silva speculationis       思索の森

==============================

<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.388 2019/11/09

==============================



------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(その6)


フランスの哲学研究者フェスチュジエールの大著『ヘルメス・トリスメギスト

スの啓示』から、ストア派関連部分を見ていくシリーズです。まだ前段階のプ

ラトンの話が続いています。前回までで、後期のプラトン思想は現実的な事象

を取り込むかたちで変化していることが示唆されました。またその過程で、主

要な原因と副次的な要因とを分けていることも示されました。


これをもとにフェスチュジエールは『ティマイオス』を理解しようとします。

『ティマイオス』における主要な原因(目的因)とは、知性の存在をいいます。

知性は世界を秩序づけるもので、それは世界霊魂に宿っているものです。創造

神(デミウルゴス)とは世界霊魂の分身でしかない、とフェスチュジエールは

記しています。世界とはコスモス(秩序)であり、恒久的に運動状態にあるわ

けですから、それを動かしている(秩序付けている)世界霊魂もまた恒久的な

存在だということになります。


しかしながらプラトンは、そうしたコスモロジー(宇宙論)をコスモゴニー(

宇宙創成論)として、つまりカオスから秩序が生じる過程として描くことにし

ました。そこには時間的な推移が暗示されています。さらに、世界はある種の

工芸的な作品と見なされ、それをかたち作る製作者が想定されてもいる、とフ

ェスチュジエールは指摘します。世界という「物体」は、世界霊魂によって動

かされているわけですが、ここでもまた、その働きかけは時間的に展開するも

のであることが示唆されています。


フェスチュジエールは『ティマイオス』で描かれる創世譚を、時間的に展開す

る作用のメタファーであると捉え、その物語がもつメタフォリックな性格をつ

ねに視野に入れておくべきだと主張します。さもないと、そこで語られるデミ

ウルゴス(創造神)がプラトン思想内にどう位置づけられるのか、デミウルゴ

スと世界霊魂(主にそれは『法律』で示されています)がどう一致するのかが

見えなくなってしまう、というのですね。


ところが一方では、そうしたメタファーの重要性を過大評価してもいけないと

警告します。語られる創世譚では、時間的展開の側面が強調されるわけですが、

それと同時に、創世を導く原因(すなわち世界霊魂の知性)は恒久的な存在で

あることも、忘れてはならないというのですね。この時間的な展開と恒久性と

の兼ね合いにこそ、まさしく問題の核心部分があります。


メタフォリックな創世の物語は3つのパートに分かれる、とフェスチュジエール

は言います。最初に目的因での創世(人間身体の形成)の説明を突き進めたプ

ラトンは、次に機械論的な視点からその同じプロセスを考察しなおし(世界の

形成)、次にその両方の原因の連携を説くという寸法です。目的因をなす知性

はコスモスに秩序をもたらす原理であり、美や善に向けて世界を導くものです。

その原理ゆえにこそ世界は理解可能で運動を伴うものにもなるのですが、一方

でそこに機械論的な作用因が介入することで、世界の理解可能性には制限・制

約がもたらされます。そしてそれらを併せ持った存在として人間が取り上げら

れます。主たる原因である目的因(器官の機能を司る)と、副次的な作用因(

器官の構造を司る)とがともに働きかけるかたちで、人間の身体が形成される

ことになる、と。


目的因だけであるなら、世界は美に、善に向かって秩序立てられます。しかし

ながら現実世界には様々な部分に無秩序も見いだせます。だからこそプラトン

は、デミウルゴスの所作に加え、より不明瞭な原因の干渉を考えます。それは

目的因に対する制約、あるいは抵抗と理解することができます。ただしそうし

た無秩序が介入してくるのは、コスモロジーそのものにではありません。プラ

トンからすると、世界そのものは秩序立てられており、人間の形成の段になっ

て、初めてそうした無秩序が導入されることになります。


世界を作り、人間の神的な部分、すなわち不死の魂をしつらえたところで、神

は休息します。人間の身体を形成するのは神の子どもたちなのですが、そうし

てできた身体に不死の魂を注ぎ込む段階で、無秩序が始まるとされます。本来

の魂の規則的な運動と身体の不規則な運動とのせめぎ合いにあって、身体につ

ながれた魂はいわば中間領域に置かれるわけですね。身体が無秩序を伴うとい

うならば、そこには魂と別の運動原理がなくてはなりません。身体は4大元素か

らできているわけですが、それらを司る作用因こそが無秩序を導く原因とされ

ます。


ここからプラトンは、物質の原理について正確な分析を行わなくてはならない

ことを認め、よく知られた「コーラ」(cho_ra)の議論へと進んでいくことに

なります。一般にコーラという概念で示されるのは、限定された空間領域、空

の場所のことですが、それが含み持つのは、純粋な受動の潜在性、いわば秩序

の純粋な限界です。しかし一方でそれは、能動的な潜在性、無秩序の実体的な

原因をも示唆します。ここで悪(無秩序も悪の1つです)の問題が絡んできます。

コーラを前者の受動的なものと捉えるならば、悪とは善が足りないこと、善に

対する制限を意味することになります。後者の能動的なものと解するならば、

悪とは実定的な悪にほかならないことになります。プラトンはそれをどうさば

いて見せるのでしょうか。そのあたりをフェスチュジエールに即して見ていか

なくてはなりませんが、それは次回に。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その1)


