silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.386 2019/10/12

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------文献探索シリーズ------------------------

神々はたそがれるか(その4)


フランスの哲学研究者、フェスチュジエールの大著『ヘルメス・トリスメギスト

スの啓示』から、ストア派に関係する部分を眺めています。前回は『ティマイオ

ス』の構成についてのまとめの部分でした。『ティマイオス』は宇宙開闢論的な

テキストですが、フェスチュジエールはそれを人間の倫理学的な拠り所として読

むことを改めて提唱していました。それに続く今回の箇所では、内容面から見

た『ティマイオス』の位置づけについて検討しています。


フェスチュジエールが考えようとしているのは、『ティマイオス』が『クリティ

アス』や『法律』とどうつながるか、そして『国家(共和国)』との関係はどう

なるのかということです。結論から言うと、前3書は、『国家』の再論というこ

とになる、とフェスチュジエールは見ています。正しい統治とはどうあるべきか、

という政治的・倫理的な問題を、より現実的な観点から再論しようとしていると

いうのです。


まず『ティマイオス』の17c節から19a節までが、『国家』II巻369(国の分類)

からV巻471(女性や子供の共同体)の内容に言及しています。『国家』では、そ

れに続く箇所(V 471cからVII541b)に、賢人王の理想、教育を前提とした統治

の理想が示されます。イデアと全体的な善の教義にもとづく賢人王の教育が問題

とされているのですね。ただ、『国家』のそうした議論では、重要とされるのは

個々人の「資質」のみで、身体と魂から成る人間としての賢者の資質、国家の一

市民としての賢者の資質、いわば現実的な資質は、とくに問われてはいない、と

フェスチュジエールは指摘します。『国家』執筆時のプラトンは、現実世界には

価値がないと考えていたのだろうといいます。


一方、『ティマイオス』を含む3部作(あえてそう言うならば、ですが)はそう

ではないといいます。先行する『国家』に対するある種の応答として、そこでは

新しい問題、つまり都市の改革と、そのための賢人王の教育という問題が取り上

げられ、そうした問題への解決策が模索されているというのです。かくして、そ

うした問題の解決は、人間存在のより綿密な分析にもとづいてなされなくてはな

らない、とされるのですね。政治は人間の自然本性に立脚し、人間の自然本性は

世界の自然本性に立脚するのでなくてはならない、と。それこそが『ティマイオ

ス』の担う内容ということになる、とフェスチュジエールはまとめています。


さらにまた、都市の成員である以上、人間という存在は、その都市の過去との関

係でも探求されなくてはならないとされます。こうしてアテナイの歴史が語られ

なくてはならなくなります。この歴史語りでは、アテナイの歴史は2つの時代に

分けられます。1つは神話的な時代の歴史で、大洪水前のアトランティスの時代

に、繁栄を極めたアテナイが描かれます。もう1つは大洪水後の、現実世界のア

テナイです。前者は『ティマイオス』の20節dから26節eで予告され『クリティア

ス』で詳述されます。後者は『法律』の3巻で取り上げられます。


統治者にとっては、現実のアテナイ史は法律の制定過程とそうした法律の価値に

重要性があるといえるでしょう。理想的な都市を具現化させようとするなら、人

間が存在するあらゆる条件を考察しなければなりません。まさにそれが『法律』

の内容を構成することになります。物質的条件、場所、人口、諸制度などなど。

それらを規定する法律そのものも、現実的な制定の在り方(『国家』でのような

アプリオリなものとしてではなく)について語られなくてはなりません。


『ティマイオス』から『法律』へのつながりについてはもう1つ、賢人(哲学者)

の教育が新たな側面で取り上げ直されているとも指摘されます。『ティマイオス』

の第3部にあたる部分(69節c5から92節c4)がそれで、その結論部(86節b1から

89節d2)には、教育についての一般原理も開示されます。同箇所は、ミクロコス

モスとマクロコスモス(人間の魂と世界霊魂)の照応関係が示される箇所でもあ

ります。これが法律に転じることで制度的な価値を担うことになる、というの

が『法律』で展開する議論になるというわけです。


フェスチュジエールはまた、それら3部作の類縁性として、大災害後の文明の復

興をライトモチーフとしていることを挙げ、プラトンの宗教観を考える際にそれ

が重要になってくると指摘しています。とくに問題となるのが、『ティマイオス』

に出てくる星辰としての神々と、『法律』や『エピノミス』に出てくる天体信仰

との関係性です。フェスチュジエールはここに、神話的な神々の時代が終わり、

天文学の発展にもとづく新たな宗教を確立しようとしているプラトンを見てとっ

ているようです。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

ダンテの俗語論(その21)


大詰めの『俗語論』第1巻です。今回は第18章を見ていきます。



XVIII 1. Neque sine ratione ipsum vulgare illustre decusamus adiectione 

secunda, videlicet ut id cardinale vocetur. Nam sicut totum hostium 

cardinem sequitur ut, quo cardo vertitur, versetur et ipsum, seu 

introrsum seu extrorsum flectatur, sic et universus municipalium grex 

vulgarium vertitur et revertitur, movetur et pausat secundum quod 

istud, quod quidem vere paterfamilias esse videtur. Nonne cotidie 

extirpat sentosos frutices de ytalia silva? Nonne cotidie vel plantas 

inserit vel plantaria plantat? Quid aliud agricole sui satagunt nisi ut 

amoveant et admoveant, ut dictum est? Quare prorsus tanto decusari 

vocabulo promeretur. 


