silva speculationis       思索の森 ============================== <ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓> no.345 2017/12/16 ============================== *お知らせ いつも本メルマガをお読みいただき、ありがとうございます。年内は本号 がラストです。今年もお付き合いくださいまして、誠にありがとうござい ました。さて、本メルマガは毎年、年末年始をお休みとさせていただいて おります。そのため年明け最初となる次号は、1月13日の発行とさせてい ただきたいと思います。ご承知おきくださいますよう、お願い申し上げま す。 ------文献探索シリーズ------------------------ ルネサンスと錬金術(その9) ○デカルトと化学 前回取り上げた論考の著者ベルナール・ジョリは、2016年にデカルトの 化学との関わりについてフランス哲学会で講演しており、その内容が 2016年の『フランス哲学会会報』("Bulletin de la Societe francaise de Philosophie", 110e annee, No. 4, octobre-decembre 2016 )に 掲載されています。錬金術にも関連する講演内容なので、今回は年末特別 編ということで、これまでの『ルネサンス期の錬金術と哲学』をいったん 離れ、そちら会報掲載の文章を見ておきたいと思います。 当時の多くの知識人に違わず、デカルトも実は化学に関心を寄せていまし た。ですが『方法序説』などを始めとする様々な文書では、錬金術を「悪 しき教説」に分類したりしてはそれに関わる人々を批判していました。と くに友人の神学者・数学者メルセンヌとの書簡で、辛辣な批判が繰り返さ れているようです。ところが一方では、やはりそのメルセンヌとのやり取 りで、デカルトは化学への興味をも吐露していたりするのですね。自身で もなんらかの実験にも手を染めていたといいます(自分は実験は不得手だ と語っていたりするようですが)。そうなると、なぜそれほどまでに批判 していた当の学知に、デカルトは関心を寄せていたのかが気になってきま す。言動のこの不一致はどういうことなのでしょうか。 著者のジョリは、まず重要な点として、よく言われるような、デカルトが 怪しげな錬金術に対して実験にもとづく化学を選んだ、というような単純 な話ではないということを強調しています。というのも、17世紀前半当 時、化学と錬金術の区別は基本的になされておらず、デカルトも錬金術師 (アルケキミスト)と化学者(キミスト)を使い分けてはいなかったから です。両者がそれぞれ異なったものとして確立されるのは、18世紀を待 たなくてはならないといいます。 ですがその錬金術=化学の枠内で、デカルトが受容可能なものと排除すべ きものとを区別していたのは事実のようです。まずは実験室での実験に属 するものを、デカルトは受け容れていました。その意味で、実験で再現で きていない金属の変成などは拒絶していたといいます。それほどまでにデ カルトは、実証ということにこだわっていたらしいのですね。もう一つ、 デカルトが錬金術=化学に寄せていた関心の動機としてジョリが挙げてい るのは、医学や解剖学に対する重視です。当時はまだパラケルススの影響 力が強く、化学的に製造された薬と、人体についての化学的モデルを参照 するという慣例が幅を利かせていました。デカルトは化学的に製造された 薬については警戒していたようなのですが、とにかく同時代の人々が重視 していた化学的知識というものを、さすがに無視はできなかったようなの です。 18世紀ごろまで「ガス」などの用語がないために、化学者は「精髄 (spiritus)」という概念を用いて揮発成分を表現していました。ですが これには、前回も見たように、ストア派の「プネウマ」概念、新プラトン 主義ほかの世界霊魂などの教説が影響を与えていました。そんなわけで、 天空由来のきわめて精妙な物質が信じられていたわけですが、デカルトは やはりそうした考え方も受け容れられません。錬金術師のほか医者なども 用いるそうした精妙な物質という概念は、デカルトも引き合いに出したり はしているのですが、デカルトの場合、あくまでそれは「物質」なのであ って、「魂と身体を結ぶ何か」といった概念は介在してこないようなので すね。そのあたりの話も、メルセンヌへの書簡に見いだすことができると いいます。 デカルトはまた、化学(=錬金術)が「完全に知りえていない何かを原理 として仮定する」やり方を批判してもいました。その意味で、デモクリト スの原子論やアリストテレスの四状態論(寒暖乾湿)と並び、パラケルス スの唱える元素論(硫黄と水銀のほか、塩を加えています)なども、デカ ルトは斥けようとしていました。デカルトに言わせれば、彼らの議論は逆 転してしまっていて、本来の姿である「物体の性質を説明するために原理 を用いる」というものではなく、「物体の性質を研究することで、一般的 な原理のもとに物体をまとめあげようとする」ものになってしまっている のです。