silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.341 2017/10/21 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その5) 前回の続きとなる、バルバラ・オプリストの論考「中世の哲学と錬金術に おけるアナロジーの関係」の最後の部分を見ていきましょう。ある種の逃 避行動としてオカルト化していったという13世紀末以降の錬金術(論文 著者の言う「第二期」)ですが、同著者も指摘するように、その後長く続 く第二期に比べると、第一期こと隆盛期ははるかに短命だったことがわか ります。第二期における錬金術は、自然と超自然(すなわち神的なもの) の理論を合わせ持ったコスモロジーの枠組みを備えた、などと評価できる のかもしれませんが(同論文著者)、不変・不動なものを作り出すと称す るようになった錬金術は、当然のように超自然的理論へと傾くしかなかっ た、というのが実情に近い気がします。いずれにしてもそこでは、理論の 確かさは自然学の合理的な方法によってではなく、神的なものを起源とし 人間に啓示される真理、つまりは信仰にもとづいて保証されることになっ たのでした。そのモデルとなるのが、神の受肉としてのキリスト、また復 活のキリストでした。 一例として挙げられているのが、14世紀の錬金術師、フェラーラのペト ルス・ボヌスによる『新しき高貴なる真珠(Margarita pretiosa novella』という書です。そこでは「石(賢者の石ですね)を触媒とする ことで不完全な金属は完全な金になるが、そのプロセスは自然のものであ る」とされます。一方で石そのものの生成は、物質をその本来的な姿に戻 すという意味では自然の領域に属し、またその石を永劫化する魂と聖霊の 「固定化」プロセスは神的な領域に属する、と見なされます。その秘術的 な石(lapis divinus occultus)は、感覚では捉えきれず、霊感を受けた 知性によってしか掌握できない、というのですね。 論文著者によれば、これは当時「奇蹟」について言われていた神学的なデ ィスクールを、錬金術に当てはめたものだろうといいます。この、錬金術 による超自然についてのディスクールの取り込みは、一見して考えられる ほどスキャンダラスなものではなかったようなのです。トマス・アクィナ ス以降、天上世界と地上世界をアナロジカルに区別するという古来からの 見方に、自然と超自然の区別が取って代わるようになったといわれますが (トマスいわく、「人間は自然には死するべき存在だが、奇蹟的な形での み不死の存在になりうる」)、そうした考え方は社会的に一般化していた らしいのです。 論文著者は一例として、ヴィルヌーヴのアルノーの『模範 (exempla)』(14世紀中頃?)を挙げています。自然と超自然との両 者を含んだ新しいアナロジーのモデルは、この書においてシステマティッ クに適用されているといいます。錬金術師が用いる素材の変成は、キリス トの受難とのアナロジーでもって理解されていくのだ、と。変成はそのま ま完全体としての復活に重ね合わせられ、聖書における預言者の権威でも って、錬金術の技法が証明されるという筋書きです。 面白いのは、論文著者の次のような指摘です。文献に見られるそうした超 自然への言及は、13世紀末以降優勢となっていた、自然哲学と神学とを 分離しようとする学術的な見識に真っ向から反するものだったということ です。自然学と神学の分離は、1214年の第四回ラテラノ公会議におい て、ホスティア(聖体のパン)にキリストが実際に宿っているとする、実 体変化の教義が採択されたことが大きく影響しています。不可視の栄光の 肉体への信仰が重視されるようになり、神学は自然学からはっきりと分離 し、別の道を進むことになっていった、と。一方で自然学の側では、不変 の世界と可変の世界を接近させようとする独自の試みもなされていたとい います。これはアリストテレス的な天上世界と地上世界の分断を乗り越え ようとする試みです。ロバート・グロステストなどは、錬金術がコスモロ ジーからアナロジカルな議論を汲み取っていたのと逆に、錬金術からコス モロジックな議論を引き出していたといいます。 13世紀末以降、みずから変化を被らずその不変性をほかの物質にも伝え うる実体を産出することが、錬金術の目的となっていきます。医学的にも 同様で、いわゆる霊薬(エリクシール:飲む黄金とも言われます)の研究 が盛んになっていきます。そんな中で発展を遂げたのが、燃える水とか生 命の水とか言われたアルコールの蒸留技術でした。アルコールの特性や作 用を説明するために、アリストテレスのコスモロジーが部分的に用いられ たりもしました。アリストテレスのコスモロジーでは、アルコールは精妙 で不滅の非物質的実体(エーテル)から成るものと考えられていたのです ね。