silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.315 2016/09/10 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 唯名論の行方(その12) 唯名論関連テキストのアンソロジー本を見ています。一般概念の成立とい う問題を、飛び飛びではありますが、歴史的に見ていくというのがここで の趣意です。で、前回はニコル・オレームの議論を見ました。続く今回は いきなり時代が飛んで、17世紀のジョン・ロックです。ロックは言うま でもなく、近代的なイギリス経験論の父と称される人物です。たとえば物 質の性質などは、人知において知り尽くすことはできないというのがその 基本的スタンスでした。明らかにそれは、唯名論の議論と親和性があるよ うに思われます。 再びアンソロジー本の編者による解説を見ておくと、17世紀から18世紀 にかけて多くの哲学者が、「理念」と考えられるものの起源について問う ていたといいます。それらはとくに、知覚との関係、および言語との関係 で考えられていたのだとか。ロックの収録テキストもそうした文脈に位置 づけられています。収録テキストは『人間知性論』第三部の、言語を扱っ た箇所からの抜粋です。 そこではまず、外界の事物が個別であるのに対して、言葉というものは元 来、一般的なものが大半だとされています。合理的かつ必然的にそうだと いうのですね。個物それぞれに名前があるなどありえない、出会うすべて の個物に名前を付け、それぞれの理念を別個に保持するというのは人間知 性には不可能だとロックは言います。また、仮にそんなことができたとし ても、意思伝達からすれば、それでは思惟の伝達には役立たないとも論じ ています。膨大な名前が個物に付いていたら、それは伝達するのも大変に なってしまいます。また、知性による理解の観点からしても、個物を類に まとめて一般的な語のもとに置くことが効率的だとしています。個別的な ものにとくに言及する必要があるときにのみ、固有名詞を用いれば済むと いうわけです。 では、その一般的な語は、いかに見いだされ獲得されるのでしょうか。ロ ックは、名称が一般的なものになるのは、それが一般概念の名称になるこ とによってであると考えます。そして、時間や空間、その他個物を限定す るあらゆる状況を取り除いていく、つまり捨象することによって、語は一 般概念(理念)の名称になると考えてられています。 ロックはこの捨象の過程を幼児の発達段階的に考えていきます。幼児にと って、語りかけてくる人(親や乳母)はすべて個別の存在です。幼児はそ れらを個別に認識します。やがて成長にともない、より多くの人々と接す るようになると、見知った個別の人物とどこか似ている別の存在を見いだ し、個別の人物がなんらかの共通の特性をもっていることを見分けるよう になっていきます。こうして、共通特性の集まりとして、たとえば「人 間」という概念を形成していくことになります。これはなんら目新しいこ とではない、名前の違う個別の人々に共通する特徴を抽出しただけのこと なのだ、とロックは語っています。こうした操作が拡張されていき、別の 理念、さらにより一般的な概念が獲得されていく、というわけですね。 この「一般概念」イコール「捨象」という図式こそが、ロックのまさに真 骨頂というところでしょうか。編者の解説にもありますが、ロックが考え る一般概念への到達は、あらかじめ存在する普遍の把握によるのでも、純 粋に知的に概念を構築するのでもなく、とにかく感覚的な像を捨象してい くプロセス、すなわち抽象化の結果だとされます。私たちからすれば、こ の捨象の考え方は理に適ったごく常識的なものにも見えますが、当時にお いては、「あらかじめ存在する普遍」(プラトン主義)や、「純粋に知的 な獲得」(デカルト主義)などが幅を利かせていた背景があり、ロックが あえて純粋に経験論的な概念形成プロセスを唱えることにはそれなりの意 義があったわけですね。諸学派においてかまびすしい「類や種といった 謎」に関する議論も、ロックによれば、抽象化された概念の包摂の度合い が違うだけだ、ということになって一挙に解決します。 以上が収録テキストの前半のハイライトになります。後半はそれをもと に、定義とは何か、本質とは何かといった問題が扱われていきます。いわ ば同じ問題を別の角度から検証している感じですね。ロックはまず、定義 というのは語の意味を表すにすぎないのに、なぜそこに類(と差異)が用 いられるのだろうかと問います。それに答えて、前段と同様に、個別のも のを一々挙げていくのではきりがなく、それらを包摂する語で対象に最も 近しい類が用いられるのは効率的だとしています。そのやり方は必然では ないものの、最も簡潔で素早い方法だ、というのですね。定義というの は、定義対象となる言葉に対応する概念を人に伝えるものためのものなの で、たとえばそこで一々個物(実例)を挙げていくという手もあるわけで すが、そうする代わりに、その定義対象に最も近い別の語(すなわち類) を与えれば、少なくとも相手の人の理解は迅速になされます。 このように、ロックが説明において簡潔さ、あるいは迅速さを重視してい ることはなかなか興味深いですね。それはきわめて実践的・実利的なスタ ンスです。この後半部分の話はもうちょっと続きます。