silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.311 2016/06/18 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その8) 抽象的な実体を排除すると宣言するハートリー・フィールドですが、その メソッドは、どうやら実定的な議論を示す積極的なものというよりも、プ ラトン主義的(とフィールドが言う)議論を提示しつつ、それが唯名論的 に処理することも可能であることを示すという、やや消極的なもののよう です。物理世界の推論において、抽象的実体が必ずしも必然ではないとい うことを、プラトン主義的に論証できるなら、もはやクワインの議論(抽 象的実体の存在は学知において不可欠な仮説だとする立場)にもとづいて プラトン主義を擁護するわけにはいかなくなるだろう、というのですね。 プラトン主義を「不安定な状態」に置くことを、フィールドは試みるとい うわけなのです。 数学的実体がときに有用であることは否定しない、とフィールドは言いま す。ですが重要なのは、そうした実体を扱う言説が有用だからといって、 その実体が存在することを述べる言説が真である理由にはならない、とい う論点です。有用性と存在論との間には必然性の議論がなくてはなりませ ん。で、フィールドは、この有用性→必然性→存在論という連鎖の中の、 有用論の部分から攻めていきます。まず数学的実体の有用性は、物理にお ける理論的実体の有用性とは構造上、同等ではないと主張します。これは どういうことなのでしょうか。 理論的実体の有用性とは、フィールドによれば次の二点に存します。(a) 広範な現象を推測できる強力な理論において、なんらかの役割を果たすこ と。(b) 類似する実体を仮構せずにそれらの現象を説明できるほかの理論 が知られていない、あるいは是認できないこと。例として挙げられている のは「亜原子」(原子よりも小さな粒子)の説です。上の (a) と (b)を満 たすがゆえに、亜原子は「理論的に必要不可欠」(すなわち必然)だとさ れるというのですね。十分に確固たる議論で必要不可欠であることが論証 されれば、それが実在するという考え方にとっても有利に働きます。 ですがフィールドによれば、数学的実体とはそのようなものではないとい います。詳しい議論は序文には含まれていないのですが、フィールドによ れば、数学的実体は確かに近代の物理学の理論でなんらかの役割を果たし てはいるわけですが、一方でそうした数学的実体がなんら役割を果たさな いような、理論の別様の再定式化も可能なのだといいます。もしそうであ れば、数学的実体は上の (a) も (b) も満たさないことになり、有用性は 否定され、結果的にその存在を云々することも意味を失います。 フィールドによれば、数学的実体が有用であるとは、次のような場合のこ とを言います。なんらかの主張のグループNがあり、そこに数学的理論S を加えることによって、Nだけでは得られない結論が得られる場合、Sは 有用であると見なされます。上の亜原子の例でなら、亜原子の理論Tに、 目視可能な主張Pを追加すると、Tだけでは得られなかった目視可能な結 果が得られるとしたら、そのPは有用だということになります。 ですが、もしここで数学が、端的に数の理論あるいは純粋な集合の理論に のみ始終していたらどうでしょう。それでは外的世界(物理世界)への応 用に際して些細な貢献しかできません。有用性はほぼないとされてしまい ます。抽象的実体を物理世界に応用できるためには、その抽象的実体は純 粋ではないもの、たとえば物理的対象を抽象的実体に適用できるような関 数(特殊な)が必要になります。そのような純粋でない抽象的実体は、純 粋な抽象的実体と物理的対象の「橋渡し」をするものになるわけですね。 そのような「橋渡し」役は、たとえば集合であれば、純粋に集合を要素と する集合などではなく、集合ではないが集合の要素になれるものを含んだ 集合、ということになります。またその公理においても、数学的ではない 語彙が許容されなくてはなりません。 ですがその場合、その数学的実体は、たとえばほかの物理学の抽象的実体 と、あまり違わないものになってしまいます。すると、たとえ数学的実体 が「橋渡し」をなしうるにしても、それが既存の理論Tに付加されること によって得られる結論というのが、必ずしも新しいものになるとは限らな くなってしまいます。数学的でないような物理的な抽象的実体が付加され ることによっても、数学的実体を付加することで得られるのと同等なもの が得られるとしたら、その数学的実体は事実上有用とは言えなくなってし まいます。このように、純粋でない数学的実体には、そのような無用性の 可能性がつきまとってしまう、というわけですね。 こうして、有用性→必然性→存在論という推論的連鎖は、数学的実体にお いて、その最初の有用性の部分で躓くことになります。