silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.364 2018/10/20

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------文献探索シリーズ------------------------

天使と場所について(その14)


天使が場所に位置付けられることについての、ペトルス・ヨハネス・オリ

ヴィによる議論を見ています。前回見たような3つの秩序をもとに、天使

が場所に位置付けられることを正当化した後、オリヴィは4つめの議論と

して、身体における魂に言及します。オリヴィからすると、魂は身体にお

いて、単に形相と質料の関係にあるだけでなく、異なる実体同士の関係に

もあるのですね。物体においては形相と質料が必ず同じ場所になくてはな

らないように、魂は身体の在る場所になくてはならず、さらに魂は身体と

とともに、世界という物体(物質世界のことでしょうか)に現前していな

くてはならないとされるのです。


これに続き、聖書など宗教的権威の引用の数々を駆使して、霊的実体が場

所に位置付けられていることを再度確認した後(このあたりの話は長くな

るので割愛します)、オリヴィは主要なテーゼとして8つの論点を提示し

ます。まず1つめは、物体が存在する限りにおいて、天使は物体もしくは

その一部に対して現前する、つまり天使も含め、物体を介して事物は世界

と繋がるというテーゼです。ということは、物体がなければ天使は場所に

位置付けられないということになるのでしょうか。ここで出てくるのが、

前に解説序文を見た際にも出てきた、仮に神がすべての物体を破壊してし

まっても、天使は場所に位置付けられるのかという思考実験です。


その場合、物体的な場所が破壊されたとしても、神が天使を奇蹟によって

存在させようとするのでもない限り、神は物体的な場所があったときの天

使の存在様式を無効にしているだろう、とオリヴィは言います。存在様式

がいわばシフトするだろうというのですね。オリヴィはこう考えます。物

体的な場所がなくなり、空間も現実的な量も距離もなくなったとしても、

天空内の諸部分がそれまで保っていた位置関係や距離の関係はそのまま残

るのではないか、神が天使を創造した後に諸物体を創造したのだとした

ら、それらの物体が本質として絶対的に創られただけでなく、任意の場所

に配置されたはずであり、したがってそれらの位置づけは、絶対的な創造

から生じたのではなく、それに付随するかたちで生じているのだ、と。か

くして、場所への位置付けは、物体の本質とは別筋に規定されているので

はないか、というのです。


主要なテーゼの2つめは、天使もまた、自分が占める特定の場所に全体と

して関係づけられ、結果的になんらかの単位で示されうるような、限定的

な一つの場所に位置付けられるというものです。つまり単位の内実はとも

かく、その単位で二つ以上の場所にまたがって存在することはない、とい

うわけです。3つめのテーゼは、天使が場所に適用する(存在)様式は、な

んらかの「知的数量」をともなっているというものです。これについては

とくに説明があるわけではなく、ただ結果的に、天使は場所全体を占める

のではなく、部分的な場所を占めることになるとだけ述べられています。

つまり知的数量(それはおそらく物資的な数量と対照をなす概念なのでし

ょう)によって、天使にとっての場所が限定されている、というのです

ね。そのことは4つめのテーゼにも示されています。天使は本質におい

て、自然な制限が予め課されていて、どのような様式でも場所に存在しう

るわけではない、というのです。


一方で、その特定の範囲の場所においてなら、天使はその場所のあらゆる

部分に、全体があるようなかたちで存在することができる、とも述べてい

ます(5つめのテーゼ)。そしてまた、天使の場所への位置付けは、厳密

にはいくつかの次元での存在様式の否定というかたちでしか理解できない

のだ、とも言われます(6つめのテーゼ)。つまり、天使がたとえば円形

の場所にいるとか、三角形の場所にいるとかは言えず、ただそのような場

所に「適応している」というふうにしか言えないのだというのです。継起

的に(つまり時間的な前後関係において)場所に在るというふうに想像す

ることもできない、とされます。


オリヴィはまた、天使の移動方法についても言及していますが(7つめの

テーゼ)、二つの可能性を両論併記的に記すにとどめています。(1)場

所の一端から別の一端へと、中間部分を介することなく瞬時に移動する。

(2)前の部分から継起的・連続的に遠ざかり、次の部分を継起的・連続

的に獲得し、結果的にたえず場所の諸部分との関係を変化させている。と

はいえオリヴィは、この後者のほうに重きを置いているようにも思えま

す。最後の8つめのテーゼは、すでに出てきたものの言い換えです。人は

天使が同時にどれだけの場所をどのように占めるのか理解できないが、そ

れでも天使が無限の場所を占めるのではないことだけは理解できる、とい

うのですね。


ポイントはその存在様式が人間には知りえないというところでしょう。知

的数量(あるいはそれで示されるなんらかの単位)というのは、感覚的な

ものを排したところでなお成立するような「数量」概念、したがって純粋

に知的な(たとえば虚数のような?)ものということになりそうです。否

定的にしか捉えられない概念であるとされる点にも、そうした含みが感じ

られます。この人知を越えた世界への思いは、当時も(今も?)思惟の限

界として立ち現れてきます。ですが思うにオリヴィは(あるいは他の論者

もそうかもしれませんが)、否定神学的な言い方をしながらその限界を少

しだけ先に押しやろうとしているかに見えます。ここで示された知的数量

について、オリヴィはほかでも言及し思想的に展開しているのでしょう

か。これは大変興味深い研究テーマですね。


すごくざっくりと見たにすぎませんが、オリヴィの天使論のアウトライン

は以上となります。本文の議論はまだ続き、この後に想定される反論への

対応が連なりますが、それはまた次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの自然学(その14)


