silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.284 2015/04/18 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その2) ここで扱う1339年の「パリ大学規約」は、基本的に六つの区分からなる 文書で、ルプレヒト・パケの研究書『唯名論者のパリ規約』は、その本文 を区分別に詳しく検討しています。今回はまず、その規約の序文から眺め ておくことにしましょう。序文はだいたい次のようになっています。 まず、「将来この規約を読むすべての者、自由学芸部のすべての教師に、 主の恵みがありますように」との挨拶から始まります。続いて「各人はで きうる限り、誤りや間違った教義に反対し、あらゆる手段でその行く手を 阻まなくてはならない」とされます。さらに「最近、危険な巧妙さを信奉 する自由学芸部の何人かが、確固たる真理の台座によることなく、必要以 上の知を得ようとして、不健全な種を広めようとしているが、そこから将 来、許容できない誤りが生じうる」として、警鐘を鳴らしています。序文 の末尾は「そうした病を治療すべく、われわれは彼らの不敬虔な原理と誤 りを集め、以下のように正式に決定するものである」と締めくくられてい ます。 なるほど、ここだけではまだどのような人々が糾弾の対象になっているの か判然としませんね。前回のところで触れたように、オッカムなのか、オ ートレクールのニコラなのか、それとも……?とりあえずはゆっくりと進 んでいくことにしましょう。前回はパケの研究書の序章でまとめられてい る歴史的背景についてざっと見てみました。アリストテレス主義のある潮 流が、とりわけ問題になっていたことが窺えます。ただここで一つ気にな るのは、規約が出された1340年当時のパリ大学総長がジャン・ビュリダ ンだった点です。ビュリダンは当時最も影響力のあった哲学者・自然学者 の一人で、アリストテレスの注解者としても知られていた人物です。さら には唯名論の系譜の主要な人物でもあり、オックスフォード発の新教義の 普及役の一人でもありました。 そんなビュリダンがどうしてそのような「誤りを正す」規約を打ち出した のでしょうか(当時は、大学の総長こそが規約の発案者になるのが通例だ ったとされるほか、必要があれば調査委員会などを立ち上げるなどの措置 も取るのが普通だったといいます)。仮に規約の糾弾対象がオッカム思想 であるのだとすれば、これではまるで、オッカム派の一人が当のオッカム を攻撃するようなことになってしまいます。この「矛盾」を、先行研究な どはどう捉えていたのでしょうか。 パケは同書の本論冒頭で先行研究を振り返っています。それによると、た とえばムーディという研究者は1947年の論文で、規約はオッカムを批判 対象にしたのではないとの説を唱えました。規約に示された批判対象は、 基本的な部分でしかオッカム本人のものとは合致しないというのです。オ ートレクールのニコラがやり玉に挙がっていたのではないか、と主張した のもムーディでした。ただ、ニコラはオッカムの批判者だったことから、 ニコラの糾弾がオッカム派を勢いづかせるのは問題なので、規約はいかに もオッカム的な教義への批判を随所に差し挟んでいるのではないか、とい うわけです。それが後世において、規約がオッカムを糾弾しているという 誤った認識になったのではないか、と。 ムーディ説なら、ビュリダンが規約の策定を指示したとしてもなんら矛盾 はないことになります。ただ、そうではないとする研究もあるようです。 その一つは、この規約のタイトルを問題にしています。規約の正式タイト ルは、「いくつかのオッカム派の誤りを糾弾する自由学芸部規約」となっ ていて、「オッカム派の」と明記されています。このタイトルがオリジナ ルにもあったとする証言もあり、執政官の台帳などから確認できることも あって、これが後世における後づけのものではないという説が一般的とさ れています。ですがそうだとすれば、もしニコラが批判対象であるのな ら、わざわざオッカムの名が入っているのはこれまた解せません。 うーん、確かに謎は深まるばかりです。いずれにしてもこのムーディ説の 再検証を基本的な軸線として、ピケの研究書はいよいよ規約の本文へと入 っていくことになります。私たちも本文を注視していくことにしましょ う。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ゲントのヘンリクスの学知論(その17) ヘンリクスの『スンマ』第一部問題三から、照明説の部分を読んでいま す。さっそく続きを見ていきましょう。 # # # Quia tamen per se et primo visibile, sicut lux aut color ratione qua lux aut color est, non determinat dispositionem rei visae qua distinguitur et distincte cognoscitur unum coloratum esse differens et diversum ab alio, sed hoc facit solum character figurae corporis colorati quem secum defert color tanquam similitudinem et imaginem rei visae - similitudinem ratione coloris, imaginem ratione characteris - et characterizat visum perfecta similitudine et imagine rei visae. Hoc ergo est tertium quod requiritur ad perfectum actum videndi, transfiguratio determinans ad discernendum. だが、光や色を成立させる理性の光や色のような、おのずと視覚対象にな る第一のものは、見られる事物の配置を決定するわけではない。その配置 があるからこそ、ある色彩をもったものが識別され、他のものから区別さ れ異なっていると明確に認識されるのである。そうした認識をもたらすの は、色彩をもつ物体の形状の特徴のみである。色はそれを、みずからとと もに、見られる事物の似像およびイメージーー色の理による像、特徴の理 によるイメージーーとして示し、見られる事物の完全な似像およびイメー ジでもって視覚を特徴づける。したがってこれが、視覚の完全な作用のた めの第三の要件、すなわち識別のための限定づけをもたらす変化となる。 His tribus respondent tria in visione intellectuali ex parte Dei, qui est ratio operans actum intelligendi. Primo enim est lux spiritualis oculum mentis illuminans ad visum eius acuendum, Ionnis I : "Erat lux vera quae illuminat omnem hominem venientem in hunc mundum". Secundo est forma sive species immutans eum ad intuendum, propter quod dicitur De spiritus et anima cap. 8 : "Anima, nulla interposita natura, ab ipsa veritate formatur". Tertio est figura sive character configurans eum ad discernendum. "Est enim ars quaedam omnipotentis Dei plena omnium rationem viventium", ut dicit Augustinus VI De Trinitate cap. ultimo. Et ideo dicitur Ioannis I : "Quod factum est in ipse vita erat". Sunt enim ilae rationes tanquam omnium figurationum in naturis rerum characteres et exemplaria perfectissima et configurationes expressissimae. 知的な視覚の場合、これら三つの要件に、知解の行為をもたらす理として の神より発する三要件が対応する。まず一つめは、精神の眼における霊的 な光である。それは精神の眼を活性化すべく照らすものだ。『ヨハネによ る福音書』第一章にはこう記されている。「この世に来たるすべての人間 を照らす真の光があった」。二つめは、精神を注視へと変化させる形相ま たは形象である。これについて『霊と魂について』第八章は次のように述 べている。「魂は自然に介在されるものでは決してなく、真理によって形 成されるものである」。三つめは、精神を識別に向けて整える形状もしく は特徴である。「それは、あらゆる生命の理で満たされた全能の神による なんらかの業である」と、アウグスティヌスは『三位一体論』の最終章で 述べている。さらに『ヨハネによる福音書』第一章でも、「その中に創ら れたものは生命であった」と述べている。それらの理は、自然の事物のあ らゆる形状の、最も完全な特徴および範型、最も忠実な整備をなしてい る。 