのはまぎれまもない二元論的なスタンスの維持・強化だった。ここではイスラム哲学の一つの到達点とされる12世紀のアヴィセンナ（イブン・シーナー）を取り上げて、そうした二元論的立場がどう強化されているのかを見る。 身体と魂との間に、それまで以上に大きな溝が穿たれる一例として、アヴィセンナのいう「空中人間」の比喩が挙げられる。「空中人間」の比喩は、『治癒の書』の一部「魂について」に見られる一種の思考実験だ。自己の肯定という観点から、デカルトの自省する自己の先駆をなすとして引き合いに出されることが多いこの比喩だが、実際のテキスト（『治癒の書』内の「霊魂論」）で力点が置かれるのは、むしろ魂の存在と本質を証すことにある。論集『デカルトと中世』所収のアメド・ハスナーウィによる論考（Ahmad Hasnawi &apos;La conscience de soi chez Avicenna et Descartes&apos; in &quot;Decartes et le Moyen Age&quot;, édit. J. Biard, R. Rashed, Vrin, 1997）から、「空中人間」のくだりの部分を紹介しておくと、それはこういう話だ。魂が一挙に、しかも完全なもの（それ自体で完結したもの）として創造されたと想像してみる。外部の事物を見る視覚もなく、完全な無の中で想像され、感覚も遮断され、四肢からも切り離されているので触知などもできないと想像してみる。その上でなお、おのれが存在しているかどうかを精査してみるならば、あらゆる形状や尺度を伴わずとも、おのれが存在していることは間違いなく確証・認識できるにちがいない、と想像できる。同時に、自己認識できるものとしての魂は、おのれが身体とは別物だということも認識しえるだろう……。 「空中人間」はあくまで想像上の実験で、論証的な議論ではない。けれども、そこに創造の話が絡められている点は十分に示唆的かもしれない。ここでのアヴィセンナは、魂の創造が「一挙に、完全なものとして」なされたことを前提として想像をめぐらすよう読者を促している。いわば魂の創造の現場を人間の側から想像してみようというのだ。そして最終的には、魂が身体とは別ものであることが結論づけられている。結果的にこれは、「魂の創造が身体の創造とは別になされる」という二重説を想起させ、それを正当づけているようにも取れるのである。もちろん、一義的にここで示されているのはあくまで心身二元論的な立場への明言であって、創造に関するアヴィセンナの時論ではない。けれども、魂と身体との前後関係（魂の先行性）については別のテキストにも示唆を見いだすことができる。たとえば『治癒の書』の別パートをなす『形而上学』（&quot;Metafisica&quot;, trad. Olga Lizzini, Bompiani, 2002）である。その第二論考第四部は質料形相論を扱った箇所だが、ここで、存在においては形相が質料に先行するという話が展開する。 アヴィセンナはそこで、身体（物体）的質料は形相という本質なしには存在しえないとし、両者の結びつきを強調しつつ、その一方で、両者の関係性とは原因と結果の関係であると述べている（同、p.184）。当然ながら、形相の側が原因をなし、質料はそれを受容する側ということになる。アヴィセンナは両者が同時に存在に置かれていることを強調しはするのだが（pp.188-196）、質料をおのれの媒介物にとどめるという意味で、形相の成立は質料に先行するとも述べているのだ（p.198）。形相が魂に、質料が身体に対応することは文脈的にも明らかである。ロバート・ウィスノヴスキーが『ケンブリッジ・アラビア哲学必携』に寄せた概説（Robert Wisnovsky,&apos;Avicenna and the Avicennian Traditon&apos; in...</description>
<dc:subject>lumen et figura</dc:subject>
<dc:creator>Masaki</dc:creator>
<dc:date>2007-08-11T00:21:31+09:00</dc:date>
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