ダンテ『水と土の二つの元素の形状と位置について』を読んできました

が、今回がその末尾の部分になります。前回からの第23節の後半部分

と、結びとなる第24節です。さっそく見ていきましょう。



Ad tertium, cum dicitur: 'Omnis oppinio que contradicit sensui est 

mala oppinio', dico quod ista ratio procedit ex falsa ymaginatione; 

ymaginantur enim naute quod ideo non videant terram in pelago 

existentes de navi, quia mare sit altius quam ipsa terra; sed hoc 

non est; ymo esset contrarium magis enim viderent. Sed est hoc, 

quia frangitur radius rectus rei visibilis inter rem et oculum a 

convexo aque; nam cum aquam formam rotundam habere 

oporteat ubique circa centrum, necesse est in aliqua distantia 

ipsam efficere obstantiam alicuius convexi. 


(承前)「感覚と矛盾するあらゆる臆見は悪しき臆見である」という3つ

めの異論には、私はこう言おう。そうした考え方は誤った想像から生じて

いる。船上にいると大海原に陸地が見えないのは、水が土よりも高い位置

にあるからだと水夫たちは想像する。だが事実はそうではない。それどこ

ろか逆のことが生じるだろう。彼らはよりいっそうの陸地を目にするだろ

うからだ。船上から陸地が見えないのは、見る対象から直進する光線が、

事物と眼との間で、水が凸面になっているために遮られるからなのであ

る。水はどこも中心点から等しい円の形状をしているのであるから、なん

らかの距離にあっては、なにがしかの凸面による遮断が生じなくてはなら

ないのである。


Ad quartum, cum arguebatur: 'Si terra non esset inferior' etc. dico 

quod illa ratio fundatur in falso, et ideo nihil est. Credunt enim 

vulgares et physicorum documentorum ignari quod aqua 

ascendat ad cacumina montium et etiam ad locum fontium in 

forma aque sed istud est valde puerile, nam aque generantur ibi, 

ut per Phylosophum patet in Metauris suis, ascendente materia in 

forma vaporis. 


「土が下に位置するのでなかったなら」云々という4つめの議論に対して

は、こう言おう。その考え方は誤りをもととしており、したがってまった

く成立しない。自然学の教えを知らない世俗の人々は、水が山頂や源泉の

場所にまで、水の形状で上昇できると信じている。しかしそれは実に子ど

もじみている。というのもそうした場所での水は、哲学者が『気象論』で

明らかにしているように、蒸気の形状で立ちのぼる物質によって生成する

からである。


Ad quintum, cum dicitur quod aqua est corpus imitabile orbis lune 

et per hoc concluditur quod debeat esse ecentrica, cum orbis 

lune sit ecentricus dico quod ista ratio non habet necessitatem; 

quia licet unum adimitetur aliud in uno, non propter hoc est 

necesse quod imitetur in omnibus. Videmus ignem imitari 

circulationem celi, et tamen non imitatur ipsum in non moveri 

recte, nec in non habere contrarium sue qualitati, et ideo ratio non 

procedit. Et sic ad argumenta.


Sic igitur determinatur determinatio et tractatus de forma et situ 

duorum elementorum, ut superius propositum fuit.


「水は月の軌道を模倣する物体であり、それゆえに偏心していなくてはな

らない、なぜなら月の軌道は偏心しているから」と結論づける5つめの議

論に対しては、その考え方に必然性はないと述べよう。なぜなら、ある一

つのものが別のものを一つの点で模倣するからといって、すべてにおいて

模倣するとは限らないからだ。私たちは次のことを目にする。火は天空の

周回を模倣するが、(天球が)直線的に移動しないという点ではそれを模

倣していないし、(天球が)おのれと逆の質をもたないという点において

も模倣していない。したがってそのような考え方は成立しないのである。

異論については以上である。


以上のことから、二つの元素の形状と位置付けについての判定と議論は、

上述の題目で示したような結論に到達した。


[XXIV]. Determinata est hec phylosophia dominante invicto 

domino, domino Cane Grandi de Scala pro Imperio sacrosancto 

Romano, per me Dantem Alagherium, phylosophorum minimum, 

in inclita urbe Verona, in sacello Helene gloriose, coram universo 

clero Veronensi, preter quosdam qui, nimia caritate ardentes, 

aliorum rogamina non admittunt, et per humilitatis virtutem 

Spiritus Sancti pauperes, ne aliorum excellentiam probare 

videantur, sermonibus eorum interesse refugiunt. Et hoc factum 

est in anno a nativitate Domini nostri Iesu Christi millesimo 

trecentesimo vigesimo, in die Solis quem prefatus noster Salvator 

per gloriosam suam nativitatem ac per admirabilem suam 

resurrectionem nobis innuit venerandum: qui quidem dies fuit 

septimus a Ianuariis idibus, et decimus tertius ante kalendas 

Februarias.


