silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.346 2018/01/13

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------文献探索シリーズ------------------------

ルネサンスと錬金術(その10)


新年になりました。遅ればせながら、今年もよろしくお願いいたします。

さて、前回は年末の特別編ということで、デカルトによる化学・錬金術へ

の姿勢を、比較的最近の講演を題材にして紹介しました。今回は再び前の

論集へと戻り、メルセンヌについて取り上げましょう。


マラン・メルセンヌ(1588 - 1648)はデカルトの友人であり、両者の

間には実に多くの書簡でのやり取りが残されています。メルセンヌは数学

や物理学に長けた神学者でした。その名は「メルセンヌ数」に残っていま

す。これは2のn乗から1を引いた形の数で、その数が素数ならばnも素数

になるとされます。メルセンヌはnが19より大きく257より小さいそうし

た素数は4つしかないという予想を立てたのでした。本人はそれを証明す

るにはいたらず、後世において、予想のうち2つは外れていたことが明ら

かになるのですが、いずれにしてもその予想は後世に大きな影響を及ぼし

たといいます。


私たちが見てきた論集『ルネサンス期の錬金術と哲学』でとくにメルセン

ヌを取り上げているのは、アルマン・ボーリューという研究者の「キミア

に対するメルセンスの微妙な姿勢」(L'attitude nuancee de Mersenne 

envers la Chyme, pp.395-403)という論考です。それによると、化

学・錬金術に対するメルセンヌの考え方は経年とともに、否定的なものか

ら肯定的なものへと明らかに変わっていくようなのです。論考はその過程

を年代順に追っています。まず1623年ごろの処女作『創世記の諸問題』

(Quaestiones in Genesim)では、メルセンヌは諸学について神学的な

見地から好意的な評価を下しているといいますが、化学(キミア)につい

てはとても慎重な姿勢を見せていたのですね。化学者が使っている秘教的

な用語や、その冗漫な語り口、根拠のない言説などに警戒感を抱いていた

ようです。メルセンヌは当時、パラケルススなどの著書を読み、キミアの

概念などについてそれなりに通じていたといいます。


1625年に仏語で著した『諸学の真理』(La Verite des Sciences)で

は、とくにヘルメス主義を奉じた同時代人ロバート・フラッドへの反発も

あって、キミスト(キミアの実践者)たちを攻撃しようとします。同書

は、懐疑論者、錬金術師、哲学者の三者による対話篇で、錬金術師は他の

二者によって執拗に批判されているようです。論考に三者のやり取りの一

部が採録されていますが、ここでは割愛します。重要なのは次の点です。

こうした批判的議論から、メルセンヌは錬金術を徹底的に批判し尽くすの

かと思いきや、この頃から、真の学知としてのキミアとそうでない偽物と

を区別するためにも、錬金術のアカデミー(他の学問において設立されて

いるような)を創設すべきではないかと主張し、化学の学知としての可能

性に言及するようになるというのですね。


続いて1634年になると、また状況が変わってきます。1630年にメルセ

ンヌはオランダ南部に旅し、そこですでに書簡のやり取りがあった錬金術

師のファン・ヘルモントと会います。この人物は思想的には反アリストテ

レスで、パラケルススの弟子でもありました。宗教裁判で投獄されたり、

著書を焚書にされたりもした人物です。メルセンヌとの書簡のやり取りで

は、かなり錬金術的テーマの突っ込んだ話題が扱われ、それぞれ自分の立

場を述べ合う感じだったようです。ファン・ヘルモントはどこか人を煙に

巻く感じだったのかもしれませんが、そうした議論をメルセンヌはさしあ

たり受け容れています。


1634年に刊行した5つの著作のうち、論文は2つの著作を取り上げていま

す。『未知の諸問題』(Questions inouyes)と『神学・自然学・倫理

学・数学の諸問題』(Questions theologiques, physiques, morales 

et mathematiques)です。そこでのメルセンヌは、化学は物理現象の真

の理由を明らかにできるのかと問い、否定的な回答を寄せているといいま

す。キミストたちは、自然の物体を塩と水銀と硫黄に還元して、それらを

破壊ないし損なっているにすぎないというのですね。ここだけ見ると初期

の批判に戻っただけのようにも見えますが、論文著者によると、そこには

