silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.277 2015/01/10 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その12) パルマのブラシウスによるブラッドワーディンの『数比論』への注解書を 見ています。前回までは比全般についての数学的な議論(問一から問八) を見てきました。今回からは運動についての議論を眺めていきます。ブラ ッドワーディンのテーゼは、「運動の速度は、駆動力と抵抗力の比に比例 する」というものでした。これについてのブラシウスのコメントは、問一 〇で示されます。問一〇はずばり「運動の速度は、作用因としての駆動力 と抵抗力の比に従うか」という表題になっています。 結論から言えば、ブラシウスはブラッドワーディンのテーゼに反する立場 を取っています。順に見ていきましょう。まず問一〇の第一節では、主要 な四つの派の考え方を取り上げて反論を加えていくのですが、その四つめ がまさにブラッドワーディンの立場となります。ブラシウスの反論はま ず、運動が空間移動ではなく、質的変化のように作用体と被作用体とが同 一である場合を取り上げています。そういう場合には変化の「幅」が無限 に及ぶ、というのですね。たとえば温度がプラス8の物体Aとマイナス4の 物体Bを一時間で同化する場合、Bを同化への抵抗力と考えると、それは 漸次的に変化していきます。ある時点でその抵抗力は当初の半分になり、 すると動力と抵抗力の比は当初の倍になる計算になります。さらに抵抗力 が当初の4分の1になれば、比は当初の4倍になります。さらに……という ふうに、経時的に見るなら、その抵抗力に対する作用力の比は無限に増加 することになってしまう、というわけです。校注者らの冒頭の解説によれ ば、この議論はブラッドワーディンへの直接の反論というよりも、むしろ 速度を動因と動体のなんらかの比に位置づけようとするアリストテレス的 な議論全体への異議申し立てになっているといいます。 第二の議論は、(運動が動力と抵抗力の比に依存するのなら)有限の原因 から無限の結果が生じることになるというものです。それがアリストテレ スの文言に反するというわけなのですが、ここで扱っているのは、一定の 重さの物体を月の球から地上へと落とす場合、媒質の抵抗力がないとき、 つまり真空であるなら、速度は無限大になることになるという議論です。 やはり校注者らの解説を見ると、この真空の中での逆説は、12世紀のコ ルドバ出身のイスラム哲学者アヴェンパーチェ(イブン・バージャー)以 来、議論の対象となってきた古い問題だといいます。この第一の議論と第 二の議論は、ともに「加速」という観点からの反論になっていますね(私 たちからすれば、もちろんその反論にも問題があるわけですが)。 第三の議論は、比の構成についてのもので、倍の比となる両端A、Bと中 間点Cを設けたときに、ABの比はACの比およびCBの比から成るかどう かを改めて問うています。たとえばAとBが9 : 1であるとき、その半分な らば4.5 : 1になりますが、9 : 1の比がもたらす速度は、4.5 : 1がもたら す速度の2倍にはならない、9 : 1がもたらす速度はむしろ3 : 1がもたら す速度の倍になる、ゆえに速度は比に比例するのではない、とブラシウス は指摘します。ブラシウスはここで正しく「2倍」というのは「2乗」の ことだとしているわけなのですが、再度校注者らの解説によれば、この用 語の混乱はどうやら当時一般的に見られたもののようで、ニコラ・オレー ムなどは、2の倍数の場合のみ「倍」の表記は乗数と一致するが、ほかの 比では一致しないとわざわざ断り書きをしているといいます。ブラシウス は全般に、そういったあいまいな用語を鮮明に区別しようとしているよう なのです。 これらをもとに、続く問一〇の第二節ではブラシウス自身の考え方が示さ れます。そこでまず問題となるのが用語の厳密化です。ブラシウスは、 「速度」には「加速」(動因から動体への働きかけとしての)を指す場合 と、単位時間あたりの産出量、あるいは空間移動などの「効果」を言う場 合とがある、とはっきり述べています。次にブラシウスは、上のブラッド ワーディン批判を繰り返す形で、「表記」(denominatio)と比は同じ にはならないという話を再度取り上げます。9 : 1を表記上で半分とする ならば、9 : 4.5と4.5 : 1に分割できるわけですが、4.5 : 1は当然ながら 9 : 1の半分ではないわけですね。 そこからブラシウスは三つの帰結を導きます。一つは速度を加速と解した 場合に限り、速度同士の比はそれぞれの駆動力と抵抗力の比の「表記」に 従うということです。校注者解説によれば、表記と比そのものは同じでは ない以上、これはもとのブラッドワーディンの議論とは少し異なります。 抵抗力に対する駆動力の比の表記は、駆動力を抵抗力で割った値になるの で(駆動力が8、抵抗力が2だとすると、前者を後者で割った4が表記に用 いられ「四倍」というふうに記されます)、そこでの速度(加速)もまた 駆動力を抵抗力で割った数になるというのですね。この割り算の値を適用 することで、速度の表記は空間移動だけでなく、温度などの質的変化にも 応用できることになります。 二つめは、速度を単位時間当たりの産出量と考える場合の帰結です。ブラ シウスは、その場合の速度は上のような表記には従わないとしています。 温度の違う二つの物体が同一の温度になるのに要する時間を例にとると、 8度の物体と4度の物体とが同化する場合と、4度の物体と2度の物体とが 同化する場合とでは、どちらも表記的には2の速度になるはずですが、実 際の経過は同じにはなりません。そして三つめの帰結としてブラシウス は、そうした場合の速度は、駆動力(作用力)同士の比に従うとしていま す。