Et est ipsa divina essentia respectu intelligibilis visionis in oculo mentis, sicut illa tria respectu corporalis visionis in oculo corporis, praeter hoc quod ipsa divina natura, quae intima est omni rei, haec omnia facit non menti ut dipositio eius inhaerend, sicut inhaerent species lucis, species coloris, species figurae oculo corporis, sed ipsi intime illabendo, secundum quod dicitur De Ecclesiasticis Dogmatibus : "Illabi illi soli possibile est qui creavit". Et facit ibi intima eius praesentia ad visum intellectus ei assistendo quae faciunt species visibilium in oculo corporis vel species intelligibilis oculo mentis ei inhaerendo. Unde dicit Augustinus II De libero arbitrio : "Transcende animum ut numerum sempiternum videas; iam tibi de ipsa interiori sede fulgebit et de ipso secretario veritatis". 神的な本質でもあるその理は、精神の眼における知解対象の視覚にとっ て、肉体の眼における物体的なものの視覚にとっての三要件と同様であ る。ただ違うのは、あらゆる事物の内奥にあるその神的な性質は、たとえ ば光の像、色の像、形状の像が肉体の眼に内在するように、そうしたすべ てを内在する性質として精神にもたらすわけではない。そうではなく、そ の内奥へと注ぎ込むのである。そのことを『教会の教義について』ではこ う述べているのだ。「注ぎ入れることができるのは、創造主のみであ る」。ここでそれが内奥に置かれると、それは知的知覚に向けて支援し、 肉体の眼であれば視覚対象の像ができるように、精神の眼であれば内在す る知解対象が内在的に形成される。ゆえにアウグスティヌスは『自由裁量 について』第二巻において、こう述べているのである。「永続する数を見 るために、魂を越えよ。そのときあなた自身の内部の座、その真理の聖域 から光が発するだろう」。 Et propter ista tria dicitur Deus a sanctis aliquando ratio intelligendi ut lux, aliquando ut species sive forma, aliquando vero ut exemplar sive idea vel regula. Sed tamen in qualibet intellectuali cognitione perfecta est ratio intelligendi secundum haec tria, et secundum illa tria quae ponit Augustinus I Soliloquiorum cum dicit : "Non est habere oculos sanos quod aspicere, aut idem hoc est aspicere quod videre. Ergo animae tribus quibusdam rebus opus est ut oculos sanos habeat quibus iam uti possit, ut aspiciat, ut videat", quae quidem tria ratio videndi quae Deus est, faciat in oculo mentis diversimode secundum illa tria. そしてこれら三要件ゆえに、神は聖人たちから、あるときには光として の、あるときは像ないし形相としての、またあるときは範型もしくはイデ アないし原理としての、知解の理であると言われるのだ。だが、いかなる 完全な知的認識においても、神はこれら三要件にもとづく知解の理をなし ている。アウグスティヌスが『独白』第一巻で次のように述べるとき、彼 もまたその三要件に準拠している。「知覚することと健全な眼をもつこと は同じではないし、知覚することと見ることも同じではない。したがって 魂には三つのことが必要となる。できるかぎり健全な眼を持ち、知覚し、 見ることである」。それら三つの事象によって、神そのものである視覚の 理は、精神の眼に、(先の)三要件にもとづく様々な様態をもたらすの だ。 # # # 最初の段落では、前回に続く視覚の三要件のうちの三つめ、つまり識別の ための形状が取り上げられています。無限定のものから限定のものへと向 かうという視覚の在り方は、まず光を、次いで色の像を知覚します。その 次に来るのが形状というわけです。これで視覚は完成するわけですね。ブ ログのほうでも少し触れましたが、こうした視覚の序列は、たとえば現象 学的記述においても対応物が見いだせるようで、フランスの哲学者アン リ・マルディネなどは、無限定なものを前にした視覚体験を、「眩暈」 (視線が旋回するばかりの寄る辺なさでしょうか?)