silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.342 2017/11/04 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その6) 論集『ルネサンス期の錬金術と哲学』から、収録論文を選択的に見ていま す。今回は15世紀の医師ミケーレ・サヴォナローラを取り上げた論考、 ダニエル・ジャカール「ミケーレ・サヴォナローラにおける医学と占星 術」(pp.109 - 122)を取り上げたいと思います。サヴォナローラとい えば、宗教改革の先駆けとも言われるジローラモ・サヴォナローラが有名 ですが、ミケーレ・サヴォナローラ(1385 - 1466)はその祖父にあた り、イタリアはエステ家の宮廷医師であるとともに、パドヴァ大学で教鞭 を執る著名な人物でした。医師で人文主義者でもあったミケーレは、ジロ ーラモの教育にもあたったとされています。 論文著者のジャカールは15世紀前半当時の宮廷医師を追っているよう で、それらの人々(ほかにイタリアのアントニーノ・グアイネリ、フラン スのジャック・デパールなどの名前を挙げています)が、錬金術に関心を 寄せていたことを指摘しています。もちろん彼らが公然とそうした術を実 践していたわけでもなさそうなのですが、とにかく自著などで、事例とし て錬金術に言及していたりするようなのですね。というわけで、同論文で はミケーレ・サヴォナローラに焦点を当て、医学と錬金術の関係について 再考しています。 当時の医学は、なによりもまずアヴィセンナの『医学典範』を基礎として いました。そこに見られる実験的な薬理学への志向が、一つには蒸留器な どを用いて物質を扱う自然学への道を開き、さらには錬金術との境目を越 えさせるよう促したというのですね。ミケーレはそうした動きの最前線に あったというわけです。ミケーレは中世から続く当時の医学的伝統の中に いながらも、多方面に関心をめぐらしていったという点でルネサンス的な 人物でもあり、著作も宗教問題を扱ったものから文芸まで幅広い分野をカ バーしていたようです。医学的な著作でも、意図的に実践を重視する姿勢 が顕著だといいます。 そんな中でミケーレが錬金術を扱った著作は主に二つありました。『アク ア・アルデンテについての書(Libellus de aqua ardenti)』と『温泉に ついて(De balneis)』です。前者は1440年頃の書で、アクア・アルデ ンテ(アルコール)について、その医学的な効用や活用法などを中心にま とめられているようです。伝統的な医学書(ボローニャの医師、タッデ オ・アルデロッティの書など)のほか、錬金術の文献をも下敷きにしてい るといい、また論文著者によれば、文献的知識にとどまらず、ミケーレは みずから蒸留の実践に関わった可能性が高いとされています。錬金術系の 文献としては、ルペシッサのヨハネス(もしくは偽ルルスの系譜)が挙げ られています。 錬金術に対するミケーレの態度にはやや躊躇が見られるといい、たとえば アクア・アルデンテを第五元素と同一視するようなスタンスには反対の姿 勢を示します。実践面において、錬金術が夢見るような完成品の産出には 至らないことを指摘したりもします。医学的に用いられるアルコールは、 あくまで寒さに由来する病への治療薬としての効用をもつにすぎないこと を、ミケーレは強調しているのですね。とはいえ、アルコールに天空由来 の効力が宿っているという話を、ミケーレは全否定するわけではありませ ん。そこには元素に由来する熱(物体を暖め、乾燥させる熱)と、生命を 司る天空由来の熱(たとえばワインは、ぶどうを成熟させる太陽の力をみ ずから担っているとされたりします)とが、ともに含まれているとされる のです。両者の結合こそが、アルコールが長寿の源とされる理由をなして ると説明されます。ちなみにこの二つの熱の組み合わせの論は、14世紀 のアーバノのピエトロなどに遡ることができるようです。 もう一つの著書は1448年から49年ごろのもので、刊行当時にもてはやさ れていた一冊だったようです。とくに天然温泉の鉱質成分について詳述さ れていて、鉱物学・金属学でのミケーレの博学ぶりがわかるといいます。 トロンディケという研究者によると、ミケーレは硫黄と水銀による金属の 生成理論を受け容れており、ヘルメス・トリスメギストスへの言及もある のだとか。ただし「生成」はともかく、「変成」についてはこれを否定し ているといいます。尿から塩を取ると主張する錬金術を、ミケーレが誤り として一蹴する箇所もあり、スズから金ができるという主張も斥けます。 「人的な技法は自然よりも無力である(ars debilior est quam natura)」と述べてもいるのですね。 ですが、食餌療法について記した別の小著(1450年から52年ごろ)で は、長寿の実現は可能だというスタンスを取り、そこで金属の組成をも含 む「変成」の可能性を示唆していたりもするのだとか。