silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.305 2016/03/19 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その2) 「テクスト・クレ」シリーズから、『唯名論』のアンソロジーを読んでい るところです。前回は初回ということで、編者のクロード・パナッシオに よる口上を少し見てみました。この口上にはまだ続きがありますので、今 回はそのあたりをまとめてみます。この後半部分では、唯名論というもの を大きく俯瞰的に捉えようとし、中世から現在までのその思想圏を自在に 行き来しています。 綿々たる流れをなしている「唯名論」ですが、そのベースになっているの は、外的世界には個物しかないという考え方です。ですが、よく考えてみ ると、この「個物」というのも結構あいまいな概念です。また、唯名論が 批判の対象とする「普遍」というのも、「人間」とか「動物」とか、きわ めて一般的な少数の例でしか定義されてこなかったという側面がありま す。そんなわけで、唯名論者はどこか曖昧さを残しつつ、個物を扱い普遍 を斥けてきたとされます。著者のパナッシオは、通常の意味で「普遍」に 必ずしも簡単に属すると言えないような、ある種の「想定された実体」に ついても、その存在論を長い間厄介払いしようとしてきた、と指摘しま す。例として、「三角形性」や「馬性」のような抽象的実体を除こうとす る努力(セラーズ)、「関係」や「量」の削除努力(オッカム)、ハート リー・フィールドによる数の存在を省いた数学の哲学などが挙げられてい ます。 ですが、もっと厳密な唯名論の規定の仕方も考えられないだろうか、と著 者は問いかけます。そのための鍵になるものとして挙げられているのが、 著者不詳の一五世紀のテキストです。それはフランスの国王ルイ11世が 1474年に出した命令に対する反論の書です。ルイ11世は、パリ大学にお いて一部の「新しい博士たち」の教説が教えられることを禁じたのでし た。その新しい博士たちというのが「唯名論者」とされており、オッカ ム、リミニのグレゴリウス、ビュリダン、ピエール・ダイイ、インゲンの マルシリウス、ジャン・ドルプ、ザクセンのアルベルトなどが名指しされ ているようなのです。で、それに対する逸名著者の反論の書というのがあ り、それがまさに唯名論の弁明の書になっているというのですね。 著者によれば、その反論の書では、唯名論者は次のように規定されている といいます。すなわち、「語の多数性に応じて事物を多数化しない者、し たがって語のあらゆる属性を入念に探求する者」、それが唯名論者だとい うのです。語の属性とはつまり、現代風に言うなら意味論的属性のことで す。言語的なカテゴリーを扱う唯名論は、そのカテゴリーに属するそれぞ れの語に、外的世界の単一の指示対象が対応することを否定します。「人 間」とか「動物」といった一般的な語は、単一の実体を明示してはいな い、と考えるわけですね。同じように、抽象的な語を扱う唯名論は、「自 由」とか「馬性」といった抽象語(中世においてはそれは普遍ではないと 考えられています)について、やはり同じような意味で、外的世界に対応 する実体はないと考えます。 上の「関係」の否定や、数の存在論の否定なども、実は同じ延長線上にあ ると見ることもできます。つまり唯名論とは、その具体的な現れ方がどう であれ、言語の複雑さに対して、現実の事物の存在論をできるかぎりシン プルにしようとする知的営みなのだ、というわけです。唯名論の企ては、 扱う語のカテゴリーを常に予め限定しておくところからスタートします。 それが行き過ぎると、いかなる語も何も現実的なものを指示していない、 という承服しがたい極論にまで行き着いたりもします。でもともかく、唯 名論者の多種の議論を貫くものとして、そのような存在論的節減があるこ とは間違いなさそうです。 逆に見るならば、そうした基本線さえ守れば、きわめて広範かつ多様な唯 名論がありうることにもなります。唯名論者は、各自が行う対象の絞り込 み(何が存在するものとして受け入れられ、何が受け入れられないか)を 明確に示さなくてはなりません。個別的実体、トロープ(構成的な性 質)、クオリアなどなど、論者によって扱われる対象は様々で、その裾野 は広大に広がっています。各人のそうした対象の列挙は、当然ながら一貫 性をもち、シンプルで、経験的与件や科学の最良の成果と調和が取れてい なくてはならないとされます。 論者それぞれの存在論における構成要素が特定できたら、次にその唯名論 は、それら構成要素を基礎として、相関物を割り当てることのできない言 語的なカテゴリーが突きつけてくる、存在論的な影響を中和することに注 力しなければならなくなる、と著者は見ています。そのために意味論的な 分析で用いられる戦略・方法論も、いきおい多様性を示すことになるわけ ですね。戦略・方法論の代表的なものといえば、たとえば複数の明示的意 味を考える意味論(複数の個物を同時に参照することで、一般的な語の意 味を考察するという方法)、明示的意味をもたない機能語の特定(文に論 理的形式を与えるためだけの語を特定するという方法。クワインなどがそ のアプローチの一般化を提唱している)、言い換えによる還元(ラッセル などが用いる方法)、派生関係による還元(言い換えができないような表 現のカテゴリーを、別の文からの派生形と考えることで還元する)、虚構 主義的アプローチ(現実のものを指示しない抽象語を特定する)、メタ言 語的アプローチ(対象的な表現を、言語領域の現象へと帰す)などなど、 枚挙にいとまがありません。 これらの戦略は、時代を超えて唯名論の道具箱をなしてきた、と著者は考 えています。またさらに唯名論は、こうした存在論や意味論に加えて、心 理的に受け入れられうる、人間精神の機能に関する理論を提示しなくては ならないことも指摘されています。