silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ中世思想探訪のための小窓>

no.374 2019/03/23

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------文献探索シリーズ------------------------

一神教にとっての預言とは(その9)


イブン・カムーナ『三大一神教の批判的検討』を見ています。前回か

ら、ユダヤ教のモーセを扱った第2章に入りました。カムーナはここ

で、モーセの預言者としての真正さを検証すべく、想定される異論を7

つ挙げて、それらに反駁を加えていきます。まず1つめは、「ユダヤ教

の伝統は、ネブカドネザルの侵攻その他の出来事のせいでいったん途切

れた可能性がある。その意味で、モーセの奇跡やその他の預言の事例は

真正とは言えないのではないか」というものです。学術上、提示されて

しかるべき疑念と言えますね。


カムーナはこれに対し、伝承の断絶そのものを否定します。まずヘブラ

イの民の使う言葉が太古の昔から変わっていないという話を取り上げ、

それを伝統が途切れていない証拠の一つとして掲げています。そのこと

を前提に、旧約聖書に出てくる預言者はすべて「実在」したと見なして

います。論点先取り(証明されるべきことを論拠と見なしてしまう)と

も思えてしまいますが、カムーナはさらに別の論拠でもってそれを補強

しようとします。


ネブカドネザルによる虐殺を引き合いにして、伝統が途切れたとするこ

とはできない、とカムーナは次のように反論します。たとえばビザンツ

帝国がペルシアに戦で破れ、男たちは殺され子供らは連れ去られても、

そこでビザンツの伝統が途切れたわけではないし、アラブ世界がエチオ

ピアの侵略を受けた際も、アラブの伝統が途切れたわけでもない、なら

ば同じように、ネブカドネザルの侵攻があったところで、ユダヤの伝統

が途切れた論拠にはならない……。歴史上の実例からの推論です。その

侵攻に際して、ユダヤ人すべてがエルサレムにいたわけでもないのだか

ら、とカムーナは述べています。


ネブカドネザルのエルサレム占領は、まず紀元前597年になされていま

す。いわゆる第一回バビロン捕囚です。続いて紀元前589年にエルサレ

ム包囲戦があり、これが第二回バビロン捕囚と呼ばれています。この戦

いでエルサレムの神殿などは完全に破壊されたといわれますが、70年

後には第二神殿が建ち、周辺に住むユダヤ人の共同体も大きなものにな

っていたとされます。こうしたことからもカムーナは、伝統が途絶えて

いたとはとうてい考えられない、と再三強調してみせます。


続く二つめの疑義は、トーラー(モーセ5書)の伝承に関するもので

す。トーラーを記憶することは戒律にも慣習にもなっておらず、それぞ

れの司祭が一章づつ記憶することしか行われていなかったといい、最初

のバビロン捕囚後にエズラが神殿の有様を目にしたときには、人々は散

り散りで聖書も奪われていたのだから、司祭たちの記憶を集めて再構成

しなければならなかったはずで、付加されたものや失われた部分もあっ

たに違いなく、トーラーは神の書というよりもエズラの書となったので

はないか、という疑念です。


これに対してカムーナはまず、現存するトーラーそのものに、それが戒

律・慣習をなしていることが記されている、と反論します。またそれが

変質している可能性があるとの指摘には、そういう反論者が依拠する文

典そのものが変質している可能性があり、その意味では論拠に欠けてい

ると述べています。さらに、トーラーは至高の重要文献とされていた以

上、それを記憶・保存し、司法の手続きの依り所とするのは不可欠だっ

たはずだ、とも述べています。


異論側とカムーナとでは立脚点が違うことは明らかです。異論の側は史

的・客観的な推測として、伝承が途切れた可能性を指摘しているわけで

すが、カムーナの側は、伝承が根強く、しかも儀礼なども詳細かつ厳密

に維持されているとして、伝承の断絶を斥けています。いわば主観的推

論を述べているわけですね。


カムーナ側のほうが分は悪いのですが、それでも以上のことを基本線と

し、カムーナは多岐にわたる細かな反論で武装します。たとえば、ユダ

ヤ教の信徒は集団を形成していて、二次的な問題やトーラーの解釈につ

いては集団ごとに多少の差異があったりするものの、継承されているト

ーラー本文はあくまで同一である、などと述べたりしています。キリス

ト教徒が用いるトーラーと違っていたりするのは、彼らがヘブライ語で

はなくシリア語への翻訳を用いているからだとし、その翻訳には、ヘブ

ライ語に忠実なものと、七十人訳といわれるものがあり、後者は語句の

使用などに顕著な違いがあるとしています。キリスト教はトーラーを儀

礼に用いておらず、そのため読み方も異なっているのだ、とカムーナは

言います。


サマリア教徒が用いる別の翻訳版も同様だといい、カムーナはさながら

文献学的な手つきでもって、これら三種類の外国語版を批判的に取り上

げています。とはいえ、その違いはイスラム教のコーランの解釈の違い

ほどの溝はないといい、全体的にユダヤ教が緊密な集団を形作っていて

いること、総じて同じ儀礼を守り続けていることが強調されています。

このあたり、カムーナの宗教的理想像といったものを読み取ることがで

きるかもしれませんね。


異論とその反駁はまだまだ続きます。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その9)


