silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.343 2017/11/18 ============================== ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その7) 今回はちょっと趣向を変えて、二人の人物を駆け足で取り上げていきまし ょう。まずは一人めは、ルネサンス期の代表格の一人、マルシリオ・フィ チーノ(1433 - 99)です。ここで見ている『ルネサンス期の錬金術と哲 学』所収の、フィチーノを扱った論考は長いので(論集の中で最長)、い つものように議論の基本線を追わず、もっと俯瞰的に捉えることにしま す。フィチーノは基本的には人文主義者で、プラトンのラテン語訳などを 手がけた人物ですが、メディチ家の庇護のもと、コジモが創設したプラト ン・サークルの中心的人物となり、神秘思想などにも造詣が深かったとさ れています。いわゆる神智学の嚆矢的存在の一人です。この人物につい て、今回見ている論集の編者の一人マットンが、錬金術との関わりについ ての論文をまとめています。 論文の冒頭で、イエーツの『エリザベス朝のオカルト哲学』が引用されて いて、そこではイエーツが、フィチーノやピコ・デラ・ミランドラから続 くヘルメス・カバラ主義の中で、錬金術はどう位置付けられるのだろうと 問うています。碩学をしてそう言わしめるまでに、フィチーノにおいては 錬金術への言及が少なく、フィチーノがほどんど関心を示していないよう に思われる、ということなのですね。論文著者によれば、フィチーノと同 時代の錬金術師の中にも、フィチーノは錬金術の世界を知らないと述べて いる人々がいたようなのです。 一方でまた別の錬金術師たちには、フィチーノが錬金術師であったと述べ ている者もいたようです。この齟齬をどう読み解けばよいのか、というこ とで論文は動き出します。論考は、フィチーノの著とされながらも出典の 疑わしい偽作と、フィチーノの著と認められているものを分けて、それぞ れにおける錬金術の扱いを考察していきます。これは実に細かい中味の検 証になっていくのですが、ここでは詳しい議論は取り上げません。一足飛 びで結論を見ておきます。 結論として論文著者が指摘する点は二つあります。まず一つは、フィチー ノが錬金術や「飲める黄金」(ルネサンス期に重宝された黄金を溶かした とされる飲料)への関心をまったくもっていなかったわけではなさそう だ、ということです。たしかに、占星術に造詣の深かったフィチーノが、 錬金術をまったく無視するというのも解せないように思われますが、そう した点の検証は、フィチーノに言及したものだけでなく、フィチーノ的な 考え方の痕跡をもった文献なども精査しなくてはならない、と論文著者は 指摘しています。もう一つは、フィチーノが錬金術に言及する箇所という のはごく少数しかないものの、それが錬金術に及ぼした影響はきわめて大 きいものであったということです。普遍的な世界精神の考え方などが、ま さにフィチーノから始まって、ヘルメス学徒たちに拡がっていったとされ ます。フィチーノ自身による言及の少なさは、やはり手を使う術という面 への、軽蔑的なまなざしがあったのかもしれませんね。 * というわけで、フィチーノにはもしかすると錬金術を低くみる立場を取っ ていたのかもしれませんが、次に取り上げる人物は違います。フィチーノ の次の世代となるパラケルスス(1493 - 1541)です。そちらは医師と して医療錬金術の有益性を認める立場を取り、医化学の礎を築いた人物と されています。この人物についてはルシアン・ブローンという研究者が寄 稿しています。パラケルススは哲学、錬金術、倫理学、占星術を医術の4 つの柱と見なしていました。そこでまず問題になるのは、哲学という語の 多義性です。パラケルススは、哲学というのは「不可視の自然(本性)を 知ること」だと述べています。これもちょっと謎めいた定義ですが、私た ちが普通に考える哲学とはだいぶ開きがあるように思われます。論文著者 によれば、それは「自然の事物がいかにして生じるか」を考察する学なの だとされます。知るとはまた見ることでもあり、事物を支え、その生成を 可能にする不可視のものを、思慮深さを注ぐことで照らし出すことでもあ るのだ、と。 