そんなわけで、デカルトはそうした偽の原理の代わりに、物体の 形成に関して、より機械論的な説明を施さなくてはならないと考えまし た。それがデカルトの唱える渦動説と物質の三要素の理論です。 デカルトの考える物質形成のストーリーは結構壮大で、星々の体系の形 成、さらには地球の形成、そして化学的な諸物質の産出という三段構えの 構成になっています。用語などは古い時代のものを継承しているわけです が、これらはある種、近代的なものにも見えます。化学的な物質の形成に ついては、地球の形成が鍵を握っているとされ、その地球もまた三層構造 になっていて、中心からの二層は多少とも精妙な物質から成り、さらに第 三の物質から成る外郭がソリッドなものとなっています。内部の第一の物 質は絶えず流動的で、その力が働くことで外郭には亀裂や変形が生じるこ とになり、内部のものが外に押し上げられたりして、固体・液体・気体が 生じ、最終的には多様な物体、多様な化学的物質が生成されることになり ます。ここで重要なのは、化学的物質の形成プロセスが複合的に内部でな され、さらに内部の動きによって外郭表面に押し上げられて定着するとい う考え方です。 そのような観点からすれば、錬金術が言うような「塩・硫黄・水銀」は生 成物でしかなく、原理ではないということになります。出来上がったもの なのですから、秘められた力などというものもない、ということになるの ですね。また天空に由来する世界霊魂、種子力などというものも、もしそ れらになんらかの性質があるのだとすれば、やはり物質的な形成の配置に 由来するものであるはずです。こうして錬金術の主要な原理とされるもの は、その原理性を剥奪され、結果的に錬金術はその教義の中心が揺さぶら れることになります。 そしてまた、ひとたび機械論的な物質形成プロセスが確立されると、デカ ルトはもはや錬金術に言及する必要すらなくなってしまいます。かくして デカルトによる化学や錬金術への言及は、事実上限定的なものにとどまっ たという次第なのです。ですが一方で、ジョリの指摘によれば、こうした 機械論的プロセスの考え方は、そうした考え方にもとづくデカルト流の化 学というものの発展を逆説的に難しいものにし、デカルト本人が構想だけ はしていた、化学にまつわる著述を失敗に終わらせてしまうことにもなる のですね。化学を機械論へと還元することは、ある種のブーメラン効果を もたらした、あるいは諸刃の剣になったというのです……。 今回は年末特別編ということでデカルトについて取り上げてみました。年 明けの次回からはまた『ルネサンス期の錬金術と哲学』に戻り、まずはデ カルトの友人だったメルセンヌあたりを取り上げたいと思います。 (続く) ------文献講読シリーズ------------------------ クザーヌス『推論について』(その9) 『推論について』第二部は、第一部の基本原理を踏まえて、様々な事象を 取り上げていきます。とはいえ、総論と各論、理論編と応用編と言ってし まうと、やや違和感を覚えます。そのようにかっちりと分かれているわけ ではなく、むしろ前提とその帰結としての拡張、神学的議論と補完的な諸 論(自然学など)という感じかもしれません。いずれにしても、そこでは 広範な問題領域が扱われることになるのですが、いずれも第一部で培われ た光と闇の神学、一性と他性をめぐる関係論を通じて問い直されるかたち になっています。 扱われている内容をざっと紹介しておきましょう。まず第一章から第二章 が学問研究の在り方についての話になります。続く第三章は差異と一致を 改めて扱い、第四章から第六章が元素についてのあれこれ、第七章が 「六」と「七」と「一〇」の数について、第八章から第一〇章は個体の差 異などについての考察、第一一章が生命、第一二章と第一三章が自然と人 為(知性)、第一四章から第一六章が人間についての考察、第一七章が自 己認識を扱います。 どれもそれなりに面白そうですね。ここではさしあたり、第一四章の「人 間」を見ていくことにしましょう。ただ、今回は訳出に時間を割けなかっ たので、さわりの冒頭部分だけを次に訳出してみます。 * Hominem ex unitate lucis humanalis naturae atque alteritate tenebrae corporeae communi via concipito et in priorem figuram, ut distinctius ipsum explices, resolvito. Intueberis plane tres ipsius regiones, infimam, mediam atque supremam, atque ipsas ter triniter distinctas. Ignobiliores autem corporales partes, alias continue fluxibiles atque stabiliores et formaliores nobilissimasque gradatim coniecturaberis. Post