「敬意を込めたぞんざいさ」という姿勢が見られるといい、むしろそうし

た化学者たちの成果を世に知らしめ、実験に要する費用の負担さえも一部

まかなえるようにすべきだと、ある意味ポジティブな見解を示していると

いうのです。この時期には、メルセンス本人もまた、化学的な研究に身を

投じるようになったようです。スズは燃焼の前後で重さが変わるか、「雷

金」はなぜ爆音を発するのか、塩はなぜ土壌を肥えさせるのか、といった

問題を探求するようになるのですね。


こうして、聖書などに抵触しない理論を掲げる限りにおいて、化学を少な

くとも一つの学問として受け容れ、その方向づけ・秩序づけを果たしてい

こうとする姿勢にメルセンヌは転じていきました。音楽論をなす1636年

の『宇宙の調和』(Harmonie universelle)や『書簡集』(la 

Correspondance)では、物体の形成や生物学的な事象について、化学

者側からの精緻な説明を求めるなど、メルセンヌは徐々にその実践的な側

面に関心を示していくようになります。また幾人かの協力者を得て、多少

とも不器用ながらメルセンヌも化学の実践に携わるようになっていきま

す。もちろん実験からは、新たな物質的反応や驚くべき結合結果などは得

られなったようですが、それでもなお、化学全般に対する当初の攻撃的な

姿勢は消え、化学者の営為からも学術的で有益な成果がなされうることを

理解し、なんらかのシンパシーを感じるようになった、というわけです。


このように、メルセンヌの場合も初期のデカルトに似て、化学を批判的し

つつもそこに接近せざるを得ないような環境にあったと言えそうです。化

学がいかに当時の人々を惹きつけていたかという証左と言ってもよいかも

しれません。このあたり、もう少し当時の他の人々の関わり方も見てみた

いと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

クザーヌス『推論について』(その10)


前回から『推論について』の第二部第一四章「人間について」を見ていま

す。前回は冒頭部分でしたが、今回はそれに続く箇所になります。粗訳で

恐縮ですが、さっそく中味を見ていきたいと思います。



Omnis autem sensatio obviatione exoritur. Unde ut quaedam 

sensationes obviatione contangentium causantur, ita gradatim 

quaedam ex distantioribus incitantur obiectis. Odoratus igitur, qui 

in suo perficitur organo, ob suam nobiliorem naturam etiam a 

remotis offenditur, ut sensatio exoriatur. Adhuc auditus ex 

remotiori. Visus autem omnes excellit sensus, ut ex distantioribus 

obiectis ad sensationem incitetur. Pergit autem imaginatio 

absolutiori libertate ultra ipsam contractionem sensuum in 

quantitate molis, temporum, figurae et loci et minus atque plus, 

quam sensitive apprehenditur, propinquius et remotius atque 

absens ambit, genus sensibilium non exiens. Ratio autem 

imaginationem supergreditur, ut videat antipodes cadere non 

posse potius quam nos, cum grave ad centrum moveatur, quod 

inter eos et nos mediat. Haec autem imaginatio non attingit. Ita 

quidem patet rationem supervehi imaginationi, verius 

irrestrictiusque ad cuncta pergere. Intellectus autem ad rationem 

se habet ut virtus unitatis ad finitum numerum, ut nihil eius 

virtutem penitus aufugere possit.


