silva speculationis       思索の森

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<ヨーロッパ古代・中世思想探訪のための小窓>

no.390 2019/12/07

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------文献探索シリーズ------------------------

神々は黄昏るか(その8)


フランスの哲学研究者フェスチュジエールの主著『ヘルメス・トリスメギスト

スの啓示』から、世界神の創設を追った第2巻の第5章を見ています。前回は『

ティマイオス』についてのまとめの続きで、フェスチュジエールがコーラ(場

所)の捉え方をもとに、実定的な悪の存在の可能性をプラトンが見いだしてい

たのではないかという仮説を見ました。


プラトンの対話篇には、そのような仮説を示唆する箇所がほかにもあります。

フェスチュジエールは後期対話篇の『政治家』から、創世神話的な箇所を引用

しています(269c6 - 270a9)。そこでは、同一であり続けるというのは最も神

的な存在が享受する特権であるけれども、天空もしくは世界というものは物質

から成り立っているために、変化を免れることはできないということが言われ

ています。この創世神話の大筋は次のようなものです。世界は回転運動をして

いるわけですが、その運動は当初、神(正確にはデミウルゴスと父なる神との

二神)によって導かれていました。その後、彼らが手を引いて、世界が放置さ

れてしまうと、世界はみずからの衝動でもって逆回りに回り続けるようになっ

た、というのです。神が導いていた時代は幸福な時代、それ以降は悪しき時代

と位置付けられます。


さらに次のように続きます。みずからの衝動で回るようになった世界は、その

組成をなしている物質のもともとの状態、つまり混沌もしくは無秩序へとおの

ずと戻っていく傾向にある、とされます。その混沌がまさに全面的に開花する

とき、再び創造の神は身をのり出して世界を支配するようになり、瓦解と深遠

への沈下を食い止めるのだ、というのですね。フェスチュジエールはここに、

神と物質との対立がこの上なく根源的であるということが、鮮明に明かされて

いると見ています。


さらに後の『法律』になると、トーンの変化が見いだされるようになります。

二つの原理の対立は、『政治家』でのように強調されなくなり、かたちを変え

て継承されるというのですね。それはこんな話になります。霊魂は物質に先立

ち、あらゆることを支配するとされます。するとこの世界についても、世界霊

魂がすべてを支配していることになります。しかし世界を支配できる霊魂もま

た単一ではなく、複数(2つ以上)あり、善をなす魂もあれば、それとは逆をな

す魂もあるとされます(『法律』896e8 - 897b4)。とすると、現実世界を司っ

ているのはどの魂なのかが問題になります。天体はすべて秩序立った回転運動

をしているのですから、答えはおのずと明らかで、それは善をなす魂、あらゆ

る点で秀逸な、一つの神であるはず……登場人物の1人(「外国人」)はそう答

えます(899b3)。


『政治家』での、対立する二つの原理(神と物質)のせめぎ合いは、『法律』

では世界霊魂の神話に回収されています。本来、規則的な運動をもたらす善の

魂と、不規則な運動をもたらす悪しき魂とがあって、両者が対立しているかの

ように描かれているわけですが、実は悪しき魂が言及されるのは、現実的な無

秩序、秩序の中に見いだされる無秩序を説明するためにすぎず、世界を司る原

理としての世界霊魂は事実上一つでしかない、とされます(共存はできないわ

けですね)。天空の規則的な回転運動からして、それを司るのは秩序や善をも

たらす霊魂、知性をもつ霊魂以外にはありえない。と。


『ティマイオス』や『政治家』では、無秩序は物質に結びつけられていました。

ところが『法律』においては、物質への言及そのものが見いだせず、世界の無

秩序はむしろ人間そのものに結びついている、とフェスチュジエールは指摘し