今回からテオフラストス(前371 - 前287)の『植物原因論』(Peri phuto_n 

aitio_n)から、香りや味わいについて考察した第6巻を見ていこうと思います。

テオフラストスはアリストテレスが率いたいわゆる逍遥学派の重鎮で、アリス

トテレスが開設した学校リュケイオンを継いで2代目の学頭を務めた人物です。


アリストテレスと同様に、テオフラストスにも膨大な著作があったようなので

すが、現存するのはごくわずかです。その中でとりわけ有名なのは植物につい

ての論考で、『植物誌』と『植物原因論』が今に伝わり残されています。前者

は9巻でほぼ完全なかたちで残っており、後者はもとは8巻本だった(とディオ

ゲネス・ラエルティオスが『ギリシア哲学者列伝』で記しています)ようです

が、現存するのは6巻までです(もともと6巻だったのではないかという説もあ

るようです)。やや断章的なものが混じっていたり、テオフラストス自身の手

になるのでないらしい部分も含まれているとされているようですが、いずれに

せよ両著書を合わせて西欧の植物学の嚆矢をなしているのは間違いありません。


『植物誌』は体系的な形態学で、植物の分類が主な内容となっています。それ

に対して『植物原因論』は、植物の生理学的な面を扱っています。植物の成長、

発生、生殖などですね。その記述スタイルはいわば機械論的で、アリストテレ

スの暖・冷・乾・湿の議論を援用しつつ、環境との相互作用なども扱っていま

す。仏語版wikipediaを参考に主な内容をまとめておくと、1巻が形成、成長、

気候への適合、生死などを広く扱い、2巻が気象、土壌、隣接する植物との影響

関係、3巻が人間の介入の事象について、4巻も同様に人間の介入についてです

が、とくにイチジク、ルピナス、レンズマメ、ヒヨコマメなどを扱っています。

5巻は自生的現象と栽培との区別などについてです。


そして6巻が味わいと香り(匂い)についてです。これは20章に分かれていて、

主に最初のほうで原理を扱い、味わいについての記述がかなり大きくとられて

いて、その後に匂いについての考察が続きます。西欧の哲学で、植物を題材に

とる議論が昨今出てきていること、一方でフレグランスの問題はあまり哲学的

に取り上げられていないこと、さらには内容紹介のリクエストを個人的に受け

たことなどをきっかけとして、今回この6巻を訳出してみることにした次第です。

巻を通じて全訳するのが理想ですが、結構長いのでどうするかは思案中です。

とりあえず訳出を始めてみて、追々考えていくかたちにしたいと思います。ち

なみにテオフラストスには、独立した『匂いについて』という別の文献もある

ようで、この6巻と内容的に一部重複するもののらしく、以前はこの6巻に続く

ものと見なされていたりもしたようです(後述するように、そうではないとい

う説も唱えられています)。個人的にはまだテキストとして確認していません

が、これも追ってご報告したいと思っています。


訳出に際しては、ギリシア語の表記がメールでは文字化けしたりする方もいら

っしゃると思いますので、原文は毎回ブログのページに掲載していくかたちに

したいと思います。また、原文の単語や表現に言及する際には、ローマ字に転

写して行います。その場合、アクセント記号などはすべて省略することといた

します。また長母音(エータやオメガなど)についてはeやoの後にアンダーバ

ーを付けて表します。有気記号は冒頭にhを付けることにします。カッパはc、

クシーはcs、ヒーはch、長母音後のイオタ(私は読む派です)はカッコつきのi

とすることにします。


訳出する底本はLoeb版を用いますが、同時にLes Belles Lettres版も参照した

いと思います。そちらのほうが新しいので、比較的新しい知見などが盛り込ま

れているはずです。注釈などを中心にご紹介していきたいと思っています。今

回は初回ですので、ほんのさわりですが、冒頭の2つの節のみを訳出してみます。

原文はサイト内(http://www.medieviste.org/?page_id=9984)に挙げていきま

すので、適宜ご参照ください。



1.1 味わいと香りについて、それらが植物に固有のものであることから、これ

までと同様にまずはそれぞれの植物の種に何が宿るのかを、次いでそれがどの

ような原因によるのかを説明しなくてはならないだろう。どのような性質によ

って2つの類(味わいと香り)が相互に区別されるのか、また混合した両者が

