silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.331 2017/05/13 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ 中世思想研究の政治性(その7) ケーニヒ・プラロン『哲学的中世研究と近代の理性』(2016)を見てい ます。前回までは、総論にあたる第一章をざっと眺めてみました。ドイツ を筆頭に、民族主義と普遍主義(文明主義)とが重なったイデオロギーが 形成され、その中で中世の再評価が進んでいったことが示されていまし た。今回からは、それを踏まえた各論ということで、第三章「スコラ学と 神秘主義ーーヨーロッパの二極体制」を見ていきたいと思います。さっそ く中味をまとめていきましょう。 上の民族主義と普遍主義は、それぞれがまたある種の対立関係を導いてい ます。普遍主義の面で言えば、洋の東西の対立、さらにはインド=ヨーロ ッパ語族とセム語族の対立などが想起されます。一方の民族主義の面にお いては、フランス対ドイツが顕著な事例になります。両国は哲学史での中 世の扱いを巡っても対立し、そこから「北と南の対立」という軸線すらも 形成されていきます。前にも触れたように、そのような対立関係はまずは ドイツで18世紀末に設定され、次いで19世紀初めにはフランスにも広が りました。 中世をめぐっては、もう一つの対立軸が加わります。それがスコラ学対神 秘主義という軸です。これが上の北と南の対立に重なり合うのですね。 18世紀末、初期ロマン派のドイツにおいて、神秘主義は哲学史上の実証 的なカテゴリーの一つになったといいます。前にも出てきたシュレーゲル においてそれは顕著になったようです。フランスでヴィクトル・クーザン が、スコラ学をフランスの遺産と捉えたのとほぼ時を同じくして、ドイツ ではゲルマン精神を体現するものとして、北の神秘主義思想に内実が与え られた、と著者のプラロンは述べています。 というわけで、同書の第三章は(1)このドイツの遺産としての神秘主義 の確立と、(2)フランスとの複層的な対立関係について追っていくこと になります。というわけで、まずはこの(1)からです。そもそもの事の 起こりはどこにあったのでしょうか。著者のプラロンは、神秘主義の確立 は平行する二つの知的コンテキストの中で生じていると記しています。一 つは、1800年以降の大学の哲学史(ゲッティンゲンやマールブルク)に おいて、神秘思想というものが遠慮がちに登場してきたことです。もう一 つは、初期ロマン派およびロマン派のサークル(イエナのサークル)にお いて、神秘主義が結集の旗印の一つとして掲げられたことだとされます。 前者は合理主義的なアプローチ、後者はイデオロギー的なアプローチです が、いずれにしてもそこには、神秘主義というものの再評価があったわけ ですね。 ドイツの大学では1800年ごろに哲学史がドイツ語で書かれるようになり (それ以前はラテン語でした)、前にも言及しましたが、プロテスタント 系の哲学史を代表する学者として、デートリヒ・ティーデマンとヴィルヘ ルム・ゴットリープ・テンネマンがいました。そしてとくに後者のテンネ マンにおいて、中世のスコラ学よりも神秘主義を肯定的に再評価する傾向 が顕著に表れたといいます。それ以前(少なくともブルッカー以後)は、 神秘主義は人間精神の熱狂的・逸脱的な表出であるとして軽視されていた のでした。ティーデマンはスコラ学の再評価に一役買った人物ですが、神 秘主義自体はまだ本格的な再評価には至っておらず、あくまでスコラ学と の対比で持ち出されているのみのようです。 これがテンネマン(1810年ごろ)になると、趣きが変わっていくようで す。テンネマンの見方では、中世は破綻の時代であるとされ、無意味で不 毛なスコラ学が、深みを湛えた神秘への渇望を長きにわたって抑圧してき た、というのです。テンネマンにとっての神秘主義は、いわば不在の対象 物、満たされない欲望として価値を高められている、とプラロンは論じて います。 テンネマンが描くそのような「神秘への渇望」は、14世紀に遡るとされ ます。それは硬直したスコラ学、大学の哲学を身動きできなくさせていた 普遍論争から脱しようとする、精神的な試みにほかならなかったというの です。スコラ学の慣例と教会の政治的な抵抗が相まって、神秘への渇望、 つまりよりよい精神的な糧の探求は、なかなか実現できなかった、とテン ネマンは見ていたようです。ですが、いずれにしてもそのような見方が、 ドイツの哲学史における神秘主義の再評価の一つだったことは間違いな く、その後の数十年にわたり、神秘主義は哲学的な対象となっていき、最 初はおぼろげだった輪郭を徐々に際立たせていくことになるようなので す。そのあたりはまた次回に。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ ビュリダンの生成消滅論(その20) ビュリダン『生成消滅論の諸問題』第二巻を眺めているところです。今回 は問題3からです。問題3では「元素は四つでそれ以上ではないか」 (utrum sint quattuor elementa et non plus)が問われています。