silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世探訪のための小窓> no.295 2015/10/24 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ パリ大学規約をめぐる諸問題(その13) 前回見たように、規約の第五章では学知そのものが問題になっていまし た。「記号以外に学知はない」とする主張を糾弾しています。一見これは オッカムの考え方のようにも見えるのですが、オッカムは記号を通して命 題を理解する以外にないとし、記号を通してその向こうにある現実を見据 えることを訴えています。ですが規約のほうも、続く箇所で、名辞(記 号)を使うことは避けられないとも述べており、それを通じて現実を捉え るのが学知だとする考え方を示しています。こうして見ると、オッカムと 規約はそれぞれ強調点こそ違うものの、同じような学知理解を示している とも考えられます。これが前回見た部分でした。 これを再び、起草に関わったかもしれないとされるビュリダンとの関わり で見てみる、というのが、今見ている研究書の著者ルブレヒト・パケの、 続く議論の流れです。というわけで再びビュリダンです。ビュリダンは、 学知の獲得にはまずもって個物の認識を体験として持つことが必要だとの 立場に立ちます。そこでは感覚、記憶、知的理解が結びついています。文 献の権威にのみよるのではなく、観察や実験を重視する立場へとシフトし ているのですね。これは現実世界そのものを見ることを意味しており、 「記号以外に学知はない」という立場の対極にあるかのように一見見えま す。 ビュリダンのこの基本スタンスでは、言葉は後景に退いてしまっているか のような第一印象です。事物は、それを語る発話が形成される前から、す でにして境界を画定され、互いに区別されているのだ、とされます。です が、注意して見てみると、それは言葉そのものを仲介してはいなくても、 なんらかの表象をすでに介在させている知だということが窺えます。たと えばビュリダンはこの事物の区別について、幾何学的に分離して数学的に 数えられる、などと述べているのですね。数学は当時、すでにして半ば抽 象的な学知とされていました。ということは、こうした事物についての知 は、現実そのもの、あるいはそれを直接に受け取る感覚の世界に存するの でもなく、また一方で純粋に記号的な言語の世界にで存するのでもなく、 両者のいわば中間の、知的な世界の中に位置づけられることになりそうで す。 事物そのものは魂の外にあるわけですが、魂が抱くその像や概念、その対 象を指し示す記号などに先立っています。そのせいかビュリダンの場合、 その語り方においては対象としての事物に力点が置かれる感じなのでしょ う。それが規約の捉え方と重なるように見える所以です。言語についての 捉え方も、ビュリダンになると、オッカムなどとはいくぶん違っているよ うで、オッカムが言葉を直接的な代示(事物を表す)と考えるのに対し、 ビュリダンは一つの像、すなわち表象を問題にしています。いわば一種の 内面化ですね。魂の中に取り込まれた外的事物の表象は、心的言語、ある いは合理的実体などと呼ばれ、事物そのものから切り離され「心的」な領 域として体験されるものです。その体験とはすわなち自己意識の内省にほ かなりません。そこで対象についての真偽の判断も下されるというわけ で、そこは判断の領域でもあります。こうしてみると、このようにビュリ ダンの考える知はきわめて内面的で「主観的」なものだということが言え そうです。 より厳密な「学知」についても、そうした内面的な領域と切り離せませ ん。ビュリダンはその内的世界の表象を指すものとして名辞 (terminus)を考えています。心的な領域、主観的な形而上学に属する 表象を指し示すポインタで、それ自体も内面的なものです。ですからビュ リダンはみずからそれを「心的な名辞」(terminus mentalis)とも称し ています。唯名論は個物しか認めない立場なので、個物以外の知、すなわ ち「普遍」と言われてきた推論や体験にもとづく知の対象とは何か、とい う点が問題になります。で、まさにこの心的な名辞こそがその対象に相応 しい、ということになります。というか、そうした表象の表象があれば、 あえて「普遍」を考える必要もなくなってきます。こうして、「普遍」は 徐々に言及されなくなり、学知の心的な名辞としての性質はますます前景 を占めるようになって、現実は後景へと追いやられてしまう……。 そんなわけで、学知の対象としての事物への言及は、あくまで二次的にの みなされるようになっていきます。もちろん、まったく言及されないとい うわけではありません。「多くの命題、多くの名辞が、現実世界の事物を 指している」とビュリダンも自説に付け加えている所以です。こうして、 規約の掲げる学知論と、ビュリダンの考え方も(オッカムの場合と同様 に)重なってきます。「記号以外に学知はない」と言うと、上の表象の表 象などは空虚な像のように思えてしまいますが、そうではなく、その先に 指し示されるものは現実世界なのだという含みはなくならない、というわ けですね。 オッカムもビュリダンも、ましてや規約も、事物についての学知を得るの は不可能である、などとはいっさい述べていません。ただ、いずれにして も重要なのは、この規約が出された時点において、学知が外的事物を直接 対象とする、などという考えは、すでにまともには取り上げられなくなっ ていたということです。