silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.361 2018/09/08

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その11)


メディアヴィラのリカルドゥスによる、離在的実体が占める場所について

の論を数回にわたり見てきました。前回のところでは、物体的な大きさと

は次元の異なる「霊的な大きさ」という概念が出てきました。それにより

リカルドゥスは、離在的実体が「単純さ」で括られることを根拠に、場所

には存在できないとする議論を一蹴できるようになったのでした。ですが

この霊的な大きさというのは今一つピンと来ない感じもします。どうやら

そこには、リカルドゥスも属していたフランシスコ会派の質料形相論が大

きく影響しているようなのです。


割と最近のものですが、アニク・シアンキーヴィッツ=ペパン「メディア

ヴィラのリカルドゥスにおける霊的質料と位置特定」(Matiere spirituel 

et localisaiton chez Ricard de Mediavilla)という論考(スアレス=ナ

ニ、バリアーニ編『マテリアーー中世思想・文化研究の新たなパースペク

ティブ』、sismel刊、2017所収)によると、14世紀ごろのフランシスコ

会派においては、可能態とされていた質料になんらかの最低限の現実態が

ありえ、また現実態を与えるものとしての形相にもなんらかの可能態が含

まれうると考えられていたといいます。そこから、任意の形相にはどこか

未完成の部分があり、それを他の形相が補うかたちを取り、結果的に前者

の未完成の形相を質料、補う側の形相をそれに対する形相というふうに考

えることができるという、いわゆる形相の複数性の議論が出てきました。


これが敷衍されるかたちで、霊的なものにも形相と質料がありうるという

話になっていくわけですね。霊的なものにも形相と質料があるということ

になれば、形相と質料とは物体におけるのと同じ位相的関係に置かれ、物

体の性質にアナロジカルな性質が、霊的なものにも付与できることになり

そうです。そうした性質の一つには大きさが考えられます。こうして、霊

的なものもなんらかのかたちで場所を占める、場所を移動するなどのこと

ができるとされるのですね。


かくしてリカルドゥスによれば、あらゆる被造物(物体的か霊的かを問わ

ず)は、形相と質料から成るがゆえに、場所的な変化への、あるいは運動

への潜在性をもつということになります。上の論考によれば、リカルドゥ

スの場合にはこのように、質料形相論と運動の概念(ゆえに場所への特定

の概念)は一体のものとなっているようです。そのこと自体はフランシス

コ会の伝統、あるいはアウグスティヌス主義の伝統に則していたとされま

すが(ドゥンス・スコトゥスなどは、霊的質料は純粋な潜在態ではないと

していったんそうした概念を撤回した経緯があります)、リカルドゥスは

それを改めて大きく取り上げ、運動との一体性を強調して浮上させたとい

うことができそうです。



さて、ここから今度は別のフランシスコ会士、ペトルス・ヨハネス・オリ

ヴィの場所論へと進んでいきたいと思います。オリヴィは前にも取り上げ

たことがありますが、当時のフランシスコ会において清貧をめぐる論争の

当事者として有名だった人物です。ある意味先鋭的な考え方をもつ人物だ

ったようで、死後にも周りの信奉者が多く、著書が異端的だとして焚書に

あったりしています。ですが、先鋭化されていたとはいえ、その思想はフ

ランシスコ会内部の思想的潮流の一つを明らかに体現するものだったよう

に思えます。


さて、いつものようにまずは冒頭の解説部分から見ていきましょう。オリ

ヴィが論じる天使の局在論は、『命題集』第二巻への注解書の問題32に

あります。同書のその部分は、上のリカルドゥスの注解書とほぼ同時代に

書かれたものとされています。この問題32は「天使の実体は物体的な場

所にあるかどうかを問う」との表題になっており、多少とも複雑な構成の

議論になっているようです。まずはトマスの「働きかけによる場所への局

在」議論、続いて存在もしくは本質による局在の議論(ボナヴェントゥラ

からガンのヘンリクス、アクアスパルタのマテウスまで)を振り返った

後、オリヴィ本人の見解が示され、そこではいくつかの主要な議論でもっ

て、天使は存在によって場所に特定されるというテーゼが擁護されます。

さらには副次的な議論もいくつか加えられて、議論は閉じられるという流

れのようです。


ではそのオリヴィのスタンスはどのようなものだったのでしょうか。全体

としてはほかのフランシスコ会系の論者に似ているものの、天使はその存

在によって場所に位置付けられるという議論の擁護に、オリヴィの独自性

が見られる、と解説序文の著者は述べています。オリヴィは基本的に、霊

的被造物(天使)が場所に位置付けられることは、宇宙の秩序における存

在論を決定づけている(そうした議論はアクアスパルタのマテウスにすで

に見られました)ばかりか、そうした霊的被造物の行動、あるいはその認

識や意思というかたちでの現実世界との関係をも決定付けている、と論じ

ているようです。


そうした霊的被造物を場所へと位置付けている基盤は何なのでしょうか。