14世紀になると、アルコールをエーテルの類似要素と見る考え方 や、エーテル概念を改訂して蒸留技術に適用できるようにしようとする動 きが出てきたといいます。 そうした議論の代表格として、論文著者は14世紀の錬金術師、ルペシッ サのヨハネスの例を挙げています。多数あるとされるその著書の一つ『第 五元素の考察の書』では、元素同士の結合の安定性を説明づけることに主 眼が置かれているといいます。天空のエーテルが不滅的なものとして扱わ れ、それがアナロジカルに第五元素と重ね合わせられて、諸元素の結びつ きの安定性と特徴を担っているとされます。基本的にはアリストテレスの コスモロジーと生物理論(エーテルと生命を育む熱)がベースになってい るようなのですが、それに若干手直しが加えられ、錬金術独特の理論にな っているようです。 アリストテレスの場合、エーテルの世界(天上世界)と四元素の世界(地 上世界)は根源的に分離していたのに対して、ルペシッサは第五元素がエ ーテルの普遍的な特性を地上世界に伝える役割を担うと考え、占星術的な 自然の流れの理念を適用して理論化しているのだとか。ガレノスを通じて 伝えられたストア派的なプネウマの理論に、それはとてもよく似たものだ った、と論文著者は評しています。後の時代に多くの文献を産み出すこと になる、第五元素についての議論を促した大元には、そのように天上世界 と地上世界をつなぐ考え方があったのだ、というわけです。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その5) 第一部の第九章に入ります。表題は「一性と他性(De unitate et alteritate)」です。これまでの四種の一性についての話を補完するよう な内容になりそうですね。クザーヌスはまず、あらゆる数は一性と他性か ら成っていて、一性は他性へと進んでいき、他性は一性へと戻っていく (Omnem constat numerum ex unitate et alteritate constitui unitate in alteritatem progrediente atque alteritate in unitatem regrediente)と述べています。ある数の一性は他の数の一性と完全に同 じではありえず、たとえば奇数は偶数よりも一性において勝っている (Neque potest esse quod unitas unius numeri cum unitate alterius omnem teneat aequalitatem (...) plus enim impar numerus de unitate quam par habere videtur)とも言われます。前者は分割で きないから、というわけです。次にクザーヌスは、根となる数が二乗や三 乗の数よりも単純であることを示します。根となる数の一性には、多くの 一性があるが他性はほとんどないというのです。 クザーヌスはこの一性と他性の話を、いきなり宇宙全体、あらゆる世界 (複数になっています)へと拡大適用します。そうした世界にあるすべて の事物は、この一性と他性の、様々な度合いでの相互陥入によって形作ら れている(Haec exemplari traditione ipsum universum et cunctos mundos et quae in ipsis sunt ex unitate et alteritate in invicem progredientibus constitui coniectura)というのですね。上位の天空世 界では一性も他性も単純とされますが、その下の中間的な世界(知性と合 理性の世界)では、一性や他性もより中間的・混在的になり、下位の感 覚・物質世界ではより雑多なものになっていくというわけです。そうした 世界は、上位を形作る単純な数(知性的な数)から、下るにつれて複合的 な数(感覚的な数)になっていく構造をなし、たとえば中間的な世界には 合理的な数(有理数)があり、それは比で表される数のことを言うとされ ます。 仏語訳の注によれば、知性的な数(numerus intellectualis)という言い 方でクザーヌスが考えているのは、たとえば円周率や2の平方根など、整 数比の関係で表せないような数のこととされています。今なら超越数とか 無理数とか呼ばれるものですが、クザーヌスにおける数の概念では、比例 関係(整数比)に属するものが有理数とされ、属さないものは知性的な数 として上位に置かれているわけですね。ずいぶんと異なっている印象です (数の概念の体系化は16世紀のミハイル・シュティーフェルを嚆矢とす るとのことです)。 クザーヌスは続く次の節で、知性的な数は三位一体をなしていて、その一 性の乗除はできない(Unitas autem numeri intellectualis, uti est trinitas, indivisibilis atque immultiplicabilis)と述べています。