silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.293 2015/09/26 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規定をめぐる諸問題(その11) 前回の話をまとめると、オッカムの命題の理解はいわば二段構えです。項 が個物を表す(個別代示)限りはそれを文字通りに(あるいは本来の意味 で)解して真偽を判断しますが、項が個物を表さない可能性がある場合 (たとえばメタファーのように別の意味を含み持つなど)、意味を分割し 再解釈をして真偽を判断します。「父性」とか「知的対象の存在」などの ようなものは、直ちに文字通りに意味を理解しようとせず、そのままでは 偽であると判断すると同時に、言い換えを通じて別様の再解釈を探るとい うプロセスも用います。 結局のところ、それは大学の規約が主張していることとさほど変わりませ ん。規約の第三章もそうでしたが、今問題にしている第四章も、まるでオ ッカム本人ではなく、それに追従し偏向した一部のオッカム主義者を対象 にしているかのようです。著者のパケによれば、オッカムと同じような考 え方を抱きつつも、実在論の一派などの思想を代弁するかのような大学の 規約の起草に関わったかもしれないビュリダンは、ここでも巧みな議論の 誘導・駆け引きを展開しているのではないかといいます。 ビュリダンは語の意味の複数性を念頭におきつつ、本来の意味と非本来の 意味とを区別し、オッカムと同様に後者を捉えるための再解釈を施しま す。パケによれば、その再解釈の根底にあるのは、存在論的な考え方で す。事物の定常的な本質というものを、ビュリダンはその物質的(質料 的)な定常性から考えているのですね。つまり質料をともなう個物のみが 基本的に存在するという考え方です。で、モノが同一とされるのは、それ が物質的に同一である限りにおいてだというのです。言葉は第一義的には その定常的な事物を指すことになるわけですが、あえてそこに二重の意味 を探っていくというのは、あまり自然な読みではなくなってしまいます。 そのあたりの線引きをビュリダンはどう考えいるのでしょうか。 実在論が唱えるような「普遍」の存在をビュリダンは認めません。実在論 側の議論の一例として「水を欲するロバ」をビュリダンは取り上げていま す。水を欲するロバは、個別の水全体を欲しているのではなく、また個別 の特定の水を欲しているのでもありません。ロバが欲しているのは、一般 的な意味での「水」です。ならば、そうした一般的な水というものを個別 の水と分けて立てる必要があるのではないか……。これが実在論の言い分 です。これに対しビュリダンは、個物から分離したかたちで、別個に普遍 なるものを立てることに反対します。 いくつか議論はありますが、そのうちの一つはこうです。「普遍」もまた 実在する「モノ」であると仮定すると、個物の概念を表す語が主部をな し、それに普遍の概念を表す語が述語づけられる場合、その命題は偽とい うことになります(主語と述語が別物で一致しないからです)。たとえば 「ソクラテスは人間である」という命題は、ソクラテスは個別なのに対し て人間は普遍ということになり、偽になってしまいます。主語と述語が 「同じモノ」を指していないからですね。ですが、この命題は常識的には 真でなければおかしいわけですね。したがって「普遍」を実在する「モ ノ」と仮定した前提が間違っている、ということになります。ビュリダン は命題の主語と述語が指す「同じモノ」、すなわち「対象の一体性」は、 概念の内容をも越えて担保されなくてはならないと考えているのですね。 類か種かなどはもはや問題になりません。ソクラテスが個物の概念なら、 述語の人間も個物の概念でなければならない、と。 ロバが欲する水の議論について言えば、「この」とか「あの」とかの連結 的な様態をもたない「任意のあらゆる水」と解することができ、別個に立 てられた「一般的な水」である必要はありません。つまりロバは、可能性 としては無限にありうる水の概念を欲している、とうわけです。代示で考 えるなら、この例は個別的代示ではなく、概念そのものを指す単純代示だ というわけです。このように、個別代示と単純代示の間で両義的に揺れが 生じる場合があることをビュリダンは指摘します。それは普通の名詞でも 起こりえ、たとえば「牛」「馬」といった名詞も、特定の牛や馬ではなく 任意の牛や馬を指す場合があります。これもパケが指摘していることです が、中世後期のラテン語では、徐々にそういう場合に「任意の」を表す aliquisが名詞とともに用いられるようになっていくといいます。その場合 の任意というのは、要するに「不確定」である(個別を指しているわけで はない)ことを意味します。 上の一体性の考え方からすると、ほかのケースでも再考の可能性が出てき ます。ビュリダンは、種や類にもとづく一体性の考え方を排し、その代わ りといいますか、モノの一体性を三つに区分しています。(1)質料的に 完全に一致する場合、(2)部分が一致する場合(たえば人間は魂が不変 だとされるので、身体に変化があっても同一の人間だとされます)、 (3)別々の部分、あるいは継起する部分の連続性で一致すると見なされ る場合です。「本来の意味」は(1)で最も強く、(3)で最も薄れてい ます。この(3)は当然ながら問題含みです。ビュリダンは「セーヌ河」 を例に、昔のセーヌと今のセーヌが部分において異なっていても、それら が等しく「セーヌ河」と呼ばれることを指摘しています。 