silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.356 2018/06/09

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その6)


今回は、アクアスパルタのマテウスによる天使の場所論を、もとのテキス

トでもって見てみましょう。マテウスのテキストは、正式には『離在的

魂、至福の魂、断食、法の諸問題』(Quaestiones de anima separata, 

de anima beata, de ieunio et de legibus)という長いタイトルです

が、ここでは『離在的魂についての諸問題』とします。これの問題2が、

ここで見ていくテキストで、「第二に、離在的魂は場所から別の場所へと

移動できるかを問う」(Secondo quaeritur, utrum anima separata 

possit movere se de loco ad locum)という章題がついています。


形式としては、通常のスコラ学的肯定と否定の論理構成となっています。

まず(1)この問いへの否定の議論が列挙され、次に(2)異論が示さ

れ、続いて(3)本人の見解、最後に(4)冒頭の否定論への反論が示さ

れるというかたちです。ここではさしあたり(3)の本人の見解を中心に

見ていきたいと思います。


場所から場所への魂の移動について、マテウスはまず、それが古くから

様々な見解が寄せられてきた問題だと述べています。とりわけ次のような

見解が問題だとし、それを批判していきます。それは、魂や霊的実体はみ

ずからの本質ゆえに場所を占めるのではなく、作用によって場所を占める

のだという見解です。タンピエの禁令が禁じ、トマスが唱えていた見解で

すね。マテウスはそれに対してこう反論します。もしその説が正しいなら

ば、場所から場所への移動の場合、作用は二つの場所でなされなくてはな

らない。けれども霊的実体は被造物である以上、被造物の制約から、二つ

の場所で同時に作用をなすことはできない。結果的にその作用は連続した

作用であるほかない(そうであるなら、場所の移動が成立しない)。ま

た、そもそも作用によって場所に存在するのであれば、みずから動くこと

ができないではないか……。


この「作用によって場所に存在する」(以下「作用論」と呼びましょう)

