silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.282 2015/03/21 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 一四世紀の数比論(その17) 次回までで一通り、パルマのブラシウスによる数比論(とその運動論への 応用)理解について見てみました。全体を総括するなら、ブラシウスは比 と運動の問題について、ときにブラッドワーディンの説をさらに敷衍した り改編したりして、ある種独自の見解へと作り替えています。底本に収録 の、校注者ビアールとロムヴォーの解説序文の末尾には、数比論の拡散と 運動への応用において、ブラシウスの著書は重要な一局面をなしていると 記されています。イタリアでは、ブラッドワーディンを批判的に取り上げ る伝統が形作られたといいますが、ブラシウスはその一助をなしていると いうわけです。 その伝統は、ブラッドワーディンのほか、ニコル・オレーム、ザクセンの アルベルト、そしてリチャード・スワインズヘッドなどのテキストを直接 的に参照することによって育まれたものだといいます。ここに、ブラシウ スの著書も加わわるのですね。ちなみに、前にも出てきたザクセンのアル ベルトは一四世紀の論理学者・自然学者で、ビュリダンの伝統をイタリア や中欧へと伝えた人物です。スワインズヘッドはこれまた一四世紀の数学 者で、いわゆるオックスフォードの「計算家」と称され(「計算家」が複 数形のときは同学派の論者たちを、単数のときはこの人物を指しているよ うです)、当時の同校の数学研究において絶頂期をもたらした人物とされ ます。 さらにこの伝統は一五世紀から一六世紀にまで綿々と続き、ジョヴァン ニ・マルリアーニ(一五世紀)やアレッサンドロ・アキッリーニ(一六世 紀)などを輩出します。マルリアーニはミラノ出身の医師・自然学者で、 通常の水よりも熱した水のほうが速く凍ることを実験で確認した人物です が、そのメカニズムまでは説明できなかったそうです。アッキリーニも医 師と自然学者を兼務していて、こちらは生涯の大半をボローニャで過ごし ているようです。解剖学の著作が有名で、各種の骨格について記したりし ているようです。どちらも医師だった、というあたりが興味深いですね。 ブラッドワーディンは数学者のほか、自然学者・神学者の顔をもち、ブラ シウスは哲学者(自然学者)・占星術師でもあったわけで、このあたりの 学問的素養の広がり具合は、中世のスコラ学からルネサンスの人文主義へ の漸進的移行を反映するかのようで、なかなか示唆的です。 解説序文に戻ると、そうした伝統においてブラシウスの影響が見てとれる のは、数比とその呼称の関係や、二倍・三倍とか言うときの厳密な定義 (実際には累乗を言ったりするのでした)、あるいは構成と産出の区別な ど(本稿では取り上げませんでしたが、ブラシウスは比に関して両者を厳 密に区別しようとします)、ブラシウスが取り上げた各種の議論が継承さ れているからだといいます。時代が下るにつれて、ブラッドワーディンや オレームが進めた革新(数比の運動への応用)の意味は薄れ、ブラシウス もまたそれらと一緒くたに扱われて影を潜めていくようなのですが、それ でも数比理論の運動への応用自体はその後二世紀ほど存続し、たとえば一 七世紀のクリストファー・クラヴィウス(数学者・天文学者で、ユークリ ッドの原論の注解書を著しています)などにもその残響が残っている、と 解説序文はまとめています。 本稿は当初、ブラッドワーディンを見たあとオレームによる精緻化を見 て、その後にブラシウスへと進んでいこうかと思っていたのですが、ブラ シウスの逸脱ぶりがなかなか面白そうだったので、そちらを先に見てしま いました。ですがそうしてしまうと、あらためてそうした文脈でオレーム を取り上げるのもどうかと思うようになりました。オレームは確かにいろ いろと数比論の精緻化、あるいは運動論への応用面での補遺をなしていま すし、ときにはベースとされるアリストテレスの議論の見直しをも意識し ているようなのですが、ブラシウスのような大胆さ・奔放さはないように 思えます。ブラシウス本の解説序文にもあるように、数比論の展開という 意味では、上にも出てきたアルベルトやスワインズヘッドなど、ほかにも 重要そうな論者たちがいます。ただそちらはまだテキストの準備などがで きておらず、残念ながら個人的に今すぐ検討することはままなりません。 というわけで、オレームの捉え直しも含め、数比論の展開をより広い見地 から追うという案件が、さしあたり今後の課題として残ります。 本稿の最後として、ブラッドワーディンの底本とした仏訳本の解説(やは りロムヴォーによるものです)から、同じく末尾部分を見ておきましょ う。