silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.330 2017/04/22 ============================== *お知らせ いつもご愛読いただきありがとうございます。本メルマガは原則として隔 週の発行ですが、5月の連休の時期は例年お休みとさせていただいており ます。そのため次号は、5月13日を予定しております。ご承知おきいただ けますよう、お願い申し上げます。 ------文献探索シリーズ------------------------ 中世思想研究の政治性(その6) プラロンの著書『哲学的中世研究と近代の理性』から、総論にあたる第一 章を見ているところです。前回はドジェランドによる自然誌の方法論の応 用という話までを見ました。このドジェランドの文化誌においても、「民 族の混成を評価する」というヘルダーの基本的スタンスは生きていまし た。中世において西欧の文明が若返ったのは、そうした混成状況があった からだというのですね。ドジェランドはとくに十字軍に注目し、それが西 欧全土の諸民族を混成させる契機になったと論じているようです。啓蒙主 義によって貶められていた中世は、こうして復権を遂げることになりま す。中世哲学も同様です。19世紀の大学のカリキュラムに哲学史が確立 され、その中で中世哲学も復権していきます。 プラロンは第一章の最後に、そうした復権に関わった主要人物たちを取り 上げています。復権の象徴的な出来事といえば、大学での教科として哲学 史が取り上げられるようになったことですが、それを牽引したのはドイツ でした。ある研究によれば、1825年から1955年までの間に、厳密に歴 史的な性質の哲学の講義をもつ大学の割合は、19%から80%にまで拡大 したのだといいます。フランスでも1828年以降、哲学史は大学の授業科 目として中心的な存在になっていくといいます。このあたりについて、プ ラロンは詳細に論じていきます。 まず予備的な話として、中世哲学を取り巻く環境の変化が再度まとめられ ています。そこには二重の動きがあったようです。世界規模での文化誌と いう観点からは、セム系の文化とインド=ヨーロッパ文化とが対立させら れるようになります。一方でローカルな面(欧州内部)では、フランスを 中心とするスコラ哲学に、より北方的な精神の賜物とされる神秘主義が対 立させられます。フランスでは後述するクーザンによってアベラールが再 評価される一方で、ドイツではエックハルトが再評価されていくのです ね。 さてそのドイツですが、1800年前後に哲学史の研究で著名な人物は三人 いたとされます。ディートリッヒ・ティーデマン、ヨハン・ゴットリー プ・ブーレ、ヴィルヘルム・ゴットリープ・テンネマンです。最初のティ ーデマンは1797年に『哲学的思弁の精神』という六巻本の哲学史を上梓 します。そのうちの第四巻が中世哲学に当てられているのだとか。二人目 のブーレは1800年に『哲学史教本』を発表します。中世を扱った部分は 実に700ページに及んでいるそうです。テンネマンは1810年に『哲学 史』の第八巻を中世のスコラ哲学に当てています。 ティーデマンのアプローチは最も独創的で、中世の哲学全体の評価に関わ るものだといいます。後続のブーレやテンネマンはティーデマンを重要な 参照元として用いているのですね。この後者二者が、啓蒙主義時代の伝統 的なスコラ学の低評価を繰り返すのに対して(その位置取り自体が、ティ ーデマンに対してのスタンスだったようですが)、ティーデマンはという と、中世スコラ学を明確に再評価してみせるのでした。ティーデマンはロ ックの哲学を継承し、各種の理性的企て(哲学的体系)について、継起的 な観察と分析を重んじました。いわば経験論的な歴史記述を推奨していた わけですね。近代はそれ以前の時代よりも確かに優れてはいるけれど、決 定的な哲学の完成というものはないのだ、というのがその基本的スタンス だったといいます。 この三人の活動は主にゲッティンゲンやマールブルクを中心になされてい ました。一方でほかにも中心地はあり、シュレーゲルのいたケルンや、ベ ルリンの歴史学校でも、中世についての新たなアプローチが講じられてい たようです。また、ミュンヘンでヨーゼフ・ソヒャーが1801年に刊行し た教科書も、文化史や文学史から借用した概念が哲学史にも適用されてい るという点で興味深いものなのだそうです。このあたりの話をプラロン は、自著の残りの章で展開する各論で詳述していくようです。 一方のフランスはどうでしょうか。