という議論がよりどころとするのは、アウグスティヌス(「全体が部分よ

り大きいもののみが場所に存在しうる」)、ボエティウス(「非物体的な

実体は場所にはありえない」)、そしてダマスクスのヨアンネス(「天使

は知解対象としての様態で場所に在るのであって、姿や形を得るようには

場所に限定されていない」)といった権威です。しかしながらマテウス

は、むしろそれらの権威をもとに、「本質によって場所に存在する」(以

下「本質論」と呼びましょう)という議論を組み立てようとします。


作用論の主軸は次の二点にあるとマテウスは言います。一つは、場所とそ

こに置かれるものとの間に、なんらかの比例の関係がなければならないと

いう前提です。離在的実体が分割不可能で単一であるのに対して、場所は

分割可能な量をなしているため、両者のあいだには比例の関係はありえま

せん。離在的実体が場所に在るためには、場所に適用可能ななんらかの媒

体を必要とすることになるわけです。で、それが作用なのだというわけで

すね。もう一つは、離在的実体は場所に依存していないという前提です。

物体的な場所が捨象されても、離在的実体はなんら変わることなく存続す

るとされます。したがって離在的実体は、本質によって場所に在るのでは

ないことになります。作用論によれば、離在的実体が場所から場所に移る

には、それぞれの場所に作用を及ぼす、つまり働きかける必要がありま

す。


マテウスは、作用論は一頃もてはやされたが、パリ司教タンピエの禁令に

よってその見解は破門に値するとされ、今や擁護できなくなったと述べて

います。一つには、その考え方は聖書の記述に抵触するからだとマテウス

は言います。天地を創造した後、神は天を天使たち(聖霊)で満たした、

という創世記の一節です。とするなら、それらは作用だけで場所に在ると

は考えられないというのですね。そのそも場所に存在することは、場所に

働きかけることよりも前になされなくてはならないのではないか、とマテ

ウスは指摘しています。


続いてマテウスは自説として、離在的実体が作用だけでなく本質によって

も場所に在ると述べ、段階的ともいえる4つの議論を列挙します。1つめ

は、離在的実体は世界の外にではなく、世界の中に在るしかない、という

議論です。そのことは世界の構造そのものから論証されるとしています。

2つめは、離在的実体が被造物である以上、それが世界の中に在るとした

ら、遍在はできず、限定されたどこかの場所に局在しなくてはならないと

いう議論です。3つめは、もし離在的実体がどこかの場所に局在するのだ

としたら、神の恩寵によってその場所は予め定められているはずだという

議論です。そして4つめは、神はその正義にもとづき、被造物のメリット

に応じて場所を区別している、という議論です。栄誉あるものには天が、

罪あるものは煉獄や地獄が、そして試練もしくは支援のためには「現世」

があてがらわれるというわけです。


この4つの議論に従うなら、天使は世界の中にあり、遍在はできず、定め

られた場所に、そのメリットに応じて限定されているわけなので、それは

当然ながら作用によってではなく本質によって場所に存在しているはずだ

ということになります。また、もとの場所と異なる場所に存在しうるのだ

とすれば、天使はみずから場所から場所へと移動できなくてはならない、

ということにもなります。


マテウスは議論の支えとして、とくにダマスクスのヨアンネスをたびたび

引き合いに出しています。ヨアンネスの重要性はとても印象的ですね。い

ずれにしてもここまでは、あくまで離在的実体が場所に存在する場合、そ

れが作用ではなく本質により存在するということが議論の中心で、天使は

場所にどのような様態で存在するのか、といった問題は扱われていませ

ん。それについて触れられるのはこの後になりますが、それはまた次回に

見ていくことにします。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その6)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』の続きです。今回は

第13節になります。これも第12節と同様に長めなので、適宜に改行を入

れておきます。また、ここにも図が挿入されています。これもブログのほ

うに掲げておきました(http://www.medieviste.org/?p=9445)ので、

ご参考にしてみてください。では早速見ていきましょう。



[XIII]. Ad destructionem secundi membri consequentis principalis 

consequentie, dico quod aquam esse gibbosam est etiam 

impossibile. Quod sic demonstro: Sit celum in quo quatuor cruces, 

aqua in quo tres, terra in quo due, et centrum terre et aque 

concentrice et celi sit D. Et presciatur hoc, quod aqua non potest 

esse concentrica terre, nisi terra sit in aliqua parte gibbosa supra 

centralem circumferentiam ut patet instructis in mathematicis, si 

in aliqua parte emergit a circumferentia aque. Et ideo gibbus aque 

sit in quo H, gibbus vero terre in quo G; deinde protrahatur linea 

una a D ad H, et una alia a D ad F. //


13. 主要な議論のうちの第二の帰結を論破するため、私は水がコブ状に突

き出ているということはありえないと述べよう。その論証は以下の通りで

ある。4つの十字で示したものを天球、3つの十字が水の圏、2つの十字が

土の圏、そして土と水と天球の中心がDであるとしよう。さらに、土が任

意の場所で水の円周の上部に出ているのだとすれば、数学を学んだ者には

明らかなように、水の圏に対して土が任意の場所でコブ状にせり上がって

いるのでない限り、水と土とが同心円をなすことはありえない、と予め知

られているとしよう。ゆえに水のコブがHにあるものとし、土のコブがG

にあるものとしよう。最後に、DからHへと一つの直線を引き、またDか

らFへと別の直線を引いておこう。


Manifestum est quod linea que est a D ad H est longior quam 

que est a D ad F, et per hoc summitas eius est altior surnmitate 

alterius; et cum utraque contingat in summitate sua superficiem 

aque, neque transcendat, patet quod aqua gibbi erit sursum per 

respectum ad superficiem ubi est F. Cum igitur non sit ibi 

prohibens si vera sunt que prius supposita erant, aqua gibbi 

dilabetur, donec coequetur ad D cum circumferentia centrali sive 

regulari, et sic impossibile erit permanere gibbum, vel esse; quod 

demonstrsri debebat. //


すると、DからHに引かれる直線が、DからFに引かれる直線よりも長いの

は明らかである。またそこから、その最高部はもう一方の最高部よりも高

いことになる。両者はその最高部で水の表面に接するわけだが、表面を超

越しはしないのだから、水のコブは、Fが位置する表面に対して高い位置

にあるであろうことは明らかである。したがって、次のことが真であって

も、支障をなすことなどないであろう。上で示した前提から、コブの水

は、Dに向かって、中心の円周もしくは本来の円周から等距離になるまで

流れてしまうであろう。かくしてコブが残り続ける、あるいは存在するこ

とは不可能となる。まさしくこれが、論証されなくてはならないことであ

った。


Et preter hanc potissimam demonstrationem, potest etiam 

probabiliter ostendi quod aqua non habeat gibbum extra 

circumferentiam regularem, quia quod potest fieri per unum, 

melius est quod fiat per unum quam per plura: sed totum 

suppositum potest fieri per solum gibbum terre, ut infra patebit; 

ergo non est gibbus in aqua, cum Deus et natura semper faciat 

et velit quod melius est, ut patet per Phylosophum primo De Celo 

et Mundo, et secundo De Generatione Animalium. Sic igitur patet 

de primo sufficienter videlicet quod impossibile est aquam in 

aliqua parte sue circumferentie esse altiorem, hoc est remotiorem 

ad centrum mundi, quam sit superficies huius terre habitabilis; 

quod erat primum in ordine dicendorum.