ダンテ『俗語論』(1305年ごろ?)を見ています。今回は第7章の残

りの節と第8章の前半です。バベルの塔についての解釈が続きます。さ

っそく見ていきましょう。



7. Solis etenim in uno convenientibus actu eadem loquela 

remansit: puta cunctis architectoribus una, cunctis saxa 

volventibus una, cunctis ea parantibus una; et sic de singulis 

operantibus accidit. Quot quot autem exercitii varietates 

tendebant ad opus, tot tot ydiomatibus tunc genus humanum 

disiungitur; et quanto excellentius exercebant, tanto rudius nunc 

barbariusque locuntur.


7. しかるべき営為に携わっていた人々のもとにのみ、同じ言葉が残っ

た。たとえばあらゆる建築家のあいだに一つ、岩を運ぶ人々のあいだに

一つ、岩を供給する人々のあいだに一つというふうに、それぞれ職務別

に言葉が残った。塔の建設に必要な所業の数と同じだけ、個別の言語に

よって人は細分化されていった。また、職務が洗練されたものであるほ

どいっそう、彼らが話す言葉は基本的で粗野なものとなった。


8. Quibus autem sacratum ydioma remansit nec aderant nec 

exercitium commendabant, sed graviter detestantes 

stoliditatem operantium deridebant. Sed hec minima pars, 

quantum ad numerum, fuit de semine Sem, sicut conicio, qui 

fuit tertius filius Noe: de qua quidem ortus est populus Israel, 

qui antiquissima locutione sunt usi usque ad suam 

dispersionem.


8. 一方、その作業に加わらず、奨励しもせず、むしろその所業の愚かし

さを忌み嫌い嘲ていた人々には、聖なる言葉が残った。そうした人々は

数の上では少数派だったが、思うに彼らはノアの3番目の子セムの子孫

たちだったろう。イスラエルの人々はその後継にあたり、彼らは離散す

るまで最古の言葉を用いていたのである。


VIII 1. Ex precedenter memorata confusione linguarum non 

leviter opinamur per universa mundi climata climatumque plagas 

incolendas et angulos tunc primum homines fuisse dispersos. Et 

cum radix humane propaginis principalis in oris orientalibus sit 

plantata, nec non ab inde ad utrunque latus per diffusos 

multipliciter palmites nostra sit extensa propago, demumque ad 

fines occidentales protracta, forte primitus tunc vel totius 

Europe flumina, vel saltim quedam, rationalia guctura 

potaverunt.


第8章 1. こう考えるのは決して軽々しいものではないが、上で述べた

言語の混乱は、それにより世界全域、居住できる地域からその果てま

で、初めて人間が散らされた事態だった。また、人間が広がったおおも

との根は東方に植え付けられたことから、まさしくそこから、様々に枝

分かれしながら人間は広範に広がっていき、ついには西の果てにまで達

したのだった。おそらくそのとき初めて、すべてのヨーロッパの川、あ

るいはそのいくつかが、理性的な存在ののどを潤したのだ。


2. Sed sive advene tunc primitus advenissent, sive ad Europam 

indigene repedassent, ydioma secum tripharium homines 

actulerunt; et afferentium hoc alii meridionalem, alii 

septentrionalem regionem in Europa sibi sortiti sunt; et tertii, 

quos nunc Grecos vocamus, partim Europe, partim Asye 

occuparunt.

3. Ab uno postea eodemque ydiomate in vindice confusione 

recepto diversa vulgaria traxerunt originem, sicut inferius 

ostendemus.