ア リストテレスは、四つの基本性質(熱・冷・乾・湿)のうち、対立するも の同士は組み合わせられないがゆえに、熱・冷や乾・湿の組み合わせはな く、熱・乾、熱・湿、冷・乾、冷・湿の四つの組み合わしかないとし、さ らにそれらが単一の物体に結びついているとして、火、空気、水、土の四 つの元素が挙げられるとしていたのでした。 ビュリダンの議論は元素の定義から始まります。そこでは厳密な定義とし て、複合物を作る発端、それ以前には存在しなかったもの、単一のものな どの定義が挙げられています。これを敷衍するかたちでビュリダンは少し 脱線してみせます。それ以前には存在しなかった複合物を作る第一のもの という意味では、天空は世界にとっての元素であるということもできる し、文字は具体的な文における実体的な音節や語の元素であるということ もできる、と述べているのですね。これらもまた、前回も見たビュリダン の類推のパターンをなしている感じです。 けれども、とビュリダンは言います。目下の議論はそのような、敷衍した かたちでの元素の話、通俗的に言われる元素の話ではなく、より厳密な定 義での元素についてである、と強調しているのです。「四元素は通俗的 に、生成可能・消滅可能と称されるが、それは適切ではない。現実態の第 一の物体、すなわち単一の物体とは、それ以前のものから現実に存在する ようになったわけでもなく、後にそれ以前のものへと解消することもない 物体であり、他の複合体がそこから生成するような物体のことを言う」。 まさにそのような厳密な意味での元素について、上で言及したアリストテ レスのもとのテキストの、性質の組み合わせの議論が適用されます。かく して、物体は四つしかないとビュリダンは断言しています。アリストテレ スのもとのテキストが、それ以前の論者の議論として「元素は二つ」「元 素は三つ」といった異論を挙げ、それらを論駁していたように、ビュリダ ンは、アリストテレスの他の著作からの文言をもとに導かれた、元素が二 つであるとか(とくに形相と質料であるとする考え方)、三つであると か、四つよりも多いとかいった議論を、冒頭に異論として挙げているので すが、そうした議論はいずれも、元素を通俗的・敷衍的に解釈したものに すぎない、というのがビュリダンの反論の大筋になっています。 さて、その上で、今度は問題4で「火とその他の元素は対立するのか」と 問うています。これはエンペドクレスなどの考え方だとして、アリストテ レスがみずから言及しています。アリストテレス本人はむしろ、すべて対 立するもの同士があるという考え方なので、物体を生成する際の両極とし て火と空気がペアをなし、残る二つの水と土がやはり別のペアをなし、そ の両極の間で様々な組み合わせの妙をなしている、というふうに考えてい ます。 これについてビュリダンは、同じく厳密な定義を敷くところから始めま す。アリストテレスの言う「対立する」(contraria)とはどのような意 味なのか、というわけですね。答えはいくつかあります。一つは、感覚に 対する性質において対立するという意味。熱・冷、乾・湿などの対立も、 感覚的な意味ではそれにあたりますが、さらにこれには、軽・重、密・粗 といった対立などもありえます。二つめは位置的運動(移動)の観点から 見た方向性・強度で対立するという意味。火と土は、軽・重という対立に なりますが、空気と水もやや強度(程度)は弱いながら同じような対立す る性質を備えています。 三つめとして、生成と消滅の関係性において対立するという意味もありえ ます。つまり、一方の生成は他方の消滅を意味するということです。両立 不可能の意味ですね。元素の場合には、基本性質同士の対立ということに なります。基本性質が反対のものになってしまえば、元素自体が別のもの になってしまうしかありません。この意味においてこそ、任意の元素は、 対立する元素の影響によって変質を被ったりする、ということになりま す。またこの意味において、とりわけ火は他の元素と対立関係に置かれる とされます。火は水と、基本性質の二つの対(熱・冷、乾・湿)において 対立していることになります。空気と土も同様です。ですがさらに火は空 気とも、乾・湿の性質において対立しているし、土とも熱・冷の性質にお いて対立しています。この意味で、アリストテレスの著書には、火と土、 火と空気、火と水の対立が散見されるというのです。 また四つめの指摘として、対立というのは端的には同じ基体について言 う、という意味もあるとしています。この意味に限るなら、元素同士は同 じ基体を共有してはいないので、厳密には互いに対立し合ってはいないと も言えることになります。これは異論の論拠にもなりますが、この定義を 排除することで、異論への反論も可能になります。上の問題3での議論と 同様に、これらの基本的な定義に関する考え方は、そのまま各種異論への 反論にもなっているわけですね。ビュリダンの議論にはさらに、元素の実 体的形相同士の対立についての話もありますが、そのあたりは改めて次回 に。 *本マガジンは隔週の発行です。次号は05月27日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------