また、この最も重要な論証以外にも、水が本来の円周の外にコブをもつ謂

われはないことを、蓋然的に示すこともできる。というのは、一つのもの

によって担われうることは、複数のものによって担われるよりも一つのも

のによって担われるほうがよいからである。以下に明らかなように、目下

のすべての要件は、単一の土のコブがあれば担われうる。すると水にはコ

ブがないことになる。なぜなら、哲学者が『天空・世界論』第一巻と『動

物生成論』第二巻において明らかにしているように、神と自然はよりよき

ことを行うし、また望むのだからだ。したがって、最初の点について次の

ことは十分に明らかである。すなわち、水がおのれの円周の任意の箇所

で、居住可能な土の表面よりも高い位置にあること、つまり、世界の中心

からいっそう離れていることなど、ありえないのである。以上が、言われ

るべき筆頭の議論であった。



今回は、先の第9節で示された4つの論点のうち、第二の論点、つまり

「表面に出ている土は、水の表面よりも高い位置にある」という議論を扱

った箇所になります。コブ(gibbus)という言い方をして、表面上にせ

り出している部分に言及しています。少しわかりにくいですが、コブのよ

うに出ている部分は土にはありうるけれども、水にはありえない、という

のが論証すべきテーゼになっています。


その論証に、ダンテは二つのアプローチを適用しています。一つめは図を

用いた数学的・幾何学的な議論です。水の圏と土の圏が同心円をなしてい

る(中心を共有している)ことを前提にし、同心円であるための条件とし

て、水がせり上がっている場合には土もまた同様にせり上がっていること

が必要と推論するのですが(この推論は問題含みですね)、水はもとより

不安定な存在であることを持ち出し、それがせり上がっているならば低い

方へと流れてしまうとして、結果的に水のコブ(せり上がり)が安定的に

存在することはありえないと結論づけています。


上の前提部分は、「土と水のそれぞれの圏が中心を共有している(偏心し

ていない、つまり中心がずれていない)ならば、圏同士は同一の形状で重

なるはずだ」というのが、おそらくはその意味するところではないかと思

われます。ですがそうすると、この議論で「水がコブ状にせり上がること

はない」が導かれるなら、「土はコブ状になりうる」も否定されてしまい

そうです。ですが土が水よりも高いところにせり出しているのは現象とし

て確認できるわけで、ならば今度は「同一形状で重なる(つまり中心を共

有している、同心円である)」という前提そのものが否定されてしまいそ

うなものです。ですがこれも、直前の第12節の論証で否定されていま

す。となると、「土は例外的にコブ状になりうる」ということに落ち着く

しかなさそうです。中世のテキストによくあるように、本文はいささか言

葉が足りない(省略されている?)感じもし、このあたりは今一つすっき

りとはしません。


ダンテが用いているもう一つの論証が、あるいはその補遺になっているの

かもしれません。そちらは「神・自然は最良の事しか行わない、無駄はな

い」との中世的な世界観を前提とした議論です。その前提から、土が水の

上に出ているとするなら、土のコブだけがあればよく、水のコブはそもそ

も必要とされない、ということを「蓋然的」議論として(つまりありそう

な議論として)示しています。しかも「水のコブは必要ではない」という

議論が、上の「神は最良のこと、よりよきことしかなさない」という前提

(本文の三段論法的の構成では小前提)のせいで、「水のコブはありえな

い」という議論にシフト(あるいはすり替え?)されている点が、現代の

私たちからするといくぶん奇異な感じに思えますね。


この「神は最良のことしかなさない」というテーゼは、独訳注によるとダ

ンテの著作を貫く基本的な考え方だといい、大元の出典はアリストテレス

『天空論』第一巻4章(271a33)、『動物生成論』第二巻1章

(731b14-15)とされています。ですが、前者には確かに「神と自然は

無駄には作らない」という一文がありますが、後者にはそれといった文章

は見当たらないようにも思われるのですが……版などが違うせいなのでし

ょうか?


同じく独訳注によれば、「一つでなしうることは、多でなすよりも一つで

なすほうがよい」という原則は、ダンテが『帝政論』で用いている議論で

もあるということです。これも大元の出典はアリストテレスで、『動物部

分論』第三巻4章(665b)、『自然学』第一巻4章(188a17-18)など

が挙げられています。前者にはやはりピンとくる箇所が見当たらないので

すが、後者には、「より少ないもの、有限であるものを取るほうがいっそ

うよい」とあります。いずれにしてもここには、オッカムの剃刀よろし

く、倹約的といいますか、同じ事をなすのなら可能な限り少ない数でなす

ほうが効率的であるという、一種の経済的な発想が見られます。

(続く)



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