そのように自然に向けられる思慮深さ・注視においてこそ、パラケルスス の錬金術の定義も理解できる、と論文著者は述べています。錬金術が行う 「介入」は、自然の本性がいかなるものであるかを理解しないことにはな しえない、というわけですね。自然は完成体ではなく、生成途上にあり、 人間もまたそこに参与しているとされ、そうした途上にあるものを終点に まで至らしめることこそが、パラケルススの言う錬金術だとされるので す。当然そこには、不断の努力、忍耐、根気が要求されます。 そうまでして錬金術の技を磨くのは、神が自然に刻んだ驚異を見いだすこ とが人間にとっての義務になっているからだ、とパラケルススは考えてい ました。隠されているもの(オカルト)を明らかにすること(脱オカルト 化)こそが、パラケルススの考える学知(哲学)なのであり、錬金術もま たそこに参与する術なのだというわけですね。学知こそが人間特有の性質 であり、様々な手段を活用してその特質を開花させなくてはならない、 と。 同論文によれば、パラケルススはまた、そうした錬金術の概念を思想世界 全体へと拡げようとしていました。政治、社会、倫理、宗教……。これま で見てきたような、錬金術をモデルに自然を説明付けるという一五世紀の ある種の流れは、まさにここパルケルススにおいて極まった、ということ なのでしょうか。もはや錬金術がモデルとして適用されるのは自然学にと どまりません。あらゆる方向へとそれは拡散していくのですね。理解の在 り方、知性の在り方を変革しようとするパラケルルス、という人物像が、 ここに描き出されると論文著者は述べています。 このように、中世に端を発する二つの流れ、つまり錬金術を多少とも低く 見る見方と、錬金術をモデルに他の領域の理解を図ろうとする視座は、ル ネサンス期にも脈々と息づいていたことがわかります。このあたりにも注 意しながら、もう少しルネサンス期の錬金術観を追って見たいと思いま す。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その7) 『推論について』第一部の最後の二つの章(第一二章と一三章)は、「世 界」についてのクザーヌスの説明です。発出論的にまずは最初の一性から 次の完全数となる一〇へと(2,3,4と)下っていくというのが基本構図 で、これが第一の世界となります。その中心には神がいる、というわけで すね。続いて第二の一性(単位:一〇)から同じように次の一〇〇まで下 る世界があるとされます。これが第二の世界で、その中心は知性であると されます。またその下には、同じような発出的世界がもう一つある(一〇 〇から発して一〇〇〇まで)とされます。第三の世界で、その中心は理性 であるとされます。 これを特徴という観点から見直すと、第三の世界は周辺部に位置する感覚 世界、第二の世界は中間的な世界、第一の世界は不可視の神的な世界とい うことになります。このうち中央に位置する第二の世界こそが、あらゆる 事物の真理をなしていて、それが第三天と呼ばれています。人が真理の王 国を手にすることができるのは、その第三天においてのみだとされます。 おそらく第二天というのが第一の世界に相当し、感覚的な世界で混乱して いるのが第四天ということになるのでしょう。で、第一天には神しかいな い、と。 第二天は一者の1に対して10という比をなしていて、人間の住みうる第三 天よりもはるかに簡素かつ形相的だとされます。その第三天は、10に対 して同じく10の比(つまり100)をなしているとされます。それより下 位の感覚的世界は、同じ比率で1000となり、一者の光はあまり届かず、 闇が濃くなっている世界だとされます。このあたりはすでに図Pが出てき たところで出た話と同様です。ですがクザーヌスはここで、各世界がまた それぞれに三つの区分(上位・中間・下位)に分かれるとして、新たな構 成図を掲げます。全体が大きく三つに分かれ、さらにそれぞれが三つに、 またそれが三つにと分かれていく図Uです(前々回の図Pの下にありま す。http://www.medieviste.org/?p=9145)。 続く説明では、再び数の問題が取り上げられています。すなわち、図の中 には1000までのあらゆる数が包摂されているのだ、という話です。1か ら4までの数を足すと10になるということで、1から4までの最も自然な 数の級数(並び)は、完全数をもたらすものとして重視されていました。 