silva speculationis       思索の森

==============================

<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.371 2018/02/09

==============================



------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その6)


イブン・カムーナの『三大一神教の批判的検証』を見ています。前回の

見た箇所ではカムーナの認識論・知性論が展開していました。預言者は

高い段階の認識をもつ人物であり、その感覚、知性、想像力の完成度

は、そこに虚偽の幻影が入り込む隙を作らないほどなのだ、とカムーナ

は考えています。そしてまた、預言者の預言を証すものとして奇跡があ

るとし、これについてもカムーナは、完成した知性は形相を直に把握す

ることができ、それを操作することさえ可能なのである、としていま

す。形相を直に操作することが、奇跡の本質だというのですね。


仏訳注によれば、このあたりの考え方には、アヴィセンナなどの知性論

が大きく影響しているといいます。ここでは同じテーマということで、

偽アヴィセンナ『預言に関する書簡』という書を少しだけ取り上げてお

こうと思います。この書簡、アヴィセンナの真正の著述である確証がま

だないようなのですが、アヴィセンナ思想と十分に通底する内容をもつ

ものとされています。参照するのは、昨年刊行されたばかりの亜仏対訳

本("Epitre sur les propheties", trad. J-B Brenet, Vrin, 2018)で

す。


同書簡は、預言の信憑性への疑いを払拭したいと頼まれた著者が、相手

に対して預言についての説明をするという体裁を取っています。最初は

アリストテレス流の質料形相論をもとに、預言というものを分析してみ

せます。そもそも人間がほかの動物と異なるのは、特有の能力があるか

らだとして、まずはその能力について列挙していきます。1つめは質料

をもたない形相に転じることができる能力(離在的な魂になるというこ

とでしょうか)、2つめは普遍的な形相を受け取ることができる能力、

3つめは普遍的な知的形相を現実態として作り出すことができる能力で

す(第5節から第7節)。カムーナが言う形相の操作能力と同じような

ことが、この書簡でも述べられているわけですね。


こうした能力は、当然ながら神から(あるいは離在的存在である天使か

ら)授けられるとされるわけですが、個々の人間においてばらつきがあ

り、同じような「理性的魂」ではあっても、あらゆる者が同じように能

力を発揮できるわけではないとされます。受け取り方においてすら、何

かを介在して受け取る場合と、直接的に受け取れる場合があるといい、

これまた当然のごとく、直接的な受け取りの場合のほうが上位に位置す

るとされています。


こうした能力的な階層性は、自然界そのものの階層性(自律的存在から

始まって、離在的存在を経て身体をもつものへといたる階級的秩序で

す)から類推されています。人間は「理性的動物」として自然界の上位

に位置づけられるわけですが、そのうちでも能力を現動化できる者、で

きない者があって、さらにその現動化を直接(介在者なしに)行える者

がいっそう秀でているとされます。


そして預言者というものは、まさにそうした能力を直接的に現動化でき

る者、何も介在させることなく形相や神的なメッセージを受け取ること

ができ、物質的な形相の秩序における最高位を達成できるような、最上

の理性的動物であると定義づけられています(第13節)。このあた

り、カムーナの議論とそっくりですね。前にもまとめたように、カムー

ナもまた、預言者という存在は知的な完成者であると見なしていたので

した。


カムーナのテキストでは、ちょうど前回までに見た箇所に続く部分で、

なぜ預言者というものが人間の世界において必要とされるのか、という

問題をまとめています。預言者が存在することの正当化の議論です。そ

こではまず、人間というものは各人に能力のばらつきなどがあり、それ

らを相互に補う必要があるという基本認識が示されます。かくして人間

は社会的動物だというわけですね。その上で、預言者というものは、神

の恩寵によってもたらされた事象の秩序(人間界の秩序も含む)を守る

上で欠かせない役割を担っているのだと説明されます。この有用性こそ

が、預言者の存在を正当化する最初の議論になります。


もちろん有用性だけで預言者の存在が十全に正当化されるわけではあり

ません。そこには魂に、あるいは直観に、直に訴えるような、なんらか

の要素が必要だとも言われています。それはおのずと直観的に知られる

ようななにがしかの徴候ということになります。ちょうど上の偽アヴィ

センナの書簡も、一般論に続いてムハンマドの預言の象徴的内容を読み

解いていくことになるのですが、まさにそれは、そうした預言の正当性

を証す徴候の解釈に対応しているように思われます。そちらの解釈も興

味深いので、またしばらくしたら取り上げてみたいと思いますが、さし

あたり次回は、上のカムーナの議論の続きとして、預言者の正当化の問

題を再度まとめていきたいと思います。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その6)