そちらには、ドイツ流の哲学史の流れ を汲みつつ、独自の視点を盛り込んでいく傑出した人物が登場しました。 政治家としても、また哲学史家としても有名なヴィクトール・クーザンで す。プロクロスやプラトンの校注を手がけたほか、中世哲学がらみでも大 きな貢献をなしています。フランスの大学のカリキュラムに哲学史の講座 を定着させたのも、クーザンの功績だとされています。政治的には中道派 で、哲学的姿勢も「折衷主義」と称されました。歴史学の方法論にもとづ き、様々な思想体系を突き合わせるというその折衷主義は、体系同士が反 目し合うという学問的なアポリアへの解決策であると同時に、哲学を快く 思わない反動主義的教権派と、革命期のイデオローグたちを継承する「哲 学者」らとの、仲裁の手段をもなしていたのでした。 中世哲学史の扱いにおいては、クーザンはなによりもまずアベラールの再 評価をなした人物として知られています。アベラールが重んじた弁証法よ ろしく、クーザンは中世を、中間的時代、つまり古代から受け継がれた諸 体系の対話と調停を担う時代として位置づけたのだといいます。クーザン にとってはルネサンスなどという時代区分はなく、単に古代の模倣に始終 する一時期に過ぎないと見なされていたようです。そしてまた、ドジェラ ンドが考えていたように、中世と近代とは連続していると主張したのでし た。 アベラールは、折衷主義とフランス精神を中世において体現するスコラ学 者として再評価されたのでした。それにより、スコラ哲学は「国民化」さ れることにもなりました。フランスのスコラ哲学の伝統こそが、近代的理 性をもたらした、哲学的命題の数々を産出する核心的な場にほかならな い、とされたのですね。中世フランスこそが、近代的西欧の発祥の地であ ると見なされたのでした。クーザンに言わせれば、デカルトなどは、アベ ラールが12世紀に始めたプロセスの、第二の段階にしかすぎないという のです。なんとも政治的といいますか、民族主義的でラディカルな立場で す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その19) 『生成消滅論の諸問題』から、第一書の最後の問題である問題24を見て いるところでした。そこでは、端的に消滅したものが、同一個体(数の上 で同一)として復活することはありうるかが問われていました。自然にお いてはありえないが、超自然においてはないとはいえない、というのがビ ュリダンの回答でした。これについて、一つ追加の議論がありますので、 今回はそこから始めましょう。 ビュリダンは、数の上で異同はそもそもどこから生じているかという問い を掲げます。回答としては、まず当然ながら、作用因(形相)が単一か複 数かで異なってきます。ここでは形相と作用因が同義的に使われていま す。作用因が異なれば、そこから生じる実体は当然違ったものになりま す。また、同一の作用因が働きかけるときでも、その作用因のどの部分が 作用するかで、対象は異なったものになることもあります。前者の例とし ては、二つの光源があるとき、それらが照射する対象の面で異なる照度に なることが挙げられています。また後者の例としては、太陽の熱で同じ空 気の一部分が暖められるとき、太陽の熱のどの部分がその空気を暖めるか で暖まり方が異なる、といった話も挙げられています。 では同じ基体に同じ作用因が働きかける場合、数の上で同一でないという ことはいかにして生じるのでしょうか。ビュリダンの答えは明確です。 個々の特殊性が同一であるならば、作用因がもたらす結果は、「存在する ことを妨げられない限り」数の上で同一になります。つまり、存在するこ とを妨げられた場合(一度存在することが中断された場合)にはもはや同 一とは見なされません。消滅し復活する場合には、一度存在することが中 断されることになるため、それはもはや同一ではありえないことになるわ けですね。 その上でビュリダンはまた、同じ「熱さ」(温度)は同じでも、たとえば 水が継起的に熱せられる場合、熱が同じであっても、たとえば最初に熱せ られた温度と二度目に熱せられた温度は同一にならないという例を挙げ、 その場合の温度の違いはどこから生じるのかと問うています。ビュリダン はこれに次のように答えます。世界内にある同一の事物というのは、それ ぞれ内的に、本質によって同一なのであり、また異なる事物はみな、それ ぞれ内的に、本質によって異なっているのであり、それ以外ではない。上 の温度差の例は、基体のせいでも、作用因のせいでもなく、異なっている とすればそれは時間ゆえに異なっているのだろう。熱は本質的には同一と 考えられるが、その生成が時間的に速く、もしくは遅く生成されることも ありうる。