それによるとオレームはブラシウスにとっても重要な参照元となって いたようです。たとえば、数比同士の比はそれらの呼称同士の比でもって 表せるかという問題で、ブラシウスは否定的立場を取っていました。たと えば2倍の比と8倍の比があったとき、数比同士の比としては後者は前者 の3倍(つまり3乗ということです)に相当しますが、呼称で見るなら「8 倍」は「2倍」の4倍になっています。こうしたことから、比同士の比は 呼称とは別という話になるのですが、ここでブラシウスは明らかにオレー ムを参照しています。また、有理比と無理比の関係という問題を扱った箇 所では、ブラシウスはオレームを明示的に引いています(これはブラシウ スの注解書の第二版で付加されたものだとか)。 ブラッドワーディン(とオレーム)の議論は、ブラシウスを越えて、やが てポルトガル、英国、スペインなど各地に広がっていくようです。先に触 れたように、それは一四世紀から一六世紀を経て、ガリレオ以後の新しい 運動論が登場するまで続くのだとか。さらに数比同士の比の問題は、やは り一六世紀末ごろとされる対数の成立に一役買った可能性もあるといいま す。ただ、それについてはまだ研究の途上にあることが示唆されていま す。このあたり、今後の研究の動向にも要注目ですね。 * ……ということで、やや尻切れトンボのようでもありますが(苦笑)、ブ ラッドワーディンの数比論をめぐる話は一区切りということにしたいと思 います。次回からは、また趣向を変え、オッカム思想を糾弾したとされる 一四世紀のパリ大学学芸部の規約について、その研究書を読んでいきたい と思います。おそらくこれは、オッカム周辺の思想圏の広がりを再度復習 することになりそうです。またお付き合いいただければ幸いです。 ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その15) 今回からは、問題三「人間は認識のもととなる神の光を認識できるか」よ り、ヘンリクスの自説の部分を読んでいくことにします。問題二におい て、人間の真の学知には神の光による照明が必須である、ということが一 通り示されたわけですが、続くこの問題三では、ならばその神の光そのも のは認識可能なのか、という問いかけがなされます。 例によって問題の考察は、まずは両論併記から始まります。認識できると する肯定的な議論は、アウグスティヌスの様々な文献をもとに、六つほど 続いています。それに対して、認識できないとする否定的な議論は、聖書 の「コリント人への第一の手紙」の一節(第四章の5)と、それについて のアウグスティヌスのコメントだけです。ですがやはりヘンリクスはこの 否定的議論のほうを重く見ています。以下はその両論に続く「解決」と題 された自説部分です。さっそく見ていきましょう。 # # # Solutio Dicendum ad hoc quod sic est in omni nostra cognitione, tam sensitiva quam intellectiva, quod nihil cognoscitur a nobis, neque cognitione simplicis notitiae neque cognitione discretiva, quin se habeat in ratione obiecti respectu virtutis cognitivae, ita quod illud quod est ratio cognoscendi respectu alterius tantum, quod habet rationem obiecti, nullo modo potest dici esse per se et in se cognitum a nobis, ut puta species sensibilis in oculo, quia quod ponitur supra sensum nullum potest facere sensum, neque species intelligibilis informans intellectum. Lux autem divina illustrans mentem in notitiam veritatis sincerae vel etiam cuiuscumque solum se habet ut ratio intelligiendi, non ut obiectum visum et intellectum. Idcirco absolute dicendum est quod sic alia facit videri, ut in se non videatur, nec simpliciter nec distinctive. Cuius duplex est ratio : una quae sumitur ex natura ipsius lucis; alia quae sumitur ex modo illustrationis eius. 