この微妙なスタン スの振れをどう考えればよいのか、という問題が論考のハイライトになり ます。ミケーレは上の温泉についての書でスズから金への変成を斥けてい たわけですが、その小著のほうでは、見た目が類似する銀への変成の可能 性は受け容れているといいます。容易に指標を見いだせるもの(この場合 はスズと銀の見た目の類似)についてはそれを認め、より説得力に乏しい 成果(スズから金)、あるいは再生に関わる主題などは脇にどけておく、 というのがその基本スタンスではなかったか、と論文著者は主張します。 ミケーレの錬金術への関心は、なによりもまず薬学的なものだったよう で、若い医師たちに、薬剤の構成についてそのレシピの詳細を自分でチェ ックすることを推奨していたりするようです。薬学関連のミケーレの著作 は豊かな内容になっている、と論文著者は言い、鉱物などの使用のほか、 蒸留器の多用(動物由来の成分を蒸留する)もその特徴の一つとして挙げ られています。これはガレノス的な医学というよりは、医学錬金術の伝統 に連なるものなのですね。 論文著者によれば、ミケーレはこのように錬金術のある種の側面には踏み 込まないでいたようですが、一方でそのモデルの影響はそれなりに受けて いたようです。前回見た論考にもありましたが、ここでは錬金術が自然を 模倣するという本来の構図が逆転し、錬金術をもとに自然の理解(ここで は医学的・生物学的理解ですが)を進めようとする構図になっている、と いうわけです。この逆転の関係はなかなか興味深いものがあります。知的 世界と錬金術とはある種の微妙な共犯関係を形作っていた、と言ってもよ いかもしれません。 ミケーレ・サヴォナローラを扱った、ネットで公開されている論考の一つ に、少々古いものではありますが増田重光「ミケーレ・サヴォナローラに ついて : ブルクハルト的解釈の限界」(イタリア学会誌Vol. 4 (1955) p. 16-28)があります(https://www.jstage.jst.go.jp/article/studiitalici/ 4/0/4_KJ00003717827/_pdf)。ミケーレの人文主義者としての側面 を、ブルクハルトは近代人として描き出していたようなのですが、その実 像はむしろ中世の伝統に連なる保守的な人物ではなかったかと論じ、前者 を批判している論考です。これもなかなか面白く、ルネサンスについて改 めて考えさせられる一篇です。ご参考までに。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その6) 『推論について』の第一部も大詰めに差し掛かってきました。今回は第一 一章「分有(参与)」です。さっそく見ていきましょう。クザーヌスはま ず一性についての復習から始めます。事物の一性はいわば同一性でもあ り、伝達も説明も到達もできないもの(satis tibi et clarissimi constat unitatem esse ipsam identitatem incommunicabilem, inexplicabilem atque, uti est, inattingibilem)であって、その事物が事物としてあるま さにそのことを指し示しているのでした。ゆえにあらゆる存在者は、みず からのもとではそのものとして、他者のもとでは他のものとして存在して いる(omne ens in propria sua entitate est, uti est, ita in alia aliter)というのです。 円というものは、中心から円周への距離がどこを取っても等しい図形とし て理解することができます。ですが理性におけるそうした円は、理性以外 のところにも、いわば感覚的な円としても存在しえます。その場合、円は それ本来のもとにはなく、他者のもとにあり、他性を身に纏っています。 他者のもと(外部世界もしくは感覚的な世界)では、理性のうちにあるよ うには存在できないのですね。このとき、感覚的なものとしての円は、他 性において、理性的な円の一性を分有している(理性的な円の一性に与っ ている)と表現できます。感覚的な円は、厳密に中心から円周への距離が どこを取っても等しいとはなっていないかもしれません。人が実際に眼に したり接したりする円は、本来の理性的な円とは別のもの(物質や感覚的 印象など)をも分有しているがゆえに、決して厳密な円ではないというこ とです。 この論点をクザーヌスはただちに敷衍していきます。自分の知性が、知解 対象とは別もの(他性)であると認めるならば、知解対象を(厳密に)理 解することはできないことがわかるだろう(Nullum enim intelligibile, uti est, te intelligere posse conspicis, si intellectum tuum aliam quadam rem esse admittis quam intelligibile ipsum)というのです。 