silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.359 2018/07/21

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*お知らせ

いつも本メルマガをお読みいただき、誠にありがとうございます。本メル

マガは原則として隔週での発行ですが、例年7月下旬から8月中旬までは

夏休みとさせていただいております。ですので、今年も次回発行は変則的

に8月25日を予定しております。皆様のご理解のほど、お願い申し上げま

す。



------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その9)


メディアヴィラのリカルドゥスによる離在的存在の場所論を見ているとこ

ろです。前回は全体をまとめた解説序文を見てみました。今回からは個別

の議論を追ってみることにします。ここで見ているアンソロジー本収録の

リカルドゥスのテキストは、「『命題集』第一巻注解』から、第三七部、

第二項、問題1から4」です。ここで扱われる4つの問題は、前回の解説で

取り上げられた4つの問題に対応しています。(1)天使はどこにもいな

いか、(2)空間にいるとするなら、それは分割不可能な空間にいるの

か、(3)同時に複数の場所にいられるか、(4)複数の天使が同時に同

じ場所にいられるか、の4つです。ここではとくに前半の問題1と2を中心

に見ていくことにします。


さっそく問題1です。「天使はどこにもいないのか」という問いをめぐ

り、まずはそれを肯定する議論、次にそれを否定する異論、そして著者に

よる見解が示されていきます。このあたりはスコラ学の基本的な議論形式

です。さてその著者の見解ですが、まずは一部の論者の見解として、場所

にあるものはすべて(場所にあるものと)共通尺度をもつことによって、

あるいは形成作用によって、場所に存在するという考え方が示されていま

す。たとえば魂は、それが身体を現実態として形成する限りにおいて場所

にとどまれる、というのですね。また場所にある事物の任意の点は、やは

り場所にあることになります。


これらは要するに作用において場所にあるという教説です。これに対して

は権威と理性から反論が突きつけられるとリカルドゥスは言います。権威

というのは、もちろん教会の権威で、まずは創世記やストラボンによるそ

の注解などが引かれています。次いでサン=ヴィクトルのフーゴー、そし

てそれに続きエティエンヌ・タンピエによる例の1277年の禁令が言及さ

れます。


そしてさらに、アリストテレスの教説をベースとした議論が紹介されま

す。天使がなんらかの物体を動かすのは明らかで(天球は天使によって動

かされている、とされています)、自然の秩序からすると、動因から動体

に力が加えられるのは、動体が動き始める前でなくてはなりません。とす

るなら、天使が物体に働きかける力も、物体が動き始めることに先行して

いなくてはなりません。天使のその力が天使の根(本質ということでしょ

うか)にあるのだとするなら、物体への働きかけるよりも前にその力が物

体に適用されなくてはなりません。その力がその根にではなく、物体の側

にあるのだとしたら、まずは天使の力によって物体が作られなくてはなら

ないことになります。つまりいずれであろうと、天使の力の作用は、物体

の動きに先行していなくてはなりません。そして力が作用するにはその場

にいなくてはならない以上、自然の秩序からして、天使は予め物体の場所

にいなくてはならなくなります。


ですから天使は、物体のように場所に外接的に囲まれることはなくとも、

その場所に限定づけられるかたちで(つまりそのままではよその場所には

ありえないということ)場所に現前していなくてはならない、とされま

す。ではなぜ、天使は場所に限定づけられるのか、とリカルドゥスは問い

ます。それにはいくつかの原因があります。まず作用因として、神の意

志・実行力・潜在性がありるとされます。天使が場所に限定づけられるの

は、実質的には神がそう望み、それを実現できるからだというわけです。


次に目的因もあるとされます。それは世界の最も大きな統一性にあるとさ

れます。天使が場所に限定づけられるのは、天使が場所に対して何かを実

現することが多いからだといわれますが、その最終的な目的というのは、

全体の統一的秩序を図ることにある、というわけですね。形相因もまたあ

ります。リカルドゥスによれば、それは場所との同時性、あるいは場所に

あるなんらかの事物との同時性だといいます。天使が場所に限定づけられ

るのは、天使が形相的に、場所と同時にあること、ないしは場所にある任

意の物体と同時にあることが定められているからなのだというのですね。


この形相因はリカルドゥス独自の見解とされるわけですが、残念ながらこ

のテキストにおいてはこれ以上深められているわけではありません。本文

はこの自説の提示のあと、自分で挙げた一連の異論に自説の立場から反論

していくことになりますが、そこでわずかにこの形相因について触れられ

ているだけです。というか、この形相因を追加したのは、異論への反論を

しやすくするため、という感じもします。こうして質料因を除く三因を用

意したことで、天使が作用のみでなく、本質において場所に限定づけられ

ているという説の根拠はいっそう強化されることになるようです。


次回は問題2について見ていきます。お楽しみに。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その9)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んでいます。今