解決 これに対しては次のように言わなくてはならない。感覚的認識と知的認識 のいずれであろうと、自分のいかなる認識も私たちは何も知りえないので あり、観念の端的な認識でも離在的な認識でもそれは同様で、認識能力に 対して対象のことわりをなしているもの以外は知りえないのだ。他の対象 に対して認識的理解をなすもの、すなわち対象のことわりをもつものを、 私たちはいかなる形でも、それ自体として、それ自体において知ることは できない。たとえば目の中の感覚像もそうである。なぜかといえば、感覚 の上に置かれるもの自体は、感覚できないからだ。同じく、知解の対象と なりうる像も(それ自体の)知解を形成することはできない。一方、純粋 な真理の観念、あるいはなんであれ真理の観念において精神を照らす光 は、知解をもたらすことわりとしてのみあり、視覚や知性の対象としては ない。したがって次のことは絶対的であると言わなくてはならない。それ がほかのものを見せるようには、みずからを見せることはなく、それは端 的な認識でも離在的な認識でも同様なのである。そのことわりは二重にな っている。一つはその光の本性からもたらされることわり、もう一つはそ の照射の様態からもたらされることわりである。 Ratio igitur ex parte ipsius lucis est quod ipsa non est ratio cognoscendi sinceram in aliis sub ratione alicuius generalis attributi Dei, quale a nobis cognoscibile est in hac vita, ut infra videbitur, sed ut est ipsa divina substantia et ars increata in suo esse particulari, quae ut obiectum sine lumine gloriae in vita futura vel specialis gratiae in praesenti a mente humana videri non potest, ut dictum est supra. Hac autem luce in hac vita non solum a bonis, sed etiam a malis multae veritates sincerae vel etiam omnes veritates qualescumque videntur, secundum quod dicit Augustinus IX De Trinitate : "Impii cogitant aeternitatem, et multa recte reprehendunt, recteque laudant in hominum moribus. Quibus tandem regulis ea indicant nisi in quibus vident quemadmodum quisque vivere debeat, etiamsi non ipsi eo modo vivant ? Ubi scriptae sunt nisi in libro lucis aeternae ?" etc. Frequenter etiam veritatem vident in ea mali quam non possunt videre boni, ut dictum est supra in quaestione proxima. Ipse etiam diabolus, si quid veritatis sincerae, vel etiam qualiscumque videt, in ipsa videt, secundum quod Augustinus De sermone Domini in monte : "Voce Dei", inquit, "audivit quod voce veritatis scriptae intus in mente sua verum aliquid cogitavit." したがって、その光から部分的にもたらされることわりとは次のようなも のである。その光そのものが、他の事物において、神に帰されるなんらか の普遍的なことわりのもとでの純粋な認識のことわりをなしているのでは ない。