再び仏 語注によると、クザーヌスは知性そのものの一体性が三位一体であるとし ており、例として円の中心と円周とが知性においては不可分の一体をなし ていると説明しています。これはつまり、知性的な数とされる円周率にお いては、円周と直径が関係として一定であることから、それ自体で完結し ているとされ、たとえば3対1の比例関係が2乗、3乗によって9対1、27 対1と変化するようには変化しえない、ということでしょう。そしてそれ は、たとえば3対1の比例関係などよりも多くの事物を包摂するとしてい ます(Trinitatem autem multo amplius complicativam quam tripli proportionem manifestum est)。確かに、円周率などはああらゆる円 に適用されるので、なんらかの事物において3対1の比例関係が見いださ れる事例よりも、はるかに多くの事例が見いだせそうです。 あらゆるものが一性と他性から成ると推論するクザーヌスは、一性はなん らかの形相的な光に喩えられるとし、またそれは第一の(絶対的な)一性 の像をなしていると述べます。また、一性が光であるならば、他性は闇で あり、また原初の一性から遠ざかるものでもあります(unitatem lucem quandam formalem atque primae unitatis similitudinem, alteritatem vero umbram atque recessum a primo simplicissimo atque grossitiem materialem concipito)。この一性と他性の関係を、クザー ヌスは二つの角錐が相互に陥入しあっている図として示して見せます。こ れが、この『推論について』でとりわけ有名ないくつかの図の一つ、「図 P」(範列図)です。ブログのほうに載せておきますのでご参照ください (http://www.medieviste.org/?p=9145)。光と闇とが入り交じってい る世界の様子を範列的に描いたものです。 光は究極の一性である神から放出され、その一性と最底辺の暗闇となる無 とのあいだに、あらゆる被造物が位置付けられます。上位の世界は光に満 ちているわけですが、だからといってそこに闇がないわけでもなく、ただ 光によって吸収されている(supremus mundus in luce abundat, uti oculariter conspicis; non est tamen expers tenebrae, quamvis illa ob sui simplicitatem in luce censeatur absorberi)とクザーヌスは説 明します。下位の世界は闇が支配的ですが、やはりそこにも光がないわけ ではなく、ただそれは闇の中に隠されてしまっている、とも。中間世界に も光と闇がともに存在しますが、やはり相互に陥入し合い中間的なものに なっています。これがクザーヌスの大きなテーゼで、上位世界には光しか なく下位世界には闇しかないと、感覚的に思ってしまうことの誤りを正そ うとしています。 続く第一〇章は「説明(Explicatio)」と題され、この図Pについてのさ らなるコメントが展開しますが、これまで見てきたこととの重複部分も多 いので、ここでは基本的に割愛したいと思います。ただし一つだけ次の点 を改めて確認しておきたいと思います。一性と他性は多様な現実の中に多 様なかたちで組み込まれているというわけなのですが、クザーヌスはここ で、理性は無限への進行も、最大・最小に達することもできないのであ り、そうしたものは理性を越えて、知性的に理解するしかないと述べてい ます。最小に達することはできない、というあたりは、原子論者へのある 種の批判とも取れますし、最大に達し得ないという言い方は否定神学を宣 言しているかのようです。実際クザーヌスはここで、人が接しうるのは最 大・最小を排した「否定的学知」のみなのであり、純然たる厳密さには到 達できないとしています。 そんなわけで、光と闇が相互陥入する地上世界こそが、理性が対象とする 世界なのだと強調されます。たとえば魂が肉体に入るということ一つ取っ てみても、魂が肉体に陥入するとともに、魂にも肉体が陥入するのだとク ザーヌスは言います。これはなかなか独特な視点です。そうした視点をも つことが、神学と哲学がそれぞれみずからに閉じこもっているこれまでの 状況を、打破しうることになるかもしれないとクザーヌスは考えていたよ うなのです。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月04日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------