silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.353 2018/04/21

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*お知らせ

いつも本メルマガをお読みいただき、ありがとうございます。本メルマガ

は原則隔週での発行ですが、5月の連休は例年通りお休みとさせていただ

きたいと思います。そのため、次号の発行は連休明け翌週の5月12日を予

定しております。ご承知おきいただけますよう、お願い申し上げます。



------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その3)


今回から、ガン(ヘント)のヘンリクスの場所論について、そのテキスト

をざっと見ていくことにします。ヘンリクスの『自由党論集』第二巻第九

問は、「天使は作用を伴わずに、みずからの実体に即して場に在るか」と

いう問題を扱っています。最初に対立する二つの立場が示されます。一つ

は「天使は潜在的にのみ数量(的大きさ)を伴っているので、数量が必須

となる場に在るには、その数量を場に顕現させること(つまり作用させる

こと)によってでしかない」という作用重視の立場、もう一つは、当時出

たばかりの禁令(1277年のタンピエの禁令)に即して、実体は作用なし

には場に存在しえないとする主張を間違いと見なす実体重視の立場です。


ヘンリクスはこの問題をめぐる解決策を長々と論じていくわけですが、ま

ずは「場所に存在する」という言葉の意味を問題にします。ダマスクスの

ヨアンネスやアリストテレスの教説として、本来の意味での「場所とは、

それが包摂する物体の境界を言う」という見解が示され、その本来の意味

からすれば、天使などの非物体的なものは、数量的な大きさを伴わないが

ゆえに、実体に即して場所に存在することはありえないとされます。


けれども、とヘンリクスは言います。天使の問題を考える場合には「場

所」の意味を拡大しなくてはならないのだ、と。再びダマスクスのヨアン

ネスが引用され、自然な場とは違う「知的な場」というものもある、とい

う議論が取り上げられます。それは、なんらかの存在が、物体的に包摂さ

れるのでなく、知的に包摂される場合にも、それはしかるべき場に存在す

ると見なされるというものです。知解対象を知的に理解する場合、その知

解対象は理解する主体の中に(心的に・精神的に)存在しうるわけです

が、それもまた「場」に存在すると考えることができる、ということのよ

うです。


同じように、霊的存在である天使も、空間的にではなく、知的なかたちで

場所に位置付けられるとされます。天使は二つの場所を同時に占めること

はできず、地上に現れるときには天空にはいなくなるとされます。そんな

わけで天使もまた、なんらかの境界で囲まれなくてはならないのですが、

その「囲まれ方」は当然物体的(数量的)ではなく、あくまで知的(抽象

的・捨象的)だというのですね。ヨアンネスのこの考え方をもとに、ヘン

リクスは霊的存在の在る場所を「数学的な場」と称し、一般的な事物が存

在する「自然な場」と対置してみせます。


自然な場とは、事物が自然な依存関係に置かれ、その事物にとって自然な

位置に在るような場合を言うと説明されています。当時は天動説に従っ

て、地球(大地)は世界の中心だとされていたわけですが、それこそがそ

うした自然な位置の最たるものであるとされています。全体として、一般

的な事物は時空間内にしかるべく位置付けられる、ということのようです

ね。一方の数学的な場とは、事物が場所に依存することなく、それでいて

特定の場にあてがわれる場合を言うといいます。たとえば、連続体から一

点が分離した場合、その一点は連続体に対して、必ずやどこかの場所(上

方とか下方とか)に位置していなければなりません。ですが連続体に対し

てはなんらの依存関係にはないので、連続体の内部からはその点を特定す

ることはできないわけですね。


これこそがまさに、霊的存在の時空間に対する在り方だというのです。時

空間という連続体から切り離されて、無(おそらく連続体の周りは無でし

ょう)の中に島のように点在する、という感じでしょうか(?)。なぜそ

のようになるのかといえば、天使という霊的存在が、人間などとは異なる

限定のされ方をしていて、あくまでその様態に即して、なんらかの場に位

置付けられるからだといいます。こうしてヘンリクスは、天使の本性とそ

の限定のされ方について論じていくことになります。


そこで考察されるのは、天使の「単純さ」がどういうものなのか、という

ことです。現実なるものは、他の事物で構成されているか、あるいは構成

されていないかのいずれかだとヘンリクスは考えます。この場合、より単

純なのは当然後者のほうですが、ヘンリクスはこれを「点」

(punctus)と「単位(一)」(unus)の違いで考えています。どちら

も数量的にはそれ以上分割できないものですが、点には位置がつきまとい

ます。単位にはそうした位置は必要ありません。ということは、付加され

るものが少ないという意味で、点よりも単位のほうが「単純」度が高いと

いうことになります。


天使がもつ単純さというのも、こうした単位の(点ではない)単純さに近

いものだとされます。天使には数量的な大きさというものがなく、その意

味で実体において場に位置づけることは不可能ですが、なんらかのかたち

で場との関係性をもっていなくてはなりません。そのあたり、ヘンリクス

はどのような関係性を考えているのでしょうか。というわけで、この話は

まだもう少し続きます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その3)


ダンテの『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。

ダンテが上げている5つのテーゼ(水が土よりも上にあるという説の説

明)のうち、今回は残り二つを見ていきます(今回はいつも以上にコメン

トも軽めです)。



[VI] Quarto arguebatur sic: Si terra non esset inferior ipsa aqua, 

terra esset totaliter sine aquis, saltem in parte detecta, de qua 

queritur: et sic nec essent fontes neque flumina neque lacus; 

cuius oppositum videmus: quare oppositum eius ex quo 

sequebatur est verum, scilicet quod aqua sit altior terra. 