ある種の認識論ですね。人間がもつ一 般的な表象の獲得能力、信仰・信頼の形成能力について、少なくとも近似 的に適切とされる学術的理論を構築することが、唯名論全般に求められて いるとされます。 存在論・意味論・認識論。唯名論はこれらを巧みに扱いながら、論者の数 だけ裾野が広がっていくかのようです。その風景の一端を、ぜひ目にして みたいと思います。以上、編者の口上のアウトラインを見てきましたが、 そこで示された知見を念頭に置きつつ、いよいよ私たちも収録テキストを 眺めていくことにしたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その15) 今回は『平和の擁護者』第一五章第五節です。早速見ていきましょう。 # # # 5. Fuit autem in hoc humana sollicitudo convenienter imitata naturam. Quia enim civitas et ipsius partes secundum racionem institute analogiam habent animali et suis partibus, perfecte formitas secundum naturam, ut apparet ex Aristotle 1 et 5 Politice, 2 capitulis. Qualis igitur est nature accio in animali perfecte formando, proporcionata fuit ea que humane mentis ad civitatem et ipsius partes instituendas convenienter. // 五.だがこの点にこそ、適切に自然を模倣したいという人間の切望があっ た。理性によって築かれた共同体とその部分にも、自然によって完全に形 作られた動物とその部分との類似があるからだ。それはアリストテレスの 『政治学』第一巻第二章および第五巻第二章に記されている通りである。 共同体とその部分を適切に成立させるための人間の精神の働きは、完全に 形作られた動物における自然の作用に類似するものなのである。// // Ad quam siquidem describendam proporcionem, ex qua patebit amplius efficiencia et determinacio parcium civitatis, suspiciemus cum Aristotele in 16 De Animalibus, et a Galieno in suo quodam libro, quem vocavit De Zogonia, cum reliquis quoque magis expertis posteriorum, a prinicipio quodam seu causa movente aliqua, sit illud forma materie aut seprata vel alterum quiddam virtutem habens generativam anmalis et parcium eius, formari primum temoore atque natura partem quandam organicam animalis ipsius, et in ipsa virtutem seu potenciam naturalem cum calore aliquo, tamquam activo principio, virtutem inquam et calorem universales activa causalitate ad formandum et distinguendum unamquamque reliquarum parcium animalis. // //その類似から、共同体の部分の作用と限定とがいっそう明らかになる のだが、それについて記すにあたり、私たちはアリストテレス『動物誌』 第一六巻、さらにはガレノスの『動物の生殖について』と呼ばれる書、さ らにはより専門的な後世の人々に従い、次のように述べるだろう。なんら かの原理もしくは動因から、つまり質料にとっての形相、あるいは離在の 形相、あるいは動物やその部分の生成力をもつなんらかの別のものから、 最初期の段階に、自然によって、その動物の器官の一部が形成され、そこ に力もしくは自然の潜勢力が、現働化の原理としてのなんらかの熱ととも に宿るのである。その力と熱は、普遍的に作用する因果関係によって、動 物の残りの部分のそれぞれを形成し区別していく。// // Et est pars ista primum formata cor aut cordi proporcionalis aliqua, sicut dixit Arisoteles ubi supra, et reliqui philosophorum perciores, quibus credere oportet propter ipsorum experienciam in hoc, et absque probacione nunc supponere, quoniam id demonstrare non est presentis inquisicionis. Hec siquidem pars formata primum nobilior est et perfeccior in suis qualitatibus et disposicionibus ceteris partibus animalis. Statuit enim in ea natura generas virtutem et instrumentum, per que partes animalis relique formantur ex convenienti materia, separantur, distinguuntur, invicem ordinantur, in suis disposicionibus conservantur et a nocumento, quantum natura patitur, preservantur per ipsam; lapse vero a sui natura propter egritudinem aut alterum impedimentum, huius partis virtute reparantur. //そしてその最初に形成される部分は、心臓もしくは心臓に類するもの となる。