18章 1. この輝かしい俗語を、2つめの形容詞、すなわち「枢要な」(

cardinalis)を用いて呼ぶのも、理由のないことではない。扉の全体が蝶番(

cardo)に付き従い、扉が外側に開く場合も内側に開く場合も、蝶番が向く方向

に扉もまた向くように、すべての都市の方言は、まさに族長であると思われる俗

語に応じて、いっせいに向きを変えたり戻したり、動いたり休止したりするので

ある。その俗語は日々、イタリアの森に生えるいばらのような低木の数々を引き

抜いているのではないだろうか。あるいは日々、挿し枝を添えたり接ぎ穂を植え

たりしているのではないだろうか。先に述べたように、不要なものを遠ざけ正し

い枝を植える以外に、忙しい農夫が何をしているというのだろう?ゆえにその俗

語は、かように称えられるに値するのである。



2 Quia vero aulicum nominamus illud causa est quod, si aulam nos Ytali 

haberemus, palatinum foret. Nam si aula totius regni comunis est domus 

et omnium regni partium gubernatrix augusta, quicquid tale est ut 

omnibus sit comune nec proprium ulli, conveniens est ut in ea 

conversetur et habitet, nec aliquod aliud habitaculum tanto dignum est 

habitante: hoc nempe videtur esse id de quo loquimur vulgare. 

3. Et hinc est quod in regiis omnibus conversantes semper illustri 

vulgari locuntur; hinc etiam est quod nostrum illustre velut accola 

peregrinatur et in humilibus hospitatur asilis, cum aula vacemus. 


2. さらに、この俗語を「宮廷的」と称すのは次のような理由による。私たちイ

タリア人のもとに宮廷があったとしたら、それは王宮にあっただろう。宮廷が王

国全体で共有される家を意味し、また王国のあらゆる部分を治める支配者をも意

味することから、あらゆる者が共有し、誰かの所有のもとにはないような者は、

宮廷にとどまりそこに住まうがよいだろう。そのような居住者にとってそれほど

に相応しい住処はほかにない。そのことは、私が語っているこの俗語についても

当てはまると思われる。

3. だからこそ王宮に出入りする者は皆、その輝かしい俗語を話すのである。ま

た、だからこそわれらが輝かしき俗語は宿無しのごとくにさまよい、より粗野な

住まいに宿泊するのである。私たちのもとには宮廷がないからだ。



4. Est etiam merito curiale dicendum, quia curialitas nil aliud est 

quam librata regula eorum que peragenda sunt: et quia statera huiusmodi 

librationis tantum in excellentissimis curiis esse solet, hinc est quod 

quicquid in actibus nostris bene libratum est, curiale dicatur. Unde 

cum istud in excellentissima Ytalorum curia sit libratum, dici curiale 

meretur. 

5. Sed dicere quod in excellentissima Ytalorum curia sit libratum, 

videtur nugatio, cum curia careamus. Ad quod facile respondetur. Nam 

licet curia, secundum quod unita accipitur, ut curia regis Alamannie, 

in Ytalia non sit, membra tamen eius non desunt; et sicut membra illius 

uno Principe uniuntur, sic membra huius gratioso lumine rationis unita 

sunt. Quare falsum esset dicere curia carere Ytalos, quanquam Principe 

careamus, quoniam curiam habemus, licet corporaliter sit dispersa. 