それはまた次回 に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その4) 前回は『生成消滅論の諸問題』から、第一部第二問題について見ました。 今回は第三問題です。「言葉(vox)は実在する事物と消滅した同じ事物 を意味するか」というもので、問題の見出しに例が上げられています。昨 日はたくさんのバラがあったのに、今日はまったくないとか、昨日は雷鳴 があったのに、今日はそうではないなどの場合、「バラ」や「雷鳴」は今 日と昨日で同じものを指しているのかどうか、という問題です。 いつもどおり、まずは両論併記がなされ、その後でビュリダンの考察が始 まります。そこから見ていくと、まずビュリダンは、次のような議論をす る人々がいるとして一つの説を挙げています。エギディウス・ロマヌスな どの説なのだそうですが(底本としているテキストの注によります)、基 本的な図式として、言葉は概念を介して外的事物を指すとされ、下位区分 的に、概念を指す場合と外的事物を指す場合とに分けられるという議論が なされます。前者を形相的な意味作用、後者を質料的な意味作用と称して いるようです。意味作用に二種類があるという説です。 それでいくと、上の例での「バラ」や「雷鳴」が形相的な意味作用である なら、それらは実在する・しないにかかわらず、同じバラを指していると されます。同じ概念を指しているからです。一方で質料的な意味作用であ るなら、同じバラを指してはいないとされます。昨日のバラは実在してい たのに、今日のバラは実在していないからです。「昨日はバラがあったの には、今日はバラがない」という上の例文は、前者の形相的な意味作用と 見なされ、両者は同じものを指していると解釈されます。 ですがビュリダンはこの説に異を唱えます。というのも今度は概念につい て、それが表しているのは実在のバラかそうでないかを問うことができて しまうからです(こうして無限後退にはまっていくということでしょう か)。そもそも二種類の意味作用があるというのはおかしい、とビュリダ ンは考えているようです。そのため、言葉が概念を介して外的事物を指す という図式はそのままに、ビュリダンは下位区分することなしに意味作用 というものを考えようとします。まず、「バラ」の概念そのものは、それ が指しているのが実在のバラかどうか問うことはできない、なぜなら概念 というものは外的に実在するものではなく、その限りにおいて同じかどう かは言えない、とビュリダンは見なします。 問題は、その概念が何を指しているかです。「昨日バラがあった」が「今 日バラはない」という場合、現在の「バラ」の概念は昨日の単数もしくは 複数のバラを個別に指しているわけではありません。あえて言うなら、そ れが指しているのは無でしかありません。一方、「昨日バラがあった」と いう場合には、その「バラ」は外的な個物を代示していることになりま す。これはいわば、実際に目にした外的なバラによって形成された、内的 な概念を指しているというふうに解釈できます。したがって、そこでは前 日の「バラ」概念と現在の「バラ」概念は、同じものとは見なされないこ とになります。両者は同じものを意味してはいない、という解釈ですね。 繰り返しになりますが、基本的に概念そのものは「何ものでもない」(外 在していないわけなので)というのがビュリダンの基本的なスタンスで す。それがこの第三問題での第一の結論として改めて述べられています。 余談ながら、そうした概念についてビュリダンは、それが基本的に時間 (時制)を伴わないものだということも指摘しています。ですが続く第二 の結論では、一方で概念が代示であるからには、外的な事物を指してはい る、という考え方が掲げられます。 意味作用と代示は厳密には同じではありません。意味作用は任意の概念に 結びついていることを示すだけで、そこに上に述べたように時間の概念の ほか、真偽の判断なども介入していません。一方、実際にそれが項として 命題(文)で用いられる場合には、代示として何かを指し、真偽の判断な どをも伴います。で、真偽の判断が問題になる限り、それは外部の個別事 象を必要とします。「アリストテレス(という人物)がいた」が真である には、アリストテレスという実在の人物が必要です。「昨日バラを見た」 という場合も、そこで示されたバラの概念は、昨日知覚した実在のバラに よって形成されたと考えられます。そこでのバラの概念は、実在のバラを 指しているのですね。そのことが、この文が真であること(本当に見たの ならば)を担保します。 「今日はバラがない」という文ですらも、たとえば「バラは花である」の ようななんらかの命題(定義)が真であることを前提とするが故に、それ が指しているのは無ではなく、なにがしかの事象であるとビュリダンは考 えているようです。概念そのものは無だが、それは何かを指してい る……。よく考えると、これは複雑な、錯綜ぎみの話にも思えてきます。 ビュリダンの意味論はなかなかに手強いですね。というわけで、次回もこ のあたりの話をもう少し。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は09月24日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/ ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------