アリストテレスが前掲書で述べ、ほかのより専門的な哲学者たち がそう述べていることだが、それらの論者はこの分野における彼らの研鑽 ゆえに信じるべきであり、証拠にもとづいているわけではないと考えてお くべきである。それを論証するのは目下の探求の目的ではない。(いずれ にせよ)その部分が最初に形成されるのであれば、それは性質や性向にお いて動物の他の部分よりも高貴であり、かつ完全である。その中にこそ、 力や手段を生成する自然が置かれ、それによって残りの部分が適切な質料 から形成され、分離され、区分され、互いに秩序づけられ、その性向に温 存され、自然によって生じる損傷からおのずと守られるからだ。病やその 他の障害のせいで、みずからの本性が揺らぐとき、その部分の力によって 修復がなされるのである。 # # # 前回も少し触れましたが、この箇所では、動物と共同体が発生論的なアナ ロジーでもって語られているように見えます。アリストテレスやガレノス が参照されていますが、ほかに「より専門的な後世の人々」「より専門的 な哲学者たち」も示唆されています。研究者のブリグリアは、アルベルト ゥス・マグヌスやアーバノのピエトロなどを指すと考えています。 興味深い点は、最初に重要な部分、人体や動物で言えば心臓が形成される ということです。それを形成するのはなんらかの原理、形相であり、それ が(第一の)作用因として働きます。そこに潜在力と熱も宿るとされてい ますね。次にそうして出来た重要部分が、今度は新たな(第二の)作用因 となり、ほかの部分が形成されていくというのですね。病気などの障害に おいても、その重要部分の力によって修復がなされるとされています。こ の二段階の作用因という話は、ちょうど前回見た箇所の話に重なっていま す。そこでは、共同体の場合、立法者が第一の作用因、統治者が第二の作 用因とされていたのでした。 心臓が最初に形成され、そこに力と熱が宿るという話ですが、心臓を一元 的に生命原理の在処としたのはアリストテレスでした。またガレノスも、 解剖学的見地から、心臓と肝臓が最初にでき、それに続いて脳ができると していたのでした(ただしガレノスは、知的活動の在処を脳に振り分けた 嚆矢とされています)。形成力については、それは精気に由来し、父親側 からもたらされ、母親から由来する質料との結合によって諸器官が作られ るという話が、アルベルトゥス・マグヌスからエギディウス・ロマヌスを 経てアーバノのピエトロへと受け継がれてきたという経緯があります。熱 についていえば、アーバノのピエトロに、精気(諸器官の形成力)が性質 として熱をもっているという議論があるようです(ブログを参照: http://www.medieviste.org/?p=7566)。 ブリグリアによれば、心臓と統治者とをパラレルに見るという考え方も、 まずはアルベルトゥス・マグヌスにあるといいます。『前進運動の原理に ついて(De principiis motus processivi)』という書に、心臓について 扱った章があり、「(身体における)第一動者に対する身体の部分の関係 は、統治者に対する市民の関係と似ている」という記述があるようなので すね。またトマス・アクィナスにも、『心臓の動きについて』という書が あり、そこで同じような記述が見られるといいます。また、アーバノのピ エトロについても、主著『調停の書(Conciliator)』の随所に心臓と統 治者のパラレルな記述があるといい、校注版からいくつかの箇所を挙げて います(ここでは詳しく取り上げることはしません)。 さて、出典の問題はひとまず置いておくとして、この節とその前後に関す るブリグリアの本筋の議論はこうです。マルシリウスの議論の特殊性は、 身体を通じて政治的な読解を行ったということにあるのではなく(それな らいくらでも先駆者がいるわけですから)、身体と共同体のあいだに、ア ナロジーにとどまらず、両者それぞれに同じような力や生成機能が働いて いると見て取っている点にあるといいます。文章の表現としてはアナロジ ーに見えるわけですが、マルシリウスは、身体にも共同体にも同じ形成力 (?)が作用していると考えているというのですね。何が形成力をもたら すのかという、論者によって見解が分かれる議論にはマルシリウスは入っ ていきませんが、いずれにしても、形成もしくは生成という点で、身体も 共同体も同じ力学に貫かれている、というのがその基本的な考え方だろう というのです。少なくともブリグリアはそう解釈しています。 そのあたりの考え方を、実際にマルシリウスが抱いていたのかどうかは、 今回の箇所だけではまだ明瞭ではない気がしますが、この問題は続く次節 なども踏まえなくてはならないようなので、もう少し読み進めた後で改め て考えてみたいと思います。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は04月02日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------