回は18節です。前の17節に続き、先に示した異論への反論を試みていま

す。前の節では、土は重さが均質でないことがあるのだから、数量的に調

整されるという議論は成り立たないと論じていました。今回の箇所では、

17節で示した議論について、そうは言ってもやはりその反論にも難があ

るとの「自己つっこみ」を行っています(笑)。今回の節も長いので、例

によって適宜に段落分けをしています。ではさっそく見ていきましょう。



[XVIII]. Sed talis instantia nulla est; procedit enim ex ignorantia 

nature homogeneorum et simplicium. Corpora enim homogenea 

et simplicia-sunt homogenea ut aurum depuratum, et simplicia ut 

ignis et terra-regulariter in suis partibus qualificantur omni naturali 

passione. Unde, cum terra sit corpus simplex, regulariter in suis 

partibus qualificatur, naturaliter et per se loquendo; quare cum 

gravitas insit naturaliter terre, et terra sit corpus simplex, necesse 

est ipsam in omnibus partibus suis regularem habere gravitatem, 

secundum proportionem quantitatis; et sic cadit ratio instantie 

principalis. 


18. しかしそのような返答はまったく説得力を欠いている。自然の均質

性・単純性を無視しているためにそうなっている。物体は均質かつ単純ー

ー純金のように均質、火や土のように単純ーーであり、どの部分をとって

みても、あらゆる自然の事象に対して一定の質を保っている。ゆえに、土

は単一の物体である以上、その各部分においても一定の質を保っている

と、自然に、かつおのずと言われるのである。重量はなんらかのかたちで

土に自然に内在し、土は単一の物体であるのだから、そのあらゆる部分

で、数量に応じて一定の重量でなくてはならない。このように、最初の返

答の理は成立しない。


Unde respondendum est quod ratio instantie sophistica est, quia 

fallit secundum quid et simpliciter. Propter quod sciendum est 

quod Natura universalis non frustratur suo fine; unde, licet natura 

particularis aliquando propter inobedientiam materie ab intento 

fine frustretur, Natura tamen universalis nullo modo potest a sua 

intentione deficere, cum Nature universali equaliter actus et 

potentia rerum, que possunt esse et non esse, subiaceant. Sed 

intentio Nature universalis est ut omnes forme, que sunt in 

potentia materie prime, reducantur in actum, et secundum 

rationem speciei sint in actu; ut materia prima secundum suam 

totalitatem sit sub omni forma materiali, licet secundum partem sit 

sub omni privatione opposita, preter unam. Nam cum omnes 

forme, que sunt in potentia materie, ydealiter sint in actu in 

Motore celi, ut dicit Comentator in De Substantia Orbis, si omnes 

iste forme non essent semper in actu, Motor celi deficeret ab 

integritate diffusionis sue bonitatis, quod non est dicendum. 


ゆえにその返答の理は詭弁であると答えなくてはならない。なぜなら、相

対的なものと絶対的なものとを取り違えているからだ。それゆえ、普遍的

な自然はその目的において誤ることはない、と知らなくてはならない。ゆ

えに、個別的な自然はときおり質料的な不従順さのせいで意図する目的を

達成できないことがあるとしても、普遍的な自然は、いかなる場合でもそ

の意図から逸れることはありえない。普遍的な自然は、事物の現実態も潜

在態も、つまり存在しうるものも存在しえないものも等しく基礎付けるか

らだ。しかしながら普遍的な自然の意図は、第一質料の潜在性のもとにあ

るすべての形相が現実態へといたり、種的な理にもとづいて現実態となる

ことにある。第一質料はその全体として、すべての質料的形相のもとに置

かれるのである。たとえ部分においては、一つの形相をのぞき、対立する

あらゆる形相の欠如のもとに置かれるにせよ。質料の潜在態にあるあらゆ

る形相は、注解者アヴェロエスが『球の実体について』で述べたように、

イデア的に天空の動者のもとで現実態をなしており、もしそうしたすべて

の形相が常に現実態にあるわけではないのであれば、天の動者はその善意

の完全な拡散をし損なうことになるが、そのように述べるわけにはいかな

い。


Et cum omnes forme materiales generabilium et corruptibilium, 

preter formas elementorum, requirant materiam et subiectum 

mixtum et complexionatum, ad quod tanquam ad finem ordinata 

sunt elementa in quantum elementa, et mixtio esse non possit ubi 

miscibilia simul esse non possunt, ut de se patet; necesse est 

esse partem in universo ubi omnia miscibilia, scilicet elementa, 

convenire possint; hec autem esse non posset, nisi terra in aliqua 

parte emergeretur, ut patet intuenti. Unde cum intentioni Nature 

universalis omnis natura obediat, necesse fuit etiam preter 

simplicem naturam terre, que est esse deorsum inesse aliam 

naturam per quam obediret intentioni universalis Nature; ut 

scilicet pateretur elevari in parte a virtute celi, tanquam obediens a 

precipiente, sicut videmus de concupiscibili et irascibili in homine; 

que licet secundum proprium impetum ferantur secundum 

sensitivam affectionem, secundum tamen quod rationi obedibiles 

sunt, quandoque a proprio impetu retrahuntur, ut patet ex primo 

Ethicorum.