知解対象となっている事物そのものに達することはありえず、ただ、その 事物が存在するもとになっている真理そのものだけが捉えられる(Non ingitur attingitur aliquid, uti est, nisi in propria veritate, per quam est)のですね。それらの事物に直に触れられるのは神の知性だけであ り、人間など他の知性は、他性において間接的に触れられるだけだという のです。 一方で事物・事象の側からすると、それは他性として実に様々に展開しな がらも、もとの一性に包摂されていることにもなります。神の思惟はあら ゆる事象のうちで最も精緻なものとされますが、被造物のあらゆる思惟 は、神の思惟をそれぞれの仕方で多彩に分有していて、言葉にできないよ うな崇高な思惟(神の思惟)だけが分有を伴わない思惟とされます。被造 物の思惟は、神の光を直接受けることはないとされますが、間接的にはそ の光に与ることになるのですね。そしてその光を知的に分有することが、 事物の「何性」(すなわち本質)をもたらす、と(participatio intellectualis incommunicabilis ipsius actuallisimae lucis earum quiditas exsistit)。しかしながらこの分有は、神の現働的な知性に対し てはあくまで他性として、つまりは潜在態としてなされるしかなく(神の 知性こそが至上の現実態とされます)、結果的に人間知性による分有は多 様な潜在性においてなされるしかないことになります。ややこしいです が、あらゆる側面で神の知性と人の知性は対立し、後者は前者にとっての 他性でしかないということでしょう。 ここからクザーヌスは、賢者が抱く肯定的な判断というものが推論にほか ならないことを指摘します(Vides nunc assertiones positivas sapientum esse coniecturas)。クザーヌスは推論を、他性において真 理に与る肯定的な判断と見なしているわけですね。他性を経験させるのは なにも感覚だけではありません。理性がその根源的な一性(知性の光)に おいておのれの他性を見いだすときにも、おなじように厳密さの喪失、つ まりは推論であることが明らかになるのだといいます。感覚が生じるおお もとの根っこ、すなわち理性そのものへと人が眼を向けるとき、洞察力が 身体組織によって狭められていることがわかり(Dum autem ad radicem illam, unde discretio sensus emanat, te convertis - ad rationem dico - , intelligis sensum visus participare vim discretivam in alteritate organice contracta.)、厳密さの破綻から生 じる欠陥をも目にすることになる、と(Ob quam causam defectum casus a praecisione intueris.)。それはつまり、見る対象をその対象 そのもののうちにではなく、視覚が投じられる角度にもとづく相対的な他 性において見るからだ、というのです。 このように、一性のあらゆる分有は他性においてなされることがわかりま す。分有される一性は、最大限に分有されることはなく、最小限で分有さ れることもなく、同一に分有されることもありません。分有はすべて中間 領域的になされるのです。そもそも単一で純粋な一性はそれ自体では分有 されません。分有に際しては、その根源的な一性はみずからのもとを出 て、他性のもとで構成されるのでなくてはなりません。クザーヌスはこれ を、円が重なってできた四層構造の図で表しています。今回もこの図をブ ログのほうに貼っておきます(http://www.medieviste.org/? p=9165)。第一層は分有不可の根源的な一性(a)です。第二層は最 大・最小の枠で、やはり分有不可の一性(bとc)です。最大・最小の枠 とともに、中間に同一の枠をともなって、やはり分有不可の一性(d、 e、f)が第三層をなします。そして第四層になって他性が増し、分有がな されるようになります。最大(左端)と最小(右端)の間に、最大寄り・ 最小寄りの二つの中間状態を伴って、分有可能となった一性(g、h、i、 k)が置かれるわけです。 この図の意味も多少ややこしい感じですが、これはある意味、発出論の構 図と同じように見えます。また、一性についての議論のところで出てき た、四種の一性の考え方にも対応していると言えそうです。いずれにして もクザーヌスは、こうして認識論・判断論を分有の問題として、また推論 として提示します。これはまた世界認識にも関わってきます。それが次回 に扱う第一部の最後の二つの章となります。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は11月18日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------