Consequentia probabatur per hoc, quod aqua naturaliter fertur 

deorsum; et cum mare sit principium omnium aquarum ut patet 

per Phylosophum in Metauris suis, si mare non esset altius quam 

terra, non moveretur aqua ad ipsam terram, cum in omni motu 

naturali aque principium oporteat esse altius.


6. 第四の議論は次のようなものだった。仮に土が水よりも低い位置にな

かったなら、いずれにしてもここで問われているような表面に出ている部

分については、土にはまったく水がなかっただろう。かくして泉も川も湖

もなかっただろう。けれどもわたしたちはそれと逆のことを眼にしてい

る。ゆえに、以上のことが導かれるのとは逆のこと、すなわち水は土より

高い位置に在るということこそ真なのである。この帰結は、水が自然に下

方へと流れることから証明される。哲学者が『気象論』で明らかにしてい

るように、海はあらゆる水のうちで第一の源泉であるのだから、仮に海が

土よりも高い位置になかったならば、水がその土のほうへと動くことはな

かっただろう。水のあらゆる自然な動きには、源が高いところにある必要

があるからだ。


[VII]. Item arguebatur quinto: Aqua videtur maxime sequi motum 

lune, ut patet in accessu et recessu maris; cum igitur orbis lune 

sit ecentricus, rationabile videtur quod aqua in sua spera 

ecentricitatem imitetur orbis lune, et per consequens sit ecentrica; 

et cum hoc esse non possit nisi sit altior terra, ut in prima ratione 

ostensum est, sequitur idem quod prius.


7. 同じく第五の議論は次のようなものだった。海面の上昇や下降で明ら

かなように、水は月の動きに最大限従うと思われる。月の球は偏心してい

ることから、水もまたその球においては月の球の偏心に倣い、結果として

偏心していると合理的に考えられる。最初のことわりにおいて主張したよ

うに、このことは、土よりも高い位置になければ可能ではない以上、前に

述べたことと同じ帰結が得られる。


[VIII]. Hiis igitur rationibus, et aliis non curandis, conantur 

ostendere suam oppinionem esse veram qui tenent aquam esse 

altiorem terra ista detecta sive habitabili, licet in contrarium est 

sensus et ratio. Ad sensum enim videmus per totam terram 

flumina descendere ad mare tam meridionale quam 

septentrionale, tam orientale quam occidentale; quod non esset, si 

principia fluminum et tractus alveorum non essent altiora ipsa 

superficie maris. Ad rationem vero patebit inferius et hoc multis 

rationibus demonstrabitur.


8. これらの理由から、また考慮に値しないほかの理由からも、水はむき

出しになっている土、あるいは居住可能な土地よりも高い位置にあると考

える人々は、たとえそれが感覚や理性に反していようとも、その見解が真

であることを示そうと努めてきた。感覚に関しては、南でも北でも、東で

も西でも、あらゆる地上の川が海に向かって下っていくことをわたしたち

は目にする。もしも川の源泉と、水路が海面よりも高くなければ、そうは

なっていなかったろう。理性に関しては、以下に明らかにするように、多

くの理由からそのことが証されるとされる。



第6節はもっぱら観察的な事実からの論理的推論ということになります。

川などが海に向かって地上を流れる以上、土よりも水は高い位置になけれ

ばならないということになる、というのですね。この節の後半に出てくる

MetaurisはMeteorisで、『気象論』のことです。独訳本の注によれば、

このあたりの議論はアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナス、さ

らにはサクロボスコのヨハネスなどの天空論解釈が下敷きになっているの

だとか。


続く7節目では、月の満ち欠け(動きと称しています)と潮の満ち引きに

ついて触れています。再び独訳の注にありますが、『神曲』天国篇の第一

六歌(82-83)にも潮の満ち引きが言及されています。当時はすでに、月

と潮との関連性から、その因果関係が議論されていたようです。面白いの

は、月の球も偏心しているという点ですね。これまで5つ挙げられてきた

テーゼのうちの一番最初の議論に、水の円周の中心がずれているという話

がありましたが、ここではそれが月の球に倣ったものだとされています。

この天球の偏心(天球ごとに中心がずれている)説については、アルベル

トゥス・マグヌスのほか、サクロボスコの天球論に見られるということで

す。これはそのうち確認したいと思っています。


8節目に関連して、独訳注では面白い点を突いています(笑)。ダンテが

顧みていない議論の一つには、おそらくこれがあっただろうということ

で、エギディウス・ロマヌスの議論が紹介されています。そこでは、潮の

満ち引きに関連して「もし海面が上昇・下降しなかったなら、潮の流れや

返す流れも生じなかっただろう」といったことが議論がされているような

のです。7節目の議論に付随する些末な話ということで、ここでは一蹴さ

れているのでしょう。感覚に関して反証的に示されている話は、水は下の

土に向かって流れるのではなく、海に向かって流れるのだという、経験論

的な見識ですが、これはトマス・アクィナスが天空論で述べているといい

ます。また、より重要なソースして挙げられているのが、レストロ・ダレ

ッツォ(13世紀イタリア)の『世界の構成』という書です。これについ

てもそのうち見てみたいところです。


以上、最初のテーゼの表示部分はこれで一通り見たことになります。これ

に続いて、今度はそれらに対する異論が挙げられていきます。次回はそこ

から見ていきます。

(続く)



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定です。


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