ところで、あらゆる感覚は障害物から生じる。かくして一部の感覚が障害

物との相互接触によって生じるように、一部の感覚は離れた対象物によっ

て漸進的に励起される。ゆえに嗅覚は、感覚器官の中で完結するものでは

あるが、より高貴な性質ゆえに離れた対象からも影響を受け、結果的に感

覚が生じるのである。さらに聴覚は、より遠い対象物からも生じる。だが

視覚こそはあらゆる感覚に勝り、いっそう離れた対象物から感覚を励起す

る。ときに想像力は、さらに絶対的な自由により、感覚がもつ制約を越え

て、物体、時間、形状、場所など、感覚が掌握する以下もしくは以上の大

きさへと到達する。より近いものも、より遠いものも、さらには不在のも

の、感覚的な類として存在していないものをも包摂するのである。だが理

性は想像力をも凌ぐ。たとえば対蹠地に住む人々が私たちと同様に落下す

ることがないことを、理性は思惟する。(落下しないのは)重みのあるも

のが、彼らと私たちとの間にあるような、中心へと向かうからである。し

かしながら想像力はそこに思い至ることがない。このように、理性は明ら

かに想像力を越えて、より真理に迫りいっそう制約のないかたちで、全体

へと到達できるのだ。さらに知性は、「一」の力が有限な数に対してもつ

ような関係を理性に対してもち、結果的にいかなるものも、知性の力から

完全に逃れることはできないのである。


Mirabile est hoc dei opificium, in quo gradatim discretiva ipsa 

virtus a centro sensuum usque in supremam intellectualem 

naturam supervehitur per gradus quosdam organicosque rivulos, 

ubi continue ligamenta tenuissimi spiritus corporalis lucidificantur 

atque simplificantur propter victoriam virtutis animae, quousque 

in rationalis virtutis cellam pertingatur. Post quam quidem in 

supremum ipsum intellectualis virtutis ordinem, quasi per rivum in 

mare interminum, pervenitur, ubi chori quidem esse 

coniecturantur disciplinae, intelligentiae atque intellectualitatis 

simplicissimae.


こうした神の所産は驚嘆すべきものである。そこでは識別能力が、感覚の

中心部から自然の最上位の知性に至るまで、なんらかの水準、なんらかの

器官の経路によって漸進的に担われる。その場所では、魂の力の成功ゆえ

に、精神と肉体を繋ぐこの上なく細やかな靱帯は絶えず輝き、単純化さ

れ、理性の力が収まる場所にまで至るのである。次いで川が無限の海へと

達するように、理性の力は、知性の力の最上位の秩序に達する。そこでは

学識と叡智、そしてこの上なく端的な知力が、コロス(輪舞?)をなすも

のと推測される。



今回の箇所では、感覚から理性、知性への秩序について再びまとめられて

います。いきなり面白いのは、感覚がある種の障害物によって生じるとし

ている冒頭のところですね。なんらかの異質な対象物があることで、感覚

は励起されるというわけです。それは近接する場合はもちろんのこと、遠

隔の場合もありうるとされ、これをもとに、触覚(これは明言されてはい

ませんが)、嗅覚、聴覚、視覚という感覚内部での階層もしくは秩序が形

成されている、とクザーヌスは見なしているようです。そしてさらに、そ

れらの上位に位置するのが順に想像力、理性、知性ということになるので

すね。触覚にあえて言及せず、三つの感覚を取り上げているのは、もしか

すると図式Uの三の乗数での体系に当てはめるためなのかもしれません。


理性による思惟の一例として、対蹠地にある人々が落下しないという話が

出てきます。地球は球形なので、一方の側が上にあるときは対蹠地の側は

下にあるわけですが、それでも落下しないのは、それぞれの人またはモノ

が「中心」に向かう性質をもつからだ、と説明されています。思想史的に

は、この対蹠地問題にも長い歴史があり、たとえば『博物誌』のプリニウ

スなども、水が高いところから低いところへ、つまりは「中心」へと近づ

いていくことを引き合いに、対蹠地の人やモノも落ちない理由を説明して

いたりします。なにやら重力を想わせる説明ですが、クザーヌスは明らか

に、プリニウスに遡るその説明を念頭に、この箇所を記していると思われ

ます。


そしてまた、識別力(認識力)が、感覚から理性を経て知性にいたるま

で、段階的ではあるものの一続きになっているという議論も注目したいと

ころです。感覚は肉体の側に多く与るものであり、理性は精神と肉体を繋

ぐ靱帯とされ、知性は精神の側に多く与るというのでしょう。川が海へと

注ぐように、ごく自然な流れとして、理性から知性へと認識能力は運ばれ

ていくというのですね。最終的なその知性においては、叡智や知力がコロ

ス(通常はギリシア演劇などに見られる合唱団ないし舞踏団の意です)と

して君臨するという話になっています。ここでのコロスは、もしかすると

天体に見られるような回転運動(そのような意味もchorusには含まれて

います)のことなのかもしれません。


そしてここでもまた、知性の世界(叡智界)は人間にとって、あくまで推

測の対象でしかないということが示されています。というか、三分割の関

係で織りなされる図式Uの全体もまた、推測にもとづく一つの提言にほか

ならないのですが、クザーヌスはそれを人間の認識に当てはめ、存分に応

用してみせているわけですね。前回も述べたように、クザーヌスの議論

は、『推論について』第一部で示された原理によって一貫したものとして

構築されています。この後、議論は人間と神との関係性のほうへと向かっ

ていくようなのですが、それはまた次回に。

(続く)



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