フィールドはここ からさらに、抽象的実体は必然ではないとという議論、連鎖の次の段階を も否定していく議論へと踏み込んでいくようなのですが、そのあたりはま た次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ パドヴァのマルシリウスによる政治論(その21) 今回は『平和の擁護者』第一五章の末尾部分です。さっそく見ていきまし ょう。 # # # 13.Et propterea numquam debet accio principantis in civitate cessare, quemadmodum nec accio cordis in animali. Nam licet acciones aliarum parcium civitatis aliquo tempore cessare possint absque nocumento singularis persone, collegii vel communitatis, ut accio militaris tempore pacis, similiter quoque reliquarum parcium, huius tamen partis et sue virtutis numquam cessare potest accio prima sine nocumento. Quacumque enim hora vel momento durare oportet preceptum et communem custodiam de licitis et prohibitis secundum legem, et quadocumque fiat illicitum aut iniustum, oportet principantem talia regulare perfecte, vel illa exercere que previa sunt ad talia regulanda. 一三.ゆえに共同体における統治者の行為は停止することがあってはなら ず、それは動物において、心臓の作用が停止することがあってはならない のと同様である。確かに、共同体のほかの部分の行為は、なんらかの時間 において停止しても、個人や仲間、共同体などに損害を与えずにすむこと が可能である。たとえば、平時における軍の活動がそうだ。ほかの部分の 活動も同様だが、その統治の部分とその作用については、損害を与えずに 停止することは決してできない。いついかなる時間あるいは瞬間も、法に 則って許されること、禁じられることについての命令や共通の監視は続け られなくてはならないし、また違法行為や不正がなされるときはいつで も、統治者がそれらを完全に規制しなくてはならない。あるいは、それら の規制を導く権限を行使しなくてはならない。 14.Ex predictis autem apparere potest sufficienter ordo parcium civitatis invicem, quoniam propter principantem et ad ipsum tamquam omnium primum ordinantur omnes pro statu presentis seculi. Nam pars illa in civili communitate omnium prima est, que ceteras habet instituere, determinare ac conservare in statu et pro statu presentis seculi seu fine civili; pars autem principans secundum humanam legem est illa, ut iam probabili et demonstativa racione conclusimus. Est igitur aliarum omnium prima, et ad ipsam cetere ordinatur. 一四.以上に述べたことから、市民の各部分相互の秩序は十分に生じる。 というのも、統治者ゆえに、また統治者があらゆるものの第一の者として あることから、あらゆるものは、現世における地位へと秩序づけられるか らだ。市民の共同体において、すべてのものの第一の部分は、ほかのもの を現状のままに、またその現世の地位のために、あるいは市民の目的のた めに、制度化し、決定づけ、保たなくてはならないのである。また、ここ で信じるに足ると、そして理性的に論証できると結論づけたように、人間 の法に則って統治する部分とはまさにその者のことをいう。したがってそ れは他のあらゆるもののうちで最も重要な者であり、それに対して他のも のが秩序づけられるのである。 De causa quidem ingitur effectiva eleccionis partis principantis similiter autem et reliquarum parcium civitatis institucione ac ipsarum invicem ordine, determinatum sit hoc modo. ゆえに、統治する部分をもたらす選挙という作用因についても、また同様 に共同体の他の部分の制度やその相互の秩序についても、同じようなかた ちで決定されたのである。 # # # この第一五章は、最初から最後まで生き物の身体との比喩で語られてきた 政体の統治論でした。この末尾の部分も、全体的なまとめ、もしくは繰り 返しとなっているように思われます。統治者が最重要であり、それを中心 にすべてが秩序立てられている、というわけですね。ここではそれが心臓 に重ね合わされています。前にも触れましたが、心臓に力点が置かれてい るのは、アリストテレス以来の長い伝統に立脚している議論なのでした。 さて、前々回からマルシリウスの後世への影響を扱った論考(イズビキ 「マルシリウスの受容」)を見ています。前回は宗教改革期以降の各国の 状況でしたが、イングランドがまだでしたので、今回はそれを中心にまと めておきましょう。 エリザベス一世とジェームズ一世の治世、つまり1558年から1625年ま で、とりわけ議論の対象となったのが、英国教会に対する王家の覇権の問 題でした。火薬陰謀事件の後、ジェームズ一世がカトリック教会に課そう とした忠誠の誓いや、世俗での教皇権力の問題、コンスタンティヌスの寄 進状をめぐる問題など、カトリック教会には様々な問題が突きつけられ、 そうした文脈において、教皇側の主張に反対してきた一連の人物の一人と してマルシリウスも取り上げられていたようです。その引用や言及はかな り頻繁になされているといい、それ以前のヘンリー八世の頃などよりもよ ほど多いのだとか。 マルシリウスの思想内容、つまりは『平和の擁護者』の各種の議論も様々 に使われていたようです。ここでは詳しくは取り上げませんが、その実例 は膨大な数に上るようです。好んで援用するのは、当然ながらプロテスタ ント系の論者たちです。論文著者の指摘でちょっと面白いのは、マルシリ ウスの議論の屋台骨である教会会議の議論が、そうしたプロテスタント系 の議論ではごっそり抜け落ちているという点です。なるほど、教会会議の ようなものを反教皇主義として掲げるというのは、個々人の信仰そのもの を基礎として制度を作り上げているプロテスタントの議論には、もとより そぐわないものなのかもしれません。 一方で、そうした英国でのマルシリウスの援用は、カトリック側からの応 酬を呼び起こすことにもなったようです。とりわけイエズス会の論客たち が、マルシリウスの様々な論点(マルシリウスのものと確認できないもの も含まれているようですが)を取り上げては反駁を加えていった模様で す。この流れのうちにフランシスコ・スアレスなども位置づけられるわけ ですね。スアレスはとくに、強制力を伴う教皇の権力をマルシリウスが否 定している点や、司教と下位の聖職者との権力的な階級差の否定などにつ いて、批判をめぐらしているようです。ヘンリー八世によるローマとの決 別、ジェームズ一世の動きなどについても、その誤りの大元としてマルシ リウスを挙げて非難しているのだとか。 とはいうものの、たとえばホッブズやフィルマー、ロックなどの政治的な 議論では、マルシリウスが引用されることはなかったようです。いずれに せよ、15世紀にはほとんど見られなかったマルシリウスの受容が、16世 紀から17世紀初頭にかけてかなりの数に上り、その後17世紀の半ばごろ にまた消えていくというのは、イングランドの場合にも顕著で、なかなか 示唆的ですね。論文著者は、最終的に近代においてのほうが、それ以前よ りもマルシリウスはよく知られることになった、と結んでいます。 * 以上、マルシリウス『小論』と『平和の擁護者』のごく一部分を眺めてみ ました。また、関連する参考文献もいくつか見てきました。生物の身体と の類比で政体を考えるという「医学的アプローチ」、それをもとにした教 皇主義への批判、世俗の権力における民衆主権の先駆的な考え方など、マ ルシリウスには興味深い論点が満載です。まだまだいろいろ掘り下げてい くこともできそうな思想家ですね。前にも少しばかり出てきたと思います が、マルシリウス研究の今後についての鍵は、やはりその全体像を見てい くことではないかと思います。とくに長大な『平和の擁護者』の第二部、 つまり教会の制度に関する議論の部分が重要そうですが、案外手つかずな のだとか。そのあたり、今後とも折りに触れて見て行けたらと思います。 また、これから出てくるであろう研究にも注目したいところですね。 さて、次回からはまた趣向を変え、今度はビュリダンによる、アリストテ レス『生成消滅論』への注解を見ていこうかと思います。これは広範なト ピックを扱うものなので、訳出ではなく全体を要約するかたちで進めよう かと思っています。『生成消滅論』そのものの受容史も改めて見直すと面 白そうです。というわけで、またそちらにもお付き合いいただければ幸い です。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は07月02日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------