5から9までの数字も、1から4までの数字のなんらかの加法で得ることが できます。こうして自然数の級数(等差数列)は最も秩序立ったものとさ れます。続く10の位にいくと、やはり10、20、30、40が次なる完全数 100をもたらすということになるのですが、ではたとえばその40はどう やって得られるのでしょうか。40に至る最も整然とした級数としてクザ ーヌスが挙げているのは、1,3、9、27という等比数列です。これらを 足すと40になるという寸法です。どうやらこれが、この図Uの基本的な 構造になっているようです。三分割を四回繰り返すというのがミソなので すね。 続いてクザーヌスは、図Uにもとづいて、神を表す端的な一性は四つの円 に関わっていると述べています。外側の大きな円、そしてその内部にある 三つの比較的大きな円です。その中にも円があってだんだんと小さくなり ますが、クザーヌスは一番外側の大きい円を普遍世界(universus)、次 の大きな円を世界(mundus)、次を秩序(ordo)、最も小さい円を階 層(chorus)と呼んでいます。神の光に与るのも、その四つのサークル で漸進的になされるわけなのですが、一方で外側の普遍世界に見いだせる ものは、その内側の世界でも、秩序でも、一番内側の階層においても、様 相こそ異なるもののやはり見いだせると説いています。27個あるどの階 層においても、始まり(神の一性)がいかなるものであるかを掌握するこ とはでき、またそれぞれの世界において、いかに完成にいたる(完徳す る)かも知ることができるのだと説いています。この様々な段階のそれぞ れから、根源的一者を見やることができるという点は、クザーヌスの救済 論として個人的にはとても興味深いところです。これについてはまた後で 考えたいと思います。 * さしあたりここでは、図Pや図Uに関して研究者が語るコメントを見てお きたいと思います。フランスの研究誌『ノエシス』の26-27号(2016 年)(Revue "Noesis", No. 26-27, 2016)から、図Uや先の図Pについ て振れた論考を少しばかり見ていきましょう。まず一つめは、ピエール・ カイエ「ニコラウス・クザーヌスと新プラトン主義の問題」(Pierre Caye, 'Nicolas de Cues et la question neoplatonicienne, pp.33 - 43)です。この論考では、クザーヌスが立脚する新プラトン主義が、絶 対的に屹立した一者論(ヘノロギア)の別格さに固執することをせずに、 同一性の原理・因果関係の原理を再考することで、そのヘノロギアを考え 直す道を開いていると論じています。 前に取り上げた図Pは、光と闇の相互陥入を表していたわけですが、伝統 的にそうした光と闇の形象は、光を上、闇を下にして縦に置かれるのが普 通でした。版組みの問題なのか具体的な理由はわかりませんが、クザーヌ スのこの書ではそれが横に置かれています。論文著者はこの点に、クザー ヌスの一者論がもはやエントロピー的なものに寄らず(発出論はいわば神 の光が拡大し弱まっていくという意味でエントロピー的でした)、むしろ 光と闇をシンメトリーの関係に置くという、ある種画期的なものを見、そ れは一大転換点ではないかと評しています。光を分有する多数性が増えれ ば、光は弱まるどころかいっそう広く輝きわたる、つまり「多数性が高ま れば、一性もいっそう高まる」というわけです。 その意味でクザーヌスは、もはや新プラトン主義を越え出ている、とも論 文著者は述べています。新プラトン主義に対してクザーヌスが仕掛けよう としていたのは、形而上学的な転換・革命なのだという評価ですね。多数 化・多様化が一性の強化に貢献するのであれば、もはや神の一性は別格と して屹立させる意味すらなくなります。新プラトン主義は一者の絶対的屹 立(不分有、調停不可能性)を掲げているわけですから、それとは相反す る立場ということになるわけです。これもまた、とても刺激的な議論で す。クザーヌスはこのように、いろいろ面白い読み方ができそうな対象だ と思われます。次回も研究者によるコメントを見ていきたいと思います。 (続く) *本マガジンは隔週の発行です。次号は12月02日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------