ダンテ『俗語論』を読んでいます。今回は5章から6章の冒頭部分まで

です。さっそく見ていきましょう。



V 1. Opinantes autem non sine ratione, tam ex superioribus 

quam inferioribus sumpta, ad ipsum Deum primitus primum 

hominem direxisse locutionem, rationabiliter dicimus ipsum 

loquentem primum, mox postquam afflatus est ab animante 

Virtute, incunctanter fuisse locutum. Nam in homine sentiri 

humanius credimus quam sentire, dumunodo sentiatur et 

sentiat tanquam homo. Si ergo faber ille atque perfectionis 

principium et amator afflando primum nostrum omni 

perfectione complevit, rationabile nobis apparet nobilissimum 

animal non ante sentire quam sentiri cepisse.


第5章 1. 前述したように、また後述するように、最初の人間はその最

初の言葉を神に向けて発したとするのには合理性があると考えられる

が、私たちはまた、その最初の発話者は、生命を息づかせる力を吹き込

まれるとすぐに、躊躇なく言葉を発したのだと述べよう。なぜなら、人

間として知覚したり知覚されたりする限りにおいて、人間は知覚するよ

りも知覚されるほうがより人間的であると私たちは考えるからだ。した

がって仮に、人間の創り手、すなわち完全性の原理であり崇拝者でもあ

る神が、最初の人間にすべて完成した状態で息吹きを与えたとするな

ら、その最も高貴な動物は、知覚される前に知覚し始めたのではないと

考えるのが理に適っているように思われるのである。


2. Si quis vero fatetur contra obiciens quod non oportebat 

illum loqui, cum solus adhuc homo existeret, et Deus omnia 

sine verbis archana nostra discernat etiam ante quam nos, - 

cum illa reverentia dicimus qua uti oportet cum de eterna 

Voluntate aliquid iudicamus, quod licet Deus sciret, immo 

presciret (quod idem est quantum ad Deum) absque locutione 

conceptum primi loquentis, voluit tamen et ipsum loqui, ut in 

explicatione tante dotis gloriaretur ipse qui gratis dotaverat. Et 

ideo divinitus in nobis esse credendum est quod in actu 

nostrorum effectuum ordinato letamur.

3. Et hinc penitus elicere possumus locum illum ubi effutita est 

prima locutio: quoniam, si extra paradisum afflatus est homo, 

extra, si vero intra, intra fuisse locum prime locutionis 

convicimus.


2. だがもし誰かが反対意見として、その[最初の]者には発話する必

要はなかった、なぜならその時点まで一人の人間しか存在しておらず、

神は私たちのすべての秘密を、言葉に出すことなく、私たち自身よりも

前に見抜くからだ、と述べるなら、私たちは、永遠なる神の意志につい

て判断する際に覚えてしかるべき畏怖の念とともに、こう述べよう。話

されなくとも最初の人間の考えを神が知っている、さらには予め知って

いる(神に関する限りそれは同じことだ)としても、恩寵によって贈ら

れた、かような贈り物を用いて神の栄光が讃えられるよう、神は彼が話

すことを望んだのである、と。ゆえに、私たちが秩序に沿って能力を使

うときに喜びを感じるのは、私たちのなかに神的なものが宿っているこ

との証しであると考えなくてはならないのである。

3. ここから私たちは確実に、最初の言葉が発せられた場所を推定する

ことができる。人間が楽園の外で息吹を吹き込まれたのなら、発話は楽

園の外でなされただろうし、それが楽園の中でなされなのであれば、最

初の言葉が発せられた場所も楽園の中だったと、私たちは確信する。


VI 1. Quoniam permultis ac diversis ydiomatibus negotium 

exercitatur humanum, ita quod multi multis non aliter 

intelligantur verbis quam sine verbis, de ydiomate illo venari 

nos decet quo vir sine matre, vir sine lacte, qui nec pupillarem 

etatem nec vidit adultam, creditur usus.