規約の第五章が問題にしているのは、そんな中で のある種の行き過ぎ、二次的に指し示されるはずの外的事象そのものを 「無」と考えるような思考の構え、あるいは上の表象の表象への惑溺な ど……なのではないか、と思えてきます。そして規約の第六章は、その 「無」の問題を改めて取り上げることになるようです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシウスによる政治論(その5) マルシリウスの小著『擁護者小論』から、第一一章を読んでいます。ロー マ教会の優位性のもとになっているパウロの優位性(他の使徒に対する) について、検証しようとしている箇所です。さっそく見ていきましょう。 # # # Si vero de his, quae secundum Scripturam sacram credenda sunt, de necessitate salutis aeternae, dubitationem habentibus rationabilem enuntiaverit Ecclesia universalis secundum determinationem seu deliberationem factam in generali concilio supradicto rite vocato, celebrato et consummato, dicendum talia firmiter credi debere a fidelibus omnibus christianis de necessitate salutis aeternae, quoniam talia veritatis certae ac immutabilis sunt, eo quod ab eodem spiritu processerunt cum Scriptura cannonica sive sacra, quemadmodum dictum est sufficienter 19 secundae, ubi quaerat cui cura fuerit. // さらに、永遠なる救済の必要から聖書にもとづき信じるべきとされること について、私たちが合理的な判断から有する迷いをめぐり、普遍教会は、 上記の教会会議を招集し、執り行い、完了した上で、そこでなされた決定 もしくは審議にもとづき、判断を下すのであるとするなら、そのような事 柄は、永遠なる救済の必要からキリスト教の全信者が固く信じなくてはな らない、と言わなくてはならない。なぜなら、それらは確実かつ不変の真 理であり、聖書もしくは教会法の同じ精神から発せられたものだからであ る。これについては第二部の一九章で十分に述べているので、気になる方 はそちらを参照してほしい。// Quod si de talibus aliquid enuntiaretur per supradictam Ecclesiam universalem secundum famositatem et consuetudinem quamdam quae ortum habuisset ex dictis cuiusdam aut quorumdam famosorum virorum absque delibratione generalis concilii supradicti, utpote quod aliquis vel aliqui de modernis aut antiquis sint sancti vel fuerint, sive beati, dico talia posse credi a fidelibus omnibus propter consuetudinem seu famositatem iam dictam, non tamen de necessitate salutis aeternae. // そのような事柄について、上述の普遍教会が、名声および慣例にもとづき 判断を下しており、その名声および慣例が上述の教会会議の審議によるも のでなく、著名な人物の言動に由来しているーーたとえばしかじかの同時 代に聖者であるか、昔に聖者であった者、あるいは福者に由来するのであ るなら、私はこう言おう。そうした事柄は今述べたような慣例や名声ゆえ に全信者によって信じられうるであろうが、それは永遠の救済の必要から 信じられるのではない、と。// Et hoc modo dico, quod dicit ut dicere potest Ecclesia universalis secundum consuetudinem et famositatem, quae ortum habuit seu habere potuit a Romano episcopo et suorum collegio clericorum, quod beatus Petrus et ecclesia Romana prioritates praefactas habuerint super reliquos omnes episcopos et sacerdotes et ecclesias universales, hoc forte credentes Scripturam sentire, vel fortasse pia quadam intentione, ut ad unitatem ecclesias Chrsiti