私たちがこの世で知りうることは神のおかげなのであり、そのこと は後で見ることになるが、ここで言う光は、それ自体が神的な実体、特別 な存在における創造されたのではない御業としてあり、上に述べたよう に、それは来世の生における栄誉の光なしには、あるいは現世における特 殊な恩寵なしには、人間の精神では見ることができないものなのだ。けれ ども目下の生にその光があればこそ、善き人ばかりか悪しき人でも、幾多 もの純粋な真理、あるいはいかなるものであれすべての真理を目にするこ とができるのである。アウグスティヌスは『三位一体について』第九巻で 次のように述べている。「不信心な者たちも永遠を認識し、多くのことを 正しく批判し、また人間の慣習を正しく讃える。たとえそのように生きて はおらずとも、かく生きねばならないということを想うのでないとしたな ら、彼らはいかなる規則に訴えるというのだろうか?永遠なる光の書以外 に、どこにそのことが記されているというのだろうか?」云々。善き人々 が目にできない真理を、悪しき人々がその光において目にすることもたび たびある。それは先に前の問いで述べた通りである。悪魔もまた、純粋な 真理、あるいはなにがしかの真理を見るのだとすれば、それはその光のう ちに見出すのだ。アウグスティヌスは『主の山上の垂訓について』におい てこう述べている。「おのれの心の奥に刻まれた真理の声によって真であ ると認識したこととは、神の声でもって聞いたことなのだ」。 # # # 最初の段落で、端的な認識と離在的な認識というのが出てきますが、これ はスコトゥス以来用いられ、とりわけオッカムなどによって規定されるこ とになった直観的認識、抽象的認識の区別に相当するものと考えてよいで しょう。つまり、眼前の事物をそれとして認識するのが端的な認識、眼前 に不在の事物を想起的に認識するのが離在的な認識というわけです。どち らの認識においても、認識対象は認識主体にとって外部のもの、ないしは 想起されたもののみで、認識のプロセス自体は対象にできない、というの がここでの主眼のようです。第二段落では、神の照らす光はあまねく広が り、信心・不信心にかかわらずあらゆる人が真理の認識に与ることができ ることが再度取り上げられています。 この箇所からは、ヘンリクスが、認識の対象と認識を可能にするものとの 区別を厳密に立てようとしていることが窺えます。認識プロセスそのもの は再帰的に認識の対象にはなりえないというわけなのですが、では対象を 認識しているという意識そのものはどのようにして認識されるのでしょう か。そうした契機がなければ、そもそもこうした認識をめぐる議論自体が 出てこないようにも思えます。ヘンリクスはそこのところは不問もしくは 曖昧にしています。というか、ヘンリクスに限らず、そうした曖昧さは多 くの論者に共通しているようにも思われます。一見、そうした再帰的な意 識は認識プロセスそのものに含み入れられ、認識対象から外されてしまう ように見えながら、実は認識プロセスそのものには入りきらず、さながら ずっと鳴り続ける通低音のごとく、傍らで認識論の構図を支えているかの ようです。 これは前に加藤本で見た、「認識の観点」と「認識の対象」とのあいだの 揺らぎにも重なってきます。認識プロセスは、反省的にみずからのプロセ スそのものを捉えることはできないにせよ、少なくとも再帰的かつおぼろ げにみずからに向かうことはできるため、そのプロセスは「認識の観点」 と「認識の対象」とのどっちつかずの状態で絶えず揺れ動いていくのかも しれません。そのような視点の定まらない状態が、ここでは神学的な枠組 みの中で捉えられ、おぼろげな「神の光」という形で語られているのかも しれません……。そう考えると、この照明説というものも、単なる歴史上 の遺物などではなく、なにやら現代的なテーマとして別様の光を放ち始め てきそうな気がします。 ヘンリクスの話に戻ると、再び加藤本によれば、思想形成の段階として初 期から後期へと移行する中で、ヘンリクスの照明に関する考え方は大きく 変貌していくようです。おぼろげに揺れる照明の「光」を、霊的光として 神学的な枠組みで考えたいたヘンリクスは、やがてそれを「能動知性」と して、より哲学的・形而上学な枠組みで捉えるようになっていきます。加 藤氏はこれを「光なき照明説」(『ガンのヘンリクスの哲学』p.198)と 称しています。なにゆえにそのようなシフトが生じたのでしょうか。また それによって全体の思想的な構図・布置はどう変化していくのでしょう か。そのあたりについて、私たちもまた順次検討していかなくてはなりま せん。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月04日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------