ます。世界は一つの支配的・善的な霊魂によって創設され、そこに配置される

個々人もまた、全体的な善に向けて、悪の解体に貢献するように配置されはす

るのですが、個々人の行為は個別に与えられる魂が司り、したがって逆の動き

をするような場合も出てくる、というわけです。こうして、悪は「道徳的な悪」

として一定の場所を占めるようになるのですね。世界は「神々(秩序をもたら

す)」と「霊たち(人間に影響する)」とのせめぎ合いの場であり、人間はあ

る意味代理戦争をしているかのようです。


かくして、創世における神々のレベルでの対立から、世界霊魂の潜在的な対立

を経て、現実世界における神的なものと個別の人間との対立へと、善悪の競合

関係は縮減されていきます。


フェスチュジエールは以上のことを、プラトン思想における悪の位置づけとい

う観点でまとめ直しています。まず、(1)もともとは弁証法で用いられていた「

他者」(アンチテーゼ)概念が、自然学へと移し替えられて、多様性や変化を

もたらす原理とされるようになりました。(2)次いでそれは無秩序の運動の原理

と見なされ、場所(コーラ)=物質と同一視されるようになります。(3)そのよ

うな場所=物質は、秩序(知性がもたらす善)にとっての限界であるだけでなく、

秩序に実定的に対立するものとも見なされます(以上『ティマイオス』)。


次いで、今度は(4)知性と物質の対立関係が、世界の回転運動をめぐる神話のか

たちで、神的な知性による制御と自然本来の傾向との対立に置き換えられまし

た(『政治家』)。(5)善にはつねに反対物があるとされ、悪は地上において不

可避のものと見なされます(『テアイテトス』)。(6)運動はすべて魂に関連づ

けられますが、世界の運動が知性の秩序に恒久的に支配されているがゆえに、

悪しき魂は仮説としてのみ示されることになります。(7)悪の所在は、もはや物

質にではなく、人間という存在がもつ道徳的な無秩序(悪)にあるとされるよ

うになります(以上『法律』)。このように、悪は人間へと回収されることに

なったのですね。


ですが、するとまた別の問いも生じてきます。世界が善に向けて作られている

というのに、善は希少で、悪のほうが大きくはびこっているように見えるのは

なぜか、という疑問です。フェスチュジエールによれば、アカデミアに所属し

ていたこともあるとされるテオフラストスが、自著『形而上学』で、このこと

を指摘しているようです。さらにまた、そうした状況を受けて、プラトン主義

やピタゴラス派の多くの人々は、不確定なもの、無秩序なもの、不定形のもの

を、神の秩序に比肩するものとさえ見なし、「神は世界を導くとはいえ、あく

まで最善の可能性に向けて導くにすぎないのではないか」と考えるようになっ

たともいいます。そのような中で、世界にはいかなる救済がありえるのでしょ

うか。それが次回のテーマとなります。

(続く)



------文献講読シリーズ------------------------

古代の「香り」(その3)


上の文献探索シリーズでもテオフラストスが出てきました。前回取り上げた『

アリストテレス――生物学の創造』の著者アルマン・マリー・ルロワは、テオ

フラストスはアリストテレスに比べて慎重さが目立ち、大胆な仮説などがない

こともあって、文章的には「つまらない」というような評価を下しています。

ですが、これは結構偏った見方なのではないかとも思われます。慎重な論の進

め方はむしろ美徳ですし、文章の晦渋さなどもそれほど違わない印象です。む

しろ真摯で落ち着いた議論が展開しているのでは、という気がしなくもありま

せん。


さて、ここではテオフラストスの『植物原因論』から、匂いについて記された

第6巻を読んでいます。前回は第1章の残り部分でした。今回は第2章を見てみま

しょう。原文はhttp://www.medieviste.org/?page_id=9984に挙げておきますの

で、適宜ご参照ください。以下試訳です。


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2.1 すでに述べたように、この最後の議論もおそらく、先の2つの議論をもとに