deducerent facilius observandam, et reliquas ecclesias ad obedientiam superiorum facilius inducendam. Unde per Scripturam non memini me legisse, neque per aliquid, quod ad Scripturam per necessitatem sequatur, praefatas prioritates beato Petro aut ecclesiae Romanae per Deum sive Christum immediate concessas, propter quod ea credere, quoniam non sunt articuli fidei neque praecepta Scripturae, non est de necessitate salutis aeternae. // さらに同じようにこう言おう。普遍教会は慣例と名声にもとづき述べる、 あるいは述べうるが、その慣例と名声は、ローマ司教およびその聖職者の 集まりに由来しているか、もしくは由来しうる。つまり聖ペトロとローマ 教会があらかじめ他のあらゆる司教や司祭、普遍教会に対して優位性をも っていたということである。おそらくは聖書が意味するのはそれであると 信じ、あるいはおそらく敬虔な意図から、それがキリスト教会の一体性を より容易に守らせ、他の教会を上位の教会に従うようより容易に促せると 考えたのだろう。だが私は、聖書にも他の文献にも、必要により聖書に従 い聖ペトロまたはローマ教会に、神またはキリストからあらかじめ優位性 が直接与えられた、という一節を読んだ覚えはない。ゆえに、信徒の文章 にもおおもとの聖書にもないのだから、そう信じることは永遠の救済に必 要なのではない。// # # # 第一節に出てくる「第二部の一九章」とは主著『平和の擁護者』の第二部 第一九章かと思われます。そちらはでは、権威と優位性についての予備的 な議論として、聖書とそれにもとづく教会文書の権威についてアウグステ ィヌスを引きつつ論じています。 今回のテキストは、一般的な擁護論の提示を終えて、いよいよマルシリウ ス本人の考え方が反論として示されていく箇所です。マルシリウスが依拠 するのは、ここでもやはり聖書そのものの権威であり、聖書に書かれてい るかどうかがきわめて重要になっています。ある種の原典主義というわけ です。なるほど、そういう意味では、宗教改革の前触れのように見なされ ることがあるのも、ある程度納得がいきます。 ですが事はもう少し込み入っているといいますか、複合的であるように思 えます。そのあたりを引き続き、主に『平和の擁護者』についてのジャン ルカ・ブリグリアの研究に沿って見ていきたいと思います。前回はマルシ リウスの政治観の大元にアリストテレスがあること、また、それでもたと えば人間の共同体のもろさなど、独自の視点もあるということを見まし た。その独自の視点というのは、どうやら一つにはマルシリウスが医者で あったことも関係しているようです。 人間が本質的に他者を必要としていることを、マルシリウスは次のように 説明づけます。人間はもとより拮抗する諸要素(体液など)から成り立っ ているような脆弱な存在で、そうした脆弱さを補完するためには様々な技 術(諸学芸)を必要とした。で、そうした技術を実践するにはかなり多く の集団がなければならない。そうした技術を利用し、外部からの害を避け るためには、人間はたがいに団結しなければならなかった……。 ブリグリアが指摘しているように、技術(学芸)の発達や共同体の成立 は、人間が本来的に抱える「需要」にもとづいている、という議論には長 い伝統がありました。需要とはいわば脆弱さの克服ということです。人間 本来の脆弱さという見識はアリストテレス解釈の伝統にあり、たとえばエ ギディウス・ロマヌスの註釈などにも見出すことができるといいます。た だ、そちらは脆弱な部分の「補完」としての学芸というテーマに重きが置 かれていて、生物学的・医学的な観点からの人間の脆弱さというテーマは あまり強調されていません。 技術の獲得についての考察自体も、たとえばアヴィセンナなどにも遡るこ とができるといいます。脆弱さこそが諸学芸をもたらす原因になっている という見識も、これは別筋の伝統として、12世紀のサン=ヴィクトルのフ ーゴーなどに見ることができます。ですがいずれも、「脆弱さ」そのもの を見据えて論じるというふうではありません。で、マルシリウスの特徴の 一つはおそらくそうした議論にある、とブルグリアは考えています。 脆弱さをもたらしているのは人間を構成している相反する諸要素であると されます。その脆弱な自然本性があればこそ、技術や理性による補完も可 能になるわけですが、同時に、そうして得られたバランスは、脆弱さをも たらしているその同じ諸要素ゆえに一時的で、つねに脅かされてもいる、 というのです。これが、ひいては共同体にもつきまとう解体の可能性をも 導いていく、というわけです。なるほど「人体と社会との重なり」という のは興味深いテーマですね。次回ももう少しそのあたりのことを見ていき たいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月07日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------