2. だが、初めてその地にやってきた外国の者か、あるいは戻ってきた

ヨーロッパの出身者かのいずれであれ、彼らは三つに分かれて言語をも

たらした。運び入れた人々は、ある者はヨーロッパの南の地域を、また

ある者は北の地域を占めた。そして三番目の人々は私たちがギリシア人

と呼ぶ人々であり、ヨーロッパとアジアの一角を占めた。

3. 処罰による混乱のうちに継承された一つのその同じ言語から、以下

に示すように、後に様々な俗語が導かれたのである。


4. Nam totum quod ab hostiis Danubii sive Meotidis paludibus 

usque ad fines occidentales Anglie Ytalorum Francorumque 

finibus et Oceano limitatur, solum unum obtinuit ydioma, licet 

postea per Sclavones, Ungaros, Teutonicos, Saxones, Anglicos 

et alias nationes quamplures fuerit per diversa vulgaria 

dirivatum, hoc solo fere omnibus in signum eiusdem principio 

remanente, quod quasi predicti omnes jo affermando 

respondent.


4. その地の全体、つまりドナウ川の河口、もしくはメオティア湿地か

ら、イングランドの西の端、イタリアやフランスの国境、大西洋によっ

て区切られたその地では、一つの言語のみが支配していたが、その後は

スラブ人、ハンガリー人、チュートン人、サクソン人、アングロ人、そ

の他の数多くの民族によって、様々な世俗の言葉へと変転していった。

それらすべてに共通の、同じ起源をもつことを示す証しは一つだけ残っ

た。すなわち、上述のすべての民族は、肯定的に返答する際に「ヨ(イ

オ)」と言うのである。



第7章7節に示されたダンテの解釈はなかなか独創的です。バベルの塔

後の言語の混乱の一方で、職能別に特殊言語が残され差異化し、言葉の

違いが職能の違いに結びつけられたというのです。しかも難しい職能で

あればあるほど、それに関わる人を結びつける言葉は初歩的で粗野なも

のとなったとされています。協働ができないようにする、というのが神

の処罰だったわけですが、同一の職務には同一の言語が残されたという

のです。この見識にもダンテが参照した出典がありそうですが、今のと

ころ不明です。


一方で塔の建設に加わらなかった人々、つまりセムの子孫であるヘブラ

イの民には、その最古の言葉が残ったとされています(第7章8節)。

ヘブライ語をもとの祖語と見なす考え方の基盤はまさにそこにあるわけ

ですね。で、ここまでは聖書の記述がベースになっていますが、続く第

8章になると、今度はその後の歴史的展開についての仮説・推論が述べ

られていきます。


これまたなかなか独創的なのは2節めの、ヨーロッパの地への言語の流

入形態です。言語は三つに分かれるかたちでヨーロッパの地に入ってき

たという記述ですね。北方系(スラブ、ハンガリー、ゲルマン)、南欧

系(ロマンス系)、そしてギリシア(東方系ということでしょうか)の

三つです。ですがここで言語の意で使われている「イデオーマ」という

語が具体的に何を指しているのかをめぐっては諸説あるようです。


ピサ大学のミルコ・タヴォニという研究者によれば(Mirko Tavoni, 

’Ydioma Tripharium', in "History and Historiography of 

Linguistics", John Benjamins Publishing Company, 1990)、ダン

テのこのテキストにおいてイディオーマはプロト言語、つまり一種の祖

語のようなものとして思い描かれているといいます。ダンテのテキスト

の従来型の解釈では、まず祖語(ヘブライ語が継承したもの)があっ

て、そこから3つの「母語」が三地域にそれぞれ伝えられてそれぞれの

俗語に分かれたという三層構造で語られていたようです。ところがタヴ

ォニはそうではないとし、ヘブライ語として残る言語がそのまま祖語

(ヨーロッパの?)として三つの地域に伝えられ、そこからそれぞれの

俗語が生じたという二層構造だったのではないかと解釈しているようで

す。確かに文面からは、どちらにでも取れるかなという印象です。


4節めでは、とくに北方の人々によって世俗語に細分化されていく様子

に言及しています。メオティア湿地というのは、ロシア南部のドン川河

口(アゾフ海)の古名とされていますが、ここではドナウ川の河口(黒

海)に重ねられています。このあたりもダンテが参考にしたなんらかの

地理書の誤りという感じがしますね。これまた出典は不明です。祖語の

名残りとして、肯定の返事が「io」であったというのも面白い指摘で

す。


次回は第8章の続きからです。バベル後から世俗語にいたる話がまだ続

きます。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は04月06日の予定です。


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