物体aの温度が物体bの温度の2倍だったなら、aはbよりも倍の速度 で別の物体を暖めることができる、というわけです。 ですが再び解説を見ると、このテーゼはブラッドワーディンばかりか、ア リストテレスの『自然学』にも反するものだとされています。実際この 「速度は駆動力に比例する」というテーゼは、かつてブラッドワーディン が批判していたテーゼの一つでした。ただ、ブラシウスの場合には、それ が適用できる条件、つまり速度を単位時間当たりの産出量ないし移動距離 とする場合という条件が付いて、適用範囲が絞られているという利点があ ります。ブラシウスはそこにおいて、駆動力と抵抗力の差がないか、もし くはきわめて小さい場合でも運動は生じうる(抵抗を考慮しないのですか らそうなります)という説を支持し、アリストテレス主義の伝統的な考え 方(速度は駆動力と抵抗力で決まるとするもの)に異義を唱えていること になるわけですね。この問一〇の議論はまだもう少し続きますが、それは また次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その10) これまでヘンリクスの『スンマ』から第一部問題一の議論を見てきまし た。前回までのところで問題一の本論は終了し、その後に各異論への反論 が続いていくのですが、いったんここで問一は打ち切りとし、取り上げる 箇所を変更したいと思います。具体的には、問題二の照明説がらみの箇所 を読んでいきたいと思うのです。問題二は表題が「人は神の照明なしにな にかを知ることができるか」となっています。例によって否定・肯定の両 論が併記され、著者の唱える解決案が示されます。照明説はその解決部分 の後半というか、末尾のあたりに出てきます。そこでまずは解決部分の前 半部をざっとまとめ、それからいよいよ照明説が導入される箇所を読んで いくことにしたいと思います。 すでにヘンリクスの議論については前に先走る形で紹介していますが、復 習もかねてこの問題二の議論を追っておきましょう。ヘンリクスはまず、 被造物は純粋に自然な手段によって自然な善に到達することができること を肯定します。真なるものを知ることは、人間の魂および知性に固有の自 然な働きなのだとされ、それによって人は善を獲得することができるの だ、というわけです。ですが究極の善に達するには、それが傑出した威厳 ある行為であるがゆえに、特殊な「照らし」が必要になるというのです。 もちろん、人間の魂は感覚的な知を得ることはでき、しかもそれは自然な 手段のみでできるとされます(問題一)。では知性的な知はどうでしょう か。ヘンリクスは問題二の続く箇所で、知性的な知を二つに分類してみせ ます。一つは事物において真とされるものを知ること、もう一つはその事 物についての真理を知ることです。前者は対象そのものをそれと認識する こと(対象が真であると知ること)であり、後者はその対象にまつわる真 理(なにゆえにその対象であるのかという事由も含む)に対する判断が介 在する複雑なプロセスです。この後者において、確実な判断をもって真理 を理解することは、人間知性のみではなしえないとされるのですね。 その理由は、一つには知性というものが「構成と分解」を介してしか対象 を理解できないからであり、もう一つには、対象がもつ真理、つまり対象 がなにゆえにその対象であるのかという事由は、対象が真なるものである ことの事由とは異なっているからです。対象が存在する「意図」について は理解しえても、対象の「存在そのもの」の意図については理解しえな い、というわけです。「存在者の意図については理解えても存在自体の意 図については理解しえない」。ヘンリクスはそれをさらに次のように言い 換えます。眼前の対象自体はそのままのものとして理解できるが、対象 を、そのおおもとにあるモデル(exemplar:範型)との関係で十全に理 解することはできないのだ、と。 ここでの「モデル」もまた、創られたモデルと恒久的・不動のモデルとに 分けられます。前者はいわゆる「スペキエス」で、ハビトゥス(習慣)と して人間知性が蓄えていく形象というか像のようなものです。後者は神が 抱くイデアを言い、ヘンリクスはこれを「神の業(ars divina)」と呼ん でいます。この区分はおそらく、懐疑論に対する反論としての人間の知的 理解の「確かさ」と、人間知性の本質的な「不十分さ」(そのいずれもが アウグスティヌスの議論の中にあるわけですね)とを折衷させるためにヘ ンリクスがひねり出した区分ではないかと思われます。 前者の創られたモデル(スペキエス)を通じた知的理解では、そのモデル に沿った心的な概念を形成することで、対象が真であることを理解するこ とは可能だとヘンリクスは言います。アリストテレス的な、人間の自然な プロセスによる最上の理解は、まさにそうした理解のことだというわけで す。ですがその最上の理解もまた、絶対的に確かで間違いのない真理の獲 得にはいたらない、というのです。その理由はまず、感覚的与件から抽出 されるモデル(スペキエス)にはつねに変化の可能性があること、次いで 人間の魂自体が変化を被りやすいこと、さらにモデルそのものが志向性で あり可感的形象であることから、真ばかりか偽に対する類似性をも有する こと、などです。 この後、ヘンリクスはいったんアカデメイア派の教義の変遷に(再度) 長々と言及し、そこから真率の真理は恒久的なモデル(上の後者のモデル ですね)にもとづいてしか観想できないという結論を導きます。それはま さに神的なモデルであり、限定的な能力しかもたない人間は、自然な手段 だけではそうした神的モデルにアクセスできない、ゆえに特殊な「照ら し」が必要となるのだ、とヘンリクスは再び説きます。キケロやアウグス ティヌスを引きながら、このあたりは細かな議論がなされるのですが、そ れを経てようやく、神的な照明とはどういうものなのかという説明に入っ ていきます。