解説序文によれば、オリヴィは被造物を内的に特徴付ける三つの関係性を

引き合いに出しているといいます。すなわち、1. 現前、2. 行動、3. 運動

といった関係性です。たとえば一つめはこういうことです。被造物が置か

れる世界は、異なる事物同士の必然的な共存が前提となっています。そう

した事物同士の必然的結びつきを、オリヴィは一つの「完成」形であると

見なします。それぞれの事物(被造物)は、実はいずれも部分的なもので

しかなく(十全であるのは神だけなのですね)、それを補うために他の事

物を必要とし、それらが合わさるかたちで完成をもたらすのだ、というこ

とです。このことが、それぞれの事物の在りようを定めている、とされま

す。すると天使についても、それが被造物である限りにおいて部分的なも

のでしかないがゆえに、他の事物との関係性をもたざるをえず、したがっ

て抽象的ではない、いわばリアルな場所への位置付けがなされなくてはな

らないということになるのだ、と。場所との関係は被造物すべての存在上

の特徴をなしているわけですね。


こうして、世界に現前する限りにおいて天使は場所に位置付けられなくて

はならなくなります。残る二つについてもまとめておきたいのですが、少

し長くなりそうなので、とりあえず次回に持ち越すことにします。また、

その後でオリヴィのテキストそのものも、少しばかり見ていくことにした

いと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その11)


ダンテの書を読んでいます。今回は第20節です。例によって適宜改行を

入れています。では早速見ていきましょう。



[XX]. Restat nunc videre de causa finali et efficiente huius 

elevationis terre, que demonstrata est sufficienter; et hic est ordo 

artificialis, nam questio 'an est' debet precedere questionem 

'propter quid est'. Et de causa finali sufficiant que dicta sunt in 

premeditata distinctione. Propter causam vero efficientem 

investigandam, prenotandum est quod tractatus presens non est 

extra materiam naturalem, quia inter ens mobile, scilicet aquam et 

terram, que sunt corpora naturalia; et propter hec querenda est 

certitudo secundum materiam naturalem, que est hic materia 

subiecta; nam circa unumquodque genus in tantum certitudo 

querenda est, in quantum natura rei recipit, ut patet ex primo 

Ethicorum. 


20. さて、十分に論証された土のせり上がりだが、目的因と作用因の検討

が残っている。これ(議論の順番)は技術的な秩序に即している。「ある

かどうか」という問題は「なぜあるか」という問題に先立たなくてはなら

ないからだ。目的因については、予め考察した箇所で述べたことで十分で

あろう。作用因についての検討にあたっては、本論考では自然の物質以上

のことは扱わないことを予め述べておかなくてはならない。ここでは動か

すことのできる存在、つまり自然な物体である土や水にのみ限定している

からである。したがって求めるべきは、自然な物質、すなわちここで基体

をなす物質における確かさということになる。というわけでここでは、

『倫理学』第一巻から明らかなように、あらゆる種類のものについて、自

然の事象が受容しうる限りでの確かさを探求しなくてはならない。


Cum igitur innata sit nobis via investigande veritatis circa naturalia 

ex notioribus nobis, nature vero minus notis, in certiora nature et 

notiora, ut patet ex primo Phisicorum, et notiores sint nobis in 

talibus effectus quam cause,-quia per ipsos inducimur in 

cognitionem causarum ut patet, quia eclipsis solis duxit in 

cognitionem interpositionis lune, unde propter admirari cepere 

phylosophari-, viam inquisitionis in naturalibus oportet esse ab 

effectibus ad causas. 