から「律動」(コン トラストなど色に触発される秩序の萌芽のようなものでしょう)、そして 「定着」(形状の認識による安定化)へと移行する過程として描き出して います。 ヘンリクスに戻ると、こうした視覚の要件に対応する三つの要件が、知的 理解においても見いだされるとしています。視覚における光に相当するの は「光としての神」、色の像に相当するのは「形象」(スペキエス)、形 状に相当するのは「特徴」(範型・原理)だとされます。ヘンリクスはこ れらについて詳述していくわけなのですが、まずその前提として、それら の要件はあらかじめ精神に内在しているのではなく、いずれも神から発す る神的な業として「内奥」へと注ぎ込まれるということが言われていま す。その意味でそれは「霊的な光」とされるわけなのですね。 * さて、その霊的は光は、後期のヘンリクスではあまり言われなくなるので した。参考にしている加藤本に戻ってみましょう。視覚が無限定のものか ら限定的なものへと段階を経て進んでいくように、知解もまた同じように 無限的なものが先行し、それに限定的なものが続くとされているのでし た。これはつまり、人間のアプリオリな知解には無限定なもの、すなわち 神の認識が最初にあるということを意味します。 するとそこで認識されるのは、まずは神の有(存在者)、ついで限定的な 被造物の有ということになります。加藤本によるとヘンリクスは、「人間 知性は神の有と被造物の有という二種類の有を曖昧な仕方で一つのものと して認識する」としているのでした。それは人間の能力的な弱さに起因し ているとされます。ヘンリクスはこれを、光と色の認識にたとえていると いいます。つまり、人は色を見るとき、かならず光のもとに見ているとい うわけです。ただ色の不透明性が光の観点を暗くし、そのために光の像よ りも色の像が眼の前面を占めるのだ、と。知性も同じで、存在者としてモ ノを見るときには、同時に神の観点(神の有)が必ずそこに(分有とし て)宿っているというわけです。これこそがアプリオリな神認識であり、 それが人間知性に「挿入されている」ということのゆえんだとされます。 では、最初の問題、つまり照明説から離れた場合、人による神へのアクセ スはどのように担保されるのかという問題はどう処理されるのでしょう か。ヘンリクスはこの、神の有と被造物の有との関係性を「類比」で考え ているわけですが、それで十分に神と人との間が埋まるのでしょうか。加 藤氏はここで、何が神の有と被造物の有とをつなぐのか、という問いを検 討しています。先回りして言うと、そうした溝を埋めるための補強材とし て、ヘンリクスの独特な存在論があるのではないか、というのですね。同 書ではそれを「<本質>のリアリズム的解釈」に見出しています。 つまりこれは、本質(essentia)そのものにある種の実在性を見るという 考え方です。事物の序列で最初にくるとされる「もの」とは、つまりは事 物の「本質」のことをいいます。事物を成り立たせる「形相」ないしは 「原理」「イデア」などと言い換えてもよいでしょう。トマスにまでいた る中世のイデア論においては、現実の事物に宿る実体的形相と、人間の精 神にのみ存在しうるような可視的形象とをわけて考えるのが普通でした。 ですが多くの場合、実体的形相は事物と結びつく形で「実在」するのに対 して、精神の中に生じる像(可知的形象)は、あくまで類似物でしかな く、それ自体としては実在性をもたないとされていたのでした。トマス・ アクィナスなども、そのようないわば実在の一元論を標榜していると一般 には言われています。 そのような場合には、「本質」つまりは実体的形相は単独では存在でき ず、実体となることによって存在が与えられる、という図式になります。 ところがヘンリクスの場合、本質にもある種の「存在」があり(本質存 在)、実体における存在(現実存在)と区別されるというのです。つまり 存在(有)が二つに下位区分されることになります。もちろん本質存在は 実体化しているわけではないので、あくまで可能性として「ある」にすぎ ないのですが、それにしてもこれは、ある意味で実在論的表象主義と見な しうる立場です(表象そのものに固有の特性を認めるということ)。なぜ ヘンリクスはそのような立場を取るのでしょうか。どうやらそれは、本質 が神における「イデア」、さらには神の本質へと直結しているからのよう です。「本質は人間知性と神とを認識の内容という共通の次元でつなぐも のなのである」(p.241)と、加藤氏は述べています。こうして神の有と 被造物の有とをつなぐものが、存在論的に規定されることになり、神と人 とのアクセスが二重に裏打ちされることになるというのです。うーん、ヘ ンリクスのこの試みは成功しているのでしょうか。次回もう一度このあた りのことを考えてみたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行ですが、連休はお休みとなりますので、 次号は05月09日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------