silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.349 2018/02/24

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------文献探索シリーズ------------------------

ルネサンスと錬金術(その13)


今回は17世紀のパリの知的風土における錬金術の位置付けを、少しばか

り覗いてみたいと思うのですが、そのためにまずは前回の最後のところに

出てきた、カンパネッラが関心を示していたというパラケルススの「ホム

ンクルス」話から始めましょう。


ホムンクルス(人間の人工的な創造)伝説は、16世紀後半に広く流布し

ていました。前回取り上げた論考の末尾には、16世紀後半のイタリアな

どで、そうした伝説が錬金術師たちの文献を通じて、まことしやかに拡散

していたことが指摘されています。パラケルスス自身は、そうしたホモン

クルスの実作は、適切な手順に従えば可能だと述べているにすぎないよう

らしいのですが、その信奉者たちによって、どこからともなく実作につい

ての報告などが伝えられるようになったようなのです。聖職者からの批判

や非難(なにしろその伝説は、キリスト教の教義に大きく反するわけです

から)もそれなりになされたようですが、伝説の拡大を食い止めることは

できなかった模様です。このころはまだ、錬金術は多少とも胡散臭いもの

の、神秘思想的な営為として認知されていて、それでいて社会的にはそれ

なりに大きな広がりを見せていたようです。


ですが時代を下っていくと、錬金術そのものの受け止め方にも変化が生じ

ていったように思われます。論集の末尾を飾るアラン・モテュ「17世紀

フランスにおける魂の蒸留の神話」という論考を見ると、錬金術が少し従

来の文脈から離れ、その意味合いを多少とも変えている(薄らいでいる)

ような印象を受けます。同論考の舞台は17世紀後半で、一般に当時はデ

カルト的な機械論など、ある種の唯物論が台頭してくる頃合いです。「学

識者の哲学(philosophie des savants)」の時代というふうにも呼ばれ

たりします。その一方で、近年とみに言われていることですが、古代から

続く伝統的な思惟がときに正統ではないかたちで再燃する時代でもあった

といいます。「魂を蒸留する」という科学的な神話も、そうした流れの上

で広がり(全体としては限定的だったとも言われますが)を見せていたよ

うなのです。「パラケルスス・リバイバル」(リン・ソーンダイクによる

表現)から派生した思弁が、そうした動きを根底で支えていたというので

す。


そこでの「魂」は、物質ないしは準物質と見なされた「精気

(spiritus)」から成るとされます。精気というのは、生物学的な上澄

み、あるいは熟成によって生じるものとされていました。「魂」は人間の

身体のみが発することのできる最も純粋で貴重な物質で、身体はいわば蒸

留器をなし、生体での蒸留によって魂が生じるというのです。一見なんと

もスキャンダラスな見解ですが、そこでは魂は第五元素と同一視されてい

ました。その意味では、アリストテレス的な古いテーマからの派生形と見

ることもできます。ただし、第五元素のテーマが錬金術の伝統に根を下ろ

すのはルネサンス以降で(たとえば古代ギリシアの錬金術には第五元素の

考え方はありませんでした)、18世紀ごろまで存続します。


魂を第五元素と見る考え方は、当然ながら一部の論者から痛烈に批判され

てもいたようですが、それでもなお、そうした物質主義、あるいは唯物論

的な文言は、とくに17世紀前半から大きな広がりを見せていたようで

す。それまでの中世哲学の各種テーゼを、キミア的(化学的?錬金術的?