24.この哲学的裁定は、神聖ローマ帝国を代表する無敵のカングラン

デ・デッラ・スカーラ侯の統治下、哲学の末席に連なる私ことダンテ・ア

リギエーリにより、著名なヴェローナの街の、栄光の聖ヘレナの礼拝堂に

て、数人を除くヴェローナのすべての聖職者を前にしてなされたものであ

る。その数人とは、善意の熱き思いゆえに他者の招待を受け入れること能

わず、聖霊の貧しき雇われ人として、真理への恭順から、他者の卓越を認

めることができないと思われ、そうした他者の言葉に関心を寄せることを

拒む人々である。以上は紀元1320年、前述のわれらが主がその輝かしき

生まれと、その麗しき復活により敬うべきものと定めた日曜になされた。

その日は1月13日から7日後、2月1日より13日前である。



1つめの段落では、水夫が船上から陸地を見られないのは、水が高い位置

にあるからではなく、凸状に湾曲しているために、陸地から発せられ直進

する光線が、その湾曲によって眼に届かないからだ、と説明されていま

す。独訳注にありますが、当時の視覚理論には伝統的に三つの説がありま

した。原子論者が唱える内挿理論(物体から微小の像が送出されるという

考え方)、プラトン的な外挿理論(眼から光線が発射され、それが物体に

作用して、像を作るというもの)、そしてアリストテレスによる前二者の

折衷案です。そこでは光線は外部からもたらされるというのですが、それ

は媒質の現働化にほかならないとされていました。


ダンテはここで、内挿理論の考えを外装理論的な光線の考え方でもって補

強しつつ、総じてアリストテレス的な折衷案を採用していると思われま

す。独訳注は、典拠となっているうちで重要なのはロジャー・ベーコンの

視覚理論だと述べています。その理論は、感覚する側の意志にもとづい

て、感覚の中に対象物の像が志向的に存在するという考え方で、それを可

能にするのは媒質の働き(媒質の現働化)だとされます。これはアリスト

テレス的な折衷案の到達点をなしているわけですね。ベーコンにおいては

光は媒質を説明する際にメタファー的に言及されるだけなのですが、ダン

テにおいては光線が物体の側から進んでくるというふうに、いわば組み替

えられています。


2つめの段落は4つめの議論に対する反論です。4つめの議論というのは、

もし土が下に位置するのでないなら、せり上がった土にはまったく水がな

かっただろうというものでした。独訳注によると、せり上がっている地上

にあって水は本来のかたちではなく、蒸気のかたちで上昇するというこの

説を、ダンテはアルベルトゥス・マグヌスやトマス・アクィナスの気象論

注解を参考にして取り込んでいるようです。ここで世俗の人々として批判

されているのは、ブルネット・ラティーニやレストロ・ダレッツォ、バル

トロメオ・アングリクスといった、ダンテよりも前の、13世紀のイタリ

アやイングランドの哲学者たちだとされます。


3つめの段落では、火が天球(月の球)を模倣するという話が出てきてい

ます。ダンテは『共生』において、火が常に上昇するのは月の天球を求め

ているからで、それは特殊な愛着にもとづいていると述べています。ここ

ではそれが、「志向する=模倣する」と組み替えられているのでしょう。

ただし「模倣」はそこまでにすぎず、火が天球に向かう直線的な運動は天

球そのものには範をとっておらず、また上位の天球には地上世界の元素の

ような、逆の質をもった元素への転成の可能性(アリストテレスにもとづ

く理論です)もないとされます。ダンテはそういったことをもとに、一つ

の部分的一致をもとに全体の一致を主張することはできないと諭している

わけですね。


締めとなる第24節では、まずはカングランデ・デッラ・スカーラの名前

が出てきます。この人物はヴェローナの統治者で、ダンテのパトロンでも

ありました。元は傭兵という経歴をもつ武闘派で、皇帝派に属していまし

た。1311年に神聖ローマ皇帝ハインリヒ7世によって、ヴェローナの司

教総代理に任命されています。地元では英雄扱いだったようですが、

1329年に38際で亡くなっており、最近の調査(2004年)で毒殺されて

いたことがわかったといいます。また末尾の記述からは、ダンテのこの議

論が聴衆を前に行われたのは1320年1月20日だったことがわかります。


以上でこのテキストは一通り読了しました。粗訳で恐縮でしたが、いかが

でしたでしょうか。いちおう全体の総括もしなくてはなりませんが、それ

はまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月03日の予定です。


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