しているのだろう。というのも、属性の原因を特定しようとして、デモクリト

スもまた、渋みや渇き、固着などをもたらすのは何か、平坦化や均一化、安定

をもたらすのは何か、分離や拡散、あるいはほかのそうした効果をもたらすの

は何かを特定することを考えているからだ。ただし、同様にそうした議論の論

者たちについて、それぞれの性質が与えられる基体を探ることもできるだろう。

というのも、そうした作用をなす側だけでなく、受け取る側についても知るべ

きだからだ。デモクリトスが言うように、同じ成分であっても、誰にも同じよ

うに感じられるとは限らないからだ。私たちが甘いと感じるものが、ほかのな

んらかの生き物にとっては苦いと感じられることも十分ありうるし、ほかの味

覚についても同様である。


2.2 感覚器官になんらかの異なる配置があることは明らかである。味わいの図

形が同じであっても、場合が異なればどこでも同じ効果を生み出せるとは限ら

ない。そのことが正しいとするならば、類似性の原因も基体にかかわるものだ

ということになる。ゆえにその原因についても議論しなくてはならない。と同

時に、次のことも明らかである。かかる図形には単一の属性のみがあるのでは

ない。しかじかの場合によって逆の効果をもたらすこともある。すべてをその

属性に帰すことができないことは、火が燃やすことができない場合もあること

と同じく、奇妙なわけではない。なにがしかの味わいが逆の属性をもつのであ

れば、そのことについても、より幅広い説明がなされてしるべきである。上に

挙げたことも、いかなることに起因するのか説明しなくてはならない。


2.3 たとえば火ならそれが燃やすことのできないもの、あるいは水ならそれが

湿らせることのできないものがある場合、なんらかの原因と説明があるはずで

ある。それぞれに反対の作用が生じるなら、より多くの説明の必要もいっそう

高まるだろう。(図形で論じる)論者たちは、それらすべてについて説明しな

くてはならない。属性で論じる人々にとって唯一必要とされるのは、それぞれ

の感覚器官はいかようであるかということのみである。その性質と配置とを知

らなくてはならないからだ。というのも、体のどの部位でも感覚が生じるわけ

ではないからである。また、複数の要因からいずれかの感覚が生じるとき、副

次的な属性や原因を知らぬままにしておいてはならない。図形を論じる人々の

奇妙さには、同じ図形の大小の違いにより属性が同じではなくなってしまうと

いう議論もある。


2.4 属性は形状にではなく、その大きさにあるとされるからだ。その場合、属

性は発現に際して形をうがつこと、あるいは単純に大小に、すぐさま関連づけ

られるか、発現しえないこと、発現をなさないことに関連づけられるが、これ

は論理的であるとはいえない。属性は図形そのものにあるからである。という

のも、ほかの例でも見られるとおり、同種の図形には同じ潜在性があるからだ。

1フィートの三角形も、1万フィートの三角形も、すべて(内角の和は)直角2つ

分になるし、四角形ならば直角4つ分になる。そうした図形は、数量的に異なる

こともあれば、同じ名前であっても、対角線が類比関係にない場合のように大

きさが異なることもある。したがって味わいが図形から、あるいは図形の一部

から生じているとするなら、大きさは違うものの形状は違わないという場合も

生じうるのである。しかしながら明らかに、図形や形状に結びついた属性には、

さらに多くの点でより多くの問題がある。


**


1節めの冒頭部分はいきなり曖昧です。Loeb版の英訳では、charinを「有効であ

る」と取って、「この最後の説明も見識として有効性があると思われる」とい

う感じで訳出しています。Les Belles Lettres版の仏訳ではこれに注を付し、

houtos(これ)は直近のものを指しているはずなのでデモクリトスの説明だろ

うとし、またeceino_n(あれらの)はそれより前のもの、つまりその前に示さ

れているプラトンなどの説明を指しているだろうと見なし、charin eceico_nを

ひとかたまりに捉えて「あれらのおかげで」「あれらをもとにして」という意

味に取っています。これは割と説得力がある気がするので、ここでは仏訳寄り

の訳し方を採用してみました。


1節めの後半に出てくるhupoceimenon(基盤、基体)も、英訳と仏訳で意味が分

かれるところです。英訳は「作用を受ける基体」と取っていますが、仏訳は

「(議論の)基盤」としています。ここでは英訳寄りにしています。そのほう

が話の流れが自然のように思えるからです。もちろん異論もあるかもしれませ

ん。どういう解釈がよいのかというのはなかなか微妙な問題でもあります。


2節めと3節めでは、作用する成分そのものだけでなく、受容する側(感覚器官)

も問題として考察すべきだということが論じられています。基体とはこの場合、

人体の感覚器官のことですね。ここも結果的にデモクリトスとその一派への批

判がなされているわけですが、アリストテレスなどがかなり辛辣な語調で批判

するのに比べると、テオフラストスのこの批判は穏やかで妥当なものという感

じがします。


4節めもいろいろと問題含みです。まずかなり珍しいdiabiasasthai(

diabiazomai)という動詞が使われています。本来は、植物が「発芽時に地中を

掘る」という意味だとのことですが、仏訳注によれば、ここでこの動詞が使わ

れているのは、大きさ(容積)という言葉に触発されてのことではないかとい

います。地中を掘るというのは、立体的なかたちを作りだすことだからです。

デモクリトスが味わいを二次元の「図形」に帰着させていることに対し、テオ

フラストスは三次元的な容積を引き合いに出し、図形への帰着を批判している

節がある、という指摘もなされていますが、これはちょっと「うがった」見方

かもしれません。


それに続く部分もややわかりにくいですが、全体的には、属性は大きさに依存

するのではなく、図形の種類に依存するとみるのが本意だろうと論じています。

同じ名前の図形であっても、類比的に大きさが異なっている場合や、比の関係

に還元されないかたち(asummetria:通約可能でないこと)で大小になってい

る場合もあるでしょう。ですが、それらの違いが属性の変化を伴うとしたら、

そもそも味わいと図形との照応を考える理由すら根拠がなくなってしまいかね

ません。あえて図形の照応を前提とするのなら、味わいの発現はどの図形かに

関係づけられるのが筋であるべきだ、と批判しています。


さらに4節の末尾では、ほかにも多くの問題があることを示唆し、図形との照応

という前提自体についても批判しうることが示されているように思えます。デ

モクリトスが図形を持ち出してくるそもそもの理由、あるいは特定の図形と味

わいとが照応関係におかれる理由については、ここでもとくに触れられてはい

ませんが、当然そのあたりのことも問題として含まれているのでしょう。

(続く)



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