ですがこれは、実体としてのセーヌと、それをセーヌと呼ぶ言語世界との 乖離を表しています。そしてそのことは、広く敷衍可能ですらあります。 あらゆる言葉には何らかの不確定な部分がある……と。かくしてビュリダ ンは、オッカム以上に「本来の意味」の場合が少ないことを見据えていた ふしがあるようです。仮にビュリダンが大学の規約の起草に関わっていた のだとしたら、実在論側の議論を踏まえつつも(上の「ロバが欲する 水」)、言葉が不確定な部分を包摂する場合があることを念頭に、「本来 の意味」が必ずしも確固たるものではないということを言外に含めるかた ちで、その作業に臨んでいたのかもしれません。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシウスによる政治論(その3) マルシリウスの『擁護者小論』から、第一一章を見ています。前回は第一 節の途中まででしたが、今回はその残りと第三節の冒頭までを見ていきま しょう。 # # # // Unde Augustinus de verbis Domini, sermone 10 super Mattehaeo, inquit sic : "Discite a me, non mundum fabricare, non cuncta visibilia et invisibilia creare, nec in ipso mundo miracula facere, et mortuos suscitare, sed discite a me, quia mitis sum et humilis corde"; quod sivi conveniebat secundum humanitatem, et propterea quaedam alia Christo inquantum homo fuerat conveniebant, ut videlicet nasci de muliere, fieri sub lege, ut dixt Apostolus : "Cum venit plenitudo temporis, misit Deus filium suum, natum ex muliere, factum sub lege", similiter circumcidi, exurire, sitire, pati, corporaliter mori, a mortibus resurgere, cum reliquis similibus pluribus, de quibus, quoniam nota sunt per Scripturam et apud omnes, serie hic inducere omisimus propter abbreviationem. //ゆえにアウグスティヌスは著書『主の言葉』のマタイに関する第一〇 説教においてこう述べているのである。「私に教えたまえ。世界を作り、 可視のものと不可視のものの全体を創造し、その世界において奇跡をな し、死者を蘇らせることではなく、私たちが優しく哀れな心をもつのであ るから、教えたまえ」、その人間性に適することを。ゆえに何らかのもの は人間としてのキリストに適していたのである。つまり使徒が言うよう に、法に則り、女性から生まれた者としてである。「時が満ちたとき、神 は一人息子を遣わされ、その者は女性から生まれ、法に則って作られ た」。同じく割礼を受け、焼かれ、乾きに耐え、肉体的に死に、死から蘇 り、ほかにも多数同じようなことをなした。それらについては聖書によっ て誰もが知るところであり、短縮のためここで列挙することは差し控え る。 2. christo igitur inquantum homo fuit et humanus sacerdos sucesserunt omnes apostoli et apostolorum successores episcopi sive presbyteri, sed Christo inquantum Deo, vel inquantum Deo et homini simul iuncto, nullus apostolorum aut hominum successit aut succedrere potest, et his duobus modis Christo data erat omnis potestas in caleo et in terra, seu plenitudo potestatis secundum divinitatem tantum. Quae siquidem plenitudo potestatis nulli apostolo successori potest aut potuit convenire, quoniam nullus iposorum habuit aut habet in uno suppositio utramque naturam, humanam sicilicet atque divinam. このように、人間および人間にとっての神官としてのキリストについて は、すべての使徒および使徒の継承者である司教や聖職者が後を継いでい る。だが神としてのキリスト、あるいは神と人間の合一としてのキリスト については、いかなる使徒も、また人間も、継承してはいないし、継承す ることはできない。