元素の形相を除き、生成・消滅が可能なあらゆる質料的形相は、元素の形

相を除き、質料や基体の混合と複合化を必要とするが、そのため、元素で

ある限り元素はその目的に向けて秩序づけられる。またおのずと明らかな

ように、混合の可能性がないところでは混合もありえない。それゆえ、あ

らゆる混合可能性、つまり元素の混合可能性が適合しうるような場所が、

宇宙において必要になる。けれどもそれは、先に見て明らかになったよう

に、土がどこかの場所で突き出ていない限りは可能ではない。ゆえに、す

べての自然は普遍的な自然の意図に従うのだから、下方の存在である土に

は、普遍的な自然の意図に従うために、自然な単純さを超えて他の本性が

内在する必要があった。つまり、部分的に天空の力によって上昇するので

ある。人間の欲望や怒りに見られるように、いわば命じることで従うので

ある。人間の場合、みずからのインペトゥスに従い、感覚的な情動によっ

て駆り立てられるが、一方で『倫理学』第一巻から明らかなように、理性

に従いうる場合にはそれにもとづき、ときにみずからのインペトゥスから

連れ戻されるのである。



まず最初の段落の冒頭にあるinstantiaですが、ここでは返答の意になり

ます。17節にあった議論は、土(元素としての)の均質性・単純さを無

視しているので、それは詭弁ということになる、というのですね。ではど

のような議論でもって、土と水は同心円をなしていながらも土が隆起して

いる場合があることを説明づければよいのでしょうか。ここで重要なの

が、二つめの段落に出てくるsecundum quid et simpliciterです。これ

は「相対的なものと絶対的なもの」ということで、個別と普遍に対応して

います。


この議論で改めて注目されるのは、普遍における自然の意図を、個別の自

然がときおり質料のせいで反故にすることがあるという考え方です。天空

の動者、つまりは神は現実態も潜在態も司っており、普遍的な自然の意

図、つまり第一質料がすべて形相によって現実態をなすという目的をもっ

ているとするなら、その意図の側に欠陥があるとは言えないことになりま

す(さもないと、それは神の否定につながっていくからですね)。そのた

めどうしても、質料の側がそうした不確定要素をなしていると考えるほか

ありません。


質料形相論の大枠を復習しておくと、第一質料は純粋な潜在態とされ、形

相によってそれに現実態が与えられることで、様々な事物が成立していき

ます。形相はいわばかたちを与える原理、質料から現実態を切り出す原理

として作用します。ダンテはここで、質料と合わさった形相を質料的形相

と表現しているようです。事物として成立するのは、質料が一つの形相を

得て現実態となったものですが、その事物は同時にその一つの形相以外の

形相がない状態、ということでもあります。また形相は、神のもとではイ

デアとしてある種の現実態をなしているとも言われます。完全に統制され

た原理ということですね。一方で質料は、ドゥンス・スコトゥスなどが言

うようにある程度実定的な存在ともされますが、形相がなければ事物の現

実態にはなれず、いわば開かれた潜在性を保ち続けるために、統制された

原理を場合により逃れうる不確定な要因でもあります。


土の隆起はしたがって、そうした不確定な部分から説明されることになり

ます。生成・消滅が繰り返される地上世界は、質料もしくは基体

(subjectus)が混合し複合化する場所ではあるわけですが、そこでは土

の元素はほかよりも下にあるとされるので、そのままでは下方に眠ってい

るだけになってしまいかねません。ですからそこに天空の力が加えられ、

上方に引き上げられなくてはならないというのです。それが、本来的に下

にあるはずの土が、地表に出ている所以だということになるのでしょう。


本文では、それを説明する喩え、もしくは例として、人間が理性に従いな

がらもインペトゥス(衝動、激情)に駆り立てられることもあるというこ

とが言及されています。これもまた、質料的(身体的)な揺れを表してい

るわけですね。内在的な原理に従いながらも、ときに外的な、別様の力を

受けて、内在的な原理とは別様の性質が発現することがありうるという推

論を、人間を例に説き、土の隆起の説明へと繋げています。


今回の箇所はこのように、ダンテが知識としてもっていた、当時の質料形

相論が重要な役割を果たしています。アリストテレス以来のそうした質料

形相論の伝統や、とりわけアヴェロエスなどの注解者による影響などにつ

いて、独訳の注では長く解説されていますが、煩雑な話になってしまうの

でここでは割愛せざるをえません。押さえておくべきは、そうした形而上

学的な議論を自然学的な現象の説明への適用しようとする際の、上で示し

たような推論の仕方でしょう。現代のわたしたちからすると奇異な話にも

思えますが、当時はそれが権威的な議論として認識されていました。知の

枠組みや体系といったものが、どのように知的な思考を方向づけるのか、

どれほどの縛りをもたらすのかを、わたしたちはここからも学ぶことがで

きると思います。


次回は19節を読んでいきます。お楽しみに。

(続く)



*本マガジンは原則隔週の発行ですが、次号は夏休み後の08月25日の予

定です。


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