2. In hoc, sicut etiam in multis aliis, Petramala civitas 

amplissima est, et patria maiori parti filiorum Adam. Nam 

quicunque tam obscene rationis est ut locum sue nationis 

delitiosissimum credat esse sub sole, hic etiam pre cunctis 

proprium vulgare licetur, idest maternam locutionem, et per 

consequens credit ipsum fuisse illud quod fuit Ade.


第6章 1. 人間の活動は実に多様な言葉でなされ、言葉を用いようと用

いまいと、人々が他者から理解される度合いに違いが生じるわけでもな

いほどだ。そうであるなら、母親もなく乳をもらったこともなく、幼少

期も青年期も知らない人間[アダム]が、どんな言葉を使っていたと考

えられるかを探り出すのは必要なことだと思われる。

2. ほかの多くのことがらと同様、この点においても、たわいのない俗

説が広がっており、アダムの子孫の大多数にとっての祖国をなしてい

る。自分の生まれた場所は太陽のもとで最も喜ばしい場所だと考える愚

かな人々は誰でも、自分が用いる俗語、すなわち母語は、すべての言葉

のうちで最も優れていると考え、結果的に自分の言葉がアダムの言葉で

もあったと考えてしまうのである。



前回の第4章のところでは、最初の発話がどういうものだったかを問

い、それは神を称えるものだったに違いないとの推測を述べていまし

た。続くこの第5章では、いつそれが発せられたか、どこで発せられた

かを考察しています。それは息吹を吹き込まれてすぐだろう、とダンテ

は推測していますが、そう推測する根拠は、私たちにとってはやや釈然

としない観じですね。


なにしろ人間は、自分が知覚するより前に知覚されていたはずだから、

というのですが、独訳注によると、要するにこれは、高貴な生き物とし

て他者(ここでは神)からそれと知られるには、まずもって言葉を発す

ることが必要だったはず、という意味だろうといいます。人間は創造さ

れてすぐに人間として認められたはずであり、そのためには言葉を発し

たにちがいない、sentiriという言葉の意味は、感覚的な音を通じて認

識されるということなのだろう、というわけですね。


この解釈は、なかなか面白い観点かもしれません。発話される言葉とい

うものは、単に意味・概念を伝えるだけのものではなく、自分を認めて

もらうための指標でもあるということです。これもまたダンテの言語感

覚の鋭いところと言えるかもしれません。


続く第2節では、考えられる異論が示されています。神はなんでもお見

通しなのだから、ことさら人間が言葉を発してアピールすることはな

い、という異論ですが、ダンテはこれに対し、それでもなお神は人間が

その賞賛の言葉を発することを望んだのだと反論します。ここでは、言

葉は本質的に、創造主を讃えるものでもある、という含みがあるわけで

すね。


この議論をダンテは、人間が言葉を用いることに喜びを感じるのは、そ

れが神に由来するものであることの証しだからなのだとして結んでいま

す。言語使用における喜びのテーマというのも、詩人ダンテならではと

いう気がします。ここではそれが、神を讃える喜びに結びつけられてい

るのですね。独訳注では、「そもそも理性的魂が創造されたのは、神を

称えるためだった」とする、ペトルス・ロンバルドゥスの『命題集』

の、典拠のない神学的見解(theologoumenonといいます)の一節を

紹介しています。


第6章になると、今度はアダムがどのような言葉を使っていたのかとい

う問題を取り上げています。今回の箇所はまだ途中までなので、全体へ

のコメントは次回にしたいと思いますが、少しだけ進めておくと、第2

節に一例として言及されているペトラマーラ(ピエトラマーラ)という

町は、独訳注によると、ボローニャとフィレンツェの中間あたり、アペ

ニン山脈内にある辺境の町だといいますが、要するにここでは、人口に

膾炙している考え方、つまり自分の母語こそが一番優れており、アダム

の言葉でもあったはずだという俗説は、とりたてて注目に値しない、ご

くありふれたものだ、ほどの意味だろうと思われます。そんなわけで、

独訳を参考に、ここでは「たわいのない俗説」と意訳してみました。


さて、これに対して、第6章の残り部分でダンテは自説を展開していく

わけですが、それはまた次回に。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は02月23日の予定です。


------------------------------------------------------

(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)

http://www.medieviste.org/?page_id=46

↑講読のご登録・解除はこちらから

------------------------------------------------------