自然をめぐる真理の探究方法は私たちの生来のものである。『自然学』第

一巻に明らかなように、それは私たちにとってはよく知られていながら自

然からするとさほど知られていないものから、自然にとってより確かでよ

り知られているものへと向かう方法である。またそのような場合、私たち

には原因よりも結果のほうがいっそう知られることになる。なぜなら、明

らかなように、結果によって私たちは原因の認識へと導かれるからであ

る。たとえば日蝕によって月が(地球と太陽の)間にあることが導かれた

し、人は驚異ゆえに哲学に着手するようになったのだ。自然の探求方法は

結果から原因へと向かわなくてはならない。


Que quidem via, licet habeat certitudinem sufficientem, non tamen 

habet tantam, quantam habet via inquisitionis in mathematicis, que 

est a causis, sive a superioribus, ad effectus, sive ad inferiora; et 

ideo querenda est illa certitudo que sic demonstrando haberi 

potest. Dico igitur quod causa huius elevationis efficiens non 

potest esse terra ipsa; quia cum elevari sit quoddam ferri sursum, 

et ferri sursum sit contra naturam terre, et nichil, per se 

loquendo, possit esse causa eius quod est contra suam naturam, 

relinquitur quod terra huius elevationis efficiens causa esse non 

possit. Et similiter etiam neque aqua esse potest; quia cum aqua 

sit corpus homogeneum in qualibet sui parte, per se loquendo, 

uniformiter oportet esse virtuatam, et sic non esset ratio quia 

magis elevasset hic quam alibi. 


この方法は確かに十分な確かさがあるが、数学の探究方法がもつような確

かさではない。数学の場合は、原因すなわち上位から、効果すなわち下位

へと向かうのである。したがって(ここでも)、数学における論証がもち

うるような確かさが探求されなくてはならない。ゆえに私は、そうした土

のせり上がりの作用因は、土そのものにはありえないと言おう。なぜな

ら、せり上がりはなんらかの上方への衝動であり、上昇への衝動は土の本

性に反するのであり、いかなるものもそれ自体で、本性に反したことの原

因にはなりえないからだ。すると土はそうしたせり上がりの原因ではあり

えないということになる。また同様に、水がその原因であることもありえ

ない。なぜなら水はどの部分も均一な物体であり、それ自体での力は均質

で、一つの箇所を他所よりも大きくせり上がらせる理由はないからだ。


Hec eadem ratio removet ab hac causalitate aerem et ignem, et 

cum non restet ulterius nisi celum, reducendus est hic effectus in 

ipsum, tanquam in causam propriam. Sed cum sint plures celi, 

adhuc restat inquirere in quod, tanquam in propriam causam, 

habeat reduci. Non in celum lune; quia cum organum sue virtutis 

sive influentie sit ipsa luna, et ipsa tantum declinet per zodiacum 

ab equinoctiali versus polum antarcticum quantum versus 

arcticum, ita elevasset ultra equinoctialem sicut citra; quod non 

est factum. Nec valet dicere quod illa declinatio non potuit esse 

propter magis appropinquare terre per ecentricitatem; quia si hec 

virtus elevandi fuisset in luna, cum agentia propinquiora 

virtuosius operentur, magis elevasset ibi quam hic.