その部分をこれから読んでいきたいと思うのですが、今回は すでに長くなってしまったので、その説明の冒頭部だけを以下に訳出して みることにします。 # # # Responsio autem huius ad praesens, quae magis ibi declarabitur, est quia, ad hoc quod aliqua conceptio in nobis de veritate rei extra vera sit sincera veritate, oportet quod anima, in quantum per eam est informata, sit similis veritati rei extra, cum "veritas sit quaedam adaequatio rei et intellectus". Quare cum, ut dicit Augustinus II De libero arbitrio, "anima de se sit mutabilis a veritate in falsitatem, et ita quantum est de se non sit veritate cuiusquam rei informata, sed informabilis, nulla autem res se ipsam formare potest, quia nulla res potest dare quod non habet", oportet ergo quod aliquo alio, sincera veritate, de re informetur. Hoc autem non potest fieri per exemplar aliquod acceptum a re ipsa, ut prius ostensum est. Necesse est ergo quod ab exemplari incommutabilis veritatis formetur, ut vult Augustinus ibidem. Et ideo dicit libro De vera religione: "Sicut eius veritate vera sunt quaecumque vera sunt, ita et eius similitudine similia sunt". Necesse est ergo quod illa veritas increata in conceptu nostro se imprimat, et ad characterem suum conceptum nostrum transformet, et sic mentem nostram expressa veritate de re informet similitudine illa quam res ipsa habet apud primam veritatem, secundum quod dicit XI De Trinitate: "Ea quippe de illa prorsus exprimitur, inter quam et ipsam nulla natura interiecta est". さしあたりの回答−−それは以下でより詳細に示すが−−は次のようにな る。外部の事物の真理について私たちのもとにあるなんらかの概念が、純 粋な真理において真となるためには、魂は、その真理によって形を与えら れる限りにおいて、その外部の事物の真理に類似するのでなくてはならな い。「真理とは、事物と知性とのなんらかの一致のこと」だからだ。だが それゆえ、アウグスティヌスが『自由意志について』第二巻で述べている ように、「魂はみずから真理から虚偽へと転じることもありえる。それ自 身において魂は任意の事物の真理によって形を与えられてはおらず、ただ 形を与えられる可能性を有しているだけである。一方の事物は、みずから を形成することはできない。なぜならいかなる事物も、みずからが有して いないものを与えることはできないからである」。したがって、魂が真率 の真理に沿って事物についての形を与えられるには、何か別のものが必要 になる。ただしそれは、先に示したように、事物そのものから受け取るな んらかの範型によってもたらされうるものではない。したがって、アウグ スティヌスが同書で述べているように、魂は不変の真理の範型によって形 を付されるのでなければならない。ゆえにアウグスティヌスは『真の宗教 について』でこう述べているのである。「真であるあらゆるものはその真 理によって真であるように、その類似性によって類似する」。したがっ て、創造されたものではない真理が私たちの概念に刻まれ、それが私たち の概念をそうした性格をもつものへと変容させ、かくして事物について明 示された真理によって、私たちの精神に、事物そのものが第一真理のもと に有する類似性に沿って形が与えられるのでなければならない。かくして アウグスティヌスは『三位一体について』一一巻において、「最もうまく 明示されるのは、間にいかなる自然も介入しない場合である」と述べてい るのだ。 # # # なかなか歯ごたえのある文章ですね。「形を与える」と訳出した informareがまず重要な概念で、事物に「純粋な真理に沿って」形を与え た「範型」と、魂がその事物を認識して魂にその形が生じるときの「範 型」は異なる(あるいはそこに落差がある)というあたりがポイントにな りそうです。その差を埋めることができるのは、自然の介入では決してな い、というわけなのですね。さしあたり、この箇所に関連する他のコメン トは次回にまとめて記したいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は01月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------