微妙なところですが)観点から再創造しようという動きも出てきました。

トマス・アクィナスによる知性の機能についての教説を、キミア的に再解

釈するといった向きまであったようです。かくして17世紀後半には、デ

カルト主義的な体制のもと、魂の蒸留という神話はいよいよ大手を振って

流布していくことになります。「蒸留器としての身体」という観念も、そ

れと平行して広がりを見せます。


16世紀からの思想的な流れにはもう一つ、「動物精気」の考え方もあり

ました。それは哲学的・医学的にプロモートされていきます。フランスの

デカルト主義者たちはそれを完全に物質的なものと見なしていました。神

経系などについての解剖学的・生理学的研究が盛んになったことで、従来

の「精神」は、いわば王位を奪われ、諸機能を司る蒸留物(動物精気)が

その利を得た、という次第です。機械論の流れにも合致するそうした唯物

論的な考え方は、18世紀半ばごろまで活況を呈していくようなのです。

唯物論ではありながらも、魂を特殊な物質に対応させるというエピクロス

派やストア派の考え方も同じく存続していて、そのあたりとどうやら渾然

一体になって流布していたような印象を受けます。


論考の著者によれば、この「蒸留器としての身体」と「動物精気」の概念

は、とりわけ自由思想家(リベルタン)などの間で、ある種の「化学的」

な唯物論を引き起こさないわけがなかった、といいます。そんなわけです

から、それらがどれほど伝統的な錬金術のニュアンスで捉えられていたの

かはむずかしいところです。これまで見てきたことからしても、そこには

一枚岩ではない様々な立場があったと思われます。単に字義通りに唯物論

的・機械論的に受け止めていた論者もいたでしょうし、伝統的な錬金術寄

りの解釈もあったでしょう。エピクロス派やストア派の火の概念などを援

用していた論者もいたでしょう。そのような多種多様な事例の一端を、こ

の論文著者は論考の後半部分で紹介していくのですが、煩雑になるのでこ

こでは割愛したいと思います。いずれにしても、純粋な錬金術的伝統がそ

のまま温存されているとはもはや見なせないほどの、広がりと混成的状況

がそこには見て取れるように思われます。


さらに押さえておくべきは、動物精気の問題は(扱い方にもよりますが)

人間と動物との間に垣根などない、両者は地続きであるといった議論に、

一気に流れこんでいく可能性があったという点です。昨今、動物性をめぐ

る哲学的な議論は再び注目を集めていますが、その中でたびたび指摘され

るように、「動物を放逐することで人間は主権を確保してきたのであり、

動物は従属というかたちで人間の主権に結びつけられてきた」という説が

真であるならば、そうした哲学的立論に対して近代初期に翻された最初の

反旗というのは、上のような動物精気論と蒸留器としての身体という、い

わば機械論と、錬金術から派生した思惟との微妙な混成的議論だったので

はないか、という気もします。もちろん、これらの諸点は今後検証してい

なくてはならないテーマで、今すぐに確証が得られるわけではないのです

が……。


さしあたり次回は、いよいよ全体の総括をしたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

クザーヌス『推論について』(その13)


前回は、知性だけでなく自由意志においても、神と人間が参与・分有の関

係でつながっているという、クザーヌス後期の議論について見てみまし

た。一方、初期に属する『推論について』では、自由意志の問題は扱われ

ておらず、ひたすら知性・理性・感覚の参与・分有の話になっています。

今回は第二部の最後の章となる「自己の認識について」(De sui 

cognitione)から、その一部分のみを取り出して見ておくことにしま

す。ではさっそくテキストと粗訳です。



Habes ergo, Iuliane pater, te virtutem eam participare, quae in se 

gestat aequalitatis atque conexionis naturam, ut sic intellectus 

tuus divinum esse suo modo participans in eius aequalitate 

intelligere amplectique possit intellectum, ut non aliud sit tuum 

intelligere quam aequalitas participatae unitatis tui intellectus. In 

aequalitate igitur seu similitudine divini luminis intellectualiter 

participati te noscas intelligendi virtutem assecutum, ita quidem et 

ratiocinandi sentiendique. Quoniam autem tanto perfectius unitas 

ipsa participatur, quanto aequalitas conexioque in ipsa maior 

fuerit, hinc intelligere atque conectere sine perfectione unitatis 

intellectus nequeunt adaugeri. Inclinatur igitur intellectus ad 

intelligere et amare, ut perficiatur natura eius, ita ratio ad 

ratiocinari, sensus ad sentire.