haec pari ascensu spiritualiores corporis concipito naturas, quibus sensitiva virtus immixta est, hasque per gradus partire, ut ab obtusioribus ad subtiliores pertingere queas. Novenas etiam nobilis ipsius animae distinctiones adicito. Novem igitur trium ordinum corporales vides hominis differentias, quae in se sensitivum absorbent lumen, ut vegetatione contententur. Novem etiam mixtas conspicis, ubi virtus viget sensitiva, sensibili atque corporali permixta. Novem denique nobiliores differentias, ubi corporalis umbra in discretivum absorbetur spiritum. Corporalis autem natura gradatim sursum in sensitivam pergit, ita quidem quod ultimus eius ordo propinque cum ipsa coincidat sensitiva. Ita quidem ipsa sensitiva in discretivam nobilitatur. 共通する方法により、あなたは人間本性という光の一性、および肉体とい う闇の他性から人間を理解し、第一の形象において捉え、より明確に説明 できるようになっていただきたい。そこに三つの領域があることは容易に わかるだろう。下位、中位、上位の領域である。さらにはそれら三つの領 域が三つずつに区分されることもわかるだろう。さらには、より無視され やすい肉体の部分、一方で絶えず流動的な部分、より安定し形式的な、よ り高貴な部分について、あなたは徐々に推論するようになるだろう。その 後は、同じ上昇を通じて、肉体のより精神的な本性の数々を理解してほし い。そうした本性には感覚的な力が混合している。それら本性を、段階に 応じて分有してほしい。そうすることで、より鈍重なものからより精妙な ものへと至ることができる。そこでそうした高貴な魂に九つの区分を加え てほしい。すなわち三つの秩序のもとに、人間の肉体の差異が九つあるこ とを見てとるのだ。それらはみずからのうちに感覚的な光を吸収し、それ によって活性化を余儀なくされる。次にあなたは、混成的な差異も九つあ ることを理解する。そこでは、感覚的なものと身体的なものとが結合し、 感覚的な力がみなぎるのである。最後に、より高貴な差異も九つあること をも知る。そこでは暗い肉体の部分が、精神の識別へと吸収される。とこ ろで肉体の本性は、漸進的に上昇して感覚的なものへと至る。そのように して、肉体の本性に近い最も高い秩序は、感覚的なものと一致する。ある いはまた、その感覚的なものは、判別的な本性において高貴なものとな る。 *  ここでもまた、図式Pに見られた光と闇、一性と他性の相互陥入の概念が 全体を支えていることがわかります。相互陥入の考え方は、ここでは肉体 にすら精神的な領域があるというかたちで反映されています。逆に精神に も、肉体的な部分があるということも言えそうですね。こうして、異質な もの同士、正反対のもの同士が、少しずつ入り組んでいるかたちで、現実 世界は織りなされているとクザーヌスは考えているようなのです。 さらにまた、図式Uで示された再帰的な三分割も反映されています。人間 一つとってみても、身体・中間・精神の三つの領域に分割され、さらにそ れぞれが九つの下位区分をもっているとされ、全体で27もの領域が切り 出されるわけですね。これはまさに図式Uそのもので、しかもそれは下位 から上位へと認識を移すことで、下位に分類される感覚的なものですら、 高貴とされる上位のもの(精神的なもの)と一致すると説いているわけで す。この反対物の「一致」という考え方も、クザーヌスが多用するテーマ なのでした。 というわけで、今回はほんのさわりだけですが、年明けから少し分量も増 やしてテキストを見ていくことにします。来年もどうぞよろしくお願いい たします。皆様、良いお年をお迎えください。 (続く) *本マガジンは隔週の発行ですが、年末年始はお休みをいただき、次号は 01月13日の予定です。 ------------------------------------------------------ (C) Medieviste.org(M.Shimazaki) http://www.medieviste.org/?page_id=46 ↑講読のご登録・解除はこちらから ------------------------------------------------------