4. さらにそれは「法廷的」と呼ぶに相応しい。なぜなら法務の役職とは、裁定

が下されなければならない案件に、バランスの取れた評価を下すことにほかなら

ないからだ。さらにまた、そのような評価をもたらす竿秤は、最高位の法廷にの

みあるのが常であることから、私たちの行為において善と判断されるものは、い

ずれも法廷的と称されるのである。ゆえにその俗語も、イタリア最高位の法廷で

評価を受けているのだから、法廷的と言うに相応しいのである。

5. だが、それがイタリアの最高位の評価を受けたと述べるのは適切ではない。

そのような法廷は私たちのもとにはないからだ。その点についての応答は容易で

ある。そのような法廷は、たとえばドイツの王室の法廷のように、単一のものと

してはイタリアには存在しない。けれども、その一部を担う機関はないわけでは

ない。ドイツの法廷が単一の君主と一体になっているように、イタリアのそうし

た機関は理性の好ましい光によって結びついている。ゆえに、イタリアに法廷が

ないと言うことは正しくない。君主こそいないものの、たとえ物理的な構成要素

は散らばっていようとも、法廷そのものはあるのだから。



17章に引き続き、ここでも理想形の俗語に添えられる形容詞について論じていま

す。


まず「枢要な」という形容詞(cardinalis)ですが、その語源として蝶番(

cardo)が挙げられています。伊語訳注によれば、この語源はセビリアのイシド

ルス(7世紀)の『語源論』に見られるようで、中世においては広く流布した語

源のようです。cardinalisは「方向性を指し示す」のような意味で使われている

ことがわかります。その意味では、枢要といった表記はちょっと語弊があるかも

しれませんね。また、理想的な俗語が、植物的な比喩で語られているのも興味深

いです。不要なものを取り除き、必要なものを植え付けるのが、その理想化され

た抽象的な言語の役割なのだ、というのです。


2つめに取り上げられている形容詞は「宮廷的(王宮的)」(aulicus)です。イ

タリアには都市を束ねる君主がいないことをダンテは遺憾に思っていて、それ

が『帝政論』の執筆動機にもなっているわけですが、ここでもその欠如が現実世

界に及ぼす影響について触れています。君主は臣民が「共有」する者、誰にも属

さない者ですが、その者が住まう王宮も、全市民の共有する場所、どこにも属さ

ない場所だと位置づけられます。そこは、所属しないものがおしなべて見いださ

れるべき場所だということで、いわばゼロ記号、全体を統合する要の部分をなし

ます。ところが現実には、そうした場所は存在せず、いわば「非在の場所」とし

て二重に抽象化されてしまいます。いきおい、そこには非在であるような事象が

位置づけられることになります。理想化された俗語もその一つです。


「所属しない者・もの」は、ひたすらさまよう・漂流するしかないのですが、共

同体に所属しない外部の者を一時的に受け入れるというのは、古代からのヨーロ

ッパの歓待の伝統でした。本来ならばそのようなものが一時的にとどまる特権的

な場所というのが、市民が共有する場所にほかならないのですが、それがここで

は非在の場所でしかありません。結局、現実においては、理想からは程遠い、粗

末な場所に滞在するしかないことになってしまいます。理想の俗語も同じ扱いで

す。ここにはダンテの流浪の経験が重ねられているのでしょう。


次に取り上げられている形容詞は「法廷的な」(curialis)です。curialisとい

うのは、もとは「同じクリアに属している」という意味でした。クリアとは古代

ローマにあった市民団の区分の1つで、一種の身分制を表していた言葉です。転

じて元老院、さらには都市議会の会堂を指すようにもなりました。ここでは天秤

の比喩からもわかるように、法と正義の裁定に関わるもの、という意味が込めら

れているのでしょう。理想の俗語は、現実の俗語を規定するある種の模範だと捉

えてよいでしょう。


そしてここでもまた、国の統一的な高位の法廷がないことが、低位の法廷的なも

のの分散をもたらしている、とされています。上の宮廷の議論とパラレルですね。

結果的に、本来ならば各方言を裁定し統括する理想の俗語も、現実には各俗語に

部分的に反映されるだけになっている、というわけです。


伊訳注によれば、ドイツの君主として示唆されているのは、ハプスブルク家出身

のアルブレヒト1世のことだといいます。1298年にローマ王(神聖ローマ皇帝)

に選出され、1308年に暗殺されるまで、帝国内の都市の自治権を認め、勢力拡大

に努めた人物です。スイスにおいてはすこぶる評判の悪い人物として描かれてい

るようで、その反発からウィリアム・テルの伝説なども生まれているのだとか。

アルブレヒト1世がイタリアに来なかったことを、ダンテは『神曲』煉獄編(第6

歌97)で当てこすっているといいます。


理想化された古代の伝統、理想化された場所など、ダンテの議論は「本来あるべ

きでありながら、それでいて現実にはない理想の姿」で織りなされているといっ

ても過言ではありません。理想がかえって粗末な現実をも浮かび上がらせていま

す。ダンテが考える理想の俗語は、各方言を是正する拠り所、模範という力強い

ものでありながら、現実には本来的な力を削がれ、現実の方言にひそかに身を寄

せるしかない弱められた存在でしかありません。どこかそれはダンテ自身の姿、

その境遇を思わせます。


さて、次回はいよいよ第1巻の最後の章になります。ここではさしあたり第2巻は

読み進めませんが、そちらの内容にも少しだけ触れつつ全体をまとめて締めくく

りにしたいと思います。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は10月26日の予定です。


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