ゆえにユリアヌス神父よ、あなたはみずからがそこに与っていることを知

っていよう。それはみずからのうちに均質性と繋がりの性質を抱き、(お

のれの様式において神の知性の均質性に与る)あなたの知性が神の知性の

ごとくになり、知解対象を理解し掌握できるようになるためである。結果

的に、あなたの理解というものは、あなたの知性の、分有された一性の均

等性にほかならない。したがって、知性的に分有された神の光の均等性も

しくは像において、あなたは理解する力を得たことを知るがよい。推論す

る力、感じる力ももちろん同様である。だが、一性における均等性や繋が

りが大きいほど、その一性はより完全なかたちで分有されるがゆえに、知

性における一性の完成なくして理解と繋がりを増していくことはできな

い。したがって知性が理解と愛に向かうのは、その自然本性を完成させる

ためであり、理性が推論するのも、感覚が知覚するのも同様なのである。


Ex quo evenit quod intellectus sibi intellectuales artes, quae 

speculationes sunt, studet adinvenire pro nutritione, 

conservatione, perfectione ornatuve suo, quibus se iuvare possit. 

Ac uti has speculativas scientias exserit ex lumine participato 

intellectualiter, ita ratio ratiocinandi artes ex lumine rationabiliter 

participato elicit, et sensus sensibiles artes pro nutritione, 

conservatione, perfectione ornatuque sensibilis naturae ex 

sensibiliter participato trahit lumine. Nec ea quae saepe audisti 

neglegas, ut participationem divini luminis in ratione post 

intellectum atque eius medio sic et in sensu per rationem 

concipias.


それゆえ、知性は知の技法(すなわち思弁)を確立しようとする。みずか

らに有益となりうるものを育み、温存し、完成させ、装備するためであ

る。またそうした思弁的な学知が、知的に分有される光から生ずるよう

に、理性は推論の技法を、理性的に分有される光から引き出し、感覚は、

感覚的な本性を育み、温存し、完成させ、装備させるために、知覚の技法

を、感覚的に分有される光から引き出す。あなたがすでに何度も聞き及ん

できたその点を無視してはならない。理性における神的な光の分有は、知

性の後に、知性を介してなされるのだから。また感覚における分有は、理

性によってなされるのだから。


Vides autem, Iuliane pater, quomodo dei similitudo exsistis. 

Humanitas enim in te contracta unitrina est. Nam est unitas seu 

entitas individualiter quidem contracta, in qua aequalitas et 

conexio. Per entitatem enim humanitatis homo exsistis, ita quidem 

quod in ea ipsa entitate sit entitatis aequalitas, iustitia seu ordo 

atque conexio seu amor. Nam secundum aequalitatem unitatis 

omnia, quae in te sunt, iustissime ordinata sunt in ipsa unitate. 

Membra enim omnia iustitiam ordinemque aequalitatis unius tuae 

entitatis habere manifestum est, membra quidem corporali ad 

corpus ipsum, corpus ad animam vitalem, vitalis ad sensibilem, 

sensibilis ad rationalem, rationalis ad intellectualem atque omnia 

ad unitatem humanitatis tuae. Et quomodo in ipsa unitate est 

iustitialis ille ordo, ita quidem et conexio amorosa in unitate. 

Conexio enim in ipsa entitate est, ut omnia sint unus homo. 

Postquam enim conexio ipsa in unitate esse desinit, unum tuum 

humanum esse similiter deficere necesse erit.