この二つの様態をもって、キリストには天上と地上の 全権、またはかかる神性にもとづく十全な力が与えられたのである。この 十全なる力については、いかなる使徒の継承に適することも能わないし、 現に適わなかった。いずれの使徒も、一つの姿のもとに両方の性質、つま り人間と神の性質をもってはいなかったし、もつこともないからである。 3. De reliquo vero, utrum beatus Petrus singulariter fuerit Christi successor et potestatem aliquam habuerit, quam reliqui apostoli non habuerunt, per auctoritatem a Deo sive Christo immediate sibi concessam, et caput ecclesiae fuerit institutione praedicta, hic aliquid oportet intendere. このあとの部分では、聖ペトロが単独でキリストの継承者になったのか、 ほかの使徒にはない何らかの権限を、神またはキリストから直接与えられ て持っていたのか、上に述べた指定により、彼は教会の長となったのか、 といったことを検証しなければならない。 # # # 前回と今回の部分(第一節と第二節)では、まず大きな問題として、神と 人との特性を併せ持つキリストの権能は、いかなる人間も受け継ぐことは できないという議論が展開しています。続いて第三節にきて、今度はペト ロの優越性はどうだったのかが検討されていくわけですが、これは次回分 以降になります。 前回に引き続き、先立つ各章の議論をざっとまとめておきましょう。前回 と同じく、ジャンルカ・ブリグリアの参考書(仏版)に沿ってみていきま す。法的権限について区別をし、教令の世俗的・政治的な価値を否定した マルシリウスは、次に『平和の擁護者』で触れたいくつかの要素を引き合 いに出してきます。たとえば、現世での生を統治する政体にとって有益な 事象を定めるのは人間の立法者に帰されるとし、それがうまくいっていな くても、そこに聖職者が関与するのは適切ではないとされます。つまり、 政体を正すのはあくまで人間の立法者であってしかるべきだというのです ね(二章)。 なにやら「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」(これを政教分離的に 解釈する立場)という感じです。聖職者には、たとえ信者の多くがキリス トへの信仰から逸脱するような場合であっても、世俗の統治に対して介入 することはできない(三章)とされます。信仰へと引き戻すよう強制もで きません。ブリグリアによれば、これは『平和の擁護者』よりもさらに先 鋭化した立場だといいます。しかもそれはさらに先にまで突き詰められて いきます。 つまり、ここからマルシリウスは、教皇権をめぐる様々な側面についての 問い直しを行っていくのですね。まず、罪の赦しを与えるという権限は聖 職者に認められても、強制的にそれを行うことはできないとされます。あ くまで医者が患者に助言するように、聖職者は対応しなくてはならないの だ、と(四章)。同じ観点から、マルシリウスは聖務に関係した一部の行 為の価値をも否定していきます。 たとえば、告解がその代表例です(五章)。救済にいたるには告解が必要 とされますが、そこでもまた、罪に対して罰を与えるような権限は聖職者 にはなく、ただ助言を示すのがせいぜいなのだとされます。とはいえ、告 解は罪から人を遠ざけるという意味では有益であり、そのように人を罪か ら遠ざけることは聖職者の機能として認められるともいいます。ブリグリ アが指摘するように、このあたりは多少とも両義的なスタンスのようにも 見えます(六章)。 断食や安息といった人間的事象に属する行為はもちろんのこと(なにし ろ、そうした現世の事象について聖職者は権限をもたないとされるのです から)、巡礼などについても否定的です〔第七章)。巡礼が徳を積む行為 であることは認めつつも、それを聖書に記された規則と混同してはならな いとし、より相応しい行為によって置き換えることができると説いていま す。また、誓願(現世もしくは来世における目的のために、なんらかの行 為の成就を誓うこと)についてもしかりです(八〜九章)。 さらに破門の問題についても検討しています(一〇章)。マルシリウスは 破門に三つの形態があると看破します。一つは霊的な孤立、二つめは市民 生活での孤立、そして三つめは悪魔への降伏です。このうち、最初のもの については、聖書にそうした記述がないことを根拠に反論しています。二 つめについても、市民生活から遠ざけることを決定できるのは多数の信者 が望む場合のみであり、罪人に礼拝を禁じるのは不条理であると主張しま す。このように、マルシリウスが準拠するのはあくまで聖書であり、教会 法の文献ではありません。ペトルス・ロンバルドゥスのような教会法の権 威に対しても、マルシリウスは聖書の記述との齟齬を指摘したりしていま す。こうしていよいよ、私たちがここで読もうとしている一一章にいた り、教皇権の継承問題に切り込んでいくわけです。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は10月10日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------