その場合の異同は、本質によるのでないとしたら、唯一の原 理、すなわち神そのものに帰するしかないのではないか……。 * こう言ってはナンですが、ビュリダンはここで考察を中断して究極の逃げ を打っているような感じもありますね(苦笑)。いずれにしてもこのよう な議論は、もちろん元のアリストテレスのテキストにはありません。ここ でのビュリダンは、キリスト教とアリストテレス自然学の両立・適合を模 索している感じです。『生成消滅論の諸問題』は、この問題24で第一書 が終了となります。実はこれに続く第二書があり、そちらは13の問題が 検討されています。継続するかのように、そちらでも主に元素の問題が扱 われています。それらについても、ざっと眺めておきたいと思います。取 り上げられるテーマの順番は、アリストテレスのもとのテキストに従って います。 第二書の問題1は、第一の性質とされる四つの諸性質(熱・冷・乾・湿) について問うています。なぜその四つなのか、なぜそれ以上もしくは以下 ではないのか、という問題ですが、ビュリダンはここで、諸性質は四つに は限定されないのではないかという異論に対する反論として、議論を展開 しています。ポイントとしてはまず、アリストテレスには第一の性質とそ れ以外の第二の性質の区別があること、第一の性質とは生成の様態におい て、他に還元しえないものを言うと定義されること、が挙げられます。さ らにもう一つのポイントとして、四つという数は、たとえば熱さや冷たさ に無数のバリエーションがあることを捨象した、種としての性質が数えら れているという点も重要です。石や植物などには薬効や、表面の色合い、 音など様々な性質はどれか一つの元素に還元できるものではありません。 ですが、元素や元素同士の混合、元素の生成消滅に関わっている「第一 の」性質は、突き詰めていくと四つに集約されるのではないか、というわ けです。 問題2では、それら第一の性質の特徴が問われています。二つ(熱・冷) は能動的、残り二つ(乾・湿)は受動的と言ってよいのか、という問題で す。この言い方はアリストテレスのテキストにもとづくものです (poietikaとpathetika)。ビュリダンは、受動、すなわち「被る」とい う語には、単になにかを受け取るという意味のほか、作用因によって形相 が失われる(abicitur)という意味もあると指摘します。同様に「作用す る」にも、基体をしかるべき状態に置く(disponere)という意味のほか に、消滅させるとの意味もあると述べています。消滅する/させるという 意味では、熱・冷も、乾・湿もともに能動的かつ受動的だということにな ってしまいます。一方で、受け取るという意味ならば、たとえば乾や湿は 熱や冷の作用を被るわけではなく、能動的・受動的とは言えなくなってし まいます。 ではなぜ、アリストテレスは、二つの性質は能動的、もう二つは受動的と 述べているのでしょうか。これについてビュリダンは、それぞれ単一の元 素は、類比的に語られる以外にないからだ、と答えています。熱さと冷た さが能動的とされるのは、それらが大きな作用性をもっているからで、乾 と湿が受動的と見なされるのは、それらの作用性が比較的小さく常態性が 大きいからだ、というわけです。作用性が小さいと、それは基体との類似 性・常態性をもっていることになり、結果的に受動的であると見なされま す。作用性が大きければ、それは能動的に作用しているように見えるわけ ですね。加えて、生成消滅、あるいは混合的な変成に際しては、熱さと冷 たさは、能動的と見なされうるような所作を見せたりもします。熱さは蒸 発というかたちで、湿を乾から、あるいは水を土から分離します。逆に冷 たさは湿度を乾きと集積させます。そうした作用の方向性からも、能動 的・受動的と述べられているのだというのです。 ビュリダンのコメントは、アリストテレスのテキストよりも類比性という 点を強調したものになっています。これで連想されるのは、前にも言及し たフランシスコ会系の質料形相論です。そこでは、質料と形相から成る複 合体そのものが、一種のメタレベルで、質料や形相に類するものとして扱 われうるということが言われていたのでした。同様にここでは、厳密に作 用の能動・受動に対応しているわけではないけれども、それに類する事象 に、能動的・受動的という名称が適用されうると見なされています。 *本マガジンは隔週の発行ですが、次号は変則的に05月13日の予定で す。 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