その同じ理由で、空気や火も原因から除外される。すると最後に天球しか

残らないことになるので、そうした結果は、天球に固有の原因であるとし

て天球に帰されなくてはならない。だが、天体も複数あることから、固有

の原因がどれに帰されるのかの検証が残る。月の球ではない。なぜならそ

の球の力や影響をもたらす手段は月そのものであり、月は獣帯に沿って分

点から南極方向へ、北極方向へと同じだけ遠ざかるので、原因が月である

なら分点の向こう側もこちら側も同様にせり上がっているはずなのだが、

実際はそうなっていないからだ。また、そのずれは、偏心により地球にい

っそう接近しているためにありえなかった、と言うのも当たらない。なぜ

なら、もしせり上げの力が月にあったとしたら、作用元は近くにあるほど

大きな力を及ぼすのであるから、向こう側がこちら側よりもいっそうせり

上がっていたはずだからだ。



今回の箇所は、土のせり上がりの目的因と作用因の話になっています。

「あるかどうか」という問題の後には、「なぜあるか」という議論が続か

なくてはならないというわけですね。目的因に関しては、すでに18節

で、質料や基体が混合によって複合化できるようなるために、土はところ

によって水の上に出ていなくてはならないということが言われていまし

た。おそらくはそのあたりのことを指して「予め考察した箇所」と述べて

いるのでしょう。というわけで、ここから先は作用因の話が展開していま

す。もっとも、ここではあくまで自然の物質的な面についてのみ論じると

して、神学的・形而上学的な議論には入らないということが宣言されてい

ます(第1段落)。


第2段落の最後のところにある「驚異ゆえに哲学に着手した」「哲学の起

源には驚きがあった」というのはよく聞く言ですが、独訳注にもあるよう

に、もとはプラトンのテーゼでした。これがアリストテレスを介して伝わ

り、西欧中世においては一つの権威的な言になっていたようです。それは

たとえば逸名訳者によるラテン語訳の『気象論』第1巻第2章などにある

といいます(分類が違うため、ギリシア語での参照は難ありです)。


第3段落では数学の探究方法と、自然学の探究方法とがいわば対比されて

います。いわば演繹と帰納との対比ということですが、これはその前の

「(ここでは)自然の物質以上のことは扱わない」という部分にも対応し

そうです。数学は、原理から出発して結論を導くという点で、形而上学や

神学と同じく演繹の領域にまとめられます。学知のヒエラルキーでは、そ

ちらのほうが確かさの点で上位に位置付けられるわけですね。一方の自然

学は、帰納の領域に属し、あくまで個別の物体・物質から出発して原理、

ここでの議論なら原因を導き出そうとするため、確かさはいくぶんなりと

も低くなってしまいます。


この演繹と帰納での確かさのずれは、モデルと個別的事象の乖離の問題と

して、現代の哲学にまで引き継がれている問題でもあります。確率論など

のモデルに顕著ですが、モデルはどこまで行っても個別的事象には重なら

ず、個別的事象(ある時間にある空間で生じている特定の現象)を忠実に

描き出すことはできない……と。ダンテの時代にはまだそうした問題意識

まではなかったかもしれませんが、少なくとも帰納が描き出す原理が確か

さの点で劣る、不十分であるという認識は、すでに広く共有されていたと

見ることができそうです。


ですが理想的には、数学的演繹に匹敵するような確かさを目指したい、と

ダンテは言明しているのでしょう。したがって原理は、元素そのもののよ

うな質料サイドに求めるのではなく、もっと原理に近いもの(形相的なも

の)に求めなくてはならないのだ、ということになります。そうして出て

くるのが天球ということになります(第4段落)。ですが天球は九つある

とされるので、今度はそのいずれなのかが問題になってきます。


というわけで、まずは月の球が検証する対象になっています。月にそうし

たせり上げの力があるとしたら、その軌道は太陽と同様に北極方向、南極

方向にずれているのだから、北側にせり上がりがあるのと同様に、南側に

もせり上がりがなければならない(南半球にも同じような陸地がなければ

ならない)が、そうなっていないとして、月にそのせり上げの力があるこ

とをダンテは否定しています。


また、月の軌道が偏心している(中心がずれている)ために、南側にせり

上がりが生じていないというのもおかしい、とダンテは言います。南側に

陸地がないことに関しての、想定される反論(偏心を前提とした異論)に

予め答えているのですね。本来あるべきせり上がりが、月が地球に接近す

るかたちになるためずれ込んでいるという議論が想定されているのでしょ

う。ですが当時のアリストテレス的な運動論では、動因は動体の近くにあ

るほど大きな力を及ぼすと考えられてたので、むしろ南が大きくせり上が

っていなければおかしいではないか、というわけです。基本的にダンテ

は、ここでも再び同心円的な宇宙観を擁護しているのでしょう。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は09月22日の予定です。


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