一定の比率になっていることなどは、他所で示しておいた。味わいの成分とは、

固体ないし土に類するものが液体と混じったもの、あるいは熱の作用により、

固体から液体を濾したものだからである(両者におそらく違いはない)。香り

の成分は、水分を含んだ固体が透明にまで希釈されたものだ(透明であること

が気体と液体に共通するものだからである)。また、味わいと匂いに生じてい

ることは近いものだが、両者は同じ器官で生じているのではない。さしあたり

ここでの議論は、他所で示す定義にもとづくものとしておこう。



1.2 味わいの種類を数え上げるのは容易である。甘さ、油っぽさ、えぐみ、渋

み、辛さ、しょっぱさ、苦さ、酸味である。一方、それぞれのもととなる要素

を特定するのはもっと難しい。それにはなによりもまず、次のような考察が必

要になるからだ。味わいというものは、感覚にもとづいて感じ取るものに帰さ

れるべきなのか、あるいは(デモクリトスが言うように)、それぞれの種類の

味わいを感覚に結びつける様態に帰するべきなのか(その様態が属性に密接に

結びついていて、それをもとに説明づけられるのでもない限り)、あるいはま

た、それら以外の要因が関係してくると見るべきなのか。



いつもそうですが、書き出し部分はとりわけ難しいですね。いろいろ言葉を補

って訳さなければならないので、解釈として正しいかどうか微妙な点も多々出

てきます。


1.1節で出てくる「他所で示しておいた」(en allois apho_ristai)という箇

所ですが、Loeb版での訳注では、参照先としてアリストテレスの『感覚につい

て』のほか、テオフラストス本人の『匂いについて』の冒頭を挙げています。

しかしながら仏語版の解説序文(スザンヌ・アミグ著)では、「他所で定義し

た」と完了形になっていることに着目し、すでに著された書を指しているはず

なので、通常この6巻に続くものとされる『匂いについて』を指すのは矛盾する

のではないかとの疑問を投げかけています。ならば『匂いについて』は、この6

巻に先行する「ソース」だった可能性もある、というわけです。


味わいと訳したchulosにしても、伝統的に英訳ならばflavour、仏訳ならば

saveurと訳されていますが、もともとの語義は樹液、分泌液のことです。アリ

ストテレスはそうしたフレーバーの意味ではchumosという単語を用いていたと

いい、仏訳注では両者の意味の違いを取り上げ、chulosは植物が発する樹液、

chumosは動物・植物のいずれもが醸すことのできる液全般を言うようだとして

います。テオフラストスが述べる香りの原理は、基本的にはアリストテレスを

下敷きにしているようなのですが、アリストテレスとテオフラストスにはこの

ように用語の面で差異があり、もしかすると両者の指向性の差を示しているの

かもしれません。


その原理ですが、香りや味わいのもとになっているのは、土の成分(固体)が

液体と混合し、希釈されていることだとの説明がなされています。詳細は別の

著書に委ねられているわけですが、それがどの著書なのかは特定できないよう

です。仏訳注では、少なくとも『匂いについて』ではなさそうだ、としていま

す。そちらでもそうした説明は冒頭で簡潔になされるだけのようで、一般的、

種類別に匂いについての概説が続いたのち、香水の作り方などに話は進んでい

くようです。


1.2節には、フレーバーが8種類に大別されています。ここではousia(実体など

と訳すことが多いですが)を「もととなる要素」と訳出しています。仏訳注に

よると、テオフラストスの場合のousiaは、抽象的な意味から多少とも離れた意

味合いのことが多々あるとされています。とはいえこのあたりも、訳として適

切かどうかは微妙なところかもしれません。


とりあえず、こんなかたちで毎回訳出していきたいと思います。長い作業にな

りそうですが、お付き合いいだだければ幸いです。

(続く)



*本マガジンは隔週の発行です。次号は11月23日の予定です。


------------------------------------------------------

(C) Medieviste.org(M.Shimazaki)

http://www.medieviste.org/?page_id=46

↑講読のご登録・解除はこちらから

------------------------------------------------------