けれどもユリアヌス神父よ、あなたはいかに自分が神の似姿であるかを理

解していよう。なにしろ、あなたの中に縮減されている人間性は三位一体

なのだから。というのもそれは、個別に縮減された一体性もしくは実体

で、そこに均等性と繋がりが存するからだ。あなたが人間として存在する

のは、人間性の実体によるのである。またその実体には、実体の均等性、

公正さもしくは秩序、繋がりもしくは愛も含まれている。一性の均等性に

従うなら、あなたの中にあるすべてのことは、その一性のうちに、この上

なく公正なかたちで秩序付けられるからである。あらゆる構成員のうち

に、あなたが有する一つの実体の、均等性の公正さや秩序があるのは明ら

かだ。身体的な四肢はその身体に対して、身体は生命的な魂に対して、生

命的な魂は感覚的な魂に対して、感覚的な魂は理性的な魂に対して、理性

的な魂は知性に対して、そしてあらゆるものはあなたの人間性の一性に対

して秩序づけられるのだから。また、公正なその秩序が一性のうちにある

ように、愛の繋がりもまた一性のうちにある。あらゆる者が一つの「人

間」となるよう、繋がりはその実体のうちにあるからだ。繋がりが一性の

うちにあることをやめた後では、あなたという一つの人間的存在もまた同

様に潰えなくてはならないだろう。



少し掴み所のない訳文になってしまっていて恐縮ですが、少なくともこれ

まで出てきたテーマが繰り返し変奏されていることは窺えます。その上で

一つ新しい要素があるとするならば、それは知性・理性・感覚のそれぞれ

にある種の「技法」(ars)を認め、そうした技法がそれぞれの「完成」

を目指すものだとしている点でしょうか。おのれについて知るということ

は、そうした完成に向けた技法を会得することにほかならない、というふ

うにも読めますね。


これに関連して、一つ面白い論考があります。前から見ている『ノエシ

ス』所収のジャン=マリー・ニコルという研究者の「モンテーニュとパス

カル:コペルニクス以後の無知の知」という論考がそれで、とくにパスカ

ルを取り上げた部分でクザーヌスとの興味深い対比がなされています。そ

れによると、クザーヌスとパスカルは、知識に段階があるという考え方

や、完全な照射(神の光の)に達するための上昇の必要などを説いている

点で共通しており、どちらもそれをヤコブの階梯の神秘的なイメージで表

しているのだといいます。ですが大きな違いもあるようです。


今回の本文にも見られるように、クザーヌスは認知的能力としての知性・

理性・感覚を、段階に分かれてはいても基本的に連続したものと捉えてい

ます。また、それらが相互に陥入していることを強調してもいる、と同論

考は指摘しています。その連続性を支えているのは、神の一体性の表れな

のだ、とも。その意味で、知性は結果的に感覚にまで降りてきて、感覚的

なものを知性のうちにまで引き上げようとする、と解釈できるといいま

す。降下と上昇とが、ここでは相互陥入しているのですね。


一方のパスカルはというと、物体的なもの(感覚)、精神的なもの(理

性、知性)、愛徳的なものを区別しながらも、それらの領域同士のあいだ

には連続性・互換のようなものはなく、それぞれが隔絶していると考えて

いるといいます。クザーヌスの場合には、絶対的に無限の神が、縮減され

たかたちで人間に入り込んでいて、それが人間のおぼつかなさに慰めを与

えているという構図になっているわけですが、同じく無限を論じたパスカ

ルは、絶対的な無と十全とのあいだに置かれた人間は、無限を前にいかな

る和解も安らぎも得られることはなく、慰めを得ることがないと考えてい

るのですね。


神の絶対的な一性を分有することで、人間は無数に中心のある無限の世界

で、とりあえずおのれの一体性を確保しているというのが、クザーヌスの

考えた人間像でした。ではパスカルにとってそうした一体性・中心点はど

こにあるのでしょうか。ここで、クザーヌスにとって出発点となった無知

の知が、パスカルにとっては無限に対峙する人間の一種の慰めになってい

る、と論文著者は論じています。無と全のあいだで揺れ動く人間にとっ

て、もはや中心点はありえず、たえず変動・変化していくしかなく、安定

した点は人間のうちには見いだせません。ですが、そのように動いていく

なかで、人間は神のうちに、そうした確固たる場所を見いだそうとするの

だ、とパスカルは説きます。クザーヌスとパスカルでは、出発点も到着点

も逆になっている、というのが論文著者の見立てです。なかなか興味深い

考察です。


前に見たライプニッツもそうでしたが、パスカルについても、クザーヌス

との違いを通じてそれぞれの理解を深めることができそうです。次回は再

び、この第二部